■ Sonare(1)-2

 そういえば時間の約束をしていなかったと後から気付いて、けれどおそらく契約の日の時と同じ、昼過ぎの深め頃の時間帯かとリュミエールは当たりを付けた。何らの根拠もないはずだったが、誤ってはいないだろうという不思議な確証があった。何故だか。

 残響が完全に消えてから、リュミエールは両手を鍵盤から離して解放し、軽く息をいて、意識を曲の奥深くから現実の室内に戻した。あの日から中一日しか経っていないのに、窓の外に映る高い青空とビルの谷間の空気の景色はより一層秋の気配を深めたように見えて、傾き始めた日も心なしか幾分早く翳りを帯び始めているように思える。

 疲れは感じない。昨日の施設での演奏も、幾つもリクエストを受けながら弾いてみせれば子供たちにも職員にもとても喜んでもらえたようで。もっともっととねだられては弾いたり、教えたり、連弾のようなことをしてみたり。移動と休息に支障のない程度の時間に気遣われて歓送されたリュミエールは、夜になる前にマンハッタンのホテルへ戻り、充分にやすんでから、今日は再度このスタジオでずっと朝から独りで弾き続けていた。少し前までは何かと忙しく、満足にピアノに触ることもままならない日も珍しくなかったから、こうやって休憩も必要と感じずに思う存分ピアノと対話し続けられる現在の環境は極めて贅沢だと思える。

 意識をほどいて視線を宙へと泳がせたリュミエールの、空いた手はこの後で重奏する予定になっている楽章のmolto dolce部分を自然と弾き始め、緩やかな分散和音の3連符が調を揺れ動きながら上昇と下降を繰り返した。そこに重なり、異なる楽器で演奏されるべき音符は全て理解していたが、今日これからそれを奏でるはずの人の、その音色を未だ知らない。

 不思議な人だな、と思う。

 父の仲介で過去一度だけ直接に顔を合わせていたカティスも、飛び抜けて人好きがして頼り甲斐のあるていの好人物だったが、そのカティスのアソシエイトだという、今回初めて係わることになったあの人は、ロサンゼルスといってもいっそハリウッドから来たと言われた方がよほどリュミエールには納得できる気がした。端正で男らしい顔立ちもだが、それよりもむしろ、その圧倒的な存在感が。

 燃え立つような緋色の髪、目を逸らし難い氷青色アイスブルーの瞳、よく通る低い声と快い抑揚のある話し方。そしてあの、決して嫌味ではなくそれがごく自然なことであるかのように自信に溢れた態度。それらが一体となって、余すところなくその存在感を他者へと植え付ける。自分などよりよほど表現者パフォーマーに向いているのではないかとさえ思った。本人は当然そんなことなど望んではいないのだろうけれど。

 一昨日の件についても、言い方や遣り方はともかくとして、契約に責任を持つ弁護士として通すべきところを通そうとしただけに過ぎない。それが理解できたからこそリュミエールも応じ、きちんと認めてもらえるだけの返戻へんれいはしたはずだったし、実際に実演後はそれなりの納得が寄越された感触も間違いなくあった。

 彼もカティスと同じく、本来の専門は企業を相手とした事業買収・売却、特許その他の知的財産権の取扱い、訴訟案件や仲裁案件といった企業法務だというし、当初の彼から垣間見えた態度を鑑みても、今回のようなたかだか1アーティストの、些細でかつ専門外の案件など、ただひたすら単純にこちらへ前乗りできなくなったカティスの単なる代理として渋々来ただけなのであろうことは容易に想像が付いた。本番当日の演奏会を聴きに来るどころか、契約が済み次第ロサンゼルスにとんぼ返りすらしても何ら可笑しくはないだろうと思った。それが。

『Sonata Pour Piano et Violon en La majeur.』

 意識を普段とは切り替えて英語へと向けている時に、急にフランス語の発音を聴くとどきりとする。

 別れ際、扉を開けてから振り返った、どこか一瞬戸惑ったようなその様子は、自分だけでなく相手もで。そんな表情をすることがあるような人だとはとても思えないのに。不意を突かれ、思わず口にしていた。『楽しみにしています。』と。

 そうして扉が閉まる直前、最後に彼が見せた笑顔は、初めに挑まれた時のように再び自信に溢れながらも、気の所為か、ほんの少しだけ柔らかく。あれは、いわばこちらを認めてくれたが故の信頼のようなもの、なのだろうか。

 であれば、この身に降りたその信頼を、僅かたりとも損なうわけにはいかない。

 徒然つれづれすさびを止め、軽く座り直して改めてピアノにしっかりと向き合い直ると、今日幾度目かの楽章を再び頭からさらい始めた。

 

 来訪の時間は概ね予想通りで、曲を一通り最後まで通した後、さほど間をかずに木製のドアをノックする音が室内へと響く。リュミエールが椅子から立ち上がってそちらへ向かい始めたのと同時に、扉が静かに開かれて廊下側のその姿が薄く室内を伺った。

「いいか?」

 リュミエールは一瞬足を止め、少しだけ微笑って、再びそちらへと歩み寄りながら

「どうぞ。」

と返事をした。重い扉は長身の腕によって苦もなく大きく開かれ、使い込まれたヴァイオリンケースを手にオスカーが室内へと入ってくる。

 ノックの後の在室者の返事を待たずしての開扉は、礼を失するつもりでしたわけではなく、重量のある扉を本番近くのピアニストの手が開かなくていいようにと気遣われたのではないかと。リュミエールは何となくだがそう察した。思えば一昨日の、入室時や退室の時の振舞いからして、既に。

 オスカーの出で立ちは一昨日のスーツと違って、白いカットソーに軽く袖を折ったジャケットとスラックス。ブリーフケースも今日は持っておらず、ヴァイオリンケースの他にはごく薄いサブバッグを肩に掛けているだけだった。

「ロサンゼルスから?」

 外壁側の窓際へと向かうオスカーと並んで歩きながら、その手にあるヴァイオリンケースにさらりと目を遣ったリュミエールが、隣のオスカーの顔に目線を上げつつ訊ねた。慣れた様子で大きな手にしっくりとその持ち手を握った、多くの小疵が多少の色褪せとともにすっかり馴染み切ったケースは、どう見てもこちらでの急遽の借り物という雰囲気ではなかった。

「もしやと思って、あちらを発つ時から念のため持ってきておいた。まさか本当に使うことになるとは、全くもって露ほども思っていなかったが。何が起こるかわからないな。」

 オスカーは愉快そうにリュミエールへ笑い返しながら、壁沿いのソファの背のさらに外壁側、出窓の張出し構造部にヴァイオリンケースを置いた。サブバッグはソファへ、続けてジャケットも脱ぎ、簡単に畳んで同じくソファへ。ただ単に開くのにも意外とそれなりの空間を必要とするため、弦楽器のケースを置く場所に困るのは割とよくあることだった。それから一度ドアの方に向かって戻り、部屋の隅に置かれていた譜面台を一台手に取ってくると、ピアノの右手側の高音域に程近い位置へとセットする。

「暗譜は当時もしていたが、流石に譜面の詳細は忘れてしまっていたから、楽譜だけは昨日こっちで買い直したがな。」

 そう言うと、窓際に戻ってヴァイオリンケースを開いたオスカーは、楽器を取り出して肩当てのセッティングを始めた。経験的に最も楽器の響きを妨げない位置へと丁寧に調整する。そのまま顎下に挟み楽器を構えて感触を確かめると、弓を取り出して張り具合を調整しながら、サブバッグに入っていた楽譜を抜き出して手に持ち、ピアノの脇の譜面台へと歩いていった。リュミエールも後を追うようにしてピアノへ向かい、椅子に掛け、目線をオスカーへと遣る。オスカーは譜面台に楽譜を置きはしたものの、そのまま表紙をる様子はなく、既に見直しは終えてあるのだろうなとリュミエールは思った。

 短いパッセージを一奏して弓の調子を確認し、すいとオスカーがリュミエールを見て、意味を理解できたリュミエールが中央Aの鍵盤を弾く。ピアノの音に重なってヴァイオリンのA線のチューニングの音が静かに鳴り始め、オスカーが僅かにペグを回すと、ぴたりとピアノとヴァイオリンの開放弦の音とが合い、共鳴時に特有の豊かな音が室内に鳴り響いた。一息入れて、オスカーが四弦のチューニングを始める。

 隣り合う弦同士が完全五度で調弦されていく弦楽器ならではの響きを、リュミエールはオスカーに目を遣ったまま黙って聴いていた。チューニング程度の音量でも、かなり本格的に習っていたのだろうとわかる弓遣いの、ヴァイオリンの躯体を隅々まで鳴らし切る響きには艶を帯びた張りがあり、とても綺麗だと思った。途中でもう一度オスカーから視線を寄越され、リュミエールはD-F-Aの和音で返す。

「一応G3も貰っておいていいか。」

 足元を見て軽く立ち位置を直していたオスカーが、顔を上げ、楽器を構えながらリュミエールの方を向いて言った。ヴァイオリンは五度調弦を基本とするピタゴラス音律、ピアノはオクターブを基本とし全移調に対応するための平均律で調律されており、基準のAから離れた音は互いに音程のずれが広がっていく傾向にある。そのずれを軽減するためのオスカーの発言であり、ヴァイオリンだけで調弦したG線の高さをピアノに合わせて微修正する、という。

「そこまで丁寧に合わせていただかなくても。ある程度はこちらで対応しますから。」

 当初の印象ではもっと我道わがみちを通す演奏をする人かと思っていたのに、意外にも随分と精緻せいちなことだ、と、リュミエールは僅かに苦笑して、一応はと求められた音を弾いて返しながら返事をした。濁りやすい重なりの音はピアノ側で音量を抜くなど、 ようはいくらでもある。それよりも。

「それよりも、貴方本来の響きが聴きたいです。」

 オスカーを真っ直ぐ見返しながらリュミエールが告げると、ピアノから寄越された音に合わせてG線を弾きながら調整していたオスカーがぴくりと動きを止め、その態勢のまま、氷青色の視線だけをリュミエールの方へ流し遣り、

「…そうか。」

と短く応えた。

 それからほんの少しだけ、オスカーは確認で音を重ねると、ネックを持って一度ヴァイオリンから顎を離し、軽く首を振ってから、再び楽器を肩と顎とで支え直す。

 ヴァイオリンの演奏は14小節目からで、それまではピアノの独奏があるのみだった。弓を心持ち下げて構えたオスカーが、笑みの消えた目線をリュミエールへと遣る。仄かに天を向く弓先は剣の切っ先のようで、その姿は女王を護る騎士をどこか彷彿とさせて。

 リュミエールはピアノへ向き、一度目を閉じ、軽く息を吸うと、開いた目を伏せて静かに演奏を始めた。細かな螺旋を繰り返し描く短調の和音の重なりの中から、波濤のように主題の情熱的なメロディが湧き上がってくる。後を追って、ヴァイオリンが同じ主題を低く鋭く奏でるのだと知っていた。

「…………」

 知っていた、なのにオスカーが僅かな息継ぎブレスの後で奏で始めたそれを聴いた瞬間、リュミエールの首筋が炎を吹き込まれたように熱くなる。

 その音の立ち上がりは、リュミエールが想像していたよりもほんの一瞬だけ早い。差し出した手を予想より一瞬だけ早く受け取り、その一瞬で引き返しようのないほどの遠く果てまでへ、この身を攫い去るかのように。

 目線をオスカーへと遣れば、同時にオスカーがリュミエールを見返した。ヴァイオリンの弦の伸びやかでありながら次々と移ろいゆくAllegroのパッセージは、変わらずほんの一瞬の早い出だしで相手をいざないながら、だが決してテンポを崩さずに、ピアノの響きから一音たりと逸れることなく。

 ふとした瞬間の長調の甘い語らいのメロディは、すぐに新たな短調の情熱の中へと掻き消される。 ppピアニシモから始まる高音E線の囁きも、少しもぶれることなく正確に刻まれる3連4分音符も、とても美しくて。

 かなりの研鑽を積んだのだろうとわかるオスカーの演奏技術だったが、とりわけてテンポが正確で、メロディに引き摺られるような無駄な間延びが一切ないのと、音程が極めて安定しており、ヴァイオリンらしい絢爛な音と時にピアノに寄り添う美しいハーモニーとを奏で分けるのが際立っていた。指導者に長年よほど厳しく指導されたのだろうと見て取れるのに、ほんの少しだけ想定を超えて踏み込んでくる重奏の音色は、 ようのない色艶を湛えて。

 音の遣り取りによる語らいは、体の芯へ直接訴え掛け、とても本能的でわかりやすい。リュミエールはオスカーを見た。オスカーはリュミエールを視線で捉え、絶え間なく音色とその氷青色の視線と、意識してなのか無意識になのか、僅かな唇の動きとでリュミエールの音色を煽る。 “passionato”情熱的に“dolce”甘美に“dolcissimo”極めて甘美に

 リタルダンド少しずつ緩やかにを挟んでピアノが3連符を紡ぎ始めれば、その細波の上をヴァイオリンが時に甘く、時に誘い、時に憂うように寄り添う。ピアノの両手での重厚な和音の問い掛けには、緩やかにヴァイオリンから応えが返り、再び緊張感を孕んだ主題が顕れてきた後には、時にトリルで互いを追い。

 ヴァイオリンの低い囁きはやがて秘めたトレモロの情熱を顕にしてゆき、応えるピアノは次第に高音へと共に駆り立てられ、長調へと転調して、歓喜と祝福の和音とともに曲は幕を閉じた。

 

 余韻が部屋から消え、オスカーは下げ弓ダウンボウで弾き切って構えたままだった弓を持つ腕を下ろした。

 楽器越しの視線の向こう、同じく鍵盤から指を離し、膝上に両手を戻して、終曲からそのまま、こちらを見続けるリュミエールがいる。

「…感想を頂いてもいいかな、『幻のピアニスト』殿?」

 オスカーが楽器から顎を離して左手に下ろし、笑って戯れるようにそう言えば、対照的に表情を消した切りのリュミエールが、僅かに唇を開き、躊躇って、そして再び唇を閉じると、ゆるりと柔らかい微笑みを見せた。

「とても魅力的でした。とても。」

「光栄だ。『幻』殿から頂くには過分な評価という気もするが。」

「とんでもありません。……初めてでした。こんな合奏アンサンブルは。」

 賛辞の後、少しの躊躇いを挟んでからそう続けるリュミエールに、『こんな』とはどんな、とオスカーが問うより前、リュミエールが心の底から嬉しそうに微笑ってオスカーへと問い掛ける。

「わざわざ練習してきてくださったのですか?」

 オスカーは苦笑した。流石にばれる。

「それなりに。」

 実際は、それなりに、どころではなく、一昨日の申し出のその日の夜には楽譜を調達し、仕事上は昨日今日分と最低限の義務デューティのみを超特急でこなすと、残りの時間全てを使い果たして昨日の朝から今日の昼まで1日半、ひたすら猛練習してきたのだった。昨日にはこちらで習っていた頃のクイーンズ区の師匠に、急遽連絡を取って指導をすら頼み。

『すっかりなまくらになりやがって』などと散々罵られ、当時から相変わらずの鬼のような指導を再び受けつつも、なんだかんだと急な指導依頼に朝から晩まで付き合ってくれ。その日の夜には『やっぱりお前の才能は勿体なかった』と言われたから、師匠が許容する合格ラインには何とか達したのだろうと思う。

『何だ、また口説き落としたい相手が出てきたのか。』

『そういうのじゃありません。俺はいつだって真剣に真面目にやっています。』

『今度俺にも紹介しろよ。』

『勘弁してください。』

 オスカーがこの曲を、仮にもプロピアニストと対等に重奏できるほど熟達していたのには訳がある。

 高校の最終学年、UCLAに進学することが決まり、この教室を離れることになるとわかっていた最後の発表会前の選曲の際、教室付きのピアノの伴奏者アカンパニストに、 親しく・・・なりたいフランス系アメリカ人の女性がいたのだった。意図は当たり、UCLAに行くまでの期間限定とわかっていたにも拘らず、随分といい目・・・を見させてもらった。

 急遽重奏する予定になったようだと伺われる相手の正体に興味津々の師匠には、相手が『幻のピアニスト』であると絶対に悟られる訳にはいかなかった。カーネギーホールの公演一覧に『Lumière』の名が掲載された時から既に、音楽関係者でなくともニューヨーク市民の中では相当の話題になっている。まず間違いなく会わせろ俺にもアンサンブルさせろと強引に押し切られるだろうことは目に見えていたし、そんな場でくだんの楽曲に関するオスカーのエピソードを開陳されでもしたら目も当てられない。リュミエールには絶対にこの話を聞かせる訳にはいかなかった。そう考えることの真っ当な理由など、何一つ存在しないはずではあったが。

「もし良かったら、他の曲も少しお願いできませんか?」

 どこか浮き立つように軽やかに微笑み、オスカーには意外すぎる申し出をしてきたリュミエールは、おそらくそんなオスカーの内心を欠片ほども知りはしない。驚きと焦りと苦笑とが同時にオスカーの中で沸き起こる。

「難しいな。プロレベルと何とか渡り合える程度にまで取り組んだことがあるのはこれだけだ。」

「そこを何とか、是非。職業音楽家としての音色が欲しいわけではないですから。他の楽章などはどうですか。」

 椅子から立ち上がって近付いてきたリュミエールが、オスカーのすぐ脇から譜面台の楽譜を覗き込んで繰り始め、その髪がオスカーの頰を僅かに掠めて、ぞくりとオスカーの背中が粟立った。オスカーの側も先程の演奏で散々身体の芯から煽られている。夢の中のように自分を捉えて離さない深海色の瞳に、甘く訴え掛けてくるピアノの囁きに、奔流のような情熱の音色に。反射的にその身体を抱き寄せて深々とキスしそうになる本能を脳内の理性で引き剥がす。違う、女性じゃない、といちいち我に返って確認しないと、あっさり理性を放棄しかねない衝動がある。

「そうだな。第4楽章なら、辛うじて。」

 内心の動揺を捻じ伏せながら冷静を装って答えれば、リュミエールはオスカーを見上げて子供のように嬉しそうに笑い、ゆったりと身体を翻して、オスカーの肩口へその匂いを微かに残しつつ、ピアノの方へと戻っていった。

 

「こんな遅い時間まで引き留めてしまって。すみませんでした。」

「こちらこそ。満足いただけたのなら光栄だが。」

「それはもう。ありがとうございました。」

 陽はすっかり暮れ落ちて、あちこちに大型スクリーンの灯ったマンハッタンの、途切れることのない夜景の中を二人で歩いている。

「寒くないか?」

 オスカーは今日着用してきたジャケットを着ているが、リュミエールの上衣は薄手のシャツのみだった。

「夜は思ったより冷えますね。気が付いたらもう、夏の終わりで。明日からは気を付けて、何か持ち歩くようにします。」

「そうしてくれ。帰るまでジャケットこれを貸そうか?」

 リュミエールは隣のオスカーの顔を見上げ、小さく声を立てて笑った。

「じきにホテルに着くので大丈夫です。ありがとうございます。」

「そうか。」

 オスカーはリュミエールへ笑い返し、しばらく二人とも無言で歩いた。

「貴方はさぞかし、眩いばかりの綺羅やかな恋愛を、数え切れないくらい幾つも繰り返してきたのでしょうね。」

 唐突にもたらされたリュミエールの発言に、オスカーは絶句してリュミエールを見遣った。リュミエールがオスカーを見上げ、深海色の揺らめく視線を合わせてくる。

「すみません、急に立ち入ったことを。」

「……いや。」

 無表情のオスカーが何と返事すべきか判断しかねているうちに、リュミエールが少し首を傾げて目を合わせたまま、ゆっくりと歩みを進めつつ、自らの言葉を継いだ。

「もちろん技術的には、プロのソリストに及ばないところもあると思いますけれど。貴方の演奏と音色とは、それを覆って余りあるほどに、魅力的で蠱惑的な色艶に溢れていて。きっとそうなのだろうなと。」

 肯定するのも否定するのも何故かオスカーには躊躇われて、視線だけでリュミエールの言葉の続きを待つ。

「貴方の音色に誘われて、問い掛けられて、導かれて。今日一日だけで、とてもたくさんのことを学びました。思考でなく、感覚で。」

 そう言うと、リュミエールは少しだけ悪戯げな表情をその顔に浮かべた。

「何人かの方に演奏の指導をして頂いていて、もちろん日々絶えず精励していますし、純粋な賛辞を頂くこともありますけれど。特に年齢を重ねた、比較的高齢の指導者には、口を揃えたようによく言われるんです。『恋をしたことがないね。』って。」

 どこか憂うようにリュミエールが首を傾ければ、動きに合わせて髪が流れ、目際を覆い隠す。

「見透かされていますね。……今まで、一度もそんな気持ちになれたことがなくて。

 パリなら、街中でもキスする人たちの方が普通なのに。これまでキスひとつすらしたことがないなんて、とてもじゃないですけど言えなくて。」

 リタルダンドのように、二人の歩みが止まり。

 だから、と、オスカーを見詰めたまま、リュミエールが言葉を紡ぐ。

「今日、貴方を知って。

 貴方のような人に、導かれてみたい。貴方に導かれて、高みへと至ってみたい。と。

 そう、思ったんです。」

 オスカーの脳髄は痺れ切って、 じろぎすらできずに。

「もし、望んだら。また、導いてくれますか?」

 ……密かに、オスカーは息をいて。

 リュミエールへと手を伸ばし、目際の髪を掻き上げ、 顳顬こめかみを梳いて、後頭部へ流し。

「…お前が望むなら、いつでも。」

 その頰に指を添え、柔らかく笑ってみせた。

 目を細め、頰に触れるオスカーの片手に両手を重ね、顔を綻ばせてリュミエールが微笑う、オスカーの目の前のそこには、無限と永遠とこの世界の全てとが、確かに存在していて。

 そうしてリュミエールの手が離れ、オスカーの指も離れた。

「ありがとうございます。嬉しいです。…本番には来てくれますか?」

「もちろん。関係者席を貰っている。」

「レコーディングでも演奏会でも、聴いてくれる全ての人に音を届けたい、と、いつも思っているんですけれど、」

 一息空けて、言葉が続く。

「今度の演奏会は、誰よりも、貴方に。音を届けたいです。」

 ありがとうございました、おやすみなさい、と。目の前まで辿り着いていた、ホテルのロビーの中へと姿が消えていく。

 長くその姿を見送った。背後のマンハッタンの喧騒は、まだ止まない。

(眩いばかりの綺羅やかな恋愛を、数え切れないくらい幾つも)

 肯定か否定かといえば、考えるまでもなく肯定だった。

 だが、本当の恋をしたことがあるのかと問われれば。

「…………」

 ジャケットの左襟を掴み、握り締めた。胸が痛い。

 それから長く溜息をき、緩く頭を振って、冷えたマンハッタンの夜の空気の中へ感情を振り落とした。

 クライアントだった。それも同性の。望まれたのは音色であって、存在ではない。

(また、導いてくれますか?)

 無理だろうな、と思った。

 今日と同じ誘いをされたら、欲望の暴走するまま、その存在を芯から徹底的にぐちゃぐちゃにしてしまいそうな自信が確かにあった。

 

 朝から夜まで演奏し続け、身体は快い疲労感で満たされているのに、意識はなかなか夜半よわの夢の中へと落ちようとはしなかった。明日はリハーサル、明後日は本番なのだから、眠らないといけないのに。

 リュミエールは薄く瞬き、肌触りの良い羽根枕のシーツにうつぶせた頰をり付ける。

 何度かうとうとと無意識の世界へ潜りかけて、その度に脳裏に湧き上がり意識を呼び覚ますのは、目に焼け付くような緋色の髪、氷青色の視線。ほんの一瞬早い立ち上がりの、誘い攫う深く低い音色。甘く語らうE線の囁き。

 “passionato”情熱的に

 唇の動きを目にしただけで、その発語を直接聞いたわけではないのに、あの低い声で再生される言葉。

「…………」

 なるほどこういうものなのか、と、今日初めて腑に落ちた気がした。 年嵩としかさの指導者たちからこれまでに、重ねて聞いていたこと。

(眩いばかりの綺羅やかな恋愛を、数え切れないくらい幾つも繰り返して)

きた人の音色というのは。

 その音色に誘われて、煽られて、導かれて、聴いたことのない音を自分の指が綴って応える。初めて得たその感覚を手放すのが惜しくて、他の曲もと我儘を言った。あの第2楽章の他はほとんど浚っていなかっただろうに、苦笑しながら付き合ってくれた。優しい人だ。もちろん参考になったところは第2楽章に劣らず多々あった。

 自分は一応プロのピアニスト、彼は非プロとはいえ、そういう方面に関しては彼の方に一日いちじつどころではない長がある。

(それがまた)

 音色だけではなく、現実世界での行動でもエスコートに手を抜かないのだから。枕に顔を伏せたまま、自然と唇が緩む。

 本番前の身体を気遣ってくれているとはいえ、女性ではないというのに、ドアの開け締めひとつ、体調への顧慮ひとつからして。あまりにそう振る舞うことに慣れすぎているのだろうか、その態度は至って自然で。

 つい気が緩み、あれこれと甘えてしまい、自分のことについても何かと話しすぎてしまったような気がする。こればかりは無理したところで如何どうようもないことだからと、普段は考えないようにしていたが、実は密かに気に病んでいたのかもしれない。気を許した人に、ついいろいろ話してしまった程度には。

『一度もそんな気持ちになれたことがなくて。』

 彼は黙って聞いてくれていたが、内心ではさぞかし呆れたことだろう。彼のような人にとっては、恋をすることこそが自然で当たり前のことなのだろうから。

『キスひとつすらしたことがないなんて、言えなくて。』

 あ、と思って、枕から顔を上げた。言ってる。

 軽い羞恥で頰が熱くなる。

 流石にそれは話しすぎだろうと。すみません、と再び枕に顔を埋めながら、暗闇の中で呟いた。余計な話を彼に押し付けてしまった。

 あまりに気にすると本当に寝れなくなる。努めて眠ろうとして、もう一度胸の中でオスカーに侘びてから、意識を発散させ、しばらくあってからようやくとろとろと再び微睡まどろむ。

(貴方のような人に、導かれてみたいと。)

 …告げたそれは、紛れもない自分の本音で。

『お前が望むなら、いつでも。』

 夢現の意識の中、自分の髪を梳いて、頰に手を添えたオスカーは。

 自分に顔を寄せ、優しいキスをくれて。

「…………。」

 馥郁ふくいくとした心地良い微睡みを幾分か引き摺った後、リュミエールはベッドの上で俯せの状態から飛び起きた。

 今になって初めて気付いた。話の流れからして、自分の言葉がそういう意味で捉えられかねないことを。

違いますNon,そういうつもりじゃなかったんですce n'est pas ce que je voulais dire.ごめんなさいJe suis désolé.。」

 身体の芯から沸き起こる羞恥で全身を熱くしながら、目を閉じ虚空に向かって人差し指を左右に打ち消し振る。自分が伝えたかったのはあくまでも音楽的なことで、これからもその音色と合奏アンサンブルする機会が欲しいと、そういうことを言いたかったのであって。

 大丈夫、彼はきっとわかってくれている。そうでなければ、

『お前が望むなら、いつでも。』

 あれほど平静に、そんな返事をしたりしていない。

 柔らかい笑み。彼は最後まで優しかった。

 なら自分が、自分の意識の中へ投影したものは。

「…………」

 本当にそんなつもりではなかったのだが、もはや彼の尊厳を密かに汚したも同然だった。自己嫌悪に陥りながら深く溜息をいて、ゆっくりと再び身を横たえ枕へ俯せる。

 到底眠れそうにない気がする、と考えて、そこでまた浮かぶのは脳裏の彼の仮の声で。

『気にするな。体に障る、早く寝ろ。』

 きっと彼なら本当にそう言ってくれる、あの自信に満ちた態度で、笑いながら。けれどそれがどれだけ間違いなくとも、そのことを言い訳にして許されようとするのは、あまりに自分に都合が良すぎる。そう断言できる。何より、そもそも自分を許せない。

 ……自分に対して甘くなるつもりはない。けれど今は本番を控え、つくづくと反省して、侘びと自己嫌悪は本番の後へ山のように積み上げておくことにし、今回だけは脳裏の彼の言葉に甘えることにした。

「……寝ますね。本当にごめんなさい。」

 呟き、強いて意識を無明の闇の中へと溶こうとする。

 

 起きていての微睡みなのか、寝ていての夢なのか、判然としない領域をうつらうつらと行き来しつつ。

 繰り返しオスカーは現れて、笑い、手を差し伸べ、髪を梳き、頰に触れて、氷青色の瞳で見詰め、あの音色を奏でて、誘われ、導かれ。

 音は続いているのに、気付けばいつの間にか、自分の身体はその腕の中に攫われていて。

 

 早朝に目覚めてほとんど眠った気がせず、スタジオに足を向けてそれからひたすら怒濤のように練習し、疲れ果てて昼前に一度ホテルに戻り泥のように眠ってから、ようやく多少すっきりして午後からのリハーサル会場へと向かった。