■ Sonare(2)-2

 弁護士になってからの年数はそう長くもないが、もう慣れている程度には航空機での出張も回数を重ねた。季節も悪くなくかさる物もないので、2泊3日程度の荷物なら身の回り品としてバッグへ纏めてしまえる。ただし今回は、それとは別に規定サイズぎりぎりの特注のスーツケースを機内持ち込み品として持ってきてはいるが。

 いずれにせよ、帰りはともかくとして、行きの行程で預け手荷物が出てくるまで悠長に待つ気などは更々なかった。いざフランスに着いたのなら1分1秒たりとも惜しい、無駄にするつもりなどない。

 シャルル・ド・ゴール国際空港の第2ターミナル2E、バゲージクレームを素通りし、搭乗者出口を抜けてランデブーエリアに出れば、辺りを見渡して探すまでもなく、そこだけ異様とも言えるほどの輝きを放つ一角があった。

「オスカー!」

 長い髪をなびかせてこちらへ向かい駆け出してくる、胸が潰れるほどに恋い焦がれた、愛しいその姿。

 オスカーは一瞬だけ、頭の片隅でリュミエールと自分との合流予想地点、その周囲の人波の量、他の通行者の移動ルートを計算し、移動の速度を微調整して僅かに早めた。しばらく動けなくなることは目に見えていたので、立ち止まって差し支えない場所に。

 そうしておいてから、何もかも全てを頭の中から振り払い、片手を広げ、全身の全力でその存在を抱き留める。

 腕の中に収めた存在は、紛れもない温かさを伴って。強く響く鼓動の音すら聴こえてきそうなほどに。

「…リュミエール。」

 身体中の全てから押し寄せて意識のことごとくを塗り潰す愛しさのまま、その耳元で低い声で囁けば、自分の背に回された片手が強く服を握り締める震えが伝わった。国際空港といえどひったくりスナッチが頻発するので、片手を手荷物から離せないままでいるもどかしさが悔しくて仕方がないが、リュミエールも流石に在住者で心得ているのだろう、オスカーの手荷物の取手を一緒に握り締め、二人の指先が絡む。

 ちら、とオスカーは抱き合うリュミエールの肩越し、鋭く周囲を一瞥した。息を呑むかの如くに相当に周囲から注目されている。

 それはそうだろうな、と、抱き締めた身体を僅かに離して、見詰め合ったリュミエールの、その頰に手を添えて思う。

 深海色の瞳が、潤んで、真っ直ぐにこちらを見詰めて。想いの深さゆえの、その全身から溢れ出る、かんばしいまでの美しさと妖艶さと。

 オスカーが出てくるまでの何分か、あるいは何十分かを、明らかな人待ち顔で、おそらくはそわそわと、切なげに、これほどの美貌と色香とを無意識に辺り構わず振り撒きながら待っていれば、それだけの時間で周囲の耳目を集めに集め切るのは自明の理だった。

 オスカーといえばこれもまた似たようなもので、ただリュミエールとは自覚のあるなしが決定的に違う。リュミエールとの再会を前に、己が強い気配を発し続け、背後にぞろぞろと「あわよくば近付きに」を期待する多数の意識を引き連れてきているのはよく判っていた。

 それら全てを確認し切ると、愛しい姿の頰に添えた片手を、そのまま後頭部へ滑らせ、引き寄せて、睫毛が触れ合うようにして目を閉じ、想いの丈の全てを籠めて、唇を重ねた。

 未だ触れるだけ、だが深々と、長く。溶け合うように長く。

 己の背後に回された手は、震え、浅く服を掴んでいた指は離れてより遠くの、深い位置へと彷徨い、無意識にか、僅かな隙間をも埋めるように、オスカーの背を引き寄せて。

 音のない複数の悲鳴と叫喚とが周囲の至るところから湧き上がる気配を、オスカーは確かに耳にした。

 後頭部を支えていた手で髪を梳き、再びうなじくぐらせ、何度か角度を変えて、幾度もの口付けの末、最後に一瞬だけ仰け反らせた首筋に唇を落とした。息を呑むような、溜息をくような、ほんの一息のリュミエールの呼吸の乱れを、その一瞬で心ゆくまで堪能して、オスカーが身を離す。

「逢いたかった。リュミエール。」

 ちらりと垣間見えさせた一瞬の深々とした欲望を打ち消すように、ことさら清廉めいた爽やかな笑顔を作ってみせ、オスカーは改めて最愛の恋人の、今日の姿をまじまじと眺めた。

 眺めざるを得なかった。

「あの……、やっぱり、変ですか?」

「いや。とても良く似合っている。」

「良かった、」

 心配げなそれまでの表情から、明らかにほっとした様子でリュミエールが微笑を見せた。

「先日会った、オリヴィエに。……オスカーが、絶対喜ぶから。絶対。と言って、…ちょっとだけ強引に、渡されて……」

 ふわふわのファー生地のハイネックのトップス、秋向けといえば秋向けだが、その癖両肩が大きく開いていて白い素肌が見え、袖は長いのに丈は比較的短く。ボトムスは上半分がスリム、下半分が末広がりの一見品の良いフレアパンツだが、もう片足は膝上までしかないアシンメトリーで、共布ともぬののレイヤーが幾重にもその片足を覆いつつ、動きに連れて時々ちらりと素足が覗き見える。ピアスホールのない耳には、両耳ともの中程に、2連のイヤーカフ。

 何よりも、髪型が。左右の耳上から浅く寄せられ、後頭部でそのまま緩い三つ編みを描いているハーフアップの長い髪に、細くシンプルながらもきらめかしいラインストーンが長く編み込まれていて。

 オスカーは再度、今度は緩くリュミエールを抱き寄せ、重なるその首筋に顔を埋めて、ひっそり長々と溜息をき、脱力した。

「あの、オスカー? …やっぱり可笑しければ、パリに着いてから自宅に寄って着替えても、」

「そのままでいい。そのままがいい。」

 世にまたとない最高の綺麗と可愛いとが、こんなにも辛い。オスカーにとって。

「オリヴィエは、オスカーが何か言うならオスカーに脱がせてもらえと。意味がよくわか…」

「そのままでいい。」

 尚更。鬼か、あいつは。

 

 リュミエールは自家用車を持っていない。

 パリ市内は狭く駐車場が少なく渋滞が多く、土地も駐車場代も高く、経済面や実用性を考えてのことという意味合いも当然あるのだが、

「近年の欧州は、脱炭素の取り組みが盛んで。アーティストの移動方法やコンサートの開催方法、それから私生活でも、炭素排出量カーボンフットプリントが注視される時代になっています。もちろん私は、まだそこまで表立って活動することは少ないんですけれども。」

 生まれも育ちも都会っ子で当然のように民主党支持、合衆国の企業法務でもカーボンニュートラルの取り組みをもはや知らぬ存ぜぬで通せない昨今ではあったが、オスカーはどちらかというとこの手の話に頭を抱えたくなる側の人間だった。知るか、と言えるものなら言ってしまいたい、という。恋人がそれで今後苦労することになるというのなら、尚更。

 とはいえ車は逆にパリ市内では動きづらい、というのは事実であったので、CDG空港からの移動もパリ市内の移動も、今回は公共交通機関の利用を前提にしてある。鉄道R E Rは、特にCDG空港とパリとを結ぶB線は治安が決して良くはないので、少し時間は掛かるがパリ市内までは空港バスロワシーバスを使って移動する。

 多少の時間を要そうが、別に問題ではないのだ。市内の観光に時間を割きはするが、それが目的ではないのだから。

 愛しい恋人が、もはや隣にいる。

 バスの車内の座席で二人並んで座り、荷物を預けてようやく自由を得た両の手を使って、恋人の肩に手を回し、身を寄せ、空いている側の手でリュミエールの両手を包む。広くはない車内でかつ見通しが良いのでリュミエールが躊躇ためらうかとも思ったが、リュミエールは逆らわず引き寄せられ、ずっと長く、オスカーの首筋に顔を埋めたまま、目を伏せ、閉じ、時折瞬いて、睫毛がオスカーの首筋をくすぐり、自らの両手を包むオスカーの手を不意に握り返す。小さく繰り返す息を時々詰めては、細く長く震える吐息を密やかに吐く。

 それは恋の喜びというよりも、何処どこか酷く傷付いている、といっそ表現した方がしっくり来る姿で。

 人生で初めて、かつ極めて唐突に恋を覚えさせられ、すぐさまその身を遠く独り放り出されるとこうなるのかと。

 可哀想なことをした、と偽りでなく胸を痛めてオスカーは思うが、世に無二の存在のこのリュミエールがそれほどまでに自分に心を傾ける、そのことに、否定し難く満たされる支配欲とどこまでも深く果てしのない甘さとが、同時に相俟あいまってオスカーの胸苦しさを倍増させる。

 道中、一度だけ

「……本当に。良かった。…貴方が、無事で…。」

 そう呟きながら、両目から一粒ずつだけの涙を零し、その時だけオスカーの手から離した片手を、オスカーの左胸の上で、何かを確かめるようにゆっくりとすべらせて。

 それがあの日見たという夢のことを指しているのは明白だったが、オスカーは何をも追及せず、ただ空いた片手でリュミエールの頭を撫で、涙の筋を拭い、引き寄せ、その額に口付けた。

 そのまま約1時間、ほとんど言葉は発さず、息遣いと、その震えと、身体の暖かさと、引き寄せる腕や握り合う手に時折籠もる力と、数度触れたキスと、隔てるものなく見詰め合う瞳と瞳とで、幾万の言葉に劣らぬ無言の会話をずっと続ける。言葉での会話はこれまでも毎日リモートで交わしていたのだから、今、生身で逢えているこの時はこれで良かったし、これが何よりも正しいことだった。

 パリ市内、オペラ座の前の停留所に到着する。近場に取っておいたオスカーの宿泊ホテルに荷物を預け、もう一度市内の路線バスを利用して、リュミエールの手を引いて歩き、着いた先はトロカデロ庭園。

 目の前には、エッフェル塔。

 並んで歩き、庭園の噴水側へと歩み寄り、目の前のエッフェル塔を、手を繫いで共に見上げる。ちなみにオスカーだけは、周囲の人波が微かなざわめきとともに、さあ、と二人の道筋を空けるように引いたのを認識している。

「……いつだって、いろんな場所から、幾度でも、目にしているのに。」

 この地に落成して130年余りの『鉄の貴婦人』を見上げながら、長い睫毛を瞬かせ、リュミエールが静かに言葉を紡ぐ。

「今日のこれが、同じエッフェル塔だとは。とても、思えないです。」

 そうしてようやく、ようやく戻ったその至上の微笑を、オスカーへと向け。

「……貴方が、いてくれるお陰で。」

 清艶と。幾重も、花開くように。

 リュミエールはオスカーの方を向き、オスカーはリュミエールの方を向いて、両手を繫ぐ。

「……ようこそ、オスカー。…お待ちしておりました。」

「…ただいま。リュミエール。」

 そう言うのが、一番正しい気がした。

 いつであろうと、己の心の戻るところ。この存在の下へと。

 今少し。どうか我に返ってくれるな、と願って。

 目を閉じ、愛しいその存在の薄紅色の唇へ、キスを落とした。

 

 連続でシャッターを切るレフカメラの、実に高らかな音が辺りに響く。

 

「いやー、完・璧☆なシーンだね。ちょっと妬ましいくらい。あ、あんたたちの関係に妬いてるって訳じゃないのよ? 二人揃って雰囲気作ったら人外さ倍増の、その美が羨ましいだけで。」

 合衆国にいる時よりはやや大人しい格好をしているが、それでもこれだけ目立つ人間をどうして見落としたのか、と、オスカーは頭を抱えそうになった。直前まで物陰に隠れていただろうことは、おそらく当然だとしても。

「オリヴィエ!?」

 リュミエールがぱ、と慌ててオスカーから両手を離し、頰を色付かせる。どことなく、オスカーにはロスタイムが終わったような気分だった。米国人の魂、オスカーも高校・大学と熱心にプレイしていたアメフトにロスタイムの概念はないが。

「ハァーイ、リュミエール。ちょっと見せて。よし、完璧。このくらいは当然って? さっすが私のスタッフ。これなら交渉材料には充分。」

 挨拶から後の後半の台詞はリュミエールにでなく、オリヴィエの隣で一眼レフのモニターをオリヴィエに見せているカメラマンらしき人物に向けられている。ミラーレス一眼が既に市場の主流にある昨今の中で、プロの本気の機材。

「おい、なんだ。勝手に撮ったのか。」

「撮ってあげた、んでしょ。あんたたち自身じゃ撮れないんだからさ、当然だけど。心配しなくても大丈夫、すっごいいいで撮れてるから。ここ、エッフェル塔に近くて画角が難しいし、逆光になるから綺麗に撮るの大変なんだけど? それをこれ以上ない最良の腕前のカメラマンが」

「そんな事は心配していない。」

「そーお? 正直、すっご~~~く欲しいでしょ? この一枚。

 この季節のパリには珍しい、抜けるような快晴。秋の日に鮮やかに色付く木々。恋人との一生に一度の思い出。最高のカメラマンが手掛けたベストショット。」

 カメラマンが持つ一眼レフを綺麗にネイルの入った人差し指で指しながら、パリの街並みに合うシックな装いでありつつもフルメイク完全装備のオリヴィエがわざとらしくポーズを決め、ルージュの乗った艶やかな唇で婉然と微笑んでみせる。

「…………。」

 沈黙した時点で、とうの昔に見抜かれている程度にはオスカーに形勢不利だった。

「オリヴィエ?」

「うん、すっごく似合ってる。流石は私のコーディネート。こなしもバッチリ、やっぱりそのボトムスはすーって背筋が伸びてないとね。ブーツもよく合うのがあって良かった。送ろうかとも思ったけど。」

 オリヴィエがリュミエールに歩み寄りつつ、上から下まで妥協のない鋭い視線でがっちりと確認している。

「ヘアセットも綺麗にできたね。偉い偉い。」

 艷やかに乱れなく流麗に流れるリュミエールの髪を撫でるオリヴィエを、オスカーが渋い顔で睨む。

「慣れてはいませんでしたが、頑張りました。あの、オスカーに感想を伺ったら、言葉では褒めていただいたんですけれど、何とも言えないようなすごく微妙な表情をなさってて、」

「ああ、それは滅茶苦茶喜んでるね。心配しなくていいよ、大丈夫。」

「何の用だ。どうしてここにいる。」

 堪りかねたオスカーが二人の会話に割り込む。

「撮影。見ればわかるでしょ。」

 撮影だろうと撮影でなかろうと、いつだって思う存分まで散々着飾っているというのに見て判るか。とオスカーは内心で突っ込んだ。

「今日は俳優じゃなくて、モデルのほうのね。合衆国ステイツの、そんなに部数は多くないけどファッション誌。」

「どうやって俺たちの動向を把握したのかは知らないが、それならそれでとっととその写真のデータを置いて撮影の続きに行ってこい。戻ってくるな。」

「データ欲しがる素直ー。日程はどっちからも聞いてたし、あんたのことだから直行便で、日中のできるだけ早めの便で着く、って考えたでしょ? まあロスからの直行だと、早くてもほぼこっちに昼着のしかないけど。それで到着時間は読めるし。今日の予定は何にしてた?」

「……パリ市内の観光。」

「ほらね、そう来ると思った。で、最初にエッフェル塔でしょ。こっちもロケーションの予定はしてたし、どうせだからって撮影しながら待ってた、ってワケ。こっちが待ち構えてる、って事さえ事前に知られなければ、あんたの行動パターンなんてだいたい判るわよ。」

「本気で掛かってくる割に適当な当て推量をするな。」

「当たってるんだからいいでしょ。いつだって私は本気だよ、どういう状況であっても常に最高を目指さなくてどうすんの。じゃ、それの本題。

 あのね、どう考えても私が着るよりあんたたちが着たほうが絶対映える服が何点かずつあるのね。それと今回は、私のブランドの新作の撮影もあって、そっちも同じく。どうせ市内観光なんでしょ? 今日パリのあっちこっち観光名所で撮影する予定だから、同意してくれるんなら市内観光の足と、都度ごとリュミエールのこれ以上はない美麗なお着替えとが付いてくるんだけど。そう考えると、むしろお得じゃない?」

「……。お前も漏れなく付いてくるだろう。」

 オスカーは別にリュミエールをことさら着飾らせたい訳ではないが、興味がない訳では全くない。この上ない美貌の己の恋人が最高の装いをするというのならいつだって見たいし、むしろ自分が同席していない場でそんな事をしてほしくはない。なおかつリュミエール本人もオスカーもこの領域に通じている訳ではない以上、こんな機会はオリヴィエがいる今回くらいに限られることも予想が付く、それゆえの無言の数瞬。

 一応の抵抗の発言はしてみせるものの。

「出来立てほやほやカップルの初デートの邪魔なんてしないってば、そんな無粋なこと。撮影の時以外は好きなだけ二人の世界に浸っちゃって。」

「それも、難しい気がしますけれど……」

 リュミエールが苦笑しながら話を継ぐ。

「あの。名前が出たりとかは、」

「ないない、『写真右:トップス云々』『写真左:ボトムス云々』とか書いておけばいいから。まあ、ちょっとした話題にはなると思うけど。『誰だ』って。もちろん、ファンが付く方向性のね。」

 そう言うとオリヴィエは、リュミエールの方を真っ直ぐ向き、珍しくもやや真面目な気配を軽く纏ってから話を続けた。

「あんたの今の事情はよく判んないけどさ。将来的にはそんな事、気にしなくてよくなって、ピアニストとしてあちこちで広く活動したいっていう希望があるんでしょ? なら今のうちに、いろんな形で種を蒔いておくのも悪くないと思うんだ。今回のこういう形なら名前は出ないし、どこかからか何か聞かれた時でも、あんたが意図したことじゃなくて友人に請われて仕方なく、っていう体裁も取れるんだし。」

 リュミエールは数度瞳を瞬かせると、意外そうに、だが心から嬉しそうに、ふわりと柔らかい微笑をそのおもてに浮かべた。

「そうですね。…ありがとうございます。」

 そこでリュミエールの視線が、オスカーへと流れる。

「ええと、でも、オスカーがいいのなら、で」

 綺麗な恋人が、自分を気遣った発言をしてくれることに、いつだってオスカーの胸は甘くなりつつも。

「良くはないが」

 二人きりになる時間は、確実に削られる。

「?? では、」

「はいはい話が面倒になるから、そこでおしまい、二人ともOKってことで。じゃあ交渉成立、始めよっかー。」

「さっきの撮影データは先に寄越せ。」

「??? オスカー、いいのですか?」

「ああ。」

 いずれにせよ、リュミエールに友人からの要望をなかった事にさせるのはかなり難しい。何も言わずとも、どう言われようとも、リュミエールはオリヴィエの頼みを最終的には聞くつもりでいたはずだ。オスカーが強いて却下するのでもなければ。

 にしても。

 オスカーは少しだけリュミエールのかたわらから離れ、オリヴィエに近寄って小声で話し掛ける。

「お前がリュミエールの事情と今後とを、そんな風に考えていたとはな。」

 今になって初めて気付いたが、オリヴィエが自分と同じようにリュミエールについての詳細を知らない事は、正直なところオスカーにとって多少なりとも心強い事だった。普段、その辺りの事情をほぼ把握しているカティスのすぐ近くにいるという事にも少なからぬストレスがあったのだと気付くし、リュミエールのその点をあえて追及せず、リュミエールの今後をすらも考慮に入れて行動しているオリヴィエを、オスカーは多少見直した。自分も揺れたりせず、大切な恋人を信じて、かくあらねばと。

「うん、ちょっとそうかなって思ったから言ったけど、あとはまあ思い付きで適当に。受けてくれる口実にはなるかなって。」

 オスカーはすぐさま前言を撤回した。カティスに紹介したことで奴の食えなさ振りをこいつに伝染させたんじゃないだろうか、と、オスカーは己の過去の所業を振り返らざるを得なかった。

 

 リュミエールとオスカーは着ていたものを一新し、オスカーですら軽く何かのメイク道具で多少表面を整えられたが、オリヴィエはそちらをメイク係のスタッフに任せ、自身は長々とリュミエールのメイクを自ら手掛けて。

 出てきたリュミエールは、結いを解いてセットし直した長いストレートの髪、すらりとしたその細身に、さっきの格好とは一線を画した男らしいアンサンブルの装いと、その中の抑え難い甘さとを同居させ。きりと引き締まった目元と眉と、長く潤む睫毛と、物言いたげにうっすら色付けられた唇。

「どう? リュミエール。」

「どう、というか、」

 鏡を見せられ、自らの服装を見下ろし、顔を上げ、待っていたオスカーに向かって微笑い掛けて。

「オスカーが気に入ってくださるかどうか。」

「正直に言ったなら、オリヴィエこいつを無駄に付け上がらせる事になる。後から言う。」

「あんた、そこまで言っておいて、素直に表現しない理由、もはやある…?」

 

 エトワール凱旋門で。

 アレクサンドル3世橋で。

 パリ市庁舎で。

 コンコルド広場で。

 

「Hi. 今晩、空いてる?」

 Bonjour、ではなく。

 もともとオリヴィエが着る予定の服ばかりだっただけあって、モデルとして着用する枚数はオリヴィエとほぼ体格が同じリュミエールの方がオスカーの倍ほど多く、空いた時間、オスカーは遠巻きにオリヴィエとリュミエールの撮影を眺める。

 愛しい恋人の様子に気を取られていると、自然にオスカーの纏う気配が甘く緩むのだろう、女性たちからそうやって比較的気安く声を掛けられることはしばしばあり。今回は女性の二人連れで。

「やあ、麗しいレディたち。合衆国から?」

「そう。あなたもでしょ?」

 手の空いているスタッフとオスカーとが時折交わす雑談はアメリカ英語アメリカンイングリッシュで、話し掛けてくる女性たちの言葉も同様であり、大半は異国の地での同国人であることを判っていての声掛けであるようだった。

「パリはどうだい?」

「綺麗で歴史があって素敵なところだけど、スリやら何やらがとにかく多いのには閉口するわね。」

 彼女らの感想にオスカーも同意する。

 パリは決して治安が良いとは言えない。狭い市内に観光名所があちらこちらとひしめき合う中、かなりの数の犯罪もしくは犯罪類似の行為がみられる。押し売り、進路を塞いでの物乞い、アンケートを装ったスリ、複数の少年少女たちの未成年ストリートギャング。ロサンゼルスもかつては酷いものだったが近年やや改善傾向にあるのに引き替え、パリでは、少なくともスリは増加傾向にあるのだとも。オスカーも渡航の事前に、リュミエールから注意を受け取っていた。

『バッグは最低でもファスナー付きで、体の前でしっかり持てるものを。最初から持たなくて済みそうなら、そのほうがいいかもしれません。財布はバッグの奥か、服のできるだけ奥の方に。ジャケットの内ポケット程度だと、たとえボタンを閉めていてもあっという間に開けて持っていかれてしまいます。気付かなくても、気付いても。』

 その時のリュミエールは、哀しそうに微笑って言葉を続けて。

『戦地や貧しい国から、もしくは様々な事情があって、多くの人々がフランスの都市部へやってきますが、そのうちの一部は。フランスが彼らを受け入れる態勢も、彼らがフランスに受け入れられようとする態度も、いずれも充分ではなくて。これはフランスに限らず、欧州諸国全般で、それから合衆国でも中米、南米からの人口の流入が、あるいは属性クラスの断絶が、同じような問題を抱えているのかもしれませんが。フランス人でも彼らを嫌悪する人々は少なくありません。言葉を覚えようとせず、彼らだけのコミュニティを形成し、地域に馴染もうとせず、子供たちを教育機関に通わせず、犯罪を行わせていると。手続きをしさえすれば、せめて子供たちは皆、無償で教育を受けられるのですけれども。』

 それからこうも。

『言葉を超えて、音楽で伝えられる何かが、私にあればと。そんな事を、考えたりもします。』

「ねぇ、今日はパリこっちに泊まるんでしょ。よかったら夜、どこかで落ち合って私たちと飲みに行かない?」

 もちろん女性だけで夜間、外に出ることの治安面も考えてではあるのだろうが、女性二人のうちの一人は随分と積極的にそれ以上の態度で、オスカーの片腕に両手を回し身体を押し付けてくる。腕に当たる豊満な胸の感触は、オスカーなどにとっては慣れたものであったし、もちろん悪い気分がするものでもないが。

「熊出没注意、を避けようとして、狼に食べられるのがご希望かい? レディ。」

 オスカーは空いた片腕をあえて女性のほうへと寄せ、その耳元で囁き、相手が両腕を解いて応じかけようとしたところでさり気なく身を翻し、背後に回ってその肩を捉えた。捕まらないようにするための最善の手段は逆に捕まえてしまうことだった。この辺りの応じ方と身のこなしとは、長年の経験で積んだものというより他にない。

「申し訳ないが、今日は最愛の恋人と一緒なんだ。夜も彼と過ごす予定でね。」

「彼?」

 オスカーが手首を翻し、離れた位置で撮影を続けているリュミエールを示せば、キャア、という歓声とワァオ、という感嘆とが二人の女性から同時に響く。

 こちらへ視線を寄越すリュミエールに、オスカーは女性の肩から手を離し、ウインクを投げて返した。リュミエールは顔を染めて戸惑い、視線を逸らして撮影の続きに戻る。

「どっちのほう? 片方は、そういえばオリヴィエじゃない? 俳優でモデルの。」

「お嬢ちゃん、恐い想像をさせないでくれるかな。俺があんな極楽鳥相手にこの情熱を燃え上がらせる訳がないだろう。こっちを向いた清楚な方だ。」

「そうなの? ちょっと意外かも。あなた、どちらかというと派手好きっぽいし。」

「そうか? まあ、確かに女性が相手なら、華やかなのも大歓迎だが。」

「あら、バイ?」

「いや、ずっとストレートだったんだが。あいつだけは例外だった。」

「まあ、わからなくもないわね。オリヴィエもだけど、あの人も別の意味でとても綺麗。」

 積極的、ではなかった方のもう一方の女性がオスカーの発言に応じて、オスカーは唇の端を引き上げ、彼女と視線を合わせて笑った。深々とした顕示欲。独り占めしたいのはもちろんだが、その一方で思う存分、こういう機会とぞばかりに、極上の恋人のリュミエールを誰彼構わず見せびらかして回りたかった。俺のものだと。

 目の前であからさまにやればリュミエールを恥ずかしがらせるが、こうして遠巻きにならいくらでも堂々と自慢し放題だった。

「オリヴィエも素敵だけど、私はあっちの人の方が好みかな。是非みんなで、と言いたいところだけど、夜は恋人同士の時間なのね?」

「今こうやって、オリヴィエにあいつを貸し出しているのも本当は惜しいくらいでな。用事が済めば、すぐに攫ってまた二人きりだ。」

「すっごく残念。もし偶然会ったら、その時はよろしくね。」

 物分かりのいい女性たちが「じゃ、今晩、会えるのを楽しみにしてるわー!」と大きく手を上げて去っていくのを、オスカーは惜しみない笑顔で見送った。

「意外でしたね。ご無沙汰しています、ミスタ・ロックウェル。」

 背後から唐突に呼び掛けられた声に振り返れば、何故こうも旅先で知り合いに出くわすのかと思わせる顔があった。いや、オリヴィエの場合は待ち構えられていたのだが、こちらはまさに偶然なのだろう。

「ミスター・ノイマン。珍しいな、こんなところで。」

「エルンストで結構です。あなたは弊行の大事な顧客ですから。実家チューリッヒからの帰りに少し立ち寄ったところです。あなたがこんなところにいらっしゃるとは思いませんでしたが。」

 そう答えつつ、エルンストは左手の指先で眼鏡のブリッジを軽く持ち上げた。