6時間超えの移動時間と3時間の時差は、 偏にカティスの所為であると言い切っていいに違いない。
久しぶりの懐かしいマンハッタンの摩天楼の麓、真昼の時間帯を過ぎてなお薄らと汗で貼り付く緋色の髪を搔き上げながら、少々不本意なこの案件への苛立ちを転嫁するように、オスカーは脳裏に浮かべたあの金髪の男の姿へ毒付いた。
いくら夏が蒸し暑かろうが、いくら冬が長く凍えようが、 上流階級から路上生活者までを抱え込んでどれだけ混沌としていようが、ロングアイランド育ちのオスカーにとって馴染みの街といえば、間違いなくこのニューヨークだった。世界中のあらゆる取引が集中し、弁護士としてどんな案件でも手掛けることができる街。大学こそアメフトを優先させてU C L Aに通学したものの、将来的にはニューヨークで弁護士として働くことになる自分を疑わず、だからこそわざわざ法科大学院はニューヨークに程近いペンシルベニアを選んだというのに。
「ロサンゼルスに支部を立ち上げることになってな。俺は来年からそっちに行くから。俺に付いてくるか、 こっちの事務所の別の独立弁護士に乗り替えるか、お前も考えておけよ。紹介はしてやる。」
1年目からインターンでもサマーアソシエイトでも散々通い倒した挙句、ニューヨーク「リモージュ&カルタヘナ法律事務所」の独立弁護士であるカティスにオスカーがそう告げられたのは、大学院のJ.D.課程の3年目、卒業する年度にも入ってからだった。法律事務所としては大型に入り、数多のパートナーを抱えるL&C法律事務所の弁護士たちのうち、ことさらにカティスがロサンゼルスへ行くことになった理由はといえば、程々のベテランかつ程々の若手ということと、何よりもニューヨーク州弁護士資格に加えてカリフォルニア州弁護士資格を持っていたからに他ならなかった。アメリカ合衆国では州ごとに弁護士資格が異なる。
気心の知れたこの陽気な先輩弁護士に、この時ばかりは思う存分まで罵倒を浴びせた後、オスカーは諦めとともに、カリフォルニア州弁護士資格を取得することとロサンゼルスへ付いていくこととを決めた。いくらオスカーが学内で上位層常連の優秀さを誇ったとて、卒後すぐ独立弁護士として独力で条件の良い大型案件を取り扱えるわけもなく、他の大多数の新人弁護士と同様、数年間はいずれかのパートナーの下で雇われ弁護士として年限を積む必要があった。哀れなる哉。
いわば子飼いであるアソシエイトたちを、パートナーが奴隷のように昼夜の別なく酷使するのがいたって普通のこの業界にあって、カティスは弁護士としての手腕もさることながら、案件の捌き方、アソシエイトや他の協力弁護士への業務配分と権限委任とに極めて卓越していた。何よりもからりとしたその陽性の気質が、オスカーのそれと合った。当然のことながらカティスの側も、早々に優秀なパートナーへと昇格して共に辣腕を振るうことになるであろうオスカーの才覚を見込んだ。勤務地の問題だけで縁切りとなるには互いに惜しい相手だったため、渋々ながらオスカーも当面の方針変更を受け入れることにしたのだった。
ちなみにオスカーは法科大学院の卒業時、当然のようにニューヨーク州弁護士資格も受験して取得した。合衆国内では何かと有利となる定番の二重取得は、他に例が稀なわけでも、あながち予め考えていなかったわけでもなく、またオスカーにできないわけでもなかったが、試験まで1年を切ってのことで相応に大変な思いはした。
そういう経緯からして、十数日前に上がった急遽の話とはいえ、このニューヨークで弁護士として活動できる数少ない機会は本来であれば歓迎すべきことのはずだったが、今回の案件ばかりはオスカーも話を寄越したカティスへと早々に不満を顕にした。
「ライブレコーディングの出版契約? なんでお前のところにそんなお門違いの話が来ているんだ、カティス。」
話の途中でゼニア生地のスーツのサイドポケットに両手を突っ込み、オスカーは目を眇めてカティスに圧を掛ける。
「正確には演奏会の出演契約に引き続いての追加の出版契約だな。従前の出演契約については、基本的にリモートで俺のところで済ませてある。」
「どっちにしろエンターテイメントは専門外だろう。しかもニューヨークの。どうしてお前の案件になっているのかと聞いている。」
「俺にしか扱えない案件だったからだよ。」
個々のパートナーに割り当てられた個室の中で、机の前に立ち不満たらたらの様子のオスカーからカティスは目を逸らさないまま、一度きしりとアーロンチェアの背凭れのネットに深く沈み込み、 徐に立ち上がりながらそのローポニーテールを揺らして『まあ座れ』というように応接ソファへひらりと手を振った。話が長くなる、という意味だ。オスカーは顔を顰めながらもソファに掛けて足を組み、カティスは壁際のNespressoにカプセルをセットして二人分のドリンクを作り始めた。
「『Lumière』、」
背を向けたままのカティスの言葉に、オスカーはぴくりと片眉を跳ねる。
「…って、聞いたことあるか?」
「………あー…」
機器の操作の合間、振り返りつつ薄く笑みを浮かべて問うカティスに、眉を寄せて記憶を手繰るオスカーが心当たりのある風に答えた。その文脈で、ほんの微かに聞き覚えがあった。フランス系ではままある名前だが、その噂とともに聞いた名の、響きが妙に耳に残ったので記憶している。
「やたらと大仰な噂のあれか? 何だったっけか、『幻のピアニスト』だとか。」
返すオスカーの声音が嘲笑混じりになるのは避け難かった。いかにも商業的な煽り文句として利用されていそうなその手の実を伴わない表現に、オスカーはことさら嫌悪感を抱く。オスカー自身がヴァイオリンを幼少期から多少齧っていたために尚のことであった。優秀なピアニストなどその辺りにごろごろしていて、皆が皆、掃いて捨てられないために必死で努力していることをよく見聞きしている。実力のある出演者が欲しいというのなら、わざわざ欧州から空路で調達せずとも、ジュリアードで石でも投げて当たった奴をコンサートホールまで転がしていけばいい。
「まあ、あながち『幻』も出鱈目ってわけじゃない。今回も俺と偶然とが仲良くダンスしてなけりゃ、多分実現はしていなかっただろうな。」
L&Cのニューヨーク事務所所属の弁護士に、その知人であるカーネギーホールの評議員が愚痴ったのだそうだ。『幻のピアニスト』。欧州の音楽仲間から伝え聞く、数少ない実演の評価の途方もない高さからして、その実力は疑いない。一度はホールの主催公演に招聘してみたいと、同様の複数の評議員から話が挙がっているのだが、 如何やっても何処からも、 伝手を辿れないのだと。
「リュミエールの父親と知り合いでね。俺が。」
2杯のエスプレッソを手に、カティスがソファへ戻ってきてカップを置き、オスカーの向かいに腰掛けてその一方を持ち上げ口にした。胡散臭そうな顔付きを隠しもしないオスカーが、もう一方のカップを引き寄せて手に取る。
画家であるその父親の版権を、かつてカティスが合衆国内の担当弁護士として何度か取り扱って以来、知人と言える程度には親しくなった。つまり、最近になって『幻のピアニスト』として名の知れ始めた存在が、何かの別件での話の流れだったとはいえ、自分の息子であるとカティスに伝える程度には。
そこまでの詳細は聞き及んでいないものの、『幻』とカティスとに繫がりがあると知っていた、やはり音楽を多少嗜むニューヨーク側の弁護士がそう評議員に伝えたところ、即座に評議員からカティスへ直接電話があって、是非にと、何としてでもと、切々と滔々と熱望されたのだという。
「それで俺が担当弁護士になって、リュミエールと遣り取りし、カーネギーホールの主催公演への出演契約を結んだのが何か月か前だ。その時点ではまだ未定だったんだが、公演のライブレコーディングを出版する件についてレーベルと概要が纏まったのがつい最近でね。本番まで間がないもんだから、そっちの方の追加契約については、来米の際に契約事項を直接説明してサインを貰う方が早い、ってことになった。」
エスプレッソを一口飲んだオスカーは顰め面のままカップを持ってソファから立ち上がり、部屋の隅の小さな冷蔵庫へ向かう。そこに牛乳が常備されているのは知っていた。断りもせず冷蔵庫から牛乳を出し、カップへ注ぐ。
「カーネギーに聴きに行くって言ってたのはそれか。それで、なんで俺が代理で行く必要があるっていうんだ?」
音高く冷蔵庫を閉め、そのまま壁際に寄り掛かって微温いカフェラテもどきに口を付ける。問題はそこだった。上がってきたデューデリジェンスのチェック、クライアントとの打ち合わせ、何十頁にも亘る契約書のドラフトの作成。いくらでもやらなければならないことは山積しているし、監督者であるカティスがそれを知らないわけでもないだろうに、何故。
「俺が自分で前乗りするつもりだったんだが、別件で急遽呼び出しを食らってな。瀕死のミミズみたいにのたくってた和解案の調整が急に進展したらしい。 法廷には逆らえない、ってやつさ。」
州内で活動する以上、州裁判所の裁判官とはそれぞれ別個の案件で二度三度と顔を合わせることも稀ではない。州裁判所は連邦裁判所よりも裁判官個人の意向が強く反映されるのは周知の事実で、心証はできるだけ悪くしたくなかった。
「演奏会前日の夕方からしかニューヨーク入りできなくなった。契約には遅すぎるし、その日は当人はリハーサルだ。だからお前を前乗りに指名した。」
「だから、の前後が全く繫がっていない。」
飲み終わったカップを冷蔵庫の上に置き、オスカーはゆっくりとした足取りでソファのカティスへと近寄った。薄く笑んだまま続きを待つ様子のカティスに言葉を重ねる。
「普段から伝えているだろう、どうせ扱うなら大きい案件がいいと。そうでありさえすれば、寝る間もないほどドキュメントやらクライアントやらに埋もれるのだって一切構わない。が、こんな程度の些細な件を振られるのは不本意だ。」
「そうだな。知ってるよ。…だから、って言ってんだろ。」
不意にカティスが気配を強くして、悪餓鬼のように楽しげに片頰を吊り上げて笑い、オスカーは内心でひやりとした。こういう時、カティスは流石に百戦錬磨の剛腕の片鱗を覗かせる。
「もともとこの案件を将来的に譲るなら、引き継ぎ先はお前に、と思っていた。本来ならもっと後にと考えていたがな。」
「だから何でだ、と聞いている。」
「まだ未知数だってことは否定しない。が、」
カティスはそこで一度口を閉じ、オスカーから視線を外し、表情を改めて、数瞬、言葉を探した。
「あいつが弾けば、世界が動く。そういう存在になる可能性がある。だからこれは、お前の案件だ。」
「はん」
大袈裟なと両断するには、カティスの表情にも語調にも否定し難い何かがあったが、オスカーはとりあえず鼻で笑っておいた。
どちらにせよ、アソシエイトにはパートナーの業務指示に対する真っ当な拒否権など存在しない。
自分自身で確かめればいい話だ。オスカーはそう了承した。たかだか一音楽家が自分の判断を動かす、そんな可能性など微塵もないように思えはしたが。
つまりロサンゼルスで朝5時から動き始めたとしても、マンハッタンへの到着は今この時間の15時過ぎで、早々に相手方のところへ向かわないと夜に掛かるおそれがあった。だからといって夜間から移動を開始すると、到着はニューヨーク時間の早朝で、契約それ自体は短時間で手続きが済む見込みだったためにその案も却下した。要するにさっさと契約を済ませてしまい、こんな茶番じみた案件からは自由の身になって本来の業務を捌いていくのだとオスカーは決めていた。
L&Cのニューヨーク事務所に顔を出し、インターンの頃から既に顔馴染みの所長に軽く挨拶をして、共用スペースの一部を間借りし荷物を置かせてもらう。手配されてあるスタジオの住所を改めて確認するとロックフェラーセンターの程近くで、ウェスト34thストリート沿いのこの事務所からは少し距離があったが、目まぐるしく移り変わるニューヨークの変化を自分の目で確認しようと、スタジオまでは歩いていくことにした。
「オスカー!」
歩き始めてすぐ、昼の営業時間を過ぎて撤収作業をしていたフードトラックから、ヒスパニック系の女性がオスカーへ向かって飛び出してきた。サマーアソシエイトで毎日事務所に通っていた頃、よく利用していて知り合いになった店員だ。
「こっちに戻ってきたの? すぐ今の彼氏と別れてあなたと付き合うから、連絡入れる間ちょっとここで待ってて。」
「恐いほど可愛いお嬢ちゃんだな。残念ながら、まだロサンゼルスでね。今日は出張だ。」
片手で軽く首元を引き寄せて頰にキスをする。向こうからのペックキスは流石に顎を捉えて止め、額にもう一度キスをして手をひらめかせ立ち去った。背後から女たらしを囃し立てる複数の男女の声が投げ掛けられる。
西海岸のロサンゼルスよりも遥かに高い湿度で、相変わらずマンハッタンの高層ビルの谷間は蒸し暑かったが、それでも歩いている途中の幾度か、時折秋の気配が微かに感じられた。
目的地に着く直前の通りすがりのディスプレイウィンドウで姿容を確認してから、ゴシックリヴァイヴァル風の白いアーチと木製の扉のエントランスを潜った。内部の造りは外観で想像したよりもモダンで、カーペット敷きの廊下と滑らかに作動するエレベーターを通り抜け、低層階の廊下の先、重厚そうな木製ドアのルームプレートを確認する。
扉越しに漏れ聞こえるピアノの音は微かだが、メロディとハーモニーから言ってfffほどの音量ではあると思え、よほど防音性がいいのだと理解して、強めに3回ドアをノックした。ピアノの音はすぐに止み、「どうぞ入って」に類する言葉が来るかと待ち構えていたオスカーの予想に反し、人の気配が近付いてくる。
閉ざされていた扉は、その重厚さに相応しくゆっくりと廊下側へ開かれ、扉の向こうに溢れる光とその人物とをオスカーの目に映した。
「……」
不覚にも発することのできなかった第一声の間を、しかしすぐさま無かったこととするかのようにオスカーが挨拶する。
「…初めまして。カティスから話は聞いているな? 弁護士のオスカー・ロックウェルだ。オスカーと呼んでくれ。握手に抵抗は?」
「問題ありません、大丈夫です。初めまして。リュミエールと申します。どうぞよろしくお願いします、ミスタ、………オスカー。」
分厚いドアを押さえる手をオスカーがリュミエールに代わり、互いに儀礼的な笑顔を浮かべながら握手を交わした。身を返しながら「どうぞ」と入室を促すリュミエールに続き、オスカーも室内へ足を踏み入れる。普段なら『ムッシュ』としか言い慣れていない、言われ慣れていないのだろうな、とオスカーは思った。
入ったスタジオは角部屋で壁の2面は広くガラス張りになっており、外壁の柱の間からマンハッタンのビル群がよく見晴らせ、その2面の壁際に沿って作り付けのカラフルなソファが長く伸びている。ちょっとした内輪の演奏会の用途としても想定されているのだろう。ソファに寄せて小さなガラストップの丸テーブルが数脚と、対角線側の廊下寄りの部屋の隅には幾つかの譜面台、それから撮影などの際に使いそうなスタンドライトが数基。室内の目立つ備品はその程度で、天井はやや高く、部屋全体としてシンプルな造作をしていた。そして、部屋の中央に天板を開いたグランドピアノ。クラシック音楽に触れる機会があまりない人間でも、普通のグランドピアノよりさらに一回り大きいのがわかるだろうか。
「なるほど、そういえば。“インペリアル”か。」
断りを入れてソファの上に荷物を置きつつ、オスカーがピアノに目線を遣って確認する。
「よくご存知ですね」
リュミエールが少しだけ表情を緩めて微笑んだ。クラシックの素養が全くない相手ではないことに、多少ながら気が楽になったらしかった。
「その黒い白鍵を見れば、まあな。」
一部の例外を除き、ピアニストは自分の楽器を持ち運ばず現地で用意されるものを弾くのが普通で、練習場所のこのピアノも本番のホールで用意される同一モデルのそれも、主催者側が手配したもののはずだった。ベーゼンドルファーのモデル290、“インペリアル”。一般的な通常のピアノの88鍵に加え、低音側に9鍵が追加されている97鍵のモデルで、追加された分の白鍵はミスタッチを防ぐために黒く塗装されているのが特徴だった。
単なる物好きの道楽ではなく、今度の演奏会でその音域を必要とする曲がある。
「バルトークのピアノ協奏曲の、」
「第2番です。…契約廻りを細かく見てくださっているんですね。ありがとうございます。」
律儀にリュミエールが礼を告げた。
オスカーの見るところ、リュミエールの側は英語でのコミュニケーションに支障はなさそうで、雑多な出自の入り混じる合衆国内においてはよほど綺麗な発音のイギリス英語であり、そうと知らされなければパリ在住のフランス人であるとは気付かれないに違いなかった。
「じゃあ、さっそく出版の契約の説明と手続きをしようか。…あっちでいいか?」
「はい。」
室内を軽く見渡し、これといった机のようなものがないために、窓際の中程、小さな丸テーブル近くのソファへ並んで掛ける旨を指し示す。オスカーが端のソファでブリーフケースを開いて準備をしている間、リュミエールは先に移動して綺麗な姿勢でソファへ腰掛けた。ブリーフケースから取り出したタブレットを手に、オスカーがそちらへ歩み寄る。
長らく紙束の山から逃れられず、契約といえば分厚い書類を何箱分も箱詰めにして泥臭く引き摺り回さざるを得なかった法曹界だが、最近ようやく新規の契約については電子的な書類と署名とで済ませられることが多くなってきた。
タブレットを丸テーブルの上に置き、そこに表示した書類の1ページ目を二人並んで覗き込む。
「予めそちらに送っておいた追加の契約書だ。もう読んだか?…そうか。なら、それぞれの項目については既に承知していると思うが、特に重要な箇所については念のため俺の方からもう一度説明させてくれ。不明点があればいつでも俺の発言を止めてくれていい。」
そうして説明に入る。今回のようなエンターテイメント領域の契約はオスカーもカティスと同じく専門外で、普段見慣れない条項が多々あるものの、同様の同意手続きは何度もしたことがあるもので、タブレットのページを少しずつスライドさせながら途切れることなく重要項目についての説明を続ける。
(だが、)
オスカーの説明に耳を傾けるリュミエールを横目で伺い、オスカーからやや見下ろす位置の、視線をタブレットに落としたままの静かなその横顔を、オスカーは密かにタブレットから目を離し、 瞬ぎもせずに見詰めた。
(それにしても、これは……)
扉を開けて一目、思わず言葉を失った、その清廉な美貌。
男性だとは判るが線は細くどこまでも中性的で、緩やかな弧を描く整った眉と長い睫毛、通った鼻筋、端正な唇と細い顎がその印象をより深くする。何よりも、幾重の睫毛の翳の下、深海色の瞳から投げ掛けられる眼差しがただただ綺麗だと、何度見返してもそう感じざるを得ない。
ボトムスこそごく普通の、やや幅広なダークグレージュのスラックスであるものの、白いシャツは首元にギャザーの寄ったストレートなハイネックとロングカフスとで、どこか貴族じみたそのスタイルは、だが恐ろしく似合っていて。
肩から流れ落ち、視界を遮ったらしい艶やかな長い髪を片手で掬い耳に掛ける、優雅で品のある仕草はそれ自体が芸術のようですらあった。
(………)
オスカーの指の動きに従って、文書の最後尾でタブレットがスクロールを止めた。密かに目線を戻す。
「……説明は以上だが、何か不明点は?」
「特にありません。ありがとうございます。」
「そうか。じゃあ、」
契約書の末尾、二者分のサインを記入する箇所があり、一方には既にレーベル側の代表者のサインが記入済みとなっている。タブレットのサイドエッジに吸着していたペンをオスカーが手に取り、そちらへと自然な動きで伸びてくるしなやかな指先を横目でちらりと一瞥すると、オスカーはふいとペンを持った手首を翻し、近付く指先からペンを遠ざけた。
視線をオスカーの方へ動かし、目を見合わせたリュミエールの深海色の瞳が軽く見開かれ、はたりと一度瞬いた。そのまま僅かに首を傾げ、その動きに伴って長い髪が流れる。
「噂は聞いたぜ。『幻のピアニスト』だってな?」
「……私が自分で自称しているわけではありませんが……」
オスカーは自分の見せ方というものを自分でよく承知している。人に嫌悪感を抱かせない、人好きのする、ように見える薄い笑みを浮かべながらそう言えば、リュミエールはペンへと寄せかけた手をゆっくり下ろしつつ、一応は淡い苦笑を作ってみせ、それでも『一体何を』と訝る気配を薄らと漂わせた。
「本当にお前が、その『幻のピアニスト』とやらなのか?」
「………。」
リュミエールは一度ごく軽く眉根を寄せてから、ふと表情を改め、水のような穏やかでありながらどこか清冽な気配を緩やかに纏わせて、僅かに見上げる方向のオスカーへ、目を逸らさず正面から見返す。
(お。)
と、オスカーが内心、小さく感嘆した。
思った以上に強い意識を内に湛え、その瞳の奥で揺蕩う深い色彩から、目が逸らせない。
こと対人関係では一度も下位に屈したことのないオスカーには、それが屈辱のようでもあり、そして初めて覚える歓喜のようでもあった。
「物分かりのいいことで。これが初めてというわけじゃないらしいな。とっておきのアメリカンジョークだったが、笑ってはもらえなさそうだ。」
「ご謙遜なさらず。胸中で密かに貴方と同じように思ったであろう方々は珍しくありませんでしたが、これほどはっきり物怖じもせず直截に私に仰ったのは、貴方が初めてですから。残念ながら、笑ってはさしあげられませんけれども。」
いっそ凄絶と言えるほどの綺麗な微笑みを浮かべながら、少しも躊躇わずにリュミエールが応える。『面白くはないので。』という、あえて省略したはずの言葉すらもが、幻聴のように後を追って聴こえてきそうだった。
「恐縮だ。何分にも俺自身が契約に係わる以上、うっかりと何の保証もないまま黙って通してしまうのは、俺の信条にそぐわなくてな。流石に『幻』なだけあって、 姿形で確認できるわけでもなし。
何よりも、」
そう言ってオスカーは、手に取ったペンを丸テーブルの上に置き、空いた掌を軽く広げ、目を逸らせないままの端麗な佳人のその頰に、微かに触れた。
目尻に掛かる髪を指先で搔き上げ、 顳顬を通って梳き、後頭部へと流す。
「これほどの凄まじい美人だとは、思っていなかったからな。」
顕になった表情へ、返す手をそのまま、人差し指だけをリュミエールの細い顎下にそっと添えた。
微笑をゆっくり消したリュミエールが、すぅ、と、僅かに目を細める。
「……顔で判断されたくない、などと、子供のような我儘を言うつもりはありませんが。面と向かって容姿のことを言われるのは、正直言ってあまり好きではありません。貴方のような方が面白がるというのなら、尚のこと。」
「驚いたんだよ。純粋に。褒めているつもりだ、これでも。『幻のピアニスト』殿。」
「…………」
そんな気は微塵もなかったのに、思わず手を伸ばし、触れてしまった程度には。
黙って目線を合わせたままだった二人の、ふとオスカーの指先が離れたのと、リュミエールが視線を逸らして目を伏せふるりと緩く首を振ったのとは、ほぼ同時だった。
「……でしたら、貴方の衷心からの信任を頂戴できるよう、一曲捧げればよろしいですか?」
ソファから徐に立ち上がり、オスカーに背を向けてピアノへと向かいながら、ふと振り返って問う仄かな微笑みに、
「是非ともに。」
オスカーは心底楽しげな笑いを返した。立ち上がってやはりピアノの方へと歩み寄る。
開けたままにしていたピアノの蓋の縁に指を滑らせ、ベンチ型の椅子に腰掛けたリュミエールが、手慣れた様子で鍵盤の上に片手を添えながら軽く座り直してピアノとの位置感を微調整した。静かにハンカチを手に取ってするりと両掌を一撫ですると、再びピアノの高音部のフレームの上へと手を伸ばして置く。
「リクエストなどありましたら、何なりと。」
「そうだな、 童謡とかか?」
ピアノの高音部の側へ回り込んだオスカーが、行儀悪く側板の縁に軽く肘を付きながら、僅かに上体を倒してリュミエールの表情を伺いつつ答えた。
「………」
伏せたままだった視線を上げてオスカーを見返したリュミエールの、その顔色に一切の動揺がないのを、オスカーはもはや流石だ、と思うようになっていた。『そのまま天板に挟まれろ』など万一にもリュミエールが考えているのなら、なお楽しいのだが。
戯れのようにそう思っていたら、ふとリュミエールがその表情を鮮やかな微笑みに切り替えた。
「では、きっと貴方方には子守唄に等しく魂に刻み込まれているであろう、この曲を。」
しなやかな両手を緩やかに宙へ浮かせながら、深海色の眼差しをオスカーへ直と合わせたリュミエールの、その瞳の深淵から心の奥底を覗き込まれた気がした。
「貴方のために。」
直後、軽快でありながら百の管楽にも等しい重厚な音の奔流の中へ叩き込まれ、オスカーの背筋が一気に鳥肌立った。
合衆国にいれば当たり前のように幾度も繰り返し耳に慣れ親しんだはずの2分の2拍子の旋律が、 未だ嘗て覚えのない圧倒的な存在感を伴ってオスカーの脳髄を捉え通り過ぎてゆく、それを生み出しているのが目前のいかにも細く流麗な指で、優美に翻る手首で、少しも力みのないすらりとした腕なのだと、理解が後から追い付いてくる。
(『星条旗よ永遠なれ』。)
それも多分、ホロヴィッツ編曲版の。
あらゆる吹奏楽器、あらゆる打楽器が一斉に、幾重にも鳴り響かせる輝かしい煌きを、一台のピアノ、一人のピアニストに凝縮するため、稀代の天才が飽くなきまでにその腕を奮った。ピアニストの腕は2本しかないというのに、録音から復元された楽譜は多くの部分が三段譜で成っており、低音域の多重奏、高音域の対旋律、そして中音域の主旋律を奏でるため、右手も左手も絶え間なく幾オクターブ以上を飛び越えて行き来し続ける。
(いや、)
超絶技巧曲とは知っている。そして職業ピアニストであれば、弾きこなすピアニストは稀ではないということも。だが比較的緩やかな中間部の旋律の、時に囁くような一音一音すらもが、その輪郭を彩り、これほどまで際立って部屋中に遍く響き渡るのを、かつて聴いたことがあっただろうか。
白昼夢でも見ているのだろうか、と思いかけて、鍵盤の上で舞い続ける手からふと目線を上げ、
「…………」
瞬間、オスカーはぞっと悪寒すらを覚えた。
リュミエールが、ずっとこちらを見続けている。その深海色の瞳で。
鍵盤と鍵盤の間の遥かな距離を、息も吐かせず飛び続ける己の手元など、一瞥もせずに。ただひたすら、オスカーへと。
視線が合い、そうしてリュミエールは、心の底から嬉しそうにふわりと凄烈な笑みを浮かべ、それから一瞬のちらりと悪戯げな瞳を覗かせると、終盤の華麗極まる高音域のオブリガートの、その一楽節を左手で弾き鳴らした。
何重もの和音が終曲を燦然と輝かせ、そして鍵盤は緩やかに動きを止め、残響は刹那で、そして永遠であった。
リュミエールの目線は、深い青の揺らめきを湛え、真っ直ぐとオスカーから離れないまま。
「……余所見はいいのか? 『幻』殿。」
オスカーの抑揚のない言葉に、リュミエールはふ、と柔らかに笑って、ようやくゆるりと目線を下げた。落ち掛かる長い髪を、緩やかな動きで耳へと掛ける。
「余所見、など。逆でしょう。」
伏せた目で瞬きをする、 漸うと傾き始めた陽に睫毛が瞳へ翳を落とした。
「念のため申し上げておきますが、私はこれでも、曲の全ての一音たりともを疎かにしたつもりはありません。…私の演奏が、音を損なったように聴こえましたか?」
「…いや。」
リュミエールは椅子から立ち上がりながら、再びオスカーへと真っ直ぐに視線を向けた。
その静かな表情は、オスカーの目前のようで、手の届かない遥かな遠くのようで。
「鍵盤など、見ずとも弾けます。それよりも。
何のために弾くのか。
それは偏に、その一音一音を受け取るべき方へと、 過たずに届けること。それこそが。」
そこまで言うと、リュミエールはオスカーと視線を合わせたまま、ゆっくりと微笑った。慈雨のように。
「私の音は、貴方へと届きましたか? オスカー。」
そうしてオスカーは、強い眩暈を自覚した。
「……ああ。」
息をも吐かせぬ数瞬の間があり、オスカーは短く小さく息を吸うと、ゆっくり深く吐き出した。
それから疎らだが力強い拍手を、短く贈る。
「素晴らしかった。」
そこまでを聞き届けると、リュミエールはふいと視線を逸らし、
「……では、契約の続きをお願いいたします。」
それだけを言って、ソファの方へと歩き始めた。『興味がなくなった』と言わんばかりのあからさまな態度を、隠しもせずに。
(まあ、)
仕方ないか、とオスカーは思った。いくら弁護士といえども結局はただの仲介人に過ぎない己の、立場を承知していながらあえて失礼極まる態度を最初に取ったのはこちらだ。
共にソファへと歩み寄り、丸テーブルの前へ再び並んで座ると、オスカーは黙ってリュミエールへペンを差し出し、同じく黙ってペンを受け取ったリュミエールが、無言のまま、凪いだ水面のような穏やかな筆致のサインをタブレットへ記入した。
「そういえば」
これで最後になるかもしれず、当初から疑問に思っていたことをオスカーは口に出した。リュミエールは顔を上げ、静かな表情で緩く首を傾け、一応はといった様子で言葉の続きを待つ。
「今日から数えて、リハーサルが明々後日、本番がその翌日だろう? 普通ソリストは本番前日のリハーサルから現地入りするはずだが、どうしてこんなに早く来米したんだ?」
「ニューヨークの方で、是非にと前々から要望を頂いていた児童福祉施設がありましたから。渡米はあまり機会がありませんし、この際にと調整した結果です。明日はそちらでボランティアで演奏してきます。」
開いた口が塞がらなかった。文字通り。
「聞いてない。」
「言ってませんから。」
リュミエールが不思議そうにオスカーの様子を訝り、傾けた首の角度を少しだけ深くする。
(いや、)
なぜそんな、不思議そうな顔をしているのかと。全くもって不可解なのはむしろこちらの方だ、オスカーはそう思った。
その存在を自らは明らかにしようとせず、世界最高峰のコンサートホールの主催公演にすら八方手を尽くして迎えられておきながら、それと一介に過ぎないであろう福祉施設でのボランティアとを同列に据える。これが不可解でなくして何だというのか。
その超絶技巧の演奏で、理解したと感じたはずの相手は、あっという間にまた幻のように、この手をすり抜けようと、
「オスカー?」
その稀有な、深海色の瞳が数度、瞬き、柔らかな声音がオスカーへと向けられる。
目を見合わせ、改めて、その存在へ。オスカーは深く、意識を向けた。
これで終わりとするには、あまりにも――。
「……じゃあ、明後日は一日、予定がないのか。」
不意に視線を宙へ向けて、オスカーが呟く。
「? そうですね、日程の都合で一日フリーです。とはいえ、ここのスタジオを引き続きお借りしていますし、予定がないと言ってもとりあえず練習するだけですけれども。」
「練習とはいえ、プログラム以外の曲も弾くんだろう。」
「それはそうですね。 練習曲や、たまには気晴らしに、別の曲も。」
すい、と、オスカーがリュミエールへ視線を戻した。
「気晴らしに。できれば一曲、この機会に相手願えないかな。」
はたりと一度瞬いたリュミエールが、軽く目を見開く。
「何か楽器を?」
「ヴァイオリンを、きちんと学んだのは3歳から高校卒業まで。演奏家の道は選ばなかったが、そこそこに研鑽はしたつもりだ。」
「そうですか。」
心なしか、リュミエールの声が少し和らいだようだった。
「わかりました。何かご希望の曲などはありますか?」
「そうだな……」
今度ばかりは真面目に考える、ような素振りを見せた。
とはいえ、さして悩まずに心に決める。
「Franck, Sonata Pour Piano et Violon en La majeur. Le Seconde Mouvement.」
「………」
オスカーのフランス語による曲名を聞いたリュミエールが、表情を変えないまま、ゆるりと水のような柔らかな気配を纏わせた気がした。
「できるか?」
そう言ってリュミエールを見遣るオスカーに、リュミエールは緩やかな苦笑を返す。
「『最もフランス的』と称される奏鳴曲を、フランス系ピアニストが弾けないなんて言ったら叱られます。もちろん大丈夫です。」
「楽譜は」
「なくてよいです。暗譜しています。」
「そうか。じゃあ」
「はい」
タブレットを手に取ってソファから立ち上がり、オスカーは帰り支度を始めた。さほど時間も掛からず荷物を纏め終え、扉へと向かい始めれば、またもや律儀にリュミエールが見送りのためにと付いてくる気配がする。
相変わらずの分厚く重い扉を開き、背で扉を押さえながら振り返れば、すぐ近くにリュミエールの立ち姿がある。
何かを言おうとし、オスカーは部屋を開けての第一声の時と同じように言葉に詰まった、その間隙を縫うようにして。
「……楽しみにしています。」
どこか戸惑ったように、それでも何かに導かれたように、そう言葉を紡ぐリュミエールへ、
「……俺もだ。またな。」
応えて、扉を閉じた。
部屋を後に廊下を歩き始めて、ふとオスカーは片手で前髪を搔き上げ、長い溜息を吐く。
もう少し格好付けた言葉を何故咄嗟に返せなかったのかと、盛大に後悔しながら。