■ Sonare(1)-3

 怒濤の勢いでクラウドストレージに更新されてゆく今日分のファイルの数と分量からして、ある程度は予想していたことだったが、現場の様相は予定通り夕刻に到着したカティスの事前の想像を遥かに超えていた。

「で今晩、リハーサルの終了後にリュミエールと会って二人でディナーに行く予定になってるんだがな。オスカー、お前はどうする? 来るってんなら予約の人数を変更しておくが。」

 L&Cのニューヨーク事務所の共用スペースの一角、開放的で整然とした事務所内の光景の中、そこだけ本と書類とが乱雑に積み上げられた狭間で、深くデスクに沈んで行儀悪く頰杖を突きながら書類を読んでいた長身の氷青色の視線が、その時になってようやくデスク越しの正面に立つカティスの方を向いた。重苦しい沈黙の数瞬が重なる。

「…別に義務じゃねぇよ。人ひとりそこらへんで殺してきたような顔をすんなっての。」

 無言のまま鋭い視線だけをこちらへ遣り続けるオスカーへ、呆れたようにカティスが応えた。

「わかった、俺とリュミエールとだけで行ってくる。どうせ肉食のお前がさほど食指の動きそうにない和食だよ。

 ところで、明日の本番は聴きに来るのか?」

「…ああ。」

 書類へ目線を戻し、地を這うように低い声音でその一語だけを答えたオスカーへ、カティスはもはや何をも言わず片手を上げるだけで了承し、所長たちへの挨拶のためにその場を離れた。

 数日前のオスカーが発ったその日、根本的には極めて優秀な人間であるからして、契約に差し支えを生じさせるようなことはないだろうと考えてはいたものの、よほど不本意な様子だったオスカーがリュミエールとの契約手続きをどう進めたものかとカティスがロサンゼルスで思案していたら、当日の夜にはソリスト署名済みの電子書類がひらりと事務所の共有ストレージにアップロードされ。

 そこまでは予想通りで、どうも様子が妙だとカティスが気付いたのはその後からだった。深夜帯、早朝帯に凄まじい速度でオスカーの業務が更新されてゆき、何事かと思っていればその後でぴたりと更新が止まり、それが続けて2日間。時折Slack業務チャットには反応があるものの、日中何をしているのかは全く掴めない。

 その日に捌くべきオスカー担当分の義務デューティはきっちり済ませているがために、カティスのがわに文句があるわけでも迷惑をこうむっているわけでもなかったが、3日目の今日まで同じ調子が続くようであれば流石に何があったのかを本人に確認しなければと思っていたら、昨日の深夜から再度始まったこれまで以上の怒濤の勢いの業務の更新は、今日の早朝の時間帯を超えて日中に至っても留まるところを知らずに。見ればわかるかと思ってカティス自身もロサンゼルスから移動しニューヨークのオフィスまで着いてみれば、そこにいたのはプリントアウトした大量の書類と書庫ライブラリから持ってきて積み上げた本の山とに埋もれ、借り物のワイドモニターの前でノートPCのキーボードをひたすら打ち続けては書類を無造作に掴んで睨み付ける、殺人犯系弁護士オスカー・ロックウェルだったというわけだ。見ても何一つわからなかった。ただひたすらに鬼気迫っているなと思うだけで。

 所長に挨拶ついでに軽く話を聞けば、一昨日、昨日はオスカーは事務所に立ち寄っておらず、本日早朝から再度顔を出していると思ったらその時点から既にあの様子だったらしく、そういうタイプのそういう業務スタイルかと思っていた、という。そんなことはない。そもそもあの殺人犯づらなど、凶悪すぎて弁護士事務所に置いておけない。

 オフィスの見た目を荒らす様相の狼藉を本人に代わって詫び、できればあのまま引き続き放っておいてやってほしい旨をカティスが頼めば、所長は大して気にした様子もなく鷹揚に応諾した。

 どんな時であろうと自信と余裕のある態度を崩すことなく、周囲への配慮も欠かさないオスカーが、それすらも丸ごと忘れ去った様子でこれほど険阻になるとは。こちらに来てから、一体いつの時点で何があったのか。

 何が、といっても、十中八九、

(リュミエール、)

絡みなのだろうが。

 ただ、リュミエールと正面衝突したことが原因でオスカーがこれほど荒れるまでの一大トラブルが生じていたのであれば、リュミエールの方にも演奏会に支障が出るレベルの多大な影響が出ているはずで、そうであれば否が応でもカティスのところまで情報が来るはずだが、特段そういうこともなく。今日も当初の予定通りリハーサルが進められていると聞くし、そもそもカティスが今日の夜の会食の予定のリマインドを今朝リュミエールへと送った際、『どうぞよろしくお願いしますね。』と何の変哲もなく異変も察せられない返信を直接受け取っている。

 となると、リュミエールをからかおうとしたオスカーが、逆にリュミエールに徹底的にやり込められた、などといった辺りか。

 だがそうならそうで、いずれにせよリュミエールとの契約手続きが完了した時点でカティスの代理としての役目は終わっているオスカーは、本番を待たずしてさっさとロサンゼルスへ帰っても何ら問題はないはずだったし、カティスも一応オスカー分の公演のチケットを融通したとはいえ、特段それを止めているわけでもなかった。なのに、あれほど荒れた様子を見せていながら、なぜ本番の演奏会まで残ろうとするのか。

 契約の日と、空白の2日間。

 何があったのか、たとえカティスが直接尋ねたところで、あの様子のオスカーが頑として答えようとしないであろうことは目に見えていた。かといって、契約時に何かしらのイレギュラーがあった可能性を考えると、その場合の当事者であるはずのリュミエールに尋ねてみるのも気が引ける。

「オリヴィエがいればなぁ。」

 カティスに実害はないといえばないのだが、このまま放置するのも後々問題になりそうな予感がし、カティスは宙を仰いで嘆息した。

 ニューヨークにはオスカーの高校時代からの親友がいて、ニューヨーク事務所の頃に法科大学院在学中のオスカーを介してカティスとも知己になり、たびたび三人で顔を合わせる仲になっていた。が、現在は俳優として自由人の名も高くあちらこちらで気ままに活動し、今もニューヨークを離れていると聞いている。

 オスカーが気を許す数少ない相手であるあの美貌の自由人がいたなら、嬉々としてオスカーの様子を面白がり、 追手おうて 搦手からめてで瞬く間にオスカーから情報を引き出すだろうに。

「まあ、」

 いずれにせよ、リュミエールと約束した待ち合わせとディナーの時間もそう遠くはない。

 表立ってリュミエールに問わずとも、話の流れで何かがわかるだろうか。

 

「……………」

 カティスが立ち去り、再び一人残されたオスカーがふと自分の手元を見遣れば、下半分がオスカーの右掌に握り潰された書類の1枚があった。そういえば先程、カティスの口が『リュミエール』と綴ったタイミングで、ぐしゃりと何かの音がした気がする。

 どう足搔いてもそのページが修復不可能であることを確認すると、オスカーは溜息を吐いて再出力のために当該のファイルをPC上で開き直し、両面1枚分の印刷データを事務所内の複合機へと送った。

 カティスは勝手に解釈して勝手にさっさと去っていったが、オスカーは別にあのタイミングでリュミエールとのディナーを断ったつもりはない。何ならむしろ真剣に、真剣すぎるほどに悩んでいた。行くべきか行かざるべきか。

 だがカティスがオスカーの返事を待ったとして、自分は果たして何と答えただろうか。

 出力紙を取りに行くために立ち上がり、窓の外、ビルの隙間から高く天へと伸びる、誰しもの頭上を等しく覆う空の色を見れば、否が応にも思い出す。

 深海色の眼差しを自分へと投げ掛け、綺麗に微笑う、長い髪のあの姿。自分の名を柔らかに呼ぶ、あの声。指の間を流れ落ちる髪。触れた頰の、重ねられた手の、暖かさ。

(…………。)

 会いたい、と。

 思わず目を閉じる。

 あの存在を思い起こすだけで、ほんの一瞬すら迷う隙も疑うべくもなく、会いたい、と思うが、胸は痛み、想いは切実すぎて、これをただ単に会いたいという言葉で表現していいのかどうかすらわからない。

 もう会わなければいい、そう結論付けてしまうのなら簡単なことだった。自分とあの存在とが交わるべき場面は既に全て終わっている。本番の公演を待つまでもなく自分はロサンゼルスへ、相手はやがてパリへと帰ってしまえば、その後の顔を合わせる機会など作ろうとする方が逆に困難だった。

 だが。

(誰よりも、貴方に。音を届けたい。)

 そう言われて綴られるあの音色を聴かずに、この全身に浴びずして帰ってしまう選択肢など一分たりと有り得もしなければ、

(貴方に、導かれてみたい、と。)

 いつか改めてそう願われた時には、歪んだ欲望の激しさ故にたとえ演奏には応じられなくとも、何らかの形で、自分のかなう限りのあらゆる手段で応えてやりたいと。そう願う自分の心を否定することもできない。

 なら逆に、いつでも会えるように手に入れてしまえと、そう決断するつもりなら、その実行もオスカーには容易なことだった。これまで男性相手に付き合ったことはないが、交際に至るまでの告白して口説くという手順に男女の別など特段あるわけもない。そして実際に行動に移したのならば、全て自分の思い通りに事を進める自信さえ、いくらでも。本当に欲しいとオスカーが望みさえすれば、性別も、互いの居住地間の距離も、何ならば相手の当初の意向すらも、ものの障害ではないと。

 だがどうしても、繰り返し追い立てられるように幾度も頭の中で想像してみても、その枠の中にリュミエールがどうしても当て嵌らなかった。

 恋というものを何一つ知らない、そしておそらくオスカーのこんな考えを欠片も想像していないであろう存在を、捕らえ、 うそぶいて、変容させ、自分の手の内へ収めようとする、その全ての行動がオスカー自身を自分で到底許せそうになかった。

 すらりとしたあの立ち居振舞いを脳裏に浮かべる。髪をなびかせ、その細身でピアノを奏で、並んで歩き、投げ掛けられる深い眼差し。

 こちらへと向けられるあの綺麗な微笑を、綺麗なまま、ほんの少したりとも自分の手で歪めたくはなかった。

 そして思考は繰り返し、元へと戻る。

 会いたい。痛いほどに。

 だが会うべきなのか、会うべきでないのか。

 そして行動も元に戻る。

 何もかもを忘れるために、今は本来の仕事に没頭すると。

「……………」

 もし、何かがあれば。

 あの存在に望まれて、自分の手が必要とされることがあれば、いつでも駆け付けてやりたいと、今のうちに業務を捌けるだけ捌いておこうとする、その意図を否定することもできないが。

 本格的に業務の続きに立ち返る前、もう一度だけあの姿を思い浮かべた。湧き上がる思いは打ち消しようがない。

 遠くからでいい。今はその方がいい。

 会いたい。あの存在に。

 

ニューヨークここまで来ておいてフランス料理もどうかと思ったんで、和食にしたが、良かったか?」

「こちらの和食は美味しいと聞いているので、嬉しいです。フルコースは私には重すぎることも多くて。」

「だと思ったよ。ペアリングは酒じゃなくて茶にしておいたが、やっぱり飲むってんなら用意してもらうが。」

「いえ、流石にそれは遠慮しておきます。貴方との折角の機会なので、飲みたいのはやまやまなんですが。ありがとうございます。」

 微笑んで答えたリュミエールが、各自の席に用意された先付を前に、いただきます、と目を伏せて両手を合わせる。伝え聞いた程度の作法をなぞったのだろうが、綺麗な所作だな、とカティスは思った。

 カティスもフォークを手に取り――リュミエールともども、流石に箸は使えない――器の上で繊細に飾られた料理に手を付けた。

 それにしても、とカティスはやや訝しくさえ思う。目の前のピアニストは、これほどまでに綺麗だっただろうか。

 彼の父親に紹介されての初対面の時から以降、今回こうやって機会があり、リモートとはいえ事前に打ち合わせを重ねて、確かにだいぶん以前より打ち解けたとはいえ。そしてカティスがリュミエールを迎えに行った際のリハーサル会場の、通りすがるオーケストラ団員たちから解散後にもかかわらず感じる、溢れるほどの、期待以上に順調に進んでいるらしい音合わせの高揚感の。それらがあったとしても、リュミエールのこの内側から輝くような存在感と微笑みは。

 機嫌も随分といいようだし、契約手続きの際に粗相に遭わせた可能性はどうやら消えたようだったが、それならそれで、オスカーのあの荒れようとの対比が一層際立つ。

 疑問を抱きつつも、カティスはひとまずオスカーのことはいておき、リュミエールとの会話を続けた。

「リハーサルは随分順調だったみたいだな。」

「貴方のお陰です、カティス。素晴らしいオーケストラと指揮者ですね。音が明確で美しくて。ドイツ音楽のような重たさをあまり感じさせずに演奏してくださるのが、今回の選曲にもとても合っていると思います。」

 折敷の上に飯碗、汁椀、向付、それから木製のスプーンが載せて運ばれてくる間に、リュミエールが言葉を継ぐ。

「全員と共演できるのが協奏曲だけなのが勿体ないくらいです。パートの独奏者ソリストたちとの共演も、もちろん素晴らしいんですけれど。」

 今回の公演のプログラムはやや変則的で、ピアノ独奏の組曲が一組、休憩を挟んで七重奏曲が一組、オーケストラとのピアノ協奏曲が一組という構成だった。七重奏曲のソリストはオーケストラの各パートの主席奏者たちで構成している。

「リハーサルといえば。リハーサルの休憩中に、ラドフォード代議士と軽くご挨拶しました。夕方にはニューヨークを発つとのことで、貴方によろしくと言付かりましたよ。」

「ジュリアスと? それはまた。」

 ボストン在住のあの政治家の豪奢な金髪碧眼を思い出し、カティスはやや意外な人物の登場に軽く驚愕した。

「お前とは知り合いだったりしたのか?」

「実は一昨日に、たまたま『彼女』のところで紹介にあずかっていまして。」

「ああ、そうだったか。そっちの施設のほうで演奏してきていたんだな。その時に。」

 出された茶を飲んでいた最中、ふと気付き、カティスは盛大に眉をひそめた。

「大丈夫だったか? 『彼女』のところで先に会って、それから今日のこっちのリハーサルで再会したんだろう? 言ってなかったんじゃないのか?」

 リュミエールは柔らかく、カティスを安心させるように静かに微笑った。

「私もすごく驚いたんですが、流石に察しのいいかたでした。すぐに理解してくださって、何食わぬ顔で挨拶していただきましたよ。」

「そうか、それなら良かった。」

 カティスは安堵し、次の料理のやや大振りの煮物椀の蓋を開いた。リュミエールもそれに倣う。

 ジュリアスとは旧い友人で、最近でこそだいぶん世間に揉まれて随分と柔軟にはなったものの、まだ時折ふとした場面で融通の効かない一面を見せることがあるが、幸いにも今回は柔軟性の方が適切に発揮されたようだった。

 だがしばらくの後、ふとカティスが思い至る。

「いや、待てよ。ジュリアスには今回の公演の手配が俺だとは伝えてない。あいつはどこでそれを知ったんだ?」

「そうだったんですか?」

 リュミエールは数度瞬き、フォークを置いて首を傾げ、斜め上の宙を見ながらしばらく思案し。

「そういえば。ラドフォード代議士は『あいつのアソシエイトにも、先程そこで偶然会った時に言付けておいたが。』と仰っていて。どうやらリハーサルにいらっしゃる前の道すがらで、オスカーと会ったらしいですけれど。」

「オスカーと?」

「聞いていないですか? 貴方がこちらに着いてから、オスカーとは会ったのでしょう?」

 リュミエールが不思議そうな顔を見せた。

 聞いてはいない。いや、意図的にオスカーが隠したのではなく、オスカーがあの様態の真っ只中で、単純にわざわざ自分に口を開いて伝えるという発想に至らなかっただけだろうことは容易たやすく想像が付くが。

「オスカーは変わりなかったですか? ……今日のディナーもご一緒できるかと、少し期待していたんですけれど。」

 ふわりとリュミエールが、ほんの僅かに垣間見える躊躇いを交えながら微笑い、その表情に何故かカティスの背筋がぞわりと逆立った。

 オスカーに変わりがないもあるも、あってありすぎるほどだったが、ディナーの誘いに対して凄まじい形相が返ってきたとは、その対象を目の前にして流石に言いかねた。リュミエールのこの表情とオスカーのそれとの落差はあまりに激しすぎ、ますます訳がわからなくなってくる。

「今日は仕事に没頭していて、それどころじゃなさそうだったな。申し訳ない。」

「…そうですか。」

 カティスが無難な通り一遍の返事を返すと、リュミエールは少し残念そうな表情をその端正な顔に浮かべ、だがそれはすぐに心配げなそれに取って代わった。

「もしかしたら、オスカーに負担を掛けてしまったでしょうか。 合奏アンサンブルに時間を割いていただいたせいで。」

「アンサンブル?」

 あまりの驚愕に声が引っ繰り返りそうになるのを何とか取り繕い、辛うじてことさら平静を装ってカティスが訊ね返した。オスカーが以前、ヴァイオリンを習っていたとは聞いていたが、今のカティスにはあまりにも意外すぎる話の流れだった。

「ええ、昨日の昼過ぎから。当初の申し出はオスカーからだったんですけれど、約束の曲の後、私が随分と引き留めてしまって。……それもオスカーは貴方に話しませんでしたか?」

「ああ、いや。」

 何分にもオスカーの様子があれで、肯定も否定もできずに曖昧にカティスが返事をする。ここに至ってようやくオスカーの空白の2日間が、おそらく丸々そのためにてられたであろうことをカティスはうっすらと察したが、リュミエールにそれを悟らせれば無駄に気を使わせることになるのは明白だった。

「負担ってことはないだろう。お前が気にしなくてもいいことだ、心配するな。」

「…はい。」

 カティスにそう言われてもなお、どこかそぞろとオスカーを気に掛け続ける様子のリュミエールへ、カティスは話題を変えようとした。煮物椀が空になる前に焼物が出されてくる。

「オスカーとのアンサンブルは楽しめたか? どうだった、奴の腕前は?」

 焼物に手を付けながらカティスがそう言うと、リュミエールは軽く目を見開き、それから少し首を傾げ、柔らかに再び微笑って。

「とても。とても、魅力的でした。また、と望んでしまうくらいに。……とても惹き付けられる、不思議な雰囲気のある方ですよね。」

 その微笑は、あまりに綺麗すぎて空恐ろしいほどで。

 そして何故か、オスカーのあのめ殺さんばかりの表情を、その上に重ねてカティスへと思い起こさせ。

「リュミエール。お前まさか、オスカーに本気になったりしていないよな?」

 思わずカティスは聞いてしまっていた。そうしてから、しまった、と思った。迂闊に聞いて、肯定でもされればどうすればいいのかと。

 だがリュミエールは、その言葉を耳にすると、カティスを見詰めたまましばし沈黙して、ややあってから重ねて数度瞬きをし、

「それは、恋愛のような感情で、という意味でしょうか。」

 芯から意外そうに、再度首を傾げてカティスに訊ねた。

「そうだが。ああ、いや、違うならいいんだ。」

「思ってもみませんでした。ものすごくびっくりしました、とても。」

「悪かった。いや、ならいい。安心したよ。」

「安心?」

 それだけで大いに含みのあるカティスの言葉に、リュミエールが不思議そうに問う。

「いや、オスカーはな。弁護士としてなら相当優秀で、仕事はできるし、だからこそお前との契約手続きに寄越したんだが、」

 カティスは盛大な安堵のあまり、多少行儀悪く焼物にフォークを刺して大きく口にした。リュミエールもカティスの話を興味深そうに聞きながら料理を食べ進めている。

「付き合う相手としては、あれだ。たとえお前が女性でもまあ、到底賛成はできないからな。」

「そうですか? とても素敵な方だとは思いましたが。私にも何かと気遣ってくださって。」

「やっぱり。美人と見れば節操なくいい顔を振り撒いてやがる、あいつは。」

「そうだったんですか。気付きませんでした。」

 カティスが苦々しさを隠しもせず愚痴れば、リュミエールが楽しげに小さく声を立てて笑った。

「女性への気遣いは、そりゃあ逸品だ。だが付き合いは誰とも長続きしなくてな。何しろあの容姿とそれこそ八方振り撒く気遣いのせいとで、際限なくいくらでもい女性が寄ってくるし、オスカーは一度落としてしまえばとっとと次の対象に興味が移るタイプでな。」

 揚物はもともと少なめにと頼んでいたが、数種盛られたそれと吸物とが、新しく用意された茶と一緒に出されてくる。

「わかる気はします。オスカーも魅力的なら、オスカーの目にかないそうな女性のほうも、とても魅力的でしょうから。仕方ないという気もしますね。」

 そのオスカーの様子を思い浮かべるように、リュミエールは目を細めながら微笑って相槌を打っている。よければお手で、と勧められ、塩を摘んで揚物に振る手付きが整っていて美しい。

「随分と理解があるんだな。そうなった場合、付き合っている側の相手がはいそうですかとオスカーをすんなり離すわけもなし。別れ方は、どうやったって毎回女性を泣かすことになる。」

 かくいうカティスも、成り行きで何度か女性側の嘆願に巻き込まれそうになったことがある。

「だが相手側がそれをやってしまうと、オスカーはもう完全に冷め切るからな。俺への嘆願が相手側の意図した効果を発揮したことは、一度もないんだが。」

「私が知らない世界なので、とても興味深いです。女性のほうにはお気の毒ですけれど。」

 カティスの愚痴に、リュミエールは女性側への配慮を見せながら答えた。

「究極はあれだ、『もう好きじゃなくなった。』だと。流石に滅多と使うことはないらしいが、それを言われてしまえば、相手側には何一つ反論のしようがない。こればっかりはな。」

「すごい言い方ですけど、それがきっと、正直な本心なんでしょうね。誠実といえば誠実、なんでしょうか。オスカーなりの。」

「アバンチュールだなんて本人は言うが、実態は単なる取っ替え引っ替えだ。…こんな話をして、折角の料理が不味くならないか?」

「長老の指導者たちから、音に色気がないって言われていますから。」

 リュミエールはカティスへ、苦笑混じりの綺麗な微笑みを浮かべて応える。

「オスカーの音色は、凄みがあるほどの色艶でしたし。そういう恋愛の遍歴があの音に繫がっているのだなと。とても参考になります。」

「こんなので良ければ、まだまだ山ほど話の種はあるが。いくら音楽のためでも、あんなのを参考にするのはどうかと思いはするがな。」

 食事が八寸へと進む中、カティスとリュミエールは声を合わせて笑った。

 

 翌日の本番の日。

 何日かの連泊で馴染みになった淡い朝の陽の光の中、リュミエールは目覚めて。

「…………。」

 身体が重い。

 きちんと寝れてはいた。昨日の朝とは違って。何なら昨晩、カティスと別れてホテルに帰り、シャワーを浴びて寝支度を整えると、むしろ気を失うようにして眠りに就いた。何も意識に上らないほど、深く。

 重い身体を再び横たえ、枕に俯せる。

『お前が望むなら、いつでも。』

 胸を強く締め付けるのは、オスカーのその言葉で。

 自信に満ちて強く笑う、あの笑顔で。自分をいざない、導く、あの音色で。

 頰に添えられた暖かい手と、真っ直ぐに自分に向けられる、あの氷青色の視線で。

 そして。

『もう好きじゃなくなった。』

 何一つ始まってすらいなかったのに、笑って自分に向けられる、その言葉で。

「……思ってもみませんでした。」

 枕に俯せたまま、昨晩と同じ言葉を、もう一度呟いた。

 

 いつの間にか。

 こんなに、これほど身体中が痛んで仕方ないほどに、あの人を慕っていたなんて。

 

 夕方が近付く頃合い、カティスはL&Cのニューヨーク事務所に顔を出した。

 先に会場入りした評議員から連絡を受け取っていた。 Dress Rehearsalゲネプロは順調だと。実に素晴らしい、今晩の公演の成功は間違いないと。

 ただカティスには、何かしらそれ以外のものが感じられていて、その予感は事務所内で、打って変わって整然と本と書類の片付けを進めていたオスカーを見るに至って、確信に近いものに変わった。

 書庫ライブラリに本を全て戻し終え、必要最小限に纏めた書類とノートPCとをブリーフケースに収め、ブリーフケースごと借り物の棚へと仕舞い、借りていたワイドモニターを返却する。

「本番前に楽屋に入ってリュミエールに挨拶するが、お前はどうする。」

「行く。」

 カティスからそう訊ねられるのを当然と考えていたように短く答えるオスカーは、 標的ターゲットが手に入らずに苛立つ女たらしレディキラーと見做すには、あまりに真剣すぎて。

 カティスの方を振り返りもせず事務所から移動を始めるその長身の緋色の姿の背中を、カティスは複雑な思いで追った。

 タクシーに乗り、カーネギーホールまで移動する。道中は二人ともずっと無言だった。ホール裏手の関係者エントランスの受付でカティスが記名して手続きをし、2つ受け取ったうちのオスカーの分の関係者パスを渡す。

「ゲネプロは終わっているがピアニストはまだ舞台で練習していて、そろそろ設営が始まるタイミングで帰ってくるそうだ。」

「いい。」

 そう言うとオスカーはカティスを楽屋廊下のその場に残し、ホールの廊下へと続く関係者用出入口を抜けていった。

 あと1時間も経てば人で溢れるホールの廊下も、今は薄い照明のみが照らす静寂に支配されている。オスカーは真っ直ぐ廊下を進むとホワイエまで出て、ホールに続く中央右手の扉を押し開けた。

 一寸先をも見通しづらい前室をごく静かに抜けて出た、1階席後方の座席はほぼ暗闇で、そこだけ明るく照らされている舞台上の光景だけが在り在りと目に飛び込んでくる。プログラムの最初の曲はピアノ独奏の組曲で、舞台の上から他の余分な椅子や譜面台は既に綺麗に片付けられ、ピアノとピアノの前の椅子のみが残されてあり、燕尾服を着てその椅子に掛ける長い髪のピアニストは、組曲の最後の曲、『キーウの大門』をその手で奏でていた。

 変ロ長調、 ppピアニシモの和音が静かに綴られた後に、 ffフォルティシモ完全八度オクターブの音階がめくるめく下降と上昇の展開を響かせる中、厚く重なる和音に乗る主題がホールの隅々を揺るがす。

 オスカーの心までも。

(リュミエール。)

 スポットライトに明るく照らされるその姿を、しばらくじっと見詰めてから、オスカーは中央最後部から数列前方の手近な座席に掛けた。前の座席の背凭れの上で両腕を組み、顔を埋めて寄り掛かる。

 力強い和音と幾重にも折り重なるトリルが、 allargandoだんだん強く緩やかにとともに終曲に至り、残響は長くホールの中に響いた。

 最後の音が消え去った後も長く、長く顔を俯かせていたピアニストが、目を閉じたまま顔を上げ、ゆっくりと目を開いて舞台の天井を見上げた。スポットライトの下、その深海色の瞳の色が顕になる。

 遥か遠くのこの場所からでもはっきりと判る、その色の深さ。

 目元に一筋残る髪を、この手で搔き上げてやりたい、とオスカーが思った時。

 ピアニストの指が、天を見上げたまま音を綴り始めた。押し秘める心から耐え切れず零れ出るような、微かなppピアニシモの囁き。

(『月の光Clair de Lune』……。)

 オスカーが見詰め続ける中、高く細く綴り始めた囁き声はゆっくりと低く沈んでゆき、低く沈んだ音は震えて高く小さく刻まれてゆく。揺れ動く音色はほんの時折だけ激しさを垣間見せつつも、すぐに息を潜め、自らの心の中へと再び小さく高く消えようとして。

 舞台袖で、楽屋で、その音を耳にした誰もが、手を止め。そしてホールに唯一人ただひとりあるオスカーも、微動だにすらできず。

 最後の音を綴ったピアニストは、その深海色の瞳で、ただ天を見詰め続けている。

(駄目だ。)

 オスカーは席からおもむろに立ち上がり、前席の背凭れを掴んでリュミエールの姿を見据えながら、それだけを強く思った。理由もわからず。ただ何かが、リュミエールのこれまでの音と決定的に違っていた。

「オスカー、こっちか?」

 背後の扉が唐突に開く気配がし、声が掛けられる。声の主の方へ反射的に振り向こうとするより早く、オスカーの視線は、ホールの気配にこちらを向いた舞台上のリュミエールの、その軽く見開かれた瞳が確かに自分の姿を捉えたのを見た。

 その表情は、オスカーの目前のようで。どうしようもなく手の届かない、遥かな遠くのようで。

 その唇が、オスカー、と確かに綴ってから。

 リュミエールは少し首を傾げて、微笑った。哀しく。

 何もかもを、全て終わらせようとするかのように。

 オスカーがその名を呼ぼうとした瞬間、舞台袖の上手かみてからピアニストへ声が掛けられた。開場時刻が間もないために舞台からの引き上げを呼び掛ける声に、リュミエールは上手かみての方を向いて軽く頷く。

 立ち上がり、ふともう一度オスカーへと視線を投げ掛け、互いの目線が確かに合ったと互いが感じた後で、リュミエールは少し微笑って、僅かに俯き、静かに瞼を閉じた。それはどこか、祈りを捧げる姿に似ていて。

 そうして身を翻し、その後ろ姿は二度と振り向かずに下手しもての舞台袖の先へと消えた。

 オスカーが即座に踵を返し、ホール出入口の扉へと向かう。

「オスカー、」

「来んな。」

 カティスとすれ違いざま、それだけを言い残し、オスカーは楽屋へと歩を急いだ。