■ Sonare(1)-4

 何があった、とオスカーは思う。

 一昨日の夜の、ホテルのロビーへと戻ってゆくその暖かく綺麗な後ろ姿を見送ったあの時まで、何もかもが全て順調なはずだった。

 頰に触れたオスカーの手へ、天上の音を綴り続けるその両手を重ね、心の底から嬉しそうに、恐ろしいほどに綺麗にこちらへ微笑い掛ける、その姿。

 だから受け入れてきた。この胸の痛みも、息の止まるような苦しさも。

 なのにあの存在に、一体何があったというのか。

 楽屋の前まで早足に駆け付け、軽くノックをして返事を待たずに楽屋の扉を開く。

「リュミエール。」

 その姿は燕尾服の上着を脱いで、小振りのピアノの前の椅子の端に、美しく背筋を伸ばして座っていて。

 開いた扉の方を向き、オスカーの姿を視界に入れると、驚いたように息を詰め。僅かに見開かれた深海色の瞳は、逸らすこともできないように、自身の方へと歩み寄るオスカーの姿を見詰めたまま。

「リュミエール、」

 その前へとごく自然に膝を付き、片手でリュミエールの片手を取り、もう片手をゆっくりとリュミエールの頰に添えて、重ねて呼び掛けたオスカーへ。

「……オスカー。」

 何故来たのかを問うように、小さく困ったように微笑って、ようやく絞り出すように、それだけを呟いた。

 揺らめく深海色の瞳は、それでもどうしようもないほどに綺麗だと思えて。

「どうした。何があった。」

 問い掛けながら目元を覆う髪へ手を伸ばせば、リュミエールは静かに目を伏せ、その手からの全てを受け取ろうとするように目を閉じた。僅かの躊躇いの後、オスカーの指が髪を梳き、 顳顬こめかみへと潜らせ、後頭部へ流すと、リュミエールの端正な唇が僅かに震え、しばらく息を詰めた後で、ごく小さい吐息を零す。

 オスカーが再び頰に手を添えて、目を開いたリュミエールへ視線だけの無言で再度問えば、リュミエールは薄く微笑って緩やかに首を左右に振った。

「そんなことを仰るのは、貴方だけです。素晴らしい音色だと、今日も皆様から仰っていただいています。何も問題はないですよ。どうぞ立ち上がってください、貴方のスーツが汚れてしまいます。」

「見誤っているつもりはない。お前の心が傷付いたままお前が音を奏でるのを見過ごしたら、俺は俺を許せない。」

 確信を抱いていたオスカーがそう言えば、リュミエールは隠しようもなく瞳の色を哀しみに染め、体を震わせる。それが何故なにゆえなのかを、無理に聞き出すつもりはオスカーになくとも。

「リュミエール。」

 再び伏せられようとする深海色の瞳を留めるように、オスカーはリュミエールの顔を僅かに覗き込んだ。

「俺は、お前の音色が聴きたい。お前は言ってくれた。誰よりも俺へ、音を届けたい、と。」

 オスカーが囁くように言葉を続ければ、揺れる青い視線が躊躇いがちにオスカーを見返して。

「『皆』じゃない。俺のためにお前が奏でてくれる音色が聴きたい。そのために俺がお前にできることなら、何でもしてやりたい。今も、これからも。」

 視線が絡んだままのリュミエールから目を逸らさず、指の甲でその頰を撫で、落ち掛かった髪を再び梳いて流す。

「お前が望むなら、またいつか。一緒に奏でて、導くよ。いつだって、お前の願う通りに。」

 自分の偽りない真実の思いが、その存在の内の心の奥底まで真っ直ぐに届くことを願って、リュミエールへと笑い掛けながら。

 それが今のリュミエールの心にかなう言葉なのかの確証はオスカーにはなかったが、もう一度その頰に手を寄せれば、リュミエールはようやくあの心からの微笑の片鱗を浮かべて、ごく控え目に嬉しそうに、そのしなやかな片手を、そっとオスカーの手に重ねて。

「優しいんですね。貴方は、本当に。」

「お前だけだ。」

 思わず本心が零れた。これほどに心を捧げたのは、この存在にだけだった。

 そんな真実を悟らせて困惑させるつもりはない、どうか聞き流してくれとオスカーが内心で願っていれば、リュミエールは楽しそうに少しだけ声を上げて笑って。

「何か今、俺にできることはあるか?」

 ようやくオスカーも笑顔を浮かべて問うと、小首を傾げたリュミエールが、目を閉じ、しばし思案して、それから目を開いて、その綺麗な深海色の瞳で。

「じゃあ、ハグしてください。貴方の強さを、私にください。それだけで。」

 それから自らの言葉を、無理を強いてはいないかと心配するように、小さく困ったように微笑った。

 オスカーの脳裏は、再び強く、眩暈のするほどに痺れながら。

「お安い御用だ。」

 立ち上がり、リュミエールの手に軽く手を添えて立ち上がらせると、その細い体を両腕で緩く抱き留めた。

 オスカーの腕の中に収まったリュミエールが、オスカーの首筋にゆっくり顔を凭れ掛けて、小さく長く息を吐く。その背に軽く手を添え、オスカーは一度だけ、髪に手を潜らせ、艶やかなそれを下までゆっくりと梳き通した。

 伏せられた瞼、オスカーの首筋を微かにくすぐる睫毛、その下で揺蕩たゆたう深海色の瞳は、ただひたすらに、どこまでも綺麗で。

 胸が痛かった。

 今この瞬間、この手の中にある存在の、何もかも全てを衝動的に奪ってしまいたかった。

 そしてそれをせず、この腕の中にある存在を自分のこの手で護り愛おしむことができることが、今この瞬間の、そして永遠の、自分の胸をどこまでも熱くさせる、あらゆる衝動を超える何よりもの幸福だった。

 

 身を離して、客席へと戻るオスカーを見送り、リュミエールは楽屋に一人残された。

 分け与えられた強さと暖かさは、今も自分の中に残っている。そしてきっと、これからもずっと、あの人と遠く離れても。

 オスカーはやはりとても優しくて、そして自分はこんなにも心惹かれて。

 まだ胸は痛むけれども、先程まで自分が囚われていた感情は、もう消えていた。この想いを終わらせる必要などなかったから。

 オスカーがどう思おうと、何一つ始まる前から全てが終わっていたとしても、自分がオスカーを慕うことにはほんの少しも変わりがなかったから。

 初めて知った恋は、それほどまでに自分勝手で、何にも誰にも、自分自身にすらも縛られることなく。

 今、リュミエールは、誰のためでもなく、初めて自分のためだけに、想いを抱いていた。

 あの人へ、音を届けたいと思う。心から。

 それはこれまで自分が真剣に願っていたと思っていた、『皆へ音を届ける』よりも遥かに強く、遥かに次元を超える強さの思いで。『皆に』と言いながら、自分はこれまで誰一人にすら、何一つをも伝えられていなかったのではとさえ思う。

 今晩このホールに集う、2790の聴衆の人生の一つ一つに、同じように恋い、愛し、これほどの衝撃があったことすらも、これまで気付かずに。

 今なら、オスカーへと。そして一人ひとりへと。

 きっと何かを伝えられる。この身を尽くして。

 ピアニストに声が掛かり、リュミエールは舞台のスポットライトの下へと向かうために、燕尾服を身に纏い、楽屋を出て歩いていった。

 その胸に抱く、初めての恋心とともに。

 

 オスカーが楽屋廊下から繫がる関係者用出入口を通り抜けてホールの廊下に出れば、そこはもう行き交う人々の熱気と期待感に溢れる、光に満ちた場に様変わりしていた。階を移動し、舞台の上手側、2階に相当するバルコニーボックス席の1番の扉を開く。

 扉の向こうのホールの中、1階から5階まで広がる観客席の人波と熱気とは、廊下のそれからさらにも増して。

 舞台の上手の最もステージ寄り、7人を収容するこの2階相当のボックス席一区画は本日は関係者席として使われており、オスカーは手持ちのチケットに記載のある最前列2番へと座るために席の間を縫って前方へと移動を始め、その途中で1階席の通路を歩くその人物の、金髪と緑、ピンクのメッシュの否が応にも目立つ姿を目にした。すれ違う観客の歓声と呼び声とに、時折ハイファイブで応えたりなどしている。

「オリヴィエ。あいつ、帰ってきていたのか。」

 そういえばニューヨークにオスカーが到着する予定の日の都合を聞いた際に、その日は不在にしていると当人から聞いただけで、その後のオスカーの滞在期間中の予定までは聞いていなかった。何しろ当初はオスカー自身が、契約が終わったその日に即座にロサンゼルスへ帰る可能性すらあったのだから。

 この数日で、オスカーの世界はあまりにも何もかもが様変わりしていた。あまりにもまばゆく、眩暈のするほどに。

 オスカーはボックス席の最前列まで移動し、指定の2番の席に座った。この席はピアニストが座って向く上手側のほぼ真正面で、きっとその表情はよく見えるだろうと思えた。

 先に隣の1番の席に着席しており、腕を組んで渋面を顕に隠しもしないカティスが、舞台の上のまだ無人のピアノから視線を外さないまま、低い声でオスカーに呟く。

「これでピアニストに悪影響が出てるようなら、てめぇを殺す。」

「舐めんな。」

 オスカーは落ち着いた声でそれだけを答えた。カティスが横を向いてオスカーの方を見れば、オスカーはもはや、何もかもの全てを洗い流して凪いだような静かな表情をしていた。

「それはどっちの話だ。お前か、リュミエールか。」

「両方だ。当然だろう。」

 たとえ自分が向かわずとも、リュミエールはきっと最後まで遣り通した。そして絶賛を受け、何でもなかったような顔でパリに帰り、その後も『幻のピアニスト』として演奏活動を続け。

 だからオスカーがリュミエールのもとへと向かったのは、どこまでもオスカーの身勝手だった。何かは判らないが、あの時のあのままで演奏させていたら、リュミエールに生涯消えない傷を永遠に残させることになる、それがオスカーには到底許せなかっただけだった。

 もう会わないとも、会って手に入れるとも決めかねた理由が、今になってようやく判る。

 欲しいというなら、オスカーはこれまでに何度も思ってきたし、実際に何でも手に入れてきた。要らなくなったものは手放してきた。

 リュミエールは、そのどちらでもなかった。

 その存在の幸せをただ願い、そのためにオスカーができることなら何でもしてやりたかった。その暖かい微笑を護り通すためなら、何でも。

 これまで全てを自分の望みで決めてきたオスカーが、初めて誰かのためにと心から願った、唯一の、そしておそらく、生涯で無二の存在だった。たとえこの後で、もはやその存在から望まれることなく、永遠に遠く離れることになっても。

 客席の照明が消え、下手の舞台袖から舞台上のスポットライトの中に燕尾服姿のピアニストが歩み出てきた。長い髪をなびかせ、美しい所作で礼をする姿は、この大舞台を圧倒して余りあるほどに綺麗で。迎える観客の盛大な拍手に感嘆と嘆息が入り混じるのを、オスカーは自分のことのように、それ以上に誇らしくさえ思う。

 礼を終えてピアノの椅子に着席する直前、リュミエールはふと、その深海色の目線の先にオスカーを見出し、抑え切れない微笑をその顔から溢れさせた。オスカーは幸せな痛みに締め付けられる胸を抱え、笑顔でリュミエールに応える。

 オスカーは今、確かに、恋をしていた。

 

 

 以下はその後に出版されたライブレコーディングのアルバムの、ライナーノートに記載された文章である。

 

《……私が偶然にリュミエールと出会ったのは、このアルバムに収録されたカーネギーホールの演奏会の1年ほど前、パリでのことだった。…(中略)…

 カフェのテラス席でしばらくやさぐれていて、ふと、同じカフェの少し離れたテラス席に、すごく綺麗な子がいるな、こっちを気に掛けてるな、と気付いた。だけどその時の私は、そう気付いても自分を取り繕うことさえ面倒なほどに投げ遣りになっていて。

 わざとらしいくらいに目を逸らして、それからぼんやり紅茶を飲んでたら、次の瞬間、全身がぞわっと一気に逆立った。眩暈のするようなきらめかしいピアノの音色が自分の傍らを通り抜けていったからだと気付いたのは、ようやくその後でだった。自分がそうありたいといつも思っていたような、明るく甘美で華麗な音色。

 …(中略)…

 やがて曲が終わって、辺りのあちらこちらで沸き起こった拍手の中、テラス席に戻ってきた子に、ちょっと照れくさかったけど笑い掛けたら。

「良かった。貴方にはそんな華やかな笑顔が、きっと似合うと思って。」

 そう応えられてしまい、今度は逆にちょっと泣いてしまって、その子を慌てさせた。それがリュミエールだった。

 …(中略)…

 カーネギーホールの公演に出演すると聞いて、必ず聴きに行くと約束した。『幻のピアニスト』として知る人ぞ知る存在だった友人が、ようやくメジャーデビューを迎えると聞いて喜んだし、その公演が、こうやってライブレコーディングのアルバムとして出版されるのもとても嬉しいと思った。きっと必ず、ずっとこの先いつまでも語り継がれるような伝説の演奏会になるって信じられたから。そして縁あって、こうやってリュミエールのメジャーレーベルデビューのアルバムのライナーノートを書き連ねる役を得たのも、とても光栄で。

 このアルバムを聴いた人には、必ずわかると思う。

 リュミエールの情愛豊かで、高い技巧性に裏付けられ、めくるめく色彩に溢れるピアノの音色は、それを耳にした誰しもの心を動かし、きっと世界をも変えていく。……》

 

…(中略)…

 

《……1組目のピアノ独奏の組曲『展覧会の絵』において、リュミエールの出色とすべきはやはり最後の2曲、『鶏の足の上に建つ小屋(バーバヤガー)』と、アタッカでそれに続けて演奏される『キーウの大門』だろう。

 イ短調、おどろおどろしい曲想を持つ『バーバヤガー』は、いかな奏者の手においても陰惨で重く、しばしば嫌悪感をさえ抱かせるが、リュミエールの手に掛かるそれは、私たちの胸を騒がせる迫力を失わないまま、驚くほど美しく、ともするとその闇の美しさへ引き込まれてしまいそうなほどの誘引力をたたえて止まない。

 『キーウの大門』に至っては言うに及ばず、あの著名で感動的なメロディがリュミエールの抜きん出た技巧と、それだけに留まらない彼の想いの深さによって切に胸に迫り、壮大な曲想で綴られるリュミエールの音の世界に誰しもが身を委ね、その手によって赦しをも得たように感じるのだった。……》

 

《……2組目の曲はストラヴィンスキー『七重奏曲』。これは私にはかなり難解で、解説には力不足だから、この後の曲目の解説に詳しくは譲り、このスペースには本アルバムの出版に際してリュミエールから直接語られた言葉を、そのまま書き記すことで替えることにする。

「ストラヴィンスキー七十歳の曲にして、それまでの彼の作曲スタイルを一変させ、人々を大いに驚かせた作品です。…(中略)…1951年にシェーンベルクが亡くなった後、ストラヴィンスキーは突如としてシェーンベルクの特徴的な作曲スタイルであった十二音技法での作曲を試みるようになりました。齢七十にして友人を失った時、彼の胸中に去来したのは深い哀悼だったのか、友の志を後代に繫ごうとする新たな決意だったのか。いずれにせよ、考えるだけで胸が痛み、その曲に載せられた様々な意志と願いとに、思いを馳せざるを得ません。

 オクターブを構成する十二の音を、調性に囚われず全て取り入れようとする作曲法、それが十二音技法です。十二の音を等しく愛する私には――平均律と常に向き合うピアニストにはありがちな事だと思いますけれど(笑い)、――とても魅力的な技法です。私と聴衆の皆との出会いが、十二の音に彩られ、七十歳のその先まで続くように。七十歳に至っても常に前進を忘れず、新たな音楽との出会いがあるように。アメリカ合衆国でのデビューの光栄に浴し、私のそのような願いを皆の下に届けたいと思いました。…(中略)…

 

《……最後の曲目、バルトークの『ピアノ協奏曲第2番』が熱狂的な拍手で幕を迎えた後、幾度かのカーテンコールを挟んで、アンコールを熱く期待する聴衆を見渡し、リュミエールは直接聴衆へと語り掛けた。肉声でありながら極めて澄んで通るその声は、舞台から最も遠い5階席の最深部の聴衆までもがはっきりと聴き取れたという。

 残念ながら都合上、このアルバムでは収録を割愛されたその慈愛に満ちた言葉を、代わりに文章としてこのライナーノートに記しておく。

「皆様、本日は本当にありがとうございました。そして重ねての賛辞に、深く感謝します。

 ご期待にあずかり、これから1曲披露させていただければと思いますが(ここで聴衆の歓声と拍手)、少し長くなってしまうかもしれません(聴衆の再度の歓声と拍手)。

 なので、もし、あなたの帰りを待っている誰かがいらっしゃるのなら。是非、そちらを優先していただきたいと思います。

 大事な人との、大事なひととき。出会ったことそのものが奇跡である、その人との限られた時間を、どうか一瞬たりとも、無駄にしないでください。

 大丈夫ですか? …じゃあ、できるだけ急いで演奏しますね(聴衆の笑い声)。どうぞご一緒に、さらなる音楽の世界へと駆け出しましょう。もしスピード違反で捕まったらごめんなさい(一段大きな聴衆の笑いと拍手)。」

 そうして心からの微笑みを聴衆へと向け、実に楽しげに椅子に掛け、リュミエールが奏で始めたその曲は、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』!

 本アルバムの最終収録曲でもあるそれは、実に異色の、かつ世に類を見ない素晴らしい体験だった。誰もが知るあの素朴なメロディの、全ての一音一音がその輪郭を際立たせ、少しずつ、煌めく数々の変奏曲へとより輝きを増してゆき、抑えることができない喜びとともに次々と羽ばたいてゆく。微笑みに満ちたリュミエールの視線は、ずっと聴衆の一人ひとりの全てへと注がれ続け、あるいは時々オーケストラを振り返り、指揮者を見上げ、誰しもの胸へ幸福と高揚をもたらして。

 曲の半ば、胸に迫るハ短調の第8変奏を抜けて再び長調に転じると、リュミエールはその華麗な音色で大いに、高揚を抑え難い様子のオーケストラのメンバーを煽り始めた。

Bois木管!」

 リュミエールが高らかに呼び掛ければ、木管楽器4パートとホルンが即座に音色に合流する。続けて「Cuivres金管!」と呼べば、トランペットとトロンボーン、テューバが応じ。

 速度を緩めた第11変奏、指揮者が訳知り顔に棒を振って唇の前に指を立て、オーケストラを静まらせると、意を得たり、といった風にふと悪戯げに微笑ったリュミエールは、指揮者に笑み応え、極めて厚みのある和音でAdagioの穏やかな曲想を綴りながら――この辺りからはモーツァルトの簡素なオリジナル版でなく、リュミエールの手に成る壮麗な編曲版であった――、とても美しい、その綺麗な微笑みを聴衆に向けつつ、演奏を続けたままゆっくりと立ち上がっていった。その場に居合わせた誰の目にも、もはやその意図は明らかだった。

 最終の第12変奏。弦五部と打楽器をも加えた全てのオーケストラが音色を合わせ、指揮者は聴衆へと向けて大きく指揮棒を振り、聴衆はさながら一斉にワルツを踊るが如く三拍子の手拍子を打ち、その中心には涙の出るような感動的な音色を立奏で綴り続けるピアニスト・リュミエールがいた。

 手拍子は終曲に伴って、そのまま割れんばかりの拍手となっていつまでもリュミエールを称え続けた。

 なお末筆に、その後重ねて繰り返されたカーテンコールの途中、ふと聴衆へ向けて送られたリュミエールの投げキスで、幾人かの紳士(!)淑女が失神したさまは、伝説のヴィルトゥオーソ・ピアニスト、フランツ・リストの再来を彷彿とさせたことを記して、ライナーノートの筆を置くことにする。

 

 私の大切な友人へ、心からの友情と愛情を込めて。

 

オリヴィエ(俳優 / モデル / デザイナー)》

 

 

 聴衆の熱狂的な拍手と歓声とに応えて幾度も惜しみなく繰り返されたカーテンコールが、ようやく本当に終回を告げたと見るや否や、オスカーはボックス席の扉から飛び出て全速力で駆け出した。

 廊下を走り、関係者用出入口を抜け、楽屋の扉をノックもせずに勢い込んで開く。

「リュミエール!」

 長い髪のピアニストは高揚の名残りに頰を火照らせながら、ようやく燕尾服の上着を脱いで楽屋の長鏡台の上に置いたばかりで、驚きに振り返り深海色の瞳を軽く見開くその姿の、腰に両腕を回してオスカーが高く身体を抱き上げた。驚いたようにリュミエールが慌ててオスカーの両肩に手を置いてバランスを取る。思わずやってしまった。抑え切れなかった。

「良かったな、大成功だ! 流石だな!」

 驚かせすぎてもと思い、その身体をすぐに下ろす。目の前にある頰に、一転して慎重な手付きでそっと片手を伸ばし、一度髪を梳いてから再びその頰に手を添えた。

「素晴らしい音色だった。感動したよ。本当に、心から。」

 熱に潤む深海色の瞳を覗き込むようにして、オスカーが囁く。

 自分のためにと言ってくれたその音色が、今日を限りに最後だと。自身のあるべき姿を強くしなやかに取り戻したリュミエールが、もはやこの先オスカーの手を必要としなくなり、オスカーの下を離れてゆく、少なくないその可能性に胸を締め付けられながら。

 リュミエールは嬉しそうに、頰に触れるオスカーの片手を両手で微かに包み込み、綺麗に、この世界の貴石全てを詰め込んだような綺麗な微笑みをオスカーに向けた。

「貴方のお陰です。オスカー。」

「俺は何もしていない。全てはお前が、お前自身の力で成したことだ。」

「いいえ。」

 リュミエールが目を伏せ、緩やかに首を振った。艶やかな髪が、リュミエールの頰に添えたオスカーの手の上を撫でる。

「貴方がいなければ、今日の私の音色は在り得ませんでした。」

 そう言うと、リュミエールはゆっくりと目を閉じ、僅かに顔を俯かせて、首を傾け、その両手で包み込んだオスカーの片手に、ごく微かに唇を寄せた。

 オスカーの手に感じる吐息とともに、目を閉じたままのリュミエールが囁く。

「貴方に出会い、奏でて、導かれて。自分ではどうしようもないほど、貴方に惹かれて、…貴方に、恋をして。

 貴方を忘れようとして、でも心の中から、貴方を失うことはできなくて。」

 祈るように、懺悔するように、両手で包んだオスカーの掌へ顔を寄せ、リュミエールが言葉を続ける。目を薄く開き、小さく数度瞬いたリュミエールの両の睫毛がオスカーの指先を掠めた。

「貴方に力付けられて、貴方の強さを分け与えられて。

 一夜だけ、ただこの一夜だけ、貴方への想いを音に綴ることを赦してほしいと、…ただ、それだけを願って。」

 言葉もなく立ち尽くすオスカーの気配に、リュミエールがゆっくりと顔を上げ、心の底から申し訳なさげに微笑う。

「ごめんなさい。本当に。貴方の望まないことを聞かせてしまって。

 でも、…ごめんなさい。どうしても、」

 そういうと再び俯き、目を閉じて、オスカーの掌に、その唇を再び微かに寄せて。

「どうしても、貴方に感謝を伝えたかった。」

 オスカーの手に触れるリュミエールの両手の指先に、不意に力が籠もり、オスカーの掌にリュミエールが顔を埋め、声が震え揺れる。

「忘れてください。貴方の望まない、こんな私は忘れてください。楽しかったことだけ、貴方の記憶に、どうか留めておいてください。私も忘れるよう一生懸命努力します、貴方に忘れてもらえるように。

 ただ、本当に、……心から。貴方への、感謝を。それだけは。」

 リュミエールがオスカーの掌から静かに顔を離してゆき、目線を上げた。

 オスカーと視線を合わせ、その氷青色の瞳の色を、永遠に、目に焼き付けるようにして。

「心から。

 本当に、ありがとうございました。」

 そう言って微笑い、瞬いた深海色の瞳から、涙が零れた。

 目を閉じ、これで本当に最後となった言葉を告げる。

「さよな」

 瞬間、リュミエールは身体中が軋むほどの強さで抱き締められた。後頭部を大きな掌に包まれ、力強い腕に背を囲い込まれ、熱い身体に強く強く抱き寄せられて、リュミエールの涙の欠片がオスカーのシャツの襟元へ吸い込まれてゆく。

「好きだ。リュミエール。」

 リュミエールの耳元を襲い、魂ごと奪い去っていくかのような、熱い吐息と荒れ狂う感情を伴う言葉。

「好きだ。これほど心を捧げたのは、お前だけだ。この想いがお前を歪めてしまうのが恐かった、だから言わなかった。自分の想いに囚われすぎて、お前の想いに気付けなかった。傷付けるつもりはなかった、本当にすまなかった。でももう、離すことはできない。絶対に、何があろうとも。たとえこの星が尽きようとも、この想いは永遠に。リュミエール、」

 どれほど言葉を連ねても、到底言い足りなくて、ただひたすらにもどかしくて。どう言えば伝わるのかと、千の言葉を探して。

 そうしてふと、思い至った。こういう事なのかと。

 かちりとオスカーの心に嵌った、その言葉。

愛してるJe t'aime.。」

 腕の中の、無二の存在に。その耳元で、低く低く、熱く囁いた。心の底から。

 その綺麗な心の、奥底まで届けと。

「………、」

 腕の中、熱く火照る身体が一度大きく震えた気がし、抗う術もなく強く抱き寄せられオスカーの首元に寄せるその唇で、は、と、小さく息をいた気がした。

 ふとその身体から、力が失われてゆき、するりとオスカーの腕から滑り落ちかけて、オスカーは慌ててすぐ近くの椅子へその身体を寄せ座らせる。

 

 オスカーに与えられた猶予はそれきりで、それが全てで、それで最後だった。

 楽屋の扉が盛大に叩き開かれ、火照り切った顔で朦朧として椅子に座るピアニストと傍らに立つオスカーとが扉の方を振り返って見遣る中、大興奮の複数の評議員と指揮者と、それまで在った室内の二人の雰囲気をただ独り悟って遠い目をしたカティスと、その後から後からオーケストラ団員とその他の関係者とが一斉に楽屋の中へ押し寄せてくる。次々にピアニストを取り囲み、口々にその演奏を称え、肩を叩き、歓声を上げ、握手を求め、感極まってハグしかけては他の関係者に力ずくで止められる。

 もはや事態の収拾が付かなくなりかけたところで、気を利かせたのか評議員の一人が半ば無理矢理に解散を告げ、ピアニストの荷物を代わりに持って人波を掻き分け、ブーイングがあちこちから数限りなく沸き起こる中、ピアニストに付き添い楽屋廊下を通り抜け、関係者エントランスから出てすぐのタクシーの中へとピアニストを乗り込ませ、ホテルへの帰路へと送り出した。

 未だ止まぬ強い高揚感と大いなる落胆と、次に繰り越したまたの機会への期待感とを盛大に引き摺りながら、関係者の人波が時折再度歓声を上げつつ三々五々と少しずつ散ってゆく中、楽屋廊下の半ばに無言で独り立ち尽くしたままのオスカーの肩を、背後から歩み寄ったカティスがいささか大袈裟に数回叩いてから、その肩を強く掴んで前後に揺らした。

「言っておくが、そのまま街中を歩くんじゃねぇぞ。タクシーにも乗るな。三、四人は殺してきたようなつらしやがって。問答無用で一発で捕まんぞ。」

 バーバヤガー妖婆も裸足で逃げ出す凶悪顔で――もともと裸足だそうだが――押し黙ったままのオスカーの、肩に載せた腕に体重を思い切り寄せ掛けて、カティスは盛大に溜息を吐いた。

「……ったく。大事なクライアントにあっという間に手ぇ出しやがって。」

「まだ何一つ出していない。冤罪だ。」

「出したも同然だろ、あんな顔させてんじゃ。とっくの昔に有罪ギルティだっつうの。」

 最後に目にした、リュミエールの姿をオスカーは思い出す。

 促され送り出されながら、オスカーの姿を求め、人波の中にその緋色の姿を探し当てて視線を投げ掛け、幾度も振り返る深海色の瞳が切なさをたたえ、後ろ髪を引かれた様子で。

「連絡先の交換は?」

「…していない。」

「そこだけは真っ当だったようだな。」

 クライアントに対する礼節上、手続きの上で必要な連絡は全て本来の担当弁護士であるカティスを通していたし、その枠の外での巡り合わせについては何もかもが想定外で。

 もう一度溜息を吐き、オスカーの肩から手を離したカティスが、わざとらしく自身のスマートフォンをスーツのポケットから取り出す。

 どれだけオスカーが不本意であろうと、オスカーが今、リュミエールとの細い糸を繫ぎ直すには、カティスが互いの連絡先を仲介するよりほかにない。

「その顔で睨むなっつってんだろ。」

 オスカーの『わかっているんだろうな』というめ殺さんばかりの無言の視線に、横目で返して文句を言い、目線を手元に落としてカティスがスマートフォンを操作する。

「お前の携帯電話番号をリュミエールに知らせる、その後どうするかは全てリュミエール次第だ。それでいいな。」

「……助かる。」

 辛うじてオスカーが礼を告げた。自分の連絡先さえ先方に渡れば、きっとリュミエールから連絡があると信じている。

 カティスは顔を上げ、心底苦々しげに言葉を続けた。

「ただし明日の朝に、だ。リュミエールを休ませて、一晩ゆっくり考えさせろ。よくよく考えるのはお前の方もだ、オスカー。

 今晩中にリュミエールにもそれは伝えておくし、俺は今晩のうちに思い付く限りの貴様への罵詈雑言をリュミエールに送っておく。」

 一瞬本当にこの場で手に掛けてやろうかとも思ったが、カティスなりにリュミエールを心配してのことだとはありありと判るが故に、オスカーは無言でその条件を飲んだ。

「あいつを不幸にしたら許さんからな。」

 カティスの言葉に、一体どこの親父の台詞だ、とオスカーは思う。

「舐めんな。何度言わせる。」

 あの存在から望まれるのであれば、この身の全てを尽くして、あらゆる不可能を可能にしてでも必ず幸せにすると。そしてその存在がこれから先、世界中で至福の音色を綴り、人々へと幸福を届けようと願い行うのを、誰よりも側で見守り、いつ何時であろうとも力付けると。そのことに何の躊躇いも過不足も、オスカーにはあろうはずもなかった。

「ああ、そうだ。ひとつだけ答え合わせを教えておいてやる。ディナーの時、お前の女癖の悪さは散々リュミエールに話した。

 リュミエールには謝るが、てめぇは単なる自業自得だ。」

 …まず最初に自分に殺されるべきはカティスこいつで間違いない、と、オスカーはその時に固く確信した。

 

 朝の身支度を整えてチェックアウトの準備を全て終え、ベッドの端に一応は腰掛けるものの、気もそぞろに落ち着かずリュミエールがそれを待っていれば、さほど間を措かず待望の連絡項目がカティスからリュミエールのスマートフォンへ送られてきた。慌ててもつれそうになる手で、すぐに記載された番号へ通話を入れる。

 どうしよう、その姿を目にしたら、人で溢れかえるロビーの真っ只中でも思わず飛び付いてしまいそうになるかもしれない、などと独りで頰の熱さを感じつつ、気がはやりながら通話の応答にリュミエールが心臓を跳ねさせれば、切望した低い声は静かに、チェックアウトはもうできるか、ロビーの外まで来れるか、と問う。

 すぐに部屋を出て階下に降り、フロントでチェックアウトの手続きをしてスーツケースのキャリーを引きながらホテルの扉の外へと出れば、車寄せのエントランスキャノピーの下、シボレーの運転席のドアのすぐ横で無表情で仁王立ちするオスカーがいて、リュミエールは昨日のカティスからの幾つかのメッセージの内にあった「殺人犯みてぇな」という言葉を少しだけ理解した気がした。今日はスーツでない、軽めのシャツ仕立てだというのに、その立ち姿だけでちょっとだけマフィアっぽいなと思ってしまった。リュミエールに歩み寄ってスーツケースをさり気なく取り上げ、トランクへと仕舞うオスカーは、リュミエールからの熱烈なハグの一回分を失したことを知らない。

 助手席のドアをオスカーがごく自然に開けてリュミエールを迎え入れ、ドアを閉じたオスカーが回り込んで運転席へと座る。

「マンハッタンで行きたいところはあるか。」

「いえ、特には。」

「じゃあ、空港の方に向かっていくのでいいか。JFK?」

「はい。」

 車を発進させる加速度にと無意識に備えたリュミエールは、その前、ふ、と、横合いから柔らかに片手を取られた感触に、オスカーの方を向いた。

 リュミエールの片手を緩やかにその片手で取ったまま、あの氷青色の瞳が、僅かに細められ切なげに揺らいで自分の方を見ていて、リュミエールはどきりと大きく胸を跳ねさせた。その瞳が、まさかそんな表情で自分に向けられるとは思ってもいなかった。いつだって自信に満ちていて、誰の手も必要としていないかのように思えた、あのオスカーが。

 ほんの微かにオスカーが指先に力を込め、リュミエールの指先を囲った。一瞬躊躇ってからリュミエールも同じように少しだけ力を入れてその指先に応えたら、オスカーはようやく薄い笑みをリュミエールへと投げ掛け、手を離して車を発進させた。

「カティスの奴が昨晩の間に、またとんでもないことをお前に話していないだろうな。」

 慣れたスムーズな操作で運転しながら、オスカーがリュミエールへ探りを入れる。根も葉もないこと、あることないこと、と言えないのが辛い。自業自得の意味が身に染みる。

 リュミエールは助手席で小さく笑い、オスカーの方へと少し首を傾げて微笑み掛けた。

「随分と心配していただいたみたいです。貴方のことも、ですよ。オスカー。」

 あれだけ昨晩自分に悪態を吐いていたあの金髪野郎のどこがだ、と反射的にオスカーが思う。

「ディナーの時の話題の迂闊を詫びられてしまって。これまでとは全く様子が違う、信じてやってくれと。

 ……本気の恋、…には、きっと不器用だから。至らないところもあるかもしれないが、よろしく頼むと。」

「……………」

 オスカーから目を逸らし俯いて、目元を赤く染める綺麗な表情を堪らなく愛おしく思いながら、自分の知らないところでカティスに勝手に兄貴顔されているのが心底複雑だ、とオスカーは思った。親父だの兄貴だのと忙しいことだ、あいつも。

 リュミエールの許可を得て、ジョン・F・ケネディ国際空港から20分ほどの距離にあるフォートティルデンビーチに向かう。

「オスカー」

 駐車場で車から降り、すぐにリュミエールと手を繫いで大西洋を望む砂浜の方へと歩き出したオスカーへ、リュミエールはやや慌てながら呼び掛けた。リュミエールの手を軽く引っ張るようにして背中を見せていたオスカーが、リュミエールを振り返る。

「……離したくない。」

 繫ぐ手にふと力が籠もり、あの細めた氷青色の瞳で、オスカーがリュミエールに告げた。

「…お前が同じように、願ってくれるのなら。」

「…………」

 リュミエールがオスカーを見上げ返した。

 あまりに慣れていなさすぎて、恥ずかしいどころの話ではなかったけれど、彼と同じように自分も願っているのか、そうでないのかと問われれば。

 言葉に表しては返せず、赤らむ目元を伏せて、ただ繫がれた手を僅かに握り返して応えれば、オスカーは軽く唇と気配とだけで笑って、繫いだ手を離さず、ようやくリュミエールと歩調を合わせて左右に並ぶ形で再び歩き始めた。オスカーがそっと指先を滑らせ、指を絡め合わせて組めば、リュミエールの手が躊躇いがちに応じる。

 ビーチはニューヨーク市内とは思えないほど閑静で、大西洋に向かって大きく開けており、海水浴シーズンも過ぎたために程よく距離を置いて人々が散策し、思い思いに自然を楽しんでいる。

 活力に溢れたマンハッタンの高層ビル街が嫌いなわけではなかったが、久しぶりの長閑な空気と高く遥かに広がる空とはやはり格別で、リュミエールは見渡す限りの空を見上げ、寄せては返す波の音に緩やかに心を解いていった。

 歩みを止め、手は繫いだまま、どちらからともなくオスカーと目を見合わせる。

「考えてくれたか?」

 繫いだ手が少しだけ握り締められ、僅かな緊張を隠し切れないオスカーの声がリュミエールに問うた。

「俺の気持ちは変わらない。好きだ、リュミエール。

 誰よりも近くに、お前の傍にいたい。その微笑みを一番に向けられるのは俺でありたいし、その微笑みを護るのはいつだって俺でありたい。

 お前の音色を一番に受け取って。お前を導いて。どこまでも高みへと。

 ……お前に恋を教えるのは、俺でありたい。絶対に、他の誰にも譲らない。」

 氷青色の瞳に縫い留められたまま、オスカーの言葉を全て受け取ると、リュミエールは痺れる思考に目を閉じた。

 カティスに促されて、一晩考えた。どこまでも考え尽くした。

 ロサンゼルスとパリの遠距離。そもそも同性で。立場だって全く違う、弁護士とピアニスト。オスカーはきっとこれからも、数多くの魅力的な女性に囲まれ続けて。カティスはああ言ったが、自分だけは例外、などとリュミエールがいつまでも自惚れ続けていられるほど、綺麗事では済まないことなど痛いほどわかっている。この先の困難など、ないところを見出す方が難しかった。

 まずは友人から。ゆっくり時間を掛けてからでも。そんな建前だっていくらでも用意できた。

 けれども。

 オスカーに心を捧げられて、痛んで軋み、歓喜に震えて涙が零れそうになるこの心を、偽ることはどうしてもできなかった。

「……嬉しいです。とても。」

 目を開き、潤んだ深海色の瞳でオスカーを見上げ、繫いだ手に力を込める。

「好きです。オスカー。

 すぐに遠く離れて、これから先、貴方にとても大変な思いをさせるかもしれないけれど。

 もし、許してもらえるのなら。

 貴方の特別に、してください。私を。」

 眩暈を覚えたかのようなオスカーが大きく息を吐き、リュミエールを両腕で抱き締めた。オスカーの腕の中、リュミエールが恋人として初めてその身で受け取る身体の暖かさと心の切なさは、意識が飛びそうになるほど気持ちがいい。

 オスカーが愛情を顕に、ようやく隠す必要もなく、その手でリュミエールの髪を撫でて梳き、強く抱き締め、リュミエールの頭に頰を擦り寄せ、リュミエールの頰を指先で撫で、目元の髪を梳き流し、目を見合わせて、背を抱き寄せ、額を寄せ合わせ、リュミエールの頰に手を添えて。

 それから、躊躇った。

 それが何なのか、ようやく今日この時になって、リュミエールは初めて理解することができた。求める思い。

 それはオスカーだけでなく、自分も。

「……いい?」

 目を細め、微かな声でオスカーが問うた。やっぱり、とても優しい、とリュミエールは思った。

 少し緊張して、答える囁き声が掠れる。

「…教えてください。貴方に、教えてほしい。」

 目を閉じれば、言葉よりももっと優しい、触れるだけのキスが唇に重ねられて。

 互いの暖かさがゆっくりと交わった頃に唇が離れ、感極まったようなその腕の中にもう一度強くうずめられた。

「これで、お前の特別で。俺の特別だ。」

 火照って再び脱力しかける腕の中の身体に、限りない愛おしさを覚えながら、オスカーの視界にJFK空港から飛び立つ航空機の姿が見えた。

 大丈夫。何があっても。

 こうやって二人、同じ時に、同じ星の上に在るのだから。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実はニューヨークからパリへの航空便は、びっくりするほど午前発の便がなく、ことごとくが夕方以降の出発便だった。

「18時30分発のエールフランスです。」

「やっぱり。」

 いくら時差が6時間、フライトが7時間半の13時間半を要するとしても、7時発の20時半着、とかが、1便か2便くらいあってもいいだろうに。そんなにシャルル・ド・ゴール国際空港の職員は夜間働きたくないのか。24時間営業なのに。フランス人か。多分フランス人多め。

 気付いていたオスカーは出発までのその貴重な一日をどうしようかと前日から考えていたが、リュミエールの希望がなければ摩天楼の砂漠はとっとと抜け、自然が好きそうなリュミエールのためにと考えて、――それからこの次、二人ともが移動してニューヨークで会える機会がどれだけ先になるかが、見当も付かないであろうことを考えて――ロングアイランドの、自分が生まれ育った地元の周辺を紹介しながらゆっくりしたいと思った。マンハッタンの中心地よりは緑も豊かだ。

 車で再び移動して連れて行ったリュミエールは、オスカーが想像した以上に喜び、オスカーの卒業した高校ハイスクールなども目を細めて興味深そうに、オスカーの思い出話を聴きながら嬉しそうに眺めていた。

 他意は本当に、全くなかったのだが、昼時が近付いて、ふと。

「良かったら、俺の実家に寄ってくれないか? 今日は両親とも家にいると思う。いやもちろん、友人として紹介するが。もしお前に抵抗がなければ、きちんと恋人として紹介して…ああうん、じゃあ、友人として。いいか? 良かった。俺もこっちに来ている間に、一応親の顔を見ておきたいし。」

(※前日のコンサートは土曜夜19時開始で、この日は日曜日。)

 そういう段取りになるはずだったのだが、玄関を開けたオスカーの母は、オスカーの顔を見て、リュミエールの顔を見るなり。

「こんにちは、まーなんて綺麗な子。お名前は? リュミエールさん? 初めまして、よろしくね。あなたのいい人? オスカー。」

「…………………………………今日から。」

 見た目で男性だと判るにも拘らず、母親の心底恐ろしい洞察力に、オスカーは咄嗟に噓をくこともできず。

「今日から? 突然親に挨拶なんて、驚かせたんじゃないの? ごめんなさいねぇ気が利かない子で。女の子たちにどうでもいい気遣いは振り撒く癖に、肝心のところで駄目だったりするのよねぇ。あ、そう、フランスにお住まいなの? 今日の便で? 帰る前にここに? まーすごく嬉しいわ、それで会いに来てくださったのね。直接お会いできて良かったわぁ、ゆっくりしていってね。それにしてもオスカー、中学校エレメンタリーの時も高校ハイスクールの時も付き合ってる人を誰一人親に紹介しないで、プロムの相手すら家では話題にしなかったし、その後だって当然のように誰一人会わせに来なかったあなたが、まーほんとに、心底惚れる人がようやくできたのねぇ。もうほんとにねぇリュミエールさん、この子のそういう話ってお耳に入ってるかしら? あ、それはもう知ってるってお顔ね。本当にねぇ、この子ったらそういう方面ではもう本当にどうしようもない子で、けどあなたっていうかたができたから。これからはきっと素行を改めると思うから、どうか見捨てないでやってちょうだいね。ほらあれ、見てやってごらんなさい、あなたに見放されたら生きていけないっていう顔よ、あれは。本当にどうぞよろしくねぇ。」

 リュミエールは顔を真赤にしてあわあわしながら、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします、と言い、なぜオスカーの母がそれほどまで慣れているのかとリュミエールが後から不思議に思ったレベルで、ごく自然にBisousビズを交わしていた。左右の頰を交互にくっつけて口でキス音を作るあれ。

 心底驚かされたことに対し、オスカーは後で、リュミエールからほんのちょっぴりだけ恨み言を言われた。

 

 

 

 

 フランスの夏時間は10月の最終日曜日の未明に元に戻り、アメリカ合衆国のそれは11月の第1日曜日未明に戻るため、普段9時間のパリとロサンゼルスの時差は、その間の1週間だけ8時間に縮む。

 スマートフォンの世界時計のアプリを眺め、2つの時計が指し示す時間を、リュミエールが小さく微笑って見下ろす。

 どことなく少しだけ距離が縮まったような、リュミエールの心を少しだけ浮き立たせるそれは。

「…………。」

 リュミエールの朝活、オスカーの夜活には微妙に逆効果だった。普段リュミエールの朝6時、オスカーの21時に通話の待ち合わせをしていても、この期間だけはリュミエールの朝6時、オスカーの22時になってしまう。ちなみに普段のオスカーの朝6時はリュミエールの昼15時相当で、実質的にオスカーの朝活の時間帯に通話等はできない。

 何となく釈然としない思いを抱えるリュミエールだった。