■ Sonare(1)-幕間

「オスカー!」

 この摩天楼にいるはずのない、しかし真昼の高層ビル街の雑踏の中でも見間違えようのないほどに極めて目立つ緋色の姿を遠くから見掛け、ジュリアスは片手と声とを上げた。立場上、人目に付きすぎる行動は無闇と行わないよう普段から心掛けてはいるが、それでも今あえて大きく声を投げ掛けたのは、そうでもして強く意識を引かないとそのまま通り過ぎそうな雰囲気をその男が漂わせていたからだった。いつ何時でも余裕を持って周囲への注意を不断に欠かさないような人間が、珍しく。

 振り返って視線を寄越し歩みを止めた緋色の長身が、 きびすを返してジュリアスの方へと寄ってくる。

「ご無沙汰しています、ラドフォード代議士。よく俺のことを覚えていてくれましたね。」

「ジュリアスでいい。それだけ目立つなりをしておいて、忘れろというのはかなりの無理難題だな。久しぶりだ、オスカー。 ニューヨークここで会うとは思わなかったが。」

 互いに力強く握手を交わしながら会話を続ける。ジュリアスの傍らには秘書らしき人物が一人付いていたが、彼の立場を考えればボディガードの一人もいないのが逆に恐ろしくすらあった。

「あなたこそ、こちらにいるとは思いませんでした。明日のカーネギーはフィラデルフィア管弦楽団P h i l O r c hだったはずですが。ああ、そういえば昨日がボストン交響楽団B S Oでしたか。」

「心外だな、そういつも遊んでいるわけでもない。まあ、確かに昨日のBSOの公演もしっかり聴きはしたが。きちんと仕事はしている、こちらへの視察のついでだ。今日中にはボストンに戻る。」

「もちろんあなたの八面六臂の活躍振りは存じておりますよ。演奏会の鑑賞も、地元の文化振興と楽団愛ゆえでしょう。先日の予備選も、御祝申し上げます。」

「皆の支援があってこそだ。今後何かの機会があれば、カティスにもお前にもよろしく頼む。」

 ジュリアスとオスカーの縁故も、カティスのかつての紹介によるものだった。

 若きカリスマ、との名声をその姿で体現するが如く、アングロサクソン系の金髪碧眼の威風堂々たる姿は相変わらずだったが、民主党基盤のマサチューセッツ州において僅か28歳のジュリアスが既に連邦下院議員2期目にもなるほどの絶大な支持を得ているのは、その政治的名門の出自の故でも豪奢な形貌の故でもなく、人種、貧富、貴賤の一切の別なく市民に寄り添う徹底した政治姿勢からだった。 高校ハイスクール在学中から市民運動の旗手として既に頭角を現し、25歳になってすぐの9月の予備選を広い得票で、特に若手層からの圧倒的支持をもって勝ち抜けた。以来2期の連邦下院議員を務め、つい先日の予備選も危なげなく現職議員として勝利し、11月の中間選挙での3期目再選は確実視されている。

 出身一族の実業家の親族からすら時に煙たがられるほどの市民派として振る舞う以上、大企業との軋轢は長期的に見て避けられ得ず、企業法務を主戦場とするカティスやオスカーとの相性は必ずしも良いとは言えない関係性だったが、だからこそ互いに容易には得難い相手であり、繫がりを保っておきたいという双方一致の思惑があった。

「それにしても、よくカーネギーホールの公演予定など把握しているな。お前がこの分野にそれほど熱心だった覚えはないが。」

「明日のカーネギーの公演の件で、カティスが一枚嚙んでいまして。俺が今回ニューヨークに来ているのも、それの補助ヘルプです。」

「なるほど? ああ、そういうことか。」

 話の流れにふと心当たり、どこか納得した様子のジュリアスに、オスカーがややいぶかるような視線を向けるが、ジュリアスはひとまず当の共通の知人の件について言葉を継いだ。

「あいつも相変わらず顔の広い男だな。カティス自身はこちらへは来ないのか?」

「今はちょうど機内ですかね。今日の夕方頃にはこの辺まで着く予定になっています。」

「そうか、私とは入れ違いになるな。残念だが、よろしく伝えておいてくれ。」

「承知しました。」

 ジュリアスの視線の届かない背後で、秘書がちらりと腕時計に目を向けた。次の予定までそう時間はないようだった。

「ところで、お前は補助だというが、演奏会ひとつがそれほどの難題だったのか? 随分と酷い姿をしている。」

「そうですか? それは失礼を、」

 オスカーがやや慌てて自分のスーツを見下ろし、鏡代わりに少し遠くのディスプレイウィンドウで自分の姿を確認するが、これといって普段の自分の見た目と変わりない、ように見えた。ジュリアスの秘書にオスカーが目を向ければ、同じ意見だったらしい秘書が肩を竦めながら首を振る。

「ああ、いや、外見のことではない。何というか、内面の存在が酷く傷んでいる。そういう印象を受けた。」

 さらりと告げたジュリアスの言葉に、オスカーが言葉を失い、やがてゆっくり苦笑した。

「そういうところが流石ですね。名門の七光りだと、あなたのことを何も知らずに吹聴する連中に聞かせてやりたいです。」

「それは褒め言葉として受け取ってよいのかな?」

「もちろん。あなたには参ります。」

 ジュリアスが市民の絶大な支持を得ているのには、種々の数限りない理由があったが、直接ジュリアスと接した相手がことごとく驚かされ虜にさせられるのが、ジュリアスの人に対する驚異的なほどのこの洞察力の深さだった。さながら奇術か幻想のようだと評されるそれで、真意を掬い取り、人の別なく助け手を延べ、仲間を集い、鼓舞し、スピーチを行い、利害団体と対峙する。天性の指導者といえる目前の若き政治家に、改めてオスカーは感嘆した。

「不甲斐ないです。公演の話とは、あまり関係がなくて。これは俺自身の問題です。」

 どこか喉を詰まらせたようにそう語って、自身を偽らず強くあろうとし、弱さを認めようとするようなその姿に、珍しい表情をするものだとジュリアスは考えた。

「そうか。無理はするな。また今度、ゆっくりできる機会を楽しみにしている。」

 ジュリアスは軽くオスカーの肩を叩き、互いに挨拶を交わして別れを告げる。

 本来の方向へと両者が再び歩き出してから、ジュリアスは一度だけ振り返り、その後ろ姿を一瞥した。

「仰らなくて良かったんですか? これから向かう先がまさにその、明日の公演のリハーサルだと。」

「『あまり』関係がないとオスカーは言っていただろう。何かしらの関連はあるということだ。自身の問題だと本人が言う以上、余計な口出しはしない方が良いと判断した。」

 もうすぐの近場とはいえ、待ち合わせの時間までそれほど余裕はなく、早足に目的地へと歩きながら、秘書の問い掛けにジュリアスが答えた。

 地元の文化振興と自身のたまの息抜きとを兼ね、BSOの公演は可能な限り聴きに行くようにしていた過程で、カーネギーホールの評議員と懇意になった。BSO以外の演奏会も時折推薦されてはいたが、珍しくも興奮した様子で是非にと推されたのが当の明日の公演で、地元との活動の都合上どうしても前日にはニューヨークを離れることになる旨を伝えたら、「ではせめて」との言葉とともに、リハーサル会場での見学の同行を勧められたのだった。

「まあ、『幻のピアニスト』などと、どうにも胡散臭い眉唾ものの案件に係わっては、オスカーが疲労困憊するのも無理はないだろうが。」

 だからこそ、カティスが当の公演の関係者、あるいは当事者だと聞いて、ジュリアスは深く納得したのだった。

「全く、食えない男だな、あいつも。」

 ジュリアスですら、時に手玉に取られているような感覚を覚えることがある、飄々とした金髪の男。

 これからわざわざリハーサル会場にまで呼び出されることになったジュリアスも、ある意味カティスに巻き込まれた側の人間だと言って差し支えなさそうだった。

「ピアノというのならば、」

 『幻のピアニスト』などという大仰で怪しげな存在を持ち上げずとも、むしろ。

「カティスにもオスカーにも、先日のピアノの方をこそ聴かせてやりたいものだ。」

「? 昨日のBSOは、マーラーの交響曲第6番でしたかと?」

 マーラーの第6番にピアノの編成はない。

「ああ、いや。」

 一昨日の視察には同行しなかった秘書に、ジュリアスは詳細を語らず簡単に否定し、その一昨日の出来事を緩やかに脳裏で振り返った。

 

「お久しぶり、ジュリアス。こんなところにまで貴方を呼び立てて、ごめんなさいね。ちょうどこちらに来る予定があると聞いたものだから。」

「どうかそんなことを仰らず。貴女からお声掛けを頂戴したのなら、理由の如何を問わず、 何時いつでも何処どこへでも参上いたします。」

 ソファに座るその姿の傍らにジュリアスはひざまずき、片手を手に取って甲に口付ける。

「それはそれで困るわね。私が誤った行動をした時に、注意をしてくれるのは貴方くらいでしょうから。」

 常に目深にヴェールを被っている彼女は、その年齢すら判然としないが、溢れる威厳と気品と、ジュリアスが捧げる敬愛の念とは少しも損なわれることはない。王を擁さない合衆国において、時に冗談じみて王室に喩えられるのがジュリアスの一族だったが、 無辜むこの民衆の戯れからではなく、真にそう喩えられるに相応しい彼女は、その存在を知るごく少数の者たちから『Her Majesty我らが女王陛下』と囁かれていた。

 世界中にネットワークを張り巡らせ、あらゆるコネクションを自在に操り、人々を愛し慈しみ、平和を心から望み、しかしながら自身の力の及ばぬ埒外で、未だ各地での争いが絶えないことを常に憂い。

 その所縁ゆかりを初めて得た時から、己が率いともに進むべき市井の人々に抱く誇りと等しく、己の一生を通じて敬愛を捧げるべき存在だとジュリアスは思い定めた。

 どうぞ掛けて、と語る穏やかな声に従い、彼女のはすかいの一人掛けのソファに座り、用意された紅茶への礼を言って口を付ける。場所柄、決して高級といえる茶葉ではないようだったが、基本に手を抜かず丁寧に淹れられたであろう素直な優しい香りがあった。

「それにしても、今日は」

 ジュリアスからすれば、『こんなところにまで』と言った彼女の発言も、あながち判らないでもなかった。彼女が直接あるいは間接的に、数多の福祉財団やNPOの運営・助成を手掛けているのは知っていたが、この児童福祉施設は特段規模が大きいわけでもなく、あえて言うならばブルックリン区に位置していてマンハッタンに程近く、ジュリアスのような立場の人間が視察に来やすいというくらいが特徴といえば特徴だと言える程度であった。彼女が運営に係わるだけあって、施設長に案内をしてもらい、参考にすべきところは幾つもありはしたが。

 そういえば、とジュリアスはその時、ふと思った。案内中の『本日は他にも客人が』との施設長の言葉。彼女のことかと思っていたが、運営に携わる彼女を施設長が『客人』と呼ぶのも、考えれば不自然であった。となれば。

 先程から遠く聴こえていたピアノの音。子供と大人が交互に戯れながら弾き交わすような、賑やかな。 つたない演奏が調子を外して子供たちの楽しげな笑い声が湧くと、もうひとつの手がそこから鮮やかな音律を織り成し、子供のみならず大人の歓声すらもが聞こえてくる。

 言葉を続けようとしたジュリアスへ、ヴェールの内から視線を投げ掛け、彼女は唇の前に指を立てた。

「そろそろ、終了時間と聞いていますから。」

 やがてピアノの音が止んだ。会話のざわめきが少し延びてからそれも止み、詳細までは聞き取れないが、これから演奏する最後の曲の紹介をしているらしい甘やかなテノールの声音が聞こえる。

 ジュリアスはティーカップを音立てず置き、膝の上で両の指を組んだ。

 少しの静寂の後、彼我の距離感を一切感じさせずに辺り一帯を覆い尽くした荘厳な音色に、ジュリアスの全身が総毛立った。促されるまでもなく一言も声を発せず、身動ぎすらできず、ただその音色に包まれて衝撃を受けることしかできない。

 天から降り注ぐ光の梯子を在り在りと想起させる、重厚な和音の響き。

 やがて細かく華やかな音階に美しいメロディが乗るに至り、ようやくジュリアスは傍らで笑む彼女に視線を遣り、口を開いた。

「サン=サーンスの“オルガン付き”、第2楽章の第2部。」

「私も好きだわ。子供たちに聴かせるには、特に。とても希望に満ちていて。人というものは、これほどの音を創り出せるのだと。」

「…ここにはコンサートグランドピアノがあるのですか? 連弾、」

「ではないし、ピアノもごく普通のアップライトピアノね。あの子が来ると聞いて、調律だけは事前にしっかりおこなってもらいましたけど。

 どこに行こうとも、どんなピアノだろうと、楽器がどう鳴らしてほしがっているかを、あの子はよく知っているのです。」

 いつの間にあんなピアノ編曲版を作ったのかしらね、と、彼女は軽やかに笑った。

 しばらくそのまま二人ともが黙って魅入り続け、オープニングに匹敵する華麗なファンファーレの音色と共に曲が幕を閉じると、割れんばかりの大喝采と子供大人入り混じる大きな歓声とが響いた。

 大勢の興奮冷めやらぬ気配すらもがこちらまで届く中、人の動く様子があって、ややあってから部屋の前まで歩いてきた人物が、扉を穏やかにノックする。

 どうぞ、との彼女の声に応え、ドアが開いてその姿が顕になった。

「失礼いたします。お久しぶりです。この度はお招きいただき、ありがとうございました。」

「礼を言うのはこちらだわ。元気にしていて? Bisousチークキスはまだ禁止? 残念ね。」

「貴女の身を、無闇に危険に晒すわけにはいきませんから。これでご容赦を。」

 先客のジュリアスに目礼を送りつつ、ジュリアスの逆側からソファに座る彼女の傍らへ寄り、跪いた姿はジュリアスと同じく彼女の片手を取ってその甲に口付けた。長い髪がさらりと両肩から流れ落ちる。

「長時間の演奏で疲れているでしょうに、来てくれてありがとう。是非、お互いに紹介しておきたくて。」

 そう彼女の声を聞くと、その姿はにこりと、深海色の眼差しをジュリアスに向け微笑い掛けた。中性的に際立った美貌の長い髪の青年。シンプルな白いシャツに黒く細いリボンタイ、スラックスを纏った身体は細身で、そのしなやかな指があれだけの迫力に満ちた音色を生み出していたとはにわかに信じ難いほどだった。ソファから立ち上がったジュリアスの方へと青年が歩み寄り、握手しながら挨拶と名前、軽い自己紹介を互いに交わす。

「ああ、それは。お父上と直接にお会いしたことはないが、何度も話には聞いている。機会があれば是非、厚誼を得たいと思っていた。」

「恐縮です。どうぞ今後ともお見知り置きを、ラドフォード代議士。」

「ジュリアスと呼んでくれ。……なるほど、」

 二人を見遣り、静かな笑みをたたえる彼女へと、ジュリアスは振り返った。

「私も、貴女と同意見ですね。 もうぶんない。

 この音色は、いずれ世界を変える可能性がある。」

 彼女は笑みを一層深くして、黙ったまま、だがその沈黙は否定ではなく。

 ジュリアスが再び青年の方を見遣ると、深海色の瞳が柔らかに細められて、ジュリアスの碧眼の視線へと応じた。

「若輩で、未だそのような評価を頂くに充分値するとは思っておりませんが、光栄に存じます。こうやって演奏を披露する機会に恵まれ、適うならば真にそうあろうと、より高みを目指して、倦まず弛まず今後も努力を欠かさないつもりです。」

 人を愛し、人の幸せを願い、世界の素晴らしさを信じ、世界をよりよい方向へと導き。

 ジュリアスとは立場も分野フィールドも大幅に違えど、青年は確かに同じ方向を向いてともに歩む同志だった。

「貴方なら大丈夫よ。でもできれば、『皆』だけでなく、『誰か』への恋心を覚える巡り逢わせがあると、もっと素敵なことになると思うわ。」

「貴女もそう仰るんですね。流石、と申し上げるべきかどうか。」

 やや苦笑気味に、青年は小さく首を傾げて酷く綺麗に微笑った。

 限られた時間の中で歓談し、近いうちの再会を期してから別れを告げた。

 

 正直言って、今日これからの『幻のピアニスト』とやらの演奏が、一昨日のあの衝撃を超えるとは到底考えられそうにない。

「撮影禁止だそうなので、ご留意ください。」

「そうか。まあ、する気もないが。」

 秘書の注意喚起に、やや呆れの増した声でジュリアスが応じる。

「本番の演奏会も当然撮影禁止ですが、オーケストラのメンバーを含めた関係者間での撮影も禁止、メディアによるピアニストの事前および事後の取材も一切なしだとか。カーネギーホールの公式サイトの公演一覧では、いつもの独奏者ソリストのスナップショットの代わりに、当のピアニストの署名サインが掲載されているだけでしたね。」

「随分と徹底していることだ。」

 そうまでして『幻』としての話題を作りたいのだろうか。あのカティスがやったことにしても、いくら何でも度が過ぎる、とジュリアスは感想を抱いた。

「『Lumièreリュミエール』、といったか?」

「ええ。」

 ちょうどそのタイミングで、ジュリアスたちは待ち合わせ場所のリハーサル会場のエントランスで評議員と合流し、その後は興奮気味に早口でまくし立てる評議員の発言を一方的に聞くだけにならざるを得なかった。とにかく行こう早く行こう、少し前から始まっていたが、ここまで漏れ聴こえてくる音だけでも桁が違う、等々。

 ちょうど演奏が途切れ、楽章中の表現を擦り合わせているらしい指揮者の声が聞こえる最中、リハーサルスタジオのドアを勢いよく開けて評議員が待ち切れないように入室していった。戻りかけるドアを秘書が押さえ、やや間が開いてからジュリアスが入室する。

 入ったのはリハーサルスタジオの後方にあたるドアで、椅子に座る楽団員たちの背中がこちらを向いており、離れた前方側に指揮台とピアノとの配置が見えた。興奮を抑え切れずに高らかな声で指揮者に声を掛ける評議員へ、同様かそれ以上に高揚を隠さない指揮者の側も大きく応え、ハグを交わして矢継ぎ早に演奏の手応えを話し合っている。指揮者はモントリオール出身のカナダ人で、評議員との会話は時折早口のフランス語が入り混じるようになり、途中からジュリアスには聞き取れなくなった。

 そうしてジュリアスは気付く。スタジオに満ちる独特の、その瞬間特有の雰囲気に。ジュリアスとて伊達に年間何十もの演奏会を視聴してはいない。その現場に立ち会った時の、確実に、覚えがあった。

 オーケストラ団員も撮影禁止だのという、通常はあり得ない面倒な条件を押し付けられ、さぞ気分を害しているかと思いきや、百人近い彼ら彼女らが今この瞬間に帯びている熱気。

 それは揺るぎない実力に裏打ちされたオーケストラの楽団が、稀代の指揮者に、あるいは独奏者ソリストに出会い、導かれて、これまで当然と思っていた演奏の世界の枠を超え、遥か遠くへ、長く語り継がれる伝説の名演と呼ばれるものが生まれいでる瞬間の熱気だった。

 指揮者はこのオーケストラの常任指揮者で、では。

 指揮者と評議員とに一同の注目が集まる中、ふとピアニストへ視線を遣ったジュリアスは、ただ一人だけスタジオ後方の薄暗いこちらを振り向いた、長い髪のピアニストと目が合った。ライトに照らされたその深海色の瞳は、意外な驚きに軽く見開かれたように見えて。

 白いシンプルなシャツに、今日はループタイの、その姿は見間違えようもなく。

「ル…」

 小首を傾げ、ジュリアスをその深海色の視線で捉えたまま、他の誰にも気付かれない目礼と、ほんの軽く内向きに上げた右手とで応じたピアニストは、緩く笑みを描く自身の唇の前で、すい、と、その右手の親指と人差し指を左右から閉じ合わせた。

(内密に。)

 仕草はジュリアスただ一人にだけ向けて、明確に、その意を表していて。

 言葉もなくジュリアスがその姿を見詰めていれば、そのまま、視線の先の唇が動いて無音の言葉を綴った。四語分の。

 数瞬の後、ジュリアスは軽く頷いて片手を上げ返し、ピアニストとの遣り取りに気付かなかったがために不思議そうな顔をする秘書とともに、近くの余っていた椅子へと掛けた。評議員は語り足りない様子ながら指揮者に挨拶を残して後方へと移動を始め、その途中でコンサートマスターと『幻のピアニスト』には、軽い敬礼と数語の、おそらくは『また後ほど改めて』といったような言葉を掛けていた。興奮しきりが冷めやらぬが故に、演奏中の奏者への握手は流石に避けたらしい。

 スタジオの最後方のジュリアスの隣まで戻ってきて同じく余った椅子に掛けた評議員は、再びリハーサルの進行へと戻るオーケストラを見ながら、小声でジュリアスへと話し掛けた。

「君の紹介を先にした方が良かっただろうか。」

「いいや。あなたにも判るだろう、これ以上演奏の妨害をすると、団員たちに呪い殺されそうだ。」

 早く弾かせろ、吹かせろ、演奏させろ、この瞬間を逃したくないのだと。自らたちの枠を解かれ、体験したことのない領域へと到達する、伝説的な演奏が生まれる瞬間というのはそういうものだった。

「リュミエール、か。」

 第3楽章の冒頭、鼓膜を揺るがすグランカッサ大太鼓の打撃を端に、低音から高音まで力強く駆け抜けるピアノの音階の、変わらず衝撃的なその音色を聴きながら、ジュリアスは呟いた。

 できることならばもっと自由に活動したいのだろうに、『幻のピアニスト』として在らざるを得ない・・・・・・・・理由も、今なら理解できる。そう考えれば、カティスに関しても。単に食わせ者が面白半分に仕組んだのかと思いきや、あれはあれなりに、クライアントの最善を考慮して手配していたのだと。

 送られた無音の四語のメッセージは、おそらく。

for the time being今しばらくは。

(であれば、)

 最初からそうと伝えておいてくれれば。水臭いことだ、とジュリアスは思った。表立たずともそうでなくとも、助力を惜しむつもりはないのに。再会の期がこれほど早く訪れるとは、互いに少しも思っていなかったとはいえ。

 幾百幾千の音の綴りと重なりの、熱狂の渦に包まれてゆく空間の快い高揚をともに堪能しながら、再度こちらへすらりと視線を寄越し、片目を閉じた深海色の瞳に、ジュリアスは碧眼のその視線で笑んで応えた。