■ Sonare(2)-3

 相変わらずぴしりと髪を綺麗に撫で付け、シカゴ在住の米国人の癖に何一つ冗談の通じなさそうな真面目くさったこの銀行家は、その見た目から想像もできないシチュエーションでオスカーとねんごろに酒を交わしたことがある。

 一年ほど前の初対面の会合の後、話の流れで

『もし差し支えなければ、あなたの今晩の外出とやらに、私もご一緒してよろしいでしょうか。』

と言われた時には、三度ばかり己の耳を疑ったものだし、店によってだいぶん雰囲気が異なるがどういうところが希望か、と冗談半分に念のため聞いてみて、

『そうですね。私の希望を通していただけるとあらば、可能な限り幅広い種類の異性との出会いが、可能な限り多そうなところで、是非、お願いしたく。』

という答が真摯めいて返ってくるに及んだその時には、とうとう天からアルマゲドンが降ってくる日が訪れたのかと思ったほどだったが。

 

「弊行はプライベートバンクですが、当然のことながら信託銀行としての性質も兼ね備えておりまして。」

 レーザービームが飛び交う中央のダンスフロアではとても会話など交わせない大音量のトランスをDJがプレイする中、フロアの隅のバーカウンターで極めて場に似付かわしくない真面目な単語が綴られ、オスカーは最終戦争この世の終わりの心配をしなくてよくなったことに安堵しつつ、テキーラの入ったショットグラスを傾けてエルンストの話の続きを聞いていた。

「顧客の資産管理を弊行が取り扱わせていただく以上、相続、被相続、資産分与等が起こり得ることを予め想定し、お預り資産を然るべき資産アセット配分アロケーションで運用することが必須となります。従いまして、顧客の皆様にはお話しいただける範囲で、縁戚関係、今後のライフプランなどについてもお伺いするのですが。しばしば、」

 エルンストはそこで一度言葉を切り、ジン・リッキーのロンググラスに口を付け、何事かを思案する様子で視線を横に流しつつ、ややゆっくりとしたスピードで3分の1ほどを飲み下してからグラスを下ろした。

「縁戚関係、しかも顧客ご本人様に最も直接的に係わるもの、といえば、その最たるはもちろん婚姻関係に尽きるのですが。しばしば、急にご予定になかったはずの配偶者様をお連れになり、お相手様への資産分配についてご相談に訪れるお客様がいらっしゃるのです。しばしば、しかも性急に。そのような場合、往々にして、こう申し上げては何ですが、普段、当のお客様とは全く関わりのなさそうな属性クラスの配偶者様であることが多く。その後、詳しくご本人様のみにお話を伺いますと」

 そういうパターンの際には、こういう場、すなわちナイトクラブ等の夜の場で出会ったという割合が極めて高いのだと。

「先を見据え、弊行とお客様とで慎重に練ったはずのポートフォリオを、そうもあっさりと翻すに至る、それほどの劇的な出会いの場とは。予定外のライフイベントの発生の場として、一度きちんとどのようなところか確認する必要があると思っていたのですが、残念ながら私自身は一度もそういう場所を体験したことがなく。あなたは逆に、今日のお打ち合わせの後の余談の中で、大変場馴れしていらっしゃるような口振りでしたので」

 この男にとってはナイトライフスポットすらも研究の対象なのだと、オスカーはしばらく愉快げに声を上げて笑ったし、エルンストは気を悪くした風もなく、そんなオスカーを視界の脇に措いてフロア内の様子を念入りに観察していた。

「それからすると、俺のような顧客はハイリスクの最たるものだろう。今回は特例まで適用して、口座を作らせておいて良かったのか?」

 エルンストが勤めるシカゴのロイヤル・インスティテュート・プライベートバンク&ウェルスマネジメントでは、口座開設のための最低資産が100万ドルから(プライベートバンクとしては控え目なほうだった)となっていたが、長年の付き合いのあるニューヨークのL&C法律事務所に今回、ロサンゼルス事務所が新設されたことに伴って、エルンストが銀行側代表として表敬訪問し、新人弁護士のオスカーにも資産基準を満たしていないながら特例として新規口座開設を勧めたのだった。

『何ら問題はありません。あなたなら数年の内には、瞬く間に売れっ子弁護士となって資産を積み上げ、弊行の優良顧客になってくださることは間違いありませんから。ええ、これはむしろ、弊行側にこそメリットのある話なのです。』

 これまで何千人とお顔合わせをさせていただいた時の実績から言っても、こう見えて、人を見る目はあるほうのようでして、とその時に言ったエルンストは、事務所での打ち合わせとナイトクラブでの今とで微動だに変化しない表情のまま、オスカーの問に応えた。

「いえ、あなたのような方は、却って極めて安全なことがほとんどですね。…失礼、『却って』は余計でしたか。

 折々に華やかなお付き合いの話を、次々と別の方と親しくなさりながらたっぷり数年間は我々どもに散々聞かせていただいた挙句、ある日、実に堅実なお相手と、事前に弊行にも慶事を予めお知らせいただきましてから、周囲の皆様全てに盛大な祝福を受けつつ順当にご結婚なさいます。」

「ほう。そういうものか。」

「先程のお話に挙げさせていただいたような方は、むしろ清教徒ピューリタンのように、普段は浮いた話とは全く縁がなく過ごされていた方がほぼ全てと言っても過言ではなく。それもありまして尚更、そのような方々に意識の激変をもたらす場の特異性が興味深くあるのです。」

「話を聞いていると、エルンスト、大いにお前自身に当てはまるような気もするがな?」

 誂うようなオスカーの声音には一切反応せず、エルンストは冷静沈着に返答を寄越した。

「そうでしょうか。確かに私自身が恋愛沙汰と縁遠いのは否めませんが、己のことを聖人君子だと思ったこともないのですが。」

 聖人君子ではないこの銀行家の実態、が見てみたいような見たくないような、微妙な感想をいだかされながら、その後オスカーとエルンストはしばらくの間、酒を飲み交わし、それからお互いにその日の相手となる女性を確保したところで解散となった。何というか、興味深い人種だった。世界は広い。

 去り際、何とはなしに振り返って最後にその様子を確認すれば、「ではまず、本日の来店の動機についてお伺いしてもよろしいでしょうか」など相手の女性に話し掛けているのが耳に入り、その後の展開が大いに気掛かりではあったが、女性側は意外にもツボに嵌ったようで機嫌良さそうに見えたので、動向を追うのはそこまでにしておいた。その後で何が起ころうとも、もはやオスカーの責任ではない。

 

「俺のこともオスカーと呼んでくれ、エルンスト。ミスタ、はむず痒い。知らない仲でもないだろう?」

 その時以来、久しぶりに偶然にもこのパリで再会した相手へ、オスカーはひとまずそう言葉を続けた。この男の徹頭徹尾の生真面目振りも奇想天外な思考経路も、全てはその探究心に基付くものだと判明している以上、慇懃な話はさっさと省略してしまうに限る。欧州出身で根が典型的な米国人らしくはないこの男は、しばしば異なる考え方をするようではあったが。

「では、お言葉に甘えて遠慮なく、オスカー。」

「ところで、さっきの彼女らと別れた時に、意外、と言ったよな。彼女らの誘いを断ったことか?」

「ああ、いや。確かにそれもですが、むしろ。失礼、その少し前から話を伺っていまして。」

「少し前?」

 回想で途切れた思考を過去に辿る。

「リュ…あいつのことか?」

 リュミエールの名を出しそうになり、オスカーは辛うじて発声の直後に気付いて留まり、背後に向けて親指を指した。恋仲になってからの後で、リュミエール本人の事を知らない第三者と話を交わすのは、考えてみれば初めてのことだった。ピアニスト・リュミエールは、その名こそ最近は世に知られ始めているが、未だ顔出しをしていない。

 エルンストはそんなオスカーの態度に少しだけ怪訝な顔を見せたものの、オスカーの言葉に頷いて、再び眼鏡のブリッジに指先を当てた。

「ええ、そうですね。立ち聞きのような形になり、大変申し訳ありません。」

「いや、隠し立てすることじゃない。お前も聞いての通り、俺の今の最愛の恋人だが。意外、か? とびきりの美人は大好物だと、お前には言った気もするが。」

「とはいえ、男性であることには間違いないでしょう。あなたも先程、ご自身で仰っていた通り、もともとは女性のみが恋愛対象だったでしょうし、今後もその点については変わりないかと思われたものですから。それで、意外、と申し上げました。それこそ以前、お話しさせていただいたような場などででもお会いしたのかと。」

 オスカーは弾かれたように笑い出した。こいつ流に解釈すればそうなるのかと。リュミエールと自分との関係性に、自分の関係者かつ、リュミエールにとっての全くの他人をこれまで絡めたことがなかったために、個々人の感想を聞くのは極めて新鮮な体験だった。

「いや、ごく真面目な出会いさ。これまでになく真剣だ。」

「左様ですか。とはいえあなたなら、どなたとのお付き合いでも、どのような出会いででも、そのように仰りそうですが。」

「まあ、あながち否定はできないな。俺はいつだって真面目で真剣だ。だが今度ばかりは、」

「承知いたしました。」

 台詞の半ばでエルンストに相槌を打たれた。どうも額面通りには受け取られていない気もする。

「…でしたら。近々、弊行がお手伝い差し上げるような、何がしかのご予定はありますでしょうか?」

 婉曲に問われたそれの意味するところに、以前のナイトクラブでの会話から思い至り、オスカーは軽く眉を顰めた。それは。

「結婚の予定があるかどうかということか? いや、流石に。」

 これまでの、決してまだ長いとはいえないリュミエールとの付き合いの期間で、流石にそこまでは考えたことがない。

 自分はリュミエールのことを、まだ何も知らない。これまで毎日のように言葉を交わしていたが、そういう視点で自分たちの関係性を見るのなら、まだ何も知らないと言って差し支えない程度にはリュミエールのことを知らないのだと、改めてオスカーは気付かされた。リュミエールがそんな将来のことについて、どういう風に考えているのかも。

「なるほど、了解しました。大変失礼いたしました。」

 ただエルンストのその返答は、どうにも自分の言葉を違う方向性で解釈している雰囲気を大いに漂わせていて、オスカーは急いで言葉を継ぐ必要性に駆られた。

「おい、別にあいつとの付き合いが遊びだって訳じゃないぞ。まだ付き合い始めて日が浅いから、そんな事は検討していないだけであってな、」

 オスカーの本来の性的指向とリュミエールの性別のことからしても、かつての会話の『折々に華やかなお付き合いの話』のうちの一つに過ぎないと、『実に堅実なお相手』のほうではあり得ないのだと、エルンストの目にはそう映っているのは明白だった。

「…左様ですか。」

「リュミちゃん、もういいよね? これ以上は。」

 オリヴィエの、憤怒をその内に籠めたすぐ背後での声音に、オスカーは不意を打たれて咄嗟に振り返った。

 綺麗に整えた眉を怒りに吊り上げてエルンストの方を睨み付けているオリヴィエと、表情と顔色を失くしたリュミエールとが並んでそこに立っていた。

「リュミエール!」

 思わず口から出て、オリヴィエからオスカーへと鋭く痛い視線が投げられる。『名前を呼んでんじゃないわよ』と。なるほど『リュミちゃん』はぼやかしだったのかと、オスカーはそこで初めて思い至った。

 エルンストはちらりとリュミエールの方を見、口元だけでの何かの、おそらくは驚きに類する呟きを零した。その様子からするに、その一瞬で目の前のリュミエールを『幻のピアニスト』と呼ばれるそれと脳内で照合させたのは間違いないようだった。エルンスト自身がクラシック音楽を嗜むというより――「そんなものは時間の無駄」と、この男ならいかにも切り捨てそうだった――、あくまでもあらゆる話題を把握しておく客商売の基本として、その名を聞き知っていただけなのだろうが。

 いったんその話については措いておく方が無難と判断したのだろう、眉根に皺を寄せて黙ったままエルンストを睨むオリヴィエの方へとエルンストが歩み寄った。

「俳優・モデルのオリヴィエさんですね。初めまして、エルンスト・ノイマンと申します。米国シカゴのロイヤル・インスティテュート・プライベートバンク&ウェルスマネジメントの取締役を務めております。お目に掛かれて光栄です。」

 ロサンゼルスの事務所に訪れた時も銀行を代表してでのことだったが、この一年ばかりでさらに役職が上がり、大手都市銀行の傘下に過ぎないとはいえ、エルンストはその若さでは異例の取締役に就任していた。挨拶するエルンストから握手のために差し伸べられた片手を無視し、オリヴィエは腕を組んだまま刺々しい声音を隠しもせずに応える。

「銀行家ね。プライベートバンク、なるほどオスカー、あんたの口座があるって訳。だからって人の事情に、そこまで首を突っ込む? オスカーの知り合いなら挨拶をってリュミちゃんが言うから、近寄って来てみれば、」

「ごめんなさい、」

 オリヴィエの言葉に続いて、反射的にとしか言いようのない声音でリュミエールが呟いた。オスカーへ視線を遣るその瞳には光の気配が全く無く、思わずオスカーは片手でリュミエールを性急に引き寄せて抱き締める。

「お前は何も悪くない。何をどう聞いた?」

 耳元に唇を寄せて低くそう囁くが、どう聞いたも何も、今まで自分とエルンストとが交わしていた会話だ。己の首元に艶やかな髪の流れの頭を強く抱え寄せて囲いつつ、脳内でこれまでの話の流れを振り返る。

「いつからいたんだ。」

 顔を上げ、オリヴィエに問うていると明らかに聞き取れるオスカーの声音にすら、腕の中のリュミエールの身体が震えたのが判った。

「あんたが後ろ向きに指した親指が刺さるかと思ったわよ。その前に女の子たちに愛想振り撒いてたのも遠くから見たけど。」

 答えるオリヴィエの親指云々の表現は極端としても、エルンストとの会話のほぼ最初から最後までを、オスカーのすぐ後ろで二人が聞いていたことになる。つまりエルンスト側から見れば、オスカーの後ろの二人を完全に視界に入れた状態で会話を続けていたということだった。

 最初の自分の『最愛の恋人』発言がリュミエールにちゃんと届いていたのならいいのだが。『とびきりの美人は大好物』これは微妙か、『男性であることには間違いない』、『女性のみが恋愛対象、今後も変わりない』、『意外』、『以前お話しした場などでお会いして』、

「あんたの笑い方で判ったわよ、オスカー。そういう遊びでの出会いの場所ってことよね。オスカーならそうでしょうし、その手の出会いが悪いって言いたい訳じゃないけど、だからといって私の大事な友人まで赤の他人にそういう風に解釈されるってのは、率直に言って不愉快。」

 この場合の『大事な友人』が指し示す範囲に、当然ながらオスカーは入っていない。

「……大変申し訳ありませんでした。念のため確認しておく必要があるかと思いましたので。」

「ぬけぬけと、よく言うね。」

 その続き、『どなたとでも、どのような出会いででも』、『いつだって真面目で真剣』、

 

『結婚の予定があるかどうかということか? いや、流石に。』

 

 そんな約束をリュミエールが今この時点で、欲しがっていたのではないことくらい判る。

 だが散々『意外』、『女性だけが対象』、『男性だから』など重ねて聞かされたリュミエールが、どんな想いでその時のオスカーのその言葉を受け止めたのか。どれだけ後から訂正していても。

「リュミエール、そういうつもりじゃなかった。愛している。お前とのことはきちんと考える。」

 リュミエールはオスカーの腕の中で黙って小さく頷いた。その身体は不規則に時折震えている。

「流石にお相手様を目の前にして、直接的に伺うのは躊躇われましたので、婉曲にお尋ねしたのですが。」

「言ったも同然だろう。そもそもなぜ会話を続けた。」

「私が文句言おうとしたらリュミちゃんが袖引いて止めた。だからって私たちをあんた越しに目の前にして、話し続けるそいつもどうかと思うけど。」

「申し訳ありません。制止されなかったので、そのままお話を続けたほうがよいのかと考えたのですが。」

「ごめんなさい、聞こうとした訳ではなくて、」

「お前はもう謝らなくていい、リュミエール。」

 オスカーはリュミエールの正面へ向き直り、両腕を使って強くその身体を抱き竦めた。

「……では、私はこれで失礼いたします。慶事の際には、是非弊行へもお知らせください。」

「マジ最悪、あんた。二度と顔出すな。」

「オリヴィエさんにも弊行への口座開設をご検討いただきたかったのですが、当分は難しそうですね。残念です。是非、またの機会に。」

 立ち去るエルンストの背中へ向けて、オリヴィエは邪険に手を振り払い、オスカーは未だ震えの止まらないリュミエールの身体を抱き締め続ける。

「ごめんなさい、大丈夫です。こんな程度のことで動揺しすぎました、貴方はいつもたくさんの言葉を私にくれているのに。あの方もきちんと話してくださっただけで、他意がないのは判ります。本当にごめんなさい。」

「謝らなくていい、まだ顔色が悪い。こんな程度だとかも言ってほしくはない。」

 二人の身体の間に手を割り入れて緩やかに身を引こうとするリュミエールをオスカーは強く引き戻し、冷たい頰と冷え切った背中とをさすって、その温度が戻るまで身を寄り添っていた。

「あんなのに限って、いざ自分が心底惚れ込む相手に出会ったりなんかした途端、錯乱しまくって雨の中そこいら中を走り回ったりとかすんだから。」

 吐き捨てるようなオリヴィエのその発言の内容に、オスカーとリュミエールは二人揃ってオリヴィエへの方へと目線を遣り、それから互いに目を見合わせて、思わず同時に吹き出した。

「あのかたが? ちょっと想像できないですね、」

「もし本当だとしたら、この上なく愉快だがな。」

「そうとでも考えないとやってらんないじゃん、むかつく鉄面皮ー。ただ案外いい線いってる想像かもって今、ちょっと思った。」

 とうの昔に人波の中へ消えた背中を追い睨むように、オリヴィエは目を一度遠くへすがめてみせると、表情を解いてリュミエールの方を見、華やかに笑い掛けた。

「だいぶん顔色も戻ったね。はい、二人とも予定してた分の撮影は終了、ありがとねお疲れ様ー。元の服に着替えて、リュミエールはヘアセットし直したげる。」

「いえ、自分でもできますけれど、…、……。」

 オリヴィエの方を向いてその申し出の台詞を一度は遠慮したリュミエールが、何かに気付いたように言葉を切り、緩やかに視線を流してオスカーへと振り向いた。

 その氷青色の瞳と、しばし目を見合わせて。

 ふと小さく、悪戯げに微笑み、オリヴィエへと向き直ると、

「そうですね、やっぱりお願いします。できるだけ『とびきりの美人』に、仕上げてくださると嬉しいです。」

 そんなリュミエールの言葉に、オリヴィエは心から喜ばしそうに笑い、任せといて、と請け負っている。

 リュミエールの口に上ったオリヴィエへのその要望は、オスカーを苦笑させながらも愛おしさをより募らせ、その胸を温めて安堵させる、美貌の無二の恋人の可愛い旋毛つむじげだった。

 

「これ、是非にって。こっちの代理店の関係者から貰っちゃって。」

 明日の14時30分開演、オペラ座、ガルニエ宮。演目は『アンドレア・シェニエ』。

 あんたたちが落ち着いたら今度三人ででも飲みたいからよろしくねー、と。

 リュミエールのヘアスタイル(と、多少のメイク)を整えると、いかにも仕事のできるふうであっという間に撤収したオリヴィエとスタッフとを引き留める隙もなく、二人はその場に残されて。

 さらりと渡され反射的に持たされたままの手元の2枚のチケットを、オスカーはしばらく無言で眺め、それからリュミエールに問うた。

「どうする?」

 リュミエールはオスカーの手元のチケットを改めて覗き込み、オスカーの顔を見返し、その唇は物言いたげにうっすら開かれるが、目線はオスカーの様子を窺うように、その氷青色の瞳へと視線を投げ掛けて。

「お前の望む通りに言ってくれ、リュミエール。心配しなくても、キャンセルに高額が掛かるような類の予定は入れていない。」

「ごめんなさい、ありがとうございます、見たいです。」

「OK。じゃ、明日の昼はこれで。」

 明日の2日目はリュミエールとの話次第で、ヴェルサイユかフォンテーヌブローか、ルーヴル美術館を前倒して長く時間を取るか、何ならディズニーランド・パリであれこれ、などと考えていたが。

 最終日の3日目は航空機の予定があるためあまりパリからは離れられず、ルーヴル美術館を除くパリ郊外の3件については次回以降の来欧の機会になりそうだった。多少惜しい気もしたが、大丈夫、ヴェルサイユもフォンテーヌブローもディズニーランドも逃げない。多分。

 そしてこの先ずっと、リュミエールとの思い出を積み上げていくための逢瀬の機会を、オスカーはいつでも、何度でも重ねていくつもりだった。ずっと、何度でも。誰がどんな風に、自分たちのことを評そうとも。

「知っている演目なのか?」

 オスカー自身は、ヴァイオリンを中心とした器楽曲以外のことをあまり知らない。

「ええ。音楽史や音楽技法でオペラのことを学ぶこともありますが、それをいても、何しろフランスが舞台の話ですし。」

 少しだけ嬉しそうに見えるリュミエールは、やはり根っからの音楽家だからなのだろう。オスカーへと笑んで答えると、オリヴィエの手で結われた長い髪の動きの珍しい感触を楽しむように、その歩みは小さなステップを踏み、緩く頭を靡かせて髪を揺らし、両手を軽く広げ、目を閉じ天を仰いで。

「フランスの?」

「はい。イタリア・オペラなので、『アンドレア』というイタリア風の名前になっていますが。アンドレ・シェニエ、18世紀末のフランスの詩人です。」

 そうして再び目を開いて、歩みを止め、オスカーへと微笑み掛ける。

 その瞳の色がふ、と、その時、より深い色を帯びたように、オスカーには見えた。

「フランス革命。その前後の激動の時代を、詩と愛に生きた、恋人同士の物語です。」

 

 パリの夜景を前に、目を伏せ、オスカーの肩に頭をもたれ掛けさせるリュミエール。

 両サイドの髪を多めに残し、それ以外の髪は丁寧に纏め上げられて後頭部で一つに結ばれ、そこから再び長い流れを豊かに描いている。ラインストーンの1本は少しの髪束と共に結び目を美しく取り巻き、もう1本は一部の髪と絡み合うようにして結び目から長く綺羅めかしく流れ落ち、艶やかな髪の流れをこの上なく引き立てて。

 蠱惑的なうなじを惜しみなく晒しつつ、艶やかな髪の梳き甲斐をも存分に残したその髪型は、見る度に手を伸ばし、目元から掌を差し入れて応えるように触れ梳き流す誘惑を抑えることができない。今も誘われるままそうすれば、伏せられていた深海色の瞳は揺らめいてオスカーを見上げ、オスカーは髪を梳いた手をそのまま白い首筋に添え、軽く上向かせて、優しく微笑うリュミエールに笑い返してその唇へ小さなキスを落とした。

 二人掛けのソファが向いている目の前の窓の外、やや下方向には、夜のパリの落ち着いた街並みと柔らかくそれを照らす光の並び。旧市街で高層のビルではないために、マンハッタンの眼下一面に広がる夜景のような派手さはないが、淡くしっとりとした雰囲気のこの眺めも悪いものではない。

 とはいえ、バーのこの手の窓際席の良さはそこではなく、店内の大部分を背後にすることによって人目を避け(たように思わせ)、それこそ恋愛初心者の美貌のこの恋人を思う存分、気兼ねさせずに甘えさせることができる点にあるのだが。

「リュミエール。」

 何か甘い物を、と店にリクエストして提供されたミルクレープの、一欠けをオスカーがフォークに掬い取りリュミエールの口元へ寄せれば、リュミエールはフォークの前でぱちりと瞬いてから、視線を移動させてオスカーを見上げた。

「ええと。はしたなかったりは、しないでしょうか。」

「全然? 恋人同士ならごく普通のことだ。」

「そうなのですか?」

「ああ。」

 オスカーは頷いた。刷り込みは最初が肝心だ。

「どなたかが見ていたりとかは、」

「誰も見ていないさ。」

 囁いて答える。

 オスカーは当然、自分たちがこの場にいる全員の注目を全力で浴びていることを知っているし、リュミエールと自分とが念のためにと確認で緩やかに背後の店内を振り返るその際、全員が全力で目を逸らしていることも知っている。

「な?」

「ですね。でしたら、」

 安心したように微笑った恋人は、唇を開いてオスカーの差し出したフォークの先の一切れをそっと咥え、もぐもぐと小さく口を動かした。

「美味しいです。」

「良かった。」

 続けてオスカーがアーモンドを一つ指先に摘み、口元へ近付ければ、逆らわずにそれも口にする。

 食べ終わってバジル・ギムレットで喉を潤す、その素直さに愛しさはどこまでも募って、グラスをテーブルへ戻した手にオスカーはすぐ手を重ね、目を見合わせてから再び軽いキスを交わした。

 空港での再会時からしばらく、逢いたかった一心で周囲に憚ることなくその身をオスカーにまかせていたリュミエールは、オリヴィエたちと合流してから我に返ったように、オスカーの引き寄せる手や寄り添おうとする身体に都度、戸惑いや躊躇いの距離感を見せていたが。エルンストとの昼の出来事が、この点だけは良い方に作用したと言っていいのか。あれ以降は再び、頰を撫で髪を梳く手や身体に廻される腕を通してのオスカーの暖かみに、安心したように身を寄せてくる。

「…………、」

 とはいえ、今のようにリュミエールがオスカーの方を伺いながら、何かしらを物言いたげにしつつも言い出さない様子は、ディナーの最中からこれまでにも何度か繰り返しあって。

「リュミエール?」

 オスカーはその身体を一層引き寄せて、囁くようにして額と額とをこつりと合わせ、間近の瞳を見合わせた。これまで問う度に「いえ、」とはぐらかされたそれを、今日中に聞き出してしまわないことには終われないと思っていたし、アルコールも程よく入ってそろそろ頃合いかと考えたので。

「……あの、」

「ん。」

 躊躇ためらい迷いながらも言葉を紡ぎかけるリュミエールを、促すようにして。

「…あの。貴方は、今日、この後でご予定が入っているのですか?」

「俺の予定?」

 リュミエールの問い方からして、二人でのこの後のことを聞いているのではないし、どこか弱気なその声音は、色気のありそうな有難い誘いの類の話でもなさそうだった。

「いや、何も? お前を家まで送っていくくらいだが。」

「家まで…送っていただいて、その後。……他の方たちと。ですとか。あの、もしご予定があるのなら、私とは早めに終わった方が、」

 オスカーは内心で盛大に眉を顰め、リュミエールの唇に一度指を当てて続く言葉を止めさせた。これは慎重にかつ全部、徹底して聞き出さないと相当に危ないパターンだと、脳内が全力で警告を発する。

 曰く。昼、オリヴィエたちと合流してから、撮影の合間に時間の空き気味のオスカーが次々と女性たちに声を掛けられていたのは見ていたものの。最後にコンコルド広場で会った二人の女性とは、特に親しそうに、オスカーも溢れるほどの笑顔で。腕を絡められたり、耳元で囁いたり、その肩を抱いたり。別れ際の彼女らのオスカーへの挨拶は「今晩、会えるのを楽しみにしてるわ」と。オスカーからこちらに投げられたウインク…「そういうことに決まったからよろしく」、という意味もあり得るのかと思って。

 躊躇ためらいがちにぽつぽつと綴られる、要約すればそういう意味合いのリュミエールの話をそこまで引き出してから、オスカーはそれこそ人目も憚らず力の限りにリュミエールの身体を引き寄せて抱き締めた。そうでもしないと、代わりに盛大に顔を片手で覆って思い切り天を仰いでしまいそうだった。

 彼女らと会ってから別れるまで、最後の台詞がそういう挨拶になったことの経緯までをオスカーは逐一説明し、どこか力の抜けた様子のリュミエールを固く抱き締めたまま、オスカーも盛大に脱力して呟いた。

「あの程度は単なる社交辞令と思って、愛想を撒いた俺も悪いが、それにしても。あの広場の後からこっち、ディナーの間もずっとそんな事を思っていたのか?」

「ごめんなさい、」

「謝らなくてもいい、ただ今後、お前には同じように考えてほしくはない、哀しませたくないんだ。合衆国ステイツにいる時だってそうだが、ましてやお前と一緒にいられている間に、他の女性との予定を入れようなどと思う訳がない。…どうしてそう考えた?」

「貴方はとても魅力的ですし、貴方と共に過ごしたいと考える方たちの気持ちは、とてもよく判りますから。」

「…俺の気持ちは? お前とだけ一緒にいたいと思う、俺の。」

「……それは、」

 腕の中のリュミエールの身体が身動みじろぐ気配があり、オスカーは腕の力を緩めて少しだけリュミエールの身を離し、見上げるその瞳と目を合わせた。

 言葉を口にするのを躊躇ためらう様子のリュミエールの、頰に手を添え、目線で静かに促す。耐えかねたように、リュミエールの視線がオスカーから逸れ、伏せられた。

「……ごめんなさい。いつもこんなに、大切にしてもらっているのに。

 自分『だけ』に向けられる好意というのが、今でもわからないんです。貴方に想っていただいて、とても嬉しいとは思うのに、納得はできていなくて。なぜ私が、と。

 それこそ、私以外とのお約束があると言われた方が、よほど腑に落ちるようなところがあって。…ごめんなさい。」

 オスカーは黙って、とりあえずもう一度強くリュミエールを抱き締めた。

 これは相当に難題だ。本人の納得の問題である以上、オスカーとしては粘り強くこれからも働き掛け続けていくよりほかにない。リュミエールがそんな風に考えることの原因の一端が、今日のエルンストとの会話も含めて、過去のオスカーの女性遍歴にあることも間違いはなく、己の行いをこういう時ばかりは深々と後悔するものの、どうあっても過去は変えようがない。

「俺が心の全てを捧げているのはお前だけだ、リュミエール。納得はできなくても、理解はしていてほしい。」

「…はい。ごめんなさい。」

「謝らなくていい。俺が愛したのはお前だ。そういうお前も含めて愛したし、お前が変わるのならば、俺の手で変えていきたい。お前をもっと幸せにしたい。」

 リュミエールは黙って頷き、オスカーの胸に顔を擦り寄せている。涙の気配がしたから、オスカーはそのままリュミエールの頭を撫で、背をさすってやった。

「お前は悪くない。話してくれて嬉しいよ。ありがとう。」

 リュミエールがその本心をオスカーへ話したことを、後悔しないで済むように。

 リュミエールはもはや頷くこともできない様子で、声を抑え、時折身体を震わせていた。

「他に俺に話しておきたいことはないか? この際だ、何でも言ってくれ。」

 しばらくの後、濡れた瞳をようやく上げて申し訳なさそうにオスカーへと微笑い掛けたリュミエールに、オスカーも笑い返して尋ねる。

「他に……」

 目を瞬かせてから、宙に視線を流してリュミエールが思案する間、オスカーは追加で注文したマティーニをゆっくり飲んで待っていた。

 次は何が来るだろうか、とオスカーが衝撃に備えた、その時、リュミエールの艶やかな唇から語られた流麗な声音は。

「話したいことというか、そういえば。この間のあの件の続き、なんですけれど。

 次、貴方に逢ったら、貴方をこの胸に抱き締めたいと、思っていたんです。…いいですか?」

 びしり、と、オスカーと店内の空気とを完全に固まらせて。

 たっぷり5秒は硬直した後、オスカーはゆっくりとマティーニのグラスから唇を離し、のろのろと手を伸ばしてテーブルの上へグラスを戻した。マティーニのグラスの中のオリーブが転がり落ちるかと思った、と考えながら、不思議そうな顔を見せるリュミエールと視線を交わす。

 それは。ここでは。他人の目線があるから。いや、さっき自分が言った、『だれも見ていないさ。』と。オスカーは当然知っている、店内の全員が固唾を飲んで、こちらの成り行きを伺っている。それは。

「……それは、できれば、もう少し今後で。願いたいんだが。」

「…そうですか?」

 強張ったオスカーの返事と、残念そうな雰囲気を隠しもしないリュミエールの声音に、店内の緊縛が安堵したように、もしくは惜しむように、奇妙に解けていった。

 

「送っていただいてありがとうございました。居住者の私が旅行者の貴方に送ってもらうというのも、何だかちょっと変な感じがしますけれど。」

「お前が嫌でなければ、住んでいる場所を実際に見ておきたかったからな。そう治安も悪くなさそうで安心したよ。」

 狭いパリで、何しろグランドピアノを持ち込む必要があったために、アパルトマンの1階の元は空き事務所だった物件を防音対策で徹底的に改装したものを、さらにその後の伝手で借り受けているのだという。細い通りに面した側の元事務所としての入口は封鎖して、通りに違和感のないように軽いリノベーションが加えられており、居住のための出入口はアパルトマンの共同ドアの奥にある。

 リュミエールの住居の目の前のここに至っても、繫いだ手は容易に離すことができず、そのまま言葉もなくしばし目を見合わせて。

「…また、明日も。会ってもらえますか?」

「…もちろんだ。」

 別れに際して紡がれるそんな言葉が、オスカーの胸を締め付け、切なさと愛しさをく湧き起こさせる。身体を引き寄せ、抱き締め、キスを交わして。

 手を伸ばし、髪に留められたピンを一つずつ外していった。リュミエールは逆らわず、されるがままにオスカーの手に任せている。

 2本のラインストーンも外し、後頭部で結い上げた紐を解いて、ふわりと髪が流れ落ちる。軽く数度梳けば、型も付かずに艶やかな流れが纏まり整って。

 目を見合わせ、もう一度唇を重ね、抱き締め、うなじに手を差し入れ。

 愛しくて、この夜を別れがたくて。

「…愛している。」

「…私も。」

 ただひたすら、それだけに尽きた。