■ Sonare(2)-4

 幕が上がり、観客の目前で繰り広げられるのは、これから訪れる客人たちを饗応すべく着飾った女主人や下男下女が準備に忙しなく行き交う、パリ郊外の貴族の邸宅での絢爛豪華な饗宴模様。

「にしても、物語の端緒から不穏だな。しかも愛や恋ゆえでなく、虐げられた平民による革命の気配で、とは。」

「そういう時代を過たず描き出している、とは言えるかと。」

「流石はヴェリズモ真実主義・オペラ。バロックや古典派とはわけが違うな。」

 コワニー伯爵家の華麗な宴の準備の最中さなか、バリトンによって滔々と歌い上げられるのは、生まれながらにしてコワニー家の召使いでありながら書物に親しみ篤学で、故にこの虚飾と退廃に満ちた貴族社会を心の底から呪い蔑む、平民ジェラールの怨嗟の念。

「筋書きは知っていますか?」

「いいや。昨日のうちに粗筋あらすじを確認した程度で、結末までは読んでいない。どちらかというと、制作年代頃のイタリア情勢について調べたりはした。」

「貴方らしくていいですね。物語の流れについては、そのくらいのほうが楽しめると思いますよ。」

 自分の発言のどの辺りを指しての『貴方らしい』なのかは今一つ定かではなかったが、そういう風にリュミエールが何かしらの形で自分のことを評するのは、オスカーにとってそこはかとなく心地よく、どこか少しくすぐったい気分もした。

 宴の準備の進む中、コワニー伯爵の娘、美しきマッダレーナはこの宴席への参加に乗り気でない。宴は退屈で、ドレスは窮屈だと。下女のベルシはそんなマッダレーナを宥め、母親の伯爵夫人は責めて、マッダレーナは渋々ドレスに着替え、髪を飾り立てる。やがて招待客が次々と現れ、聖職者や貴族たちが挨拶を交わす中、詩人とはいえ平民に過ぎず、そんな虚栄を憂えるアンドレア・シェニエは、マッダレーナの瞳の中に生の歓喜を見出す。

 その二人こそが、この物語の中心を織り成す、やがて恋人同士となる二人だった。

「とはいえ、マッダレーナはまだ愛を知らず。」

 舞台を視界の端に入れながら、リュミエールがゆるりと、深海色の瞳の視線をオスカーへと向け。

「戯れに詩人へ向けて、愛の言葉をもてあそび。」

 誘われるように、オスカーは薄く笑いながらリュミエールの片手を手に取り、指先で捉えたその形の良い指先へと唇を寄せ。

「詩人はマッダレーナを諌め、虚飾と腐敗に満ちた世を憂い。その中でなお燦然と輝く、真実の愛の尊さを力の限りに詠う。」

 著名なテノールのアリア、『ある日青空を眺めて』だった。

「俺には当然敵わないが、主人公がまあまあの美丈夫で何よりだ。声もいい。お前の天上の声音には遥か及ばないが。」

 リュミエールは取られたままの手に逆らわず、オスカーのそんな低い声に微笑って返した。

 詩人シェニエの真情溢れる薫陶を真正面から浴びたマッダレーナは、己を深く恥じ、謝罪の言葉を口にしてその場から走り去る。

「お前は愛をもてあそんだりはしなかっただろう?」

 指先に唇を付けたままオスカーが囁き、もう一方の手を伸ばして、掌をその艶やかな頰に添えた。

もてあそぶことすらできない程に、何も。何も知りませんでしたから。彼女よりもっと酷いことになっていたのかも、しれません。貴方に出会えていなければ。」

「お前が愛を知らなかったことを、悪いことだとは思わないが、」

 オスカーは掴んだままだったリュミエールの指先を離し、頰に触れていた手をさらに伸ばして首筋へと廻し、軽く力を込めてその身を緩く抱き寄せた。

 触れ合い寄り添う身体の、染み渡る暖かさを実感する。

「お前に愛を教え、伝え続けるのは、いつだって俺でありたい。」

 

 宮廷社会の矛盾を声高に批難したシェニエもまた、その場を辞し。

 何事もなかったかのように続けられようとしたパーティーへ、貧民の一団が乱入し、召使いのジェラールもまた、コワニー家と決別して彼らとともに去り、やがて来る革命の未来へと身を投じ。

 それでもなお変わらぬ、おそらくは変わることのできなかった優雅な宴の、長らく続いた貴族社会の終焉の気配とともに、第一場の幕は降りた。

 

「第二場。5年後の場面までの、この幕間に、フランスでは実に様々な出来事がありました。」

 リュミエールの揺蕩たゆたうような声が、歌劇の流れを補足してオスカーに囁き掛ける。

「三部会の招集とその破綻。フランス革命の始まりを告げるバスティーユ襲撃。国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの処刑。……二人が断頭台ギロチンに架けられたのは、当時の『革命広場』。昨日のあの、コンコルド広場、その場所です。」

 リュミエールがどこかとがめいた気配で、だがその咎はまるでリュミエール自身に向けられているかのように、オスカーへと淡い微笑を投げ掛ける。

 オスカーがなぜそう感じたのか、オスカー自身にも明確な説明はできなかった。

「共和制が樹立した後も、争いは止まず。

 自由貴族、ブルジョワジー、第三身分平民の革命諸派の内部分裂。幾度も繰り返される抗争、加速度的に急進さを増す革命勢力。果ては各地での内戦の上に、旧体制の周辺欧州諸国からの包囲網と、それに抗うフランス革命戦争。その最中さなかで沸き起こった、 『La Terreur』恐怖政治 。中心にいたのは、」

 第二場、セーヌ河畔のペロネ橋のたもと。数多の民衆が熱狂的に迎える姿、

「ロベスピエール。」

 オスカーが呟けば、呼応するようにリュミエールの言葉が続いた。

「革命裁判と処刑、獄死、内戦、対外戦争で、失われた命は50万人とも100万人とも。人口2700万人の、当時のフランスで。

 ……避け得ることは、できなかったのかと。よく、思います。」

 目を憂いに細め、悼みの声音で。

 舞台の上で民衆に囲まれ歓声を受けるロベスピエールやその他の領袖りょうしゅうら。その中には、革命の立役者となったかつてのコワニー家の召使い、ジェラールの姿もある。

 舞台の隅、革命に共鳴はしたものの穏健派であったシェニエは既に時流の流れから遠く、かつて急進派を批判した言動から、人心を乱す者として身の危険をすら感じざるを得ない立場にあった。親友のルーシェは彼に逃亡を促すが、シェニエは繰り返し彼の元へ届けられ、繰り返しシェニエを励まし力付けた手紙の差し出し人、「希望」を名乗る女性への愛ゆえに、それを拒む。

「ロベスピエールは弁護士だったそうだな。」

「ご存知でしたか。」

法科大学院ロースクールの在学中に初めて聞いた。父親も弁護士で26歳で結婚し、花嫁はその時、既にロベスピエールを身籠っていたと。当時のフランスの敬虔なカトリック社会の中では、婚前交渉など破廉恥の極み。その息子が後年、世界にも名高い恐怖政治の首領となった、と知って、」

 舞台を去るロベスピエール、狂信的に彼への崇拝を叫ぶ民衆の姿を目で追いながら、

「…少し、身の引き締まる思いがしたのを覚えている。」

 オスカーは薄ら寒そうにそう小声を零し、リュミエールはそんなオスカーを見ながら声を立てずに喉の奥で笑って、その腕に腕を絡め、身を寄せた。

「ちなみに、貴方にご子女ご子息は?」

「いない。……多分。」

 素早い断言と男側であるがゆえの極めて正直な付言は、ひょっとすると昨日の出来事に近しくリュミエールを傷付けるかとも思ったが、オスカーのその回答はリュミエールの気に入ったようで、絡む腕越しに小さな笑いの気配が伝わった。

 そうして舞台上では、再会を果たしたアンドレア・シェニエと「希望」であったマッダレーナが、彼らを共に取り囲む恐怖と危険、互いの不安と、それでも絶えることのない希望とを交わし合い、永遠の愛を誓っていた。

 だがそんな二人の歓喜も、次の瞬間、伯爵家の頃からマッダレーナに恋慕を傾けていたジェラールによって裂かれようとし、シェニエは親友のルーシェにマッダレーナを託して、杖に仕込んだ剣を抜き、自らはジェラールと対峙する。

「悪役と思われがちなジェラールですが、彼の立場は複雑です。遥か以前から叶わぬと知りつつマッダレーナを愛し、革命が起きて後は動乱の最中さなかで行方不明となったマッダレーナを探し続け、ようやく見付けた彼女は既にシェニエと愛を誓い合っていて。シェニエと一度は対立するものの、彼はシェニエの剣で傷付けられた後、騒ぎが周囲へ露呈する前に、確かに言っているのです。」

 バリトンが力を振り絞り歌う、

『逃げろ、シェニエ! 革命裁判所検事フーキエ=タンヴィルはお前の名をリストアップした。』

「…1794年6月の当時。革命裁判所の裁判に掛けられるというのは、逃れられぬ死刑宣告と断頭台ギロチンでの処刑とを、そのまま意味していました。」

『行け、そしてマッダレーナを守ってくれ!』

「愛する相手が同じなら、協力して彼女マッダレーナを守ればいいものを。わざわざ一度は決闘するなど。解せんな。」

 オスカーが心底不可解そうに呟けば、リュミエールは微笑いながら、詠うように応えた。

「私も、経験はないですけれど。

 一度はその立場になってみれば、何かが判るのかもしれませんね。」

 

 第三場。アンドレア・シェニエは捕らえられた。

 裁判とは名ばかり形ばかりの、一方的な死刑判決は目前に迫っている。

『大々的に詩人を告発し、世間をその名で大いに轟かせれば、あの女はやってきますよ、ここへ。愛する男を救おうとして。あなたに助命を乞おうとして。』

 これから裁判が開かれようとする法廷で、密偵はジェラールに囁く。

『そこをあなたが、奪ってしまえばいいのです。』

 その甘言に抗えず、シェニエを革命の敵として告発する数々の文章を綴り署名する自身を、ジェラールは心の底から呪う。革命を心から信じ、世界と万人への愛を信じた己が、その愛ゆえに淪落するこの様を。

 だがそのジェラールも、己の危険を顧みず現れたマッダレーナの言葉に改心する、

『彼の命をあがなえるのなら、私の身を捧げます』

と。躊躇いのない言葉の尊さに。

 高らかに歌われるソプラノのそのアリア、『亡くなった母が』の途中、オスカーはリュミエールがその歌声の一節に、目を細め、夢見るように重ねて歌うのを微かに耳にした。

「...Porto sventura a chi bene mi vuole...」

 珍しくも、そう。

 L'amorを繰り返し歌い上げる印象的な一節ではなく、リュミエールが口にしたそのフレーズが何の台詞なのか、その場のオスカーには判らなかった。

 

 裁判が始まる。

 シェニエはそのペン、その詩をもって祖国を讃えた己の生涯を誇り、死を恐れぬことを歌い。

 命を賭してシェニエを救うとマッダレーナに約束したジェラールは、告発の虚偽を明らかにし。

 だが最終的に法廷の空気を支配し、まさったのは、血に飢えた数多の民衆の熱狂だった。下された判決は死刑。

 収監され、翌日には断頭台に架けられるシェニエの下へ、マッダレーナはジェラールとともに、身分を偽り面会のため刑務所へと入ってゆく……

「貴方は、結末をご存知ないと」

 リュミエールがオスカーの方を見、囁き掛けた。

「そう、仰いましたね?」

 その瞳の色は、昨日のコンコルド広場、オスカーに初めてこのオペラのことを教えた時の、深みを増した青の色をしていた。

 

 

 リュミエールはガルニエ宮を出てオペラ広場の方へと向かい、手足を軽く伸ばして空を仰ぐと、ファサードの正面の階段を上って人波を逃れ、背後を振り返って遅れて後から付いてきているオスカーをそこで待った。

「いかがでしたか?」

「納得いかない。」

 同じく階段を上りながら、不満をその表情から隠しもせずにオスカーは眉を顰めて零す。

「男の運命など本人の選択で、死も已む無しとするのは構わない。が、彼女がああなるというのなら話は別だ。唯々諾々として享受したりなどせず、最後の一瞬まで全身全霊で運命に抗うべきだろう。」

「貴方ならそう仰るのではないかと、何となく思ってました。貴方らしくて素敵です。」

 リュミエールはそんなオスカーへ、少し離れた距離から微笑みを投げ掛ける。

「ただ、舞台のシェニエのあの選択は、あれはあれで、彼女の魂を救ったのだと。私は、そうも思いますよ。」

「……救い。」

 オスカーの歩みはオペラ座の正面、ファサードの中央、ゆっくりとリュミエールの傍らへ追い付き、二人は目を見合わせ、視線を交わした。

「…お前がシェニエならどうする? 舞台の筋書きと同じように、彼女が来たことを喜び、受け入れるか?」

「私が、シェニエなら……?」

 リュミエールはオスカーの問を受けて、目線を下げ、考え込み、目線を上げて、再び考え込み。

 そうしてふと、最善の回答に思い至ったように、この上なく美しい笑顔で破顔して。

「そうですね。私のことなど、忘れてほしいと。私など一度も存在しなかったかのように、忘れて、幸せになってほしいと。ただそれだけを、願うと思います。」

 オスカーは絶句した。ただひたすらに、どこまでも言葉を失った。

 来るな、でもなく、ましてや来てほしい、でもなく、忘れろと?

 オスカーが手を伸ばしその頰に触れようとする、それが動きとなって顕れる一瞬前、リュミエールは緩やかに身を翻して、ファサード前の階段を一歩ずつり始めた。

 そうして顔を上げ、仰ぎ見ている天は、昨日と打って変わって雲の垂れ込める、灰色の空。ややもすると雨が降り始めそうな空模様で。

「...Porto sventura a chi bene mi vuole...」

 再び、リュミエールのあの歌声が、オスカーの耳に届いて。

「…リュミエール。その台詞は」

 一体、とオスカーがリュミエールに訊ねようとした時、オスカーの目線の先、そして階段を下り終わり、前方へと視線を戻したリュミエールの正面には、

「……感心いたしませんな。そのような言葉、そのような歌詞を、口になさるなど。」

 トレンチコートと手袋とを身に纏い、そうリュミエールに語り掛ける大柄な男の姿があった。

 右目の瞼から頰に掛かる鈎裂き傷。

 リュミエールは自らに投げ寄越される男の瞳に目線を遣り、オスカーからは見えなかったが、おそらく幾度かの瞬きをして、

「ヴィクトール。」

 驚いたような声音が、リュミエールのその声で綴られた。

 それから初めてその時に気付いたように、やや身体を強張らせ、相手のその顔と、ちらりと背後のこちらのオスカーの顔とに視線を遣る。

「…なるほど。やはりあの者が、先日の演奏会の後にお話しいただいた、当のお相手だと。……で、あれば。

 リュミエール・・・・・・、のほう、ですね?」

「…はい。」

 少しほっとしたように、リュミエールが身体の緊張を解き、しかし申し訳なさげに、ヴィクトールへと言葉を継いだ。

「ですが、ヴィクトール。その、」

「失礼。言い方について、ですな。多少は故意に、です。いささか、底意地が悪かったですかね。」

 そうして目を細め、ふと、男はオスカーへと視線を投げ掛けた。

 その瞳の奥には遠慮のない、圧力の高い光がきらめく。

「…あなたのことを、あまり知らない相手のようなので。」

 言われたことの意味を理解した瞬間、オスカーの意識の全てをその男への果てしない敵意が襲い、全身の毛が逆立った。

「ヴィクトール。それは私が、」

「重ねて失礼を。いったん、それはいておきましょう。本日、俺が用事があるのはあなたに、ですから。」

「私に用事、ですか? というか、よくここにいると判りましたね?」

「ほぼ、通りすがりではありますが。『アンドレア・シェニエ』の公演と聞いて、あなたならもしや、とも思いました。」

「私たちも、たまたまチケットを頂いただけなんですけれど。にしてもこんなところにまで、どうされましたか? 先日お会いしたばかりだというのに。」

「この間は演奏会後で、あまりゆっくり時間がありませんでしたから。あの後で休みが取れましたので、改めて再度、申し込みに参りました。」

 そう言うと、その男は両手袋を外し、片膝を付いて、リュミエールの前にはべった。

 外した一双の手袋を左手に纏め、同じ手には一本のみ包まれた真紅の薔薇を持ち。

「慣習に従って108本用意しても良かったのですが、あなたはそういう、虚礼めいた目立つことがお好きでないかとも思いましたから。」

 古い戦傷いくさきずまみれた手がリュミエールの左手を取り、唇を近付けてその指先に口付けた。

 首を傾げるリュミエールの表情は、背後のオスカーから見えない位置にあったが、おそらくそれは苦笑している時のリュミエールのそれだった。

「...Fino alla morte insieme?」

 ヴィクトールの問に、

「Porto sventura a chi bene mi vuole.」

 リュミエールは首を振りながら答える。

「Voulez-vous m'épouser ?」

「Merci, mais j'ai un petit ami.」

 フランス語で、同じように。

「Ich liebe dich, willst du mich heiraten?」

「Tut mir leid, du bist nur ein Freund.」

 同じ問と答とが、異なる言語で繰り返し重ねられ、オスカーには次に来る言葉がわかったような気がした。

 そして思う。やめろ、その台詞を口にするな、と。

「…結婚してくれますか?Will you marry me?

ごめんなさいI am sorryでもbut その相手はI'm not the私ではないとperson you are思うんですlooking for.。」

 リュミエールは重なる二人の手に、空いたもう片手を添え、言葉を続けて語り掛ける。

「ヴィクトール、貴方はきっと本当の愛を知らないのです。貴方も真実の愛に出逢えば、それがそうなのだと、そしてその相手は私ではないのだと、きっと判るはず。」

 そうして片手を取られたまま、上半身をゆっくりと背後へ翻しつつ、

「私は、オスカーに出逢って、教えていただいたのです。本当の愛を、あの人に、」

 階上のオスカーに深海色のその瞳を向けたリュミエールは、その態勢のまま硬直した。

「…その薄汚い手を離せ、ドイツ軍人野郎。」

 自分のどこからそれほどの声が、と自分で思うほどに重く低い声が、オスカーの口から滔々と流れる。

 昏い顔色、業火を湛えるアイスブルーの瞳、全身から焼き尽くすように湧き上がる憤怒と憎悪の気配。

「オスカ、」

 咄嗟にオスカーへ向かって駆け出そうとしたリュミエールの動きは、ヴィクトールに捕らえられたままの片手を強く引かれ、遮られた。

「この手を罵るか。それは聞き捨てならんな。」

「傷のことを言ってんじゃねぇ、リュミエールに気安く触るその手を離せと言っている。」

 オスカーが足を踏み出し、階段を一歩一歩下ってゆく。

「オスカー、」

 リュミエールが焦燥するようにオスカーの名を呼び、再び片手を引かれて、そちらを振り返り己の手を掴んだままのヴィクトールへ目を遣った。ヴィクトールはオスカーに向けたままだった視線を外し、目の前のリュミエールを見上げる。

「…ヴィクトール、離してください。私の、誰よりも大事な人なんです。」

 ヴィクトールはしばらくそのまま、リュミエールの瞳を見詰めると、やがてするりと掌の力を緩めた。

「オスカー、」

 身を翻し駆け出して階段を上ってゆく後ろ姿を、なびく長い髪を、ヴィクトールは目で追い続けた。

 全力で走り駆け上がったリュミエールの足は、オスカーの2段ほど手前で、その重い気配に竦んだように立ち止まる。

「……左手を出せ。リュミエール。」

 隠し切れない怯えの気配を纏いながら、半ば言葉に反射しただけのように恐る恐ると差し出されたリュミエールの左手を、オスカーはポケットからハンカチを出し、その手をゆっくりと手に取って緩やかな手付きでリュミエールの指先を丁寧に拭い取った。続けて右手も差し出させて拭き取り、それからハンカチを地面へと投げ捨てる。後でどれだけ清めようが、そのハンカチを金輪際二度と使う気にならないのは明白だった。

 数段降りて、階段の半ばにリュミエールと並び、視線は階段下の男を強く睥睨へいげいしたまま、片腕をリュミエールの腰に回して力の限りに引き寄せる。その手はリュミエールの服を強く掴み上げ、籠もりすぎる力が時折振動となってリュミエールの身体に伝わり、その震えはリュミエールに伝染してリュミエールの心を芯から冷やさせた。

「よく俺が軍人だと判ったな、米国人。」

「その陰気なコートの下も制服ではないようだが、その癖にベレー帽はそのまま被ってきやがって。それでなくても気付いたかもしれないがな、それだけ気配を隠す気がないのなら。」

 ドイツ連邦軍に制帽は一応あるが、ナチス時代の記憶を嫌ってベレー帽が着用されることが多い。オスカーの言葉にヴィクトールは改めて頭上のベレー帽に手を添え、位置を整えた。

「口上の前に、俺が手袋を持っていないのが心底惜しまれる。」

 もし今オスカーの手元に手袋があれば、一瞬の躊躇ためらいもなく即座にその男に投げ付けて決闘を申し込んでいたに違いなかった。

「リュミエールから俺のことは聞いたか? オスカー・ロックウェル、アメリカ合衆国弁護士だ。貴様は何者だ、名乗れ。」

 眼下の男は、血の気の多い若者を冷静に咎めるようにして僅かに目を細めると、顔を真っ直ぐにオスカーへと見上げ、問に応えた。

「ヴィクトール・ヴァント、ドイツ連邦陸軍准将。身分についてはこの話に関係ないとは思うが、一応。」

「将軍閣下か。その若さで随分な出世頭だな。」

「…出世したくてした訳でもない。」

 そう呟きながら、男の右手の掌がゆっくり握り締められるのを、オスカーは視界の端に捉えた。

「リュミエールの意向も無視して、随分と勝手な話を並べ立てていたようだが。どれだけリュミエールのことを知っているつもりだ? いつからの顔見知りか?」

「経緯が偶然でしかないのは否定しないが、少なくともお前よりは知っているはずだ。『リュミエール』しか知らないお前よりは。」

「ヴィクトール、止めてください! 私が悪いんです、オスカーにはまだ、」

 ヴィクトールの言葉にオスカーが逆上する気配を感じ、リュミエールがヴィクトールへと視線を遣って懇願する。オスカーはリュミエールの背の服地を掴んで再度力の限りに強く引き寄せ、リュミエールの押し詰まる息ごとその声を止めさせた。

「…その人に手荒な真似をするな。殺すぞ。」

 先程から何ら変わりのないごく平穏な口調のまま、一国の軍人とは思われない極めて物騒な言葉がその男の口から漏れ、オスカーは鼻で笑って、

「悪い、リュミエール。」

 ヴィクトールの事は無視してリュミエールと瞳を見合わせ、腕の力を僅かに緩め、それから見せ付けるようにその唇に唇を重ねた。触れ合う箇所越しに伝わるのは、リュミエールの動揺と、その翳で微かに、だが確かに感じる、オスカーを心から恋い乞う気配。

 唇を離して再度オスカーが男の方へ視線を遣る、そのを見計らって、何の感情の揺れも見せることなくヴィクトールが言葉を続ける。

「その人とは、先週のチャリティコンサートで一緒に演奏させてもらった。初めて会ったのは、その少し前のとある・・・行事の時だ。」

「それでプロポーズ? 今回が再度、というのであれば、その時にもう? 演奏会後に、と言ったな。はん、正気の沙汰じゃない。」

「お前の言う通り、俺はその人と会ったばかりで、まだ何も知らない。

 演奏会でのことがあってな。その出来事で、一生を懸けて全て知り、一生を共にしてほしい人だと思った。だから迷わず求婚した。…何か間違っているか?」

 オスカーの全身を支配する憎悪の熱量が増し、身体が震える。一番厄介なたぐいの相手だった。

 これほどの率直で真摯な愛情を向けられて、おそらくは意識すらしておらず、それがゆえにそんな事があったとオスカーに事情を報告することなど到底思い至らなかったであろうリュミエールは、まさに本人の言う通り『自分に向けられる好意がわかっていない』としか言いようがない。

 追い打ちを掛けるようにヴィクトールの低い言葉は続く。

「逆に俺には判らない。オスカーとやら、お前はその人と生涯を共にしたいとは思わなかったのか? 思ったのなら、なぜそれを正式に申し出なかった?」

「ヴィクトール、止めてください。私はオスカーに今、そんな事など望んでいないんです。ただ、」

 そこでリュミエールはヴィクトールへの言葉を止め、目線をゆっくりと戻して、オスカーのその表情を僅かに見上げた。

 オスカーの顔には、恋敵に向ける激しい憎悪と、恋人に向ける深い愛情が痛みにまみれる様が。リュミエールの端麗な顔には、抑え切れない哀しみが、ともに滲んで。

 リュミエールは両腕を高く掲げて、オスカーの背にその両腕を回し、首筋に顔を埋めた。

「私はただ、オスカーの傍にいたいだけなんです。…オスカーを失いたくないんです。恐いんです、貴方を失うのが。

 私なんかのことで、貴方がこんなに傷付くなんて、思わなかったんです。ごめんなさい。」

 静かに悲痛な声で綴られるリュミエールの言葉に、オスカーはゆっくりとその頭に顔を寄せ、背を抱き寄せていた片手をその髪に滑らせ、

「…リュミエール。」

 耳元で小さく低く、深く囁いた。

「お前はまだ、愛を知らない。」

 愛というものがこんなにも貪欲で、時には醜く、時には何かを憎みすらして、時に激しく、どこまでも追い求めるものなのだと。オスカー自身にすら判っていなかった。いつだってスマートに、恋愛の成就であろうが別離であろうがこれまでこなしてきた自分が、これほどまでに心乱され怒りを募らせ悲嘆するのが、愛というものだとは。

 オスカーの想いは過たず正しくリュミエールへと伝わって、リュミエールは黙ったまま、オスカーの腕の中で頷いた。

 リュミエールが腕の力を緩め、僅かに身を離し、オスカーの身体に両手を添え、再びオスカーを見上げる。

 吸う息を微かに詰まらせて、告解のように言葉を開いた。

ルイLouisリュミエールLumièreブランBLANC

 フランスではファーストネームを複数付けることができて。リュミエールは2つ目のファーストネームです。ただ親戚にルイが多くて、ごく親しい家族などからは、リュミエール、で呼ばれて育ってきました。一般世間では、ルイ・ブラン、を名乗っています。」

「……そうか。ありがとう。」

 オスカーがそれだけを返せば、リュミエールは泣き笑いのような微笑を浮かべ。

「…19世紀の比較的よく知られたフランスの政治家が、同姓同名で。普通に検索などすると、そちらの情報しか出ないと思います。…ただ、」

 リュミエールが緩やかに顔を俯かせ、言い淀んだ言葉の先。ただ、何かの拍子に、リュミエールがオスカーへと知られるのを恐れる、何がしかの情報が出てこないとも限らない、と。

 知られてしまえば、オスカーを失うかもしれないとリュミエールが考えている、何かの。

「でも貴方が、望むのであれば、」

 リュミエールの言葉の続きを、オスカーはその身体を強く引き寄せ、唇を唇で塞いで止めさせた。

 しばらくの間そのまま、それから何度か角度を変えて口付けを長く重ね、リュミエールの言葉が完全に留まったところで唇を離し、額を擦り寄せ、その深海色の瞳と氷青色の瞳とを見合わせる。

「聞かない。お前を信じる。お前が俺を想い、最善だと思ったことを俺も信じる。いつか話してくれる時が来る、そうお前も思ってくれていることを、俺も知っているから。信じて、待つよ。

 プロポーズも今はしない。それはお前と俺とで決めることだ。誰からの、何の作用でもなく。お前と、俺とで。二人だけで。」

 リュミエールはオスカーを見上げたまま息を詰まらせ、目を閉じ、瞼を震わせた。オスカーは両腕を廻して肩を引き寄せ、リュミエールの表情と頭とを腕の中に囲う。リュミエールのその涙を、目前の憎さ余りある恋敵の男には絶対に見せたくなかった。

「……ありがとうございます。」

 この時に至って。ようやくオスカーは『謝るな』を、リュミエールに言わずに済むようになったようだった。

「そういう訳だ。二度とリュミエールの前に顔を出すな、ドイツ軍人野郎。」

 オスカーが視線を移してヴィクトールを睥睨へいげいし、吐き捨てるように告げれば、ヴィクトールは眉根を潜め、低い声で応じる。

「感心せんな。その人はこれからも、世界中を渡って人々に幸福をもたらすべき人だ。俺と顔を合わせる機会など、そして俺以外にその人を恋い慕う者であっても、同じように、お前の望みとは関係なくいつでも訪れ得る。

 お前の都合で、その人の翼をいちいち縛り付けるつもりか? それがその人を苦しめる。」

 リュミエールは顔を伏せ、オスカーの腕の中に収まったまま首を左右に振る。

 だがヴィクトールの言葉はどこまでも正論だと、オスカーですら認めざるを得なかった。

もっとも、俺もその人を苦しめるのは本意ではない。今は去るとも、お前の言う通りにな。

 ですがリュミエール、覚えておいてください。俺の左手の手袋決闘の決意は、いつでもあなたのためにある、と。」

 その後ろ姿が立ち去り、オスカーは片腕にリュミエールを抱えたまま、憤激に満ちた熱い息を深々と吐き尽くした。リュミエールが顔を上げ、涙の名残りの残る瞳を向けて気遣わしげにオスカーを見遣る。

「…先週のチャリティコンサート、だったな。」

 唐突にオスカーが――その目線はヴィクトールの去った方向、遥か先に遣ったままだったが――リュミエールに問うた。

「ヴィクトールとの合奏アンサンブル、ですか? はい、」

「『動物の謝肉祭』の室内楽版だな? 何のパートだった? 奴は。」

「ピアノです。私と二人で、管弦楽のうちの二台編成の。」

 オスカーは腕の中の、間近のリュミエールの顔を見下ろした。あの男とこのリュミエールとが一度でも音を重ねたという、もはや消し様のない過去の事実が心底腹立たしかった。

「楽譜を買いに行く。それと弓。」

「弓?」

「ヴァイオリンの本体は特別製のスーツケースに入れてきたが、弓は持ってきていない。」

 ヴァイオリン本体の全長は約60cmで、斜めにすればぎりぎり持ち込み荷物にできるものの、全長約70cmの弓はどうやっても機内持ち込みはできず、気温や湿度の影響が本体ほどではないこともあって、航空機での移動では普通は預け手荷物にするしかない。

「だから弓がない。今から買いに行く。」

「私とこれから合奏アンサンブルしていただけるということですよね? 場所はどうしますか?」

「お前の家でだ。」

「家……」

 家には誰も入れるな、と。オスカー自身も、と。オスカー自身がそう言って。

 オスカーは目を見合わせたままだったリュミエールの両の頰に両手を添え、顔を寄せて囁いた。

「手は出さない。お前との特別で大事なことは、他の何にも誰にも左右させない。そう誓えるから、お前の家に行く。」

「…オスカー。」

 この話を言い出したオスカー自身からのそういう話であれば、リュミエールの側に否やはない。

「楽譜は何の? わかる気もしますが、」

「『動物の謝肉祭』の『白鳥』。ピアノとヴァイオリン編曲版の。」

 オスカーの両手で包まれた中、リュミエールの目が喜びに細められ、小さくオスカーへと囁き返す。

「あれこれと予定を立ててくれていたはずの貴方に、こんな事を言ってはいけないのかもしれないんですが。すごく嬉しいです。」

 リュミエールは頰に添えられたオスカーの手をするりと抜け、オスカーの首筋に顔を擦り寄せて。

「また、貴方の音に触れられる。」

 目を閉じ、甘く呟いた。

 その顎にオスカーは手を遣り、軽く上向かせて口付ける。

「…オスカー、」

「……お前の家に行ってから、間違い・・・があるといけないからな。しばらく、ここで。」

 吐息混じりの。触れているだけとは思えないほどに、熱く、甘く、心と脳髄とを侵食するキスが。長く、繰り返し、角度を変えて、幾度も。

「…オスカー、」

「俺の弓は、お前の家に預けて帰る。……俺だと思ってろ。」

 低い囁きは言い終わらないうちに、震える唇を再び塞いで。

 オスカーの長い指が白い首筋を密やかに辿り、耳朶へと行き着く。

「…ん、」

「…俺に触れられたいと。あの時より、もっと。思ってくれてる?」

「……オス、カ、」

 熱い吐息は留まることを知らず、零れ続け、繰り返される口付けとともに、二人を包み続けて。

 オペラ座、ガルニエ宮のファサードの正面。数多の彫刻をすら圧する二人の姿は、その日その時のその場の全ての人々の視線を釘付けにし続けた。