「リュミエールの姓を聞いた、だと?」
「…何か文句があるのか。」
オスカーの反論に対して、カティスからの即座の返事はなかったが、ありありと渋面を作ったその様子からして、オスカーに言うべきことが何もないという訳では全くなさそうだった。ディベートの訓練も実践も山のように積んできた男が、長々と押し黙ったまま、何をどう言うべきか脳裏で整理し組み立てているらしい様子は、話の内容がこと仕事ではなく、クライアントからやや踏み込んだ立ち位置の知人と己の同僚という、カティスとそれぞれの相手との関係性、そして当の二者間の関係性とのバランスを推し量っているように見える。
「……無理矢理聞き出したのか?」
「カティス、貴様は俺がそんなことをする奴だと思っているのか。締めるぞ。聞いたらすんなり教えてくれた。」
『ブラン、と言います。白、の男性名詞ですね。フランスではありふれた姓なので、あまりインパクトはないみたいです。』
『リュミエール・ブラン。ありがとう。』
口の中で、大事に転がしてみる。
オスカーにとってはインパクトなどどうでも良く、大切な恋人の大切な名前だった。
「わざと綺麗事だけで済ませようとしてんじゃねぇ、Fワード野郎。どうせその名前で検索してみただろ。」
「………悪いか。」
『当たり前だろう。』と言いたいところだったが、流石にそこまで開き直り切るには、オスカーといえども躊躇われるものがあった。
「何か情報が出てきたか?」
「いいや。人名としては、全く。」
LumièreもBlancもあまりに一般名詞すぎ、Lumièreが名として使われる例が稀なためでもあるのか、引用符付きで検索しても、検索結果で相当のページ数を捲ってみても、本名でのリュミエールを想起させるような情報は皆無だった。無理に人名と結び付けようとすれば、映画の父とされるLumière兄弟の話題か、先日のカーネギーホールの公演の後、一般にもかなり検索結果で見掛けるようになったピアニストとしてのリュミエールについての記事に、一般名詞のblancがたまたま載っただけのものしか存在しない。主要なSNSでもユーザー名として該当するものがないか当たってみたが、ヒットしたものは一切なかった。
それでひとつ、オスカーは当たりを付けて、その後でリュミエール本人に確認してみた。リュミエールは音楽学校に通ったことがない。もし通っていれば、現在のリュミエールの途方もない実力からして、在学中から既に奨励賞であったり主席学生公演であったりと、何らかの形で世間に名が出ることは確実だったからだった。
ただこれについては、オスカーの予想は正解であったものの、リュミエールからの返事としてはやや濁された。
『本当なら、もちろんきちんと音楽学校に通って習いたかったんですけれど、ちょっと事情がありまして。』
オスカーへの思い遣りと愛惜と、信頼と、それであっても易々と伝えられないもどかしさとを十二分に湛えた声音で、ビデオ通話越しのその深海色の瞳に心底申し訳なさげな気色を浮かべながらそれだけを返答されれば、オスカーも流石にその場でのそれ以上の追及は控えた。
『縁に恵まれて、私には勿体ないくらいの素晴らしい指導者複数人にそれぞれ個人的に指導していただいているので、それは本当に心から、皆様へ感謝しています。』
「お前もそろそろだいたい察しているだろう。」
カティスから充分な信頼を得ているのはオスカー自身も理解しているが、それとこれとは別、といった風に、苦々しげにカティスから念を押される。
「あいつの家庭事情は相当に複雑だ。家庭環境、生育歴、家族構成、その他それらに類する話は、たとえ話の相手があいつ本人でも、くれぐれも慎重に取り扱え。」
「……お前は把握しているのか。」
「ほぼ完全にな。それはあいつの父親の代からの付き合いが故だ。他意もなければ悪意もない。」
「…判っている。」
返答をわかっていて問うオスカーも、そしてあえて否定をしないカティスも、ともに理解している。オスカーが知らないリュミエールの情報をカティスが知っている、それをオスカーが心底気に食わないと考えていることくらいは。ただオスカーであっても、オスカーだからこそ、それに表立って文句を付けることはなかった。担当弁護士としての守秘義務。弁護士にとって神聖とも言えるその線引きは、弁護士という職業に誇りをもって応っているオスカーだからこそ、不満には思っても否定しようとは思わないラインだった。
「にしても、」
リュミエールを取り巻いているらしいそれらの事情について、内心うっすらと気になって仕方がなかった今日のオスカーへ、わざわざオスカーの個室に入ってきてまでしてピンポイントでカティスが絡んできたのは、一体どういう理由で。先日の公演前のような非常時は別として、今日のような気を緩めている平常時にいったんカティスに目を付けられてしまえば、流石に百戦錬磨の論客であるカティスを相手にして、オスカーですら一片の隠し立てのしようもなく、洗い浚い思うところを吐かされる。
「何故だ?」
「さあな。」
リュミエール絡みで何かがあった時の、オスカーの殺人犯風の気配は、それが顔に出ていない時でもカティスには極めてわかりやすかったが、それをオスカー本人へわざわざばらす気などカティスには更々なかった。
何事かのカティスへの呪いの言葉を吐きながら、昼休憩へと出ていくオスカーの背中を見送り、
「…恋仲になったからこそ、リュミエールはお前に言えないことがあるんだよ。」
カティスは呟いた。
単なる弁護士の立場であれば、オスカーにはサブ担当として普通に伝えることができる部分もあっただろうが、と。
恋人のことで思い悩む秋の夜には、当の恋人の至上の美貌と暖かく溢れる優しさとが一入身に沁みる。
「すごく楽しみです。嬉しいです。毎日、あと何日かを数えて心待ちにしています。こんなに、とても幸せで、恐いくらいで。ありがとうございます。」
普段は控え目な微笑を優しく浮かべることの多い人が、この話題の時には言葉に違わぬ心からの晴れ晴れしい笑顔を、抑え切れないといった風に満面に溢れさせ、爛漫に声を弾ませて。グランドピアノの譜面台に置いたスマートフォンの、画面の向こう側で視線を合わせるオスカーにも、この上なく真っ直ぐに、その暖かな喜びが伝染する。
ヘッドセットを着け、オスカーと話しながら、長い髪を演奏に連れて靡かせるピアニストの指先の、迷いないトリルは次第に速度と音量とを上げていったかと思うと、唐突に最高音から最低音までの、その両手で勢い良く奏でられたグリッサンドへと収束した。
リュミエールに再び逢うため、オスカーがパリに訪れる、そう約束した日程まであと2週間だった。
夏の終わりのニューヨークで、想いを通い合わせたその日の内にはもう、否応のない暫しの別れ。
17時過ぎ、JFK空港で身を離す前に、もう一度だけ、目を閉じて唇を触れ合わせ。緩く抱き留め、不意に激情に駆られて、力の限りに強く強く抱き締め上げて。指を絡め合わせ、潤む深海色の瞳と切なげな氷青色の瞳とが見詰め合い、互いに変わらぬ愛情を誓って。
幾度も幾度も振り返るリュミエールと、痛む胸を抱えてそれを見送り、自らも帰路に就いたオスカー。9時間後、一方が午前8時のパリに到着すれば、同時刻の一方は早くに着いて就寝前のロサンゼルス、午後11時。容赦ない9時間の時差。
互いの体調を気遣って1日分のインターバルの、その合間にも、想い想われるメッセージの行き来は絶えることなく。
話し合いを基に示し合わせて、パリのリュミエールの朝6時、ロサンゼルスのオスカーの夜21時、都合の付く日はいつでも1時間程度、リアルタイムのビデオ通話をすることになり、オスカーはひとまず一安心した。距離も時間も遥かに遠く離れた今、定時で顔を合わせ、直接言葉を交わすのが、縁を繫ぎ留める何より最善の方法と思ったので。
初日、再びオスカーと画面越しであっても再会を果たして、声を交わしたリュミエールは、心の底から嬉しそうに。
だが2日目の終わり頃には、その姿はオスカーの目に、どこか薄らと力ない、ようにも見えて。
3日目の初め、目に見えて明らかに肩を落とすリュミエールの、だがなかなかその事情に口を開こうとしない姿を、「愛しているから」で説き伏せたオスカーに語られたのは。
「……ごめんなさい。本当に………」
心底申し訳なさげにぽつりぽつりと語り始めたリュミエールのあまりの気落ちに、『やっぱり白紙に』といった類の話かと思ったオスカーは一度、黄泉の世界へと叩き堕とされたが如くに身体の芯から青褪めたが。
「……どうしても、落ち着かなくて……」
手が鍵盤を叩いていないと、と。リュミエール曰く。
聞けば、パリのその自宅にいる日には、目覚めてから軽く身支度を整えた後、朝から夜まで防音の練習室の中、おおよそ空いている時間のほぼ全て、ひたすらピアノを演奏し続けるのがこれまでの常だったのだという。次の演奏会の準備と称しては楽譜を繰ってピアノを奏で、休憩と称しては楽譜も見ずに次から次へと、心の赴くままにひたすら曲を掻き鳴らし。
「貴方とは、毎日本当に逢いたいと、話したいと、こんなに想っているのに。なのに、こんな風に気を散らしてしまう私が、心底、申し訳なくて。」
オスカーは即座に承諾した。貴重な逢瀬の時間を他に譲るつもりはない、だが同時に、恋人の意に染まない事を無理に続けさせるつもりも更々なかった。
ヘッドセットの、それも集音の単一指向性のかなり強い、つまり口元からの声を拾いやすく、周囲の音が極力入りにくい型番を即座にチェックして――何分にも近年の弁護士の業務にウェブミーティングは欠かせなくなっていたから、L&C法律事務所のSlackの、NY・LA両事務所全体チャンネルに呼び掛ければ、使用例の収集には事欠かなかった――本当はオスカー自身で買って贈りたかったのだが、即日にでも態勢を整えたかったので仕方なしに、リュミエールに型番を伝えて準備してもらい。
オスカーと顔を合わせて会話を交わす。そしてその間、ピアノも弾き続ける。リュミエールになら造作もない、むしろそれが息をするようにリュミエールの普通ですらあることを、オスカーはよく承知していた。
「ありがとうございます。我儘を容れてくださって。
……どう、感謝を伝えればいいのか。」
暖かい気配を取り戻した恋人の画面越しの柔らかな微笑と謝意、それから会話の背景音で、程よい音量で届いてくる天上の音色。それだけで、オスカーにとっては充分すぎる返礼だった。
とはいえ、いくら炎の情熱のオスカー(自称兼他称)といえども、画面を隔ててでは、できる事もしたい事もしてやりたい事も、その実現は極めて限られざるを得ない。
ただそこに在る、それだけで奇跡のような愛しい恋人ではあるが、それでもやはり、一切の隔てるものなく見詰め合って触れ合える暖かい生身の存在に勝るものなど、この世界中の天上天下のどこを探してもありはしない。
1週間、その先の繁忙と業務量とを見計らい、さらに続く1週間、リュミエールと自分と航空機と宿泊先ホテルのスケジュールを調整し。
対人相手が主というより、どこまでも対人相手の仕事でしかない弁護士の業務は、そもそもの二人の出会いの発端がカティスのそれであったように、しばしばスケジュールなど有って無きが如しの事態が生じるが、こればかりは何を差し置いてでも必ず実行するとオスカーは心に決めたし、口ではなんだかんだとオスカーに茶々を入れるカティスも、おそらく間違いなく、その日程頃のオスカーに何かの急な支障が生じても、全力でサポートし予定通り送り出してくれるであろうことは想像に難くなかった。
ニューヨークで別れてから2週間後、決まったのは、そこから1か月後のオスカーのパリへの2泊3日の訪問。
多少の無理が透けて見えるオスカーを察し、一度は申し訳なさげな雰囲気を漂わせながらも、抑え切れない喜びに大輪の開花のように顔を綻ばせた恋人は、それから毎日、徐々に減ってゆく残りの日数を指折り数えては――実際には指は、折るのではなくピアノを奏で続けながら、ごく普通に暗算で数えているのだが――、毎日、感謝の言葉とともにオスカーへと微笑い掛ける。
残り、2週間。
リュミエールのスケジュールには、演奏家らしく突発的なあれこれというのがほぼないために、予定の作成はオスカーを中心として検討すれば問題なかった。とはいえリュミエールにも予定は途切れることなく入っており、先週にはスペインで小規模の演奏会が――どうやらオリヴィエと、オスカーは知らない相手だが二人の共通の知人との三人で会っていたそうだが――、それから来週には、近場と聞いているが別のチャリティコンサートが入っている。他の用件も併せて入っていると言って、リュミエールは今日この後にも移動を開始し、10日ほどはパリを離れる予定になっていた。自宅以外のところへいる時には、定時の逢瀬は都度ごと話し合い、変わらず実施したりスキップしたりする。
リュミエールが次にパリに帰ってくる時には、オスカーの来訪日はもう目前になっている頃だった。
「でも、本当にいいのですか?」
威厳高い王を称えるが如き、重厚な歩みの荘厳な行進曲を低音で奏でつつ、幾度目かになった確認をリュミエールがオスカーに問う。聴き覚えはあるが何の曲だっただろうか、と頭の片隅で検索しながら、オスカーはリュミエールにいつもの返事を返した。
「お前とどこへ行こうか、何を見ようか、考えるのが楽しいんだ。3日分の予定は俺に任せてほしい。」
「わかりました。ありがとうございます。」
スケジュールの立案を委ねられることにではなく、自分が大切に想われていることの方へと明らかな喜びを湛え、オスカーに微笑むリュミエールが、でも、と呟く。
「でも?」
「ごめんなさい。貴方が折角予定を組んでくれるのだから、と、言おうかどうしようか迷っていたんですけど、」
首を傾げ、睫毛の翳の差す瞳の笑みが深くなる。
「予定などなくても。貴方と、ずっと、ゆっくりしたい気持ちもあります。特に何も、豪華なお持て成しも、目新しいものもありませんけれど、私の自宅にいらっしゃいませんか?
貴方と落ち着いて、ゆっくり話がしたいですし。ホテルも、わざわざ取らなくても、私の家で泊まっていただければ。決して広くはないんですけれど、是非。」
深海色の瞳は心から嬉しげに、その真っ直ぐな純真な色合いで、オスカーの氷青色の瞳と視線を合わせ。
オスカーは押し黙った。小曲が移り変わって、転がる鳥の鳴声のようなメロディを奏でているリュミエールに、念のため確認してみる。
「……寝る場所はどうする? ベッドは一つしかないだろう?」
「パリはどこも狭くて、練習室を確保するだけで手一杯で、客間はないんですけれど。ごめんなさい。私がソファで寝ますから、貴方には私のベッドを使ってもらいたいです。貴方の方が体格が良いですから。」
やっぱり。
「……リュミエール。」
「はい」
「……リュミエール。」
「はい? オスカー。」
また次の小曲へと移り変わり、凄まじく速いパッセージをいとも容易く、オスカーへと微笑い掛けたまま軽々と弾き鳴らしつつ、リュミエールがオスカーの不自然に繰り返す呼び掛けに応える。
オスカーは息を吐いた。極めて速いテンポで上昇と下降とを繰り返す背景の曲そのままに、リュミエールに心の早鐘を打たされている気分だ。
「言えなかったことを言ってくれて、俺も嬉しい。お前の方にも、はっきりと言わないと伝わらないようだから言っておく。お前の家に行って二人きりになったら、ゆっくり話を交わす隙などなくなるし、お前にソファも使わせてやれないし、寝かせてもやれなくなる。この上なく豪華な最高の持て成しも、目の眩むような目新しさも、全部お前の身体で嫌というほど払ってもらうことになる。」
だん、とパッセージの終曲、リュミエールが和音を外した。恐ろしく珍しい。
オスカーからゆるりと視線を外して顔を伏せ、みるみる間に顔中を朱色に染め、そのままゆるゆると鍵盤を小さく、極めてゆっくりと叩き始めたリュミエールのそのメロディに、オスカーはようやく思い出した。先程からリュミエールが演奏している組曲は『動物の謝肉祭』。このすぐ後での演奏会の曲目だろうか。
「リュミエール」
「………ハイ。」
「リュミエール」
「………ハイ。ゴメンナサイ……」
一音一音を遅々とした歩みで奏で進めるその小曲は、同じメロディのより早いテンポで広く知られた原曲の『天国と地獄』ではなくて、その名も『亀』。演奏会が室内楽ならピアノは伴奏のみのはずだが、おそらく無意識にであろう、主旋律を同時に奏でている。
「リュミエール。くれぐれも言っておくが、俺だけではなくて、他の人間も家には入れるな。絶対だ。」
「え。そんな極端な心配をなさらな」
「リュミエール。」
「……ハイ。ゴメンナサイ。」
「俺の泊まりはホテルにする。いいな?」
「ハイ。アリガトウゴザイマス。」
真っ赤になった顔の火照りは一向に引く気配もなく、顔を上げての一瞬の反論の後は再び俯いたまま、時折瞼を瞬かせて長い睫毛を揺らし、ぎこちなく応えるリュミエールに、恋多きパリでよくぞ今まで何の毒牙にも掛からずその存在が清らかで居続けられたものだと、オスカーにはいっそ逆に背筋の凍る思いすらした。
なぜリュミエールがそれほど、こういう話に対して無防備なのか、オスカーはリュミエールと恋仲になってからの日々の逢瀬の中で、一度その理由らしきものを聞いたことがある。
「いわゆる、ア・ロマンティック、ア・セクシャルかなと思っていたんです。自分自身のことを。」
聞いてすぐは、正直なところオスカーでも内心相当に面食らった。が、気を取り直して、かつて微かに一度二度ほどだけ聞いたことがあるような気がするその単語を改めて検索し直し、出てきた意味合いとリュミエールの存在とを結び付けて、どことなく深々と納得する。
「性自認は?」
「それは男性ですね。自分のことを男性だと考えて、違和感や嫌悪感を覚えたことは特にないです。性表現も男性のつもりなんですが、昔からあまり男の子らしくはない服を着せられては周囲に喜ばれたり、髪だけは切らないでほしいといろんな方からたびたび望まれたりで、それに反発を覚えることも特にはないので、比較的中性寄りではあるのかもしれません。髪の手入れが少し面倒だなと思う時はあるんですが、」
「切らないでくれ。俺からも頼む。」
続きの言葉を言わせずに即座に割り込んで、オスカーが発言した。その件に関してだけは、かつてからのリュミエールの周囲とやらに全面的に同意するオスカーだった。何となくオリヴィエもその中に入っていそうな気がする。
「わかりました。貴方のご趣味に適ったようで、嬉しいです。」
と、リュミエールは小さく笑っている。
「それで、恋愛指向と性的指向が」
「なかった、ということですね。本当に、ただの一度も、誰に対しても、これまで恋ができたことはありませんでしたから。……貴方に出会うまでは。」
視線を合わせたまま、少し恥ずかしげに、そしてどこか申し訳なさげにすらして、淡く色付いた微笑みを浮かべるリュミエールに心を鷲掴まれつつ、オスカーが確認を進める。
「……ホモ・ロマンティックだった?」
「何となく、それも違うような気がします。貴方だけしか好きになれたことがないので、何とも言い切れはしないんですけれども、」
小首を傾げ、真面目に言葉を探したリュミエールは、何かに思い当たったようにふと、オスカーに微笑み掛けて。
「モノ・ロマンティックと言っていいのかもしれません。貴方にしか、恋ができない。」
そうして我に返り、珍しく演奏をすら止めて首と指とを振りながら、慌てて言葉を続けるその姿。
「ごめんなさい、忘れてください。そんなものを貴方に押し付けるつもりは全くなくて、」
「絶対に忘れない。嬉しいよ。愛している、永遠に。ずっとそのままでいて。」
リュミエールに痛いほどの胸苦しさを覚える時、オスカーの言葉はことさらゆっくりとした、ごく低音の響きを帯びる。
ただそれでも、流石にそれ以外のそれ以上を、改めてその場で訊くのは躊躇われた。性的指向、の方はどうなのか、と。
恋愛指向と性的指向は別物だ。リュミエールがオスカーに恋愛感情を抱いているからといって、性的な発露が同様にあるのかどうかは定かではない。
オスカーが回想から立ち戻り、現実の時の流れに思考を戻せば、緩やかな亀の歩みの音の綴りは、まだ一歩一歩と続いていて。
ゆっくりと。少しずつ前へと。
「……あの。オスカー。本当に、ごめんなさい。それと、」
まだ朱に染まった顔を俯かせたまま、リュミエールが再び幾度か瞬き、
「何だ?」
応えたオスカーの氷青色の視線へ、ゆっくりと顔を上げて、深海色の視線を合わせた。
「……いつか、必ず、貴方の想いに応えたいと。そう、思っていて。」
緩やかなリタルダンドの後、甘い分散和音で曲が閉じる。
「まだよく、わからなくて。でも、少しずつ。……何となく。
……貴方に触れたいと、…触れてほしいと。思う時があって。」
演奏を終え、リュミエールの空いた手の指が、譜面台の上のスマートフォンのフロントカメラへ近付き。
オスカーの映る画面の縁を、ゆっくりと滑った。ようだった。まるでその指で直接己の頰をなぞられたように、オスカーの肌がぞわりと逆立つ。
「……リュミエール。」
「あの、ええと。そろそろ出発の準備をしますね。行ってきます。
おやすみなさい、オスカー。よい夢を。……愛しています。」
真っ赤な微笑を浮かべたままのリュミエールが、あたふたと慌てたように矢継ぎ早に言葉を重ね、オスカーの返事も待たずに通話が閉じられた。
「………。」
終話画面を前にしばらく沈黙して、深々と、オスカーは溜息を吐く。
それはもちろん、リュミエールの想いと、知らせてくれた言葉と思い遣りとが、この上なく嬉しいのは当然だが。
成就を予想させる言葉を贈られて、リュミエールからは滅多と言わない「愛しています」の言葉まで聴かされて。向こうはこれから昼に向かう中、意識を切り替える必要性に駆られてそうしているだろうが、こっちはこれから夜を迎えるところで、そういう状況下で独り大人しく「おやすみ」するのが、どれほどまでに困難か。
やっぱりリュミエールは判ってない。まだまだ、全然。と思うし。
いつか必ず。リュミエール本人から許しを得た暁には、その身体に、嫌というほど直接教え込んでやる。とも。
オスカーはそう、固く思った。