■ Sonare(1.5)

 新月の無明の闇夜、室内の灯りは無骨な小型の洋燈の一基のみ。

 薔薇の取り囲む離れの邸から、余人は遠く下げられて。

 じくじくとして夜に纏い揺蕩う、濃く重い湿度は、任を果てて去る者への惜別の涙に等しく。

 いつ何時であろうと艷やかに、その背を皓々と明るく彩ってきた長い髪は、この時にあって薄暗いベッドの上で、無造作に散り、その表面を覆い溢れ。至上の美貌に浮かべる柔らかな微笑は、暖かな深海色の瞳とともに、今は固く、蒼白のおもての内に閉ざされている。

 うつぶせて深く敷布に沈んだまま、もはや僅かの身動ぎすらできない一糸纏わぬ身体は、その滑らかな肌の幾筋もの傷から血を流し、あるいは目に見えない呵責に塗れて。あらゆる種類の痛みに飽和し切ってから、優に数刻は経過して久しかったが、それでも針で刺されたような小さな刺激にじわりとした悪寒を感じたのは、実際に注射針をその身に刺し入れられたからなのだと気付き、身体を跳ね起こした。

 ……跳ね起こそうとした、その動きは一寸も動かないほどに固く、片腕を掴んだままの鋼のような腕と、裸の背を強く押さえ付ける片膝とに遮られて。

 するりと上腕の紐を解かれ、それが単なるいつもの幾度となく繰り返されたただの拘束ではなく、駆血帯の代わりだったのだと否応なしに気付かされ、心の底から震え上がった。もう一度、力の限りに身を持ち上げて手を振り払えば、もはや捕縛する気の失せたらしい大きな掌から白い手首が解き放たれ、シリンジの薬液の、とっくにからに成り果てた注射器が低く宙を舞い、床に落ちて軽々しい音を立てた。手首の接種痕から赤黒い静脈血が数滴、辺りに飛び散り、薄暗く照らされたシーツの上に、闇夜にも目を惹く濃紅の染みを描く。

 体内に投与された薬物は絶対に再び回収できないのだと、常にその覚悟をもってくれぐれも万全の確認の下に行うようにと、そう繰り返し教えられてきて、

 いや、否、そうではない。それは「今」の記憶で。

 ……「今」、とは?

「一体………」

 こういう機会にはとうの昔に珍しくもなくなった、掠れ切った声で、いまかつて一度も発したことのなかった疑問を口走った。落ち掛かる瞼の、つい先程までの泥のような気怠さも忘れ、見開いた深海色の瞳で幾重の睫毛の奥から視線を投げ掛ければ、昏い光を湛える氷青色の瞳の視線と交差する。

 目に見える形での凌辱ならば、どんな類のものだろうと、いちいち説明などを求めはしない。これまでの全てで、いつだって、ずっと、何であろうと、そうだった。

 目に見えないそれの何を投与されたのかと、だから今回は、冷え切った身体の芯から青褪めて問う。

「バルビツール酸系とインドール核アミドの合剤、だったかな。最終的に神経抑制薬ダウナー神経賦活薬アッパーとを混合するとは、王立研究院にも恐れ入るものだ。」

 まあ俺も、こんな程度で済ませるつもりかと何度も相当に糾弾したがな、と、氷青色の瞳を無邪気な子供のように、心から楽しげに笑みに染めて彼が言う。

 その構造式には、もちろん聞き覚えがあって。

「つまり、」

「自白剤。」

 白い身体が行動に出るより何瞬も早く、筋張った片手が、鋭い闇の翳を引いた槍の穂先のようにその口の中へと無造作に突っ込まれ、そのまま再びベッドの上へと顔を押し付けられ組み伏せられた。無骨な指が口内の舌を掴み、喉の奥を押し潰して、幾度も繰り返し苦しいほどに噎せ返る。

 舌を嚙み切ったくらいで死ねはしないと、せいぜい派手に出血する程度だと、これも雑談のように物の合間に教えられて。いや、違う。今は「今」ではなく。

 そうする間にも体内を巡った薬効は過たず発揮され、見る間に心拍数が跳ね上がり、酷い眩暈がし、一瞬にして汗が吹き出し、身体がひとりでに震え。そして何よりも、脳内が耐え難いほどに加熱され、向精神薬の紛れもない作用をまざまざと認識させられる。

「…っ、や……ぃや、はな…てっ………!!」

 やめて。やめて、他にどれだけ、何を傷付けられても構わないから。どうか、どうかそれだけは。

 中途半端に塞がれた口の、彼の掌の下、身を捩り、くぐもった声で力の限りに叫べば。

「あんまりい声で鳴くな、また抱き潰したくなるだろう。」

 彼は喉の奥で声を立てて笑い、拘束していた口内からその片手を抜いて、代わりに深々と唇と舌とを絡め合わせてきた。

 その感触は認識することができない。何故なら自分はつい「この間」、触れるだけのキスをようやく、ようやくそれだけを知ったばかりで。だからこんな、何もかもを暴き立てるような深いキスの感触など知る訳がない。それなのに。

 感触は認識できないのに、その生々しさだけは意識の全てを塗り潰すかのようで。

「…お前が言ったんじゃないか。殺してくれと。只人になるのだからと。

 どうせ殺されるのなら、その前の自白のひとつやふたつ、大したことないだろう?」

 唇を離し、相手の意識に塗り込めるように小さく呟きつつ、その指先が未だ血の滲む乳頭を片手で捻り上げた。そこも繰り返し、彼の用意したアクセサリーを幾度も突き立てられた場所。

 違う。真実の告白、それは死ぬよりも辛いこと。

 薄れて己の制御下から失われつつある自我が、言葉もなくそう叫ぶが、そんな程度のことなど、彼は百も承知なのだろう。

 再び唇が深く、深く重ねられ。

「…今まで散々、俺からあらゆる手段で、その身体の隅々まで傷付けられておいて、今更。なあ?」

 長々と犯されたキスがようやく離れ、濡れた唇でそう囁かれる頃には、薬効で開き切った瞳孔は黒々と、深淵の宇宙の色をしていて、緩く伏せた深海色の瞳は既に逆らう意志を持たず、目の前の、緋色の髪と氷青色の瞳の持ち主の表面を、緩やかに彷徨い。

 吐息は途切れ途切れに、小さく呼気と吸気とを繰り返している。

「とりあえず座れよ。ゆっくり話そうじゃないか、折角の最後の機会なんだからな。水の守護聖殿。

 …じきに『元』になるか。それとも『故』か?」

「…………」

 ベッドの上で起き上がり、軽い笑い混じりの炎の守護聖の言葉でそう言われて促されれば、細い身体は後を追って、ごく緩慢に身を起こし、炎の守護聖に向かい合って、ゆるりと顔を伏せたまま。

 肩口から落ち掛かるとろりと長い髪は、僅かに揺れる身体の動きに合わせて流れ落ち、揺らめき、一時も留まることのない水の流れのように。

「…ったく。」

 炎の守護聖は呆れたように呟くと、細い顎を捉えて上向かせ、淡く色付く唇へ、再び深く口付けた。

「……何度犯そうが、どれだけ手酷く痛め付けようが、相も変わらず、最初からずっと。

 どこまでも、ただひたすらに綺麗だな。……切りがない。」

 唇を離し、顎に手を添えたまま、氷青色の瞳が深海色の瞳の奥を覗き込む。

「なあ、どんな想いだった?

 対の力の性質、だなんて、何も知らないはたからは言われ続けながら。一番嫌悪する俺に、無理矢理組み敷かれて、犯されて。叫び声を、喘ぎ声を上げさせられて。時には血を流して。何回も。ずっと、これまで幾度も。」

 水の守護聖の端正な唇は、うっすらと開かれたまま、未だ何の言葉をも綴らず。

 緩やかに視線は合い続け、その姿はとうの昔に薬物の影響下に深く置かれているというのに、答えろと言うまでは答えない、それがこの、しなやかに強く美しい人の魂を象徴しているようで、その有り様が酷く好ましいと。炎の守護聖はそう思った。

「……嬉しいよ。ようやく、お前のその口で。嫌いだと、ずっと嫌いだったと、心の底から憎んでいると。ようやくそう言ってもらえるんだからな。」

 深海色の瞳は、炎の守護聖の言葉に揺蕩うように、黒く深く開いた瞳孔と、緩く見上げる瞼を縁取る幾重もの睫毛の翳の奥から、オスカーを見詰め続け。

 今日これまで、一度も薬物など用いたことなどなかった。いつだってその深海色の瞳は正気で、むしろあえてどこまでも正気を保たせたまま、幾度もオスカーに凌辱され、支配され、屈服させられ、血を流して、叫ばされ。正気の瞳は、決して心折れることなく氷青色の瞳をめ返して。

 それでもその端麗な唇は、これまでの気の遠くなるような年月、何の感情をも、ただの一言すらも綴らずに。

「そんなに嫌だったか? たとえ俺のような屑が相手でも、お優しい水の守護聖様は、誰かを相手に呪詛の言葉を吐くのが、そんなにも。」

 炎の守護聖は、片手を伸ばしてサイドテーブルの上の琥珀色の液体を湛えたクリスタルグラスを手に取ると、水の佳人の力なく揺れる肩を引き寄せ、頰に手を回して、その唇にもう一度、触れるだけのキスをした。

「……リュミエール。」

 額を合わせ、髪を擦り寄せて、万感の想いを込め、その存在に呼び掛ける。

「随分、待ったよ。だから、聞かせてくれ。お前の本心を。」

 望まぬ関係を強制された幾星霜もの永い永い年月の、その手で殺されることでしか結末付けられないまでに至った、果てのない憎しみを。

「……そんなに。待ち望んでいただいていたのですか。…嬉しいです。私も、とても。」

 腕の中で、楽しげにくつくつと喉を鳴らし、小さく笑う快い音律。

「…なら、お望み通りに。」

 自分の腕の中に凭れ、恋人の耳打ちのように囁く甘い声を聞きながら、炎の守護聖はグラスの中のストレートの酒をゆっくりと長く、口にした。濃い酒精が喉を焼き、これからすぐにも同じように、水の守護聖からの幾万の怨言がようやく自分を責め苛んでくれる、この瞬間を心から祝う。

「愛しています。オスカー。…出会ったその初めから、今まで。ただの一瞬も、絶えることなく。」

 がちりと歯がグラスを嚙み締める鈍い音が辺りに響き、ゆるりとその顔を見上げたリュミエールが、気遣わしげにゆっくりと手を伸ばす。

「……貴方なら、本当に嚙み砕きかねないし、どれだけ厚いグラスでも、その力強い掌で、握り砕きかねない。…危ないですよ。」

 意のままに動かせない拙い手付きと、それ以上に力を失った手とが無様にぶつかり合い、グラスがオスカーの口元から滑り落ち、ベッドの上に転がって、闇夜の昏がりへと溶け込む染みがじわりと広がった。

「……噓、だ。」

 視界の明滅するような絶望とともに、炎の守護聖が呟けば、

「…噓、なんて。…けるものなら、きたかったですけれど。私も。」

 その腕の中で、緩やかにくすくすと、小さな微笑いが応えて続く。

「……………」

 強張った頰の表面を一滴、滴り落ちる雫の、そのみなもとほうを見上げ、水の守護聖の細い指がその涙の筋を、音色を奏でるように静かに辿った。

「……気付かないと、お思いでしたか。」

 夢現とした瞳のまま、滑らかな頰を炎の守護聖の首筋に擦り寄せ、長い髪が炎の守護聖の顎を擽り、胸元へと流れ落ち、薄い灯りを弾いて光を帯びる。

「…第256代の御代に至って、…この上なく、暖かく、穏やかで、安定した治世にあって。

 創造と、…破壊とを司る、その身の内の、炎のサクリアに。ただの一瞬も、気を失うことすら許されず、…苛まれ続ける、貴方のその、耐え難い衝動を。

 …ただ、その片手を上げ、振り下ろすだけで、宇宙をことごとく、いとも容易く灰燼と帰すことさえ、可能なのに。…その貴方の力の、…息の詰まるほどに、何処へも行き場のない、…衝動を。

 …貴方の対たる、私が気が付かなかったとでも、お思いでしたか。」

 宇宙の大移動が果たされ、良かったと、宇宙は救われたと、本当に良かったと、もたらされた平穏に誰も彼もが口にして疑わない中。

 その自信に満ちた強さで、暖かくこの上なく安定した宇宙へと使命たる熱さを与え続けながら、その炎のどうしようもなく否定し難いもう一側面である破壊の衝動を、どこにも振り下ろせず、どこへも向けられず、次第に狂気を湛えていく氷青色の瞳の奥底を。

 以前のあの昏い世界とは打って変わって、明るく、弾むような歓喜に満ちた宇宙の中、気遣わしげにその姿へ視線を遣れば、自分に対してだけは苛烈さを増してゆくその氷青色の視線を、睨め殺さんばかりに返されて。

 だからその衝動のことごとく全てが、自分を徹底的に凌辱し屈服させることに全身全霊で向けられたのだと理解したあの日。その破滅的な衝動が、美しいこの宇宙へとふるわれずに済んだことに、本当に、心の底から安堵して。

 そして身体を引き摺り私邸に帰って後、二度と、もう二度と、彼と優しい愛情などを紡ぐ機会が、この生の運命の限りにおいては永遠に絶たれたのだと。そう悟り、ただ一度だけ、身体を力の限りに震わせて泣いた。

 彼の行為の発する理由がそうであるのなら、己の成すことは、可能な限り彼に抵抗し、決して身を屈せず、その腕に、瞳に抗って、彼の破壊衝動をその場で、できる限りに全てを徹底的に引き出し切って。それに全力を尽くすより、いつであろうと、他に何一つ道はなかった。

「……噓、に、しても。いいのですよ。…守護聖など相手に、こんなものを使うのは、初めてでしょう、…から。」

 只人と作用が違っていても許されるのだと、そう示唆をすれば、

「初めてではない。……自分で使った。」

 浅はかな言い逃れは、とうの昔に退路を絶たれていて。

「泣き喚いたよ。……お前を、愛していると。

 膝を付いて、頭を垂れて、この身を投げ出して、…お前に詫びるのだと。」

 同じこの部屋。薬の作用が切れるまで決して開かないように自ら細工した、扉は再び開くまでのささやかな時間の間で、己の拳の血に塗れ切った。

「……私は。決して、言うつもりも応えるつもりも、…ありませんでした。」

 詠うように言葉を紡ぎ、仄かに明るく、闇夜に灯を燈すように綺麗な深海色の瞳が瞬けば、微笑みを形作る目元から、瞳と同じ色をした涙が溢れた。

 濡れた睫毛の縁取る瞬きに合わせ、ひとつ、またひとつと。

「……愛しています、だなんて、生温いことを、…たとえ私が一言でも、…口にしていたなら…」

 覚束ない手付きは、今この時にあって、炎の守護聖の背に、その全身で愛おしむように、精一杯に回されて。

「…貴方は、大事に、この上なく大事に、私を愛して、愛し抜いて……、

 ……その行き場を失くした炎で、…とっくの昔に、貴方自身を、……焼き尽くしたでしょうから……。」

 数限りなく降り落ちてくる炎の守護聖の涙の中、ともに涙に濡れた深海色の瞳が微笑みを湛える。

 炎の守護聖の両腕が、力の限りに水の守護聖の身体を抱き締め、その背が砕けんばかりに軋み音を立てた。

「……な、…こんなっ……! これほどに愛して、愛されて、ただそれだけで良かったのに…っ……」

 嗚咽を隠すこともなく、白い首筋に顔を埋めて。

「それすら許さぬ、こんな運命をその内に抱える、こんな宇宙などに……! 何の、存在する意味など………!」

 激しい慟哭とともに、身体に刻み込まれるようにして叫ぶ、その言葉を綴る唇に、そっと手を伸ばし。

 「この間」、初めてその存在から教えてもらった、触れるだけの優しいキスを捧げた。

「……私は、愛しましたよ。この宇宙を。

 その内に、…こんな愚かな関係しか築けなかった、…私たちの、存在と。

 ……それでも、この果てしない時間と空間の中、貴方に出会えた、奇跡のような、…この、運命を。

 貴方ごと、何もかもを、愛しました。…全て。」

 炎の守護聖の嗚咽は、もはや留めようもなく、いつまでも響き続けて。

「…だから、お願い、です。…殺してください。

 任を果て、…貴方の手の届かない世界で、…のうのうと生きている私がいて。……それで貴方が、正気でいられるなんて、思っていませんから。少しも。

 …だから、貴方の、その手で。殺してください。私を。」

 炎の守護聖はおもむろに、片腕で強く強く水の守護聖の体を抱き寄せ、もう片手で、ベッドサイドの大剣を鞘から抜いた。

「……判った。」

 その言葉は、今はもはや静かに、どこまでも凪いで。

 左手側に水の守護聖の身体を収め、右手は剣の刃を直接手にし、その掌を傷付けた刃に血が滴る。

 一直線に重なり合う左胸と左胸の、リュミエールのその背後に、剣の切っ先が当てられて。

 水の守護聖は、薬効が少しずつ切れて明晰になりつつある思考の片隅で、その睫毛に涙の欠片を残したまま、ふと、微笑った。

 

 こんな時に至ってさえも。

 互いに、相手だけは生き延びるようにと。相手のその一瞬の隙を、互いに見計らっている。

 

 剣が貫いた感触は、自分のものだったのか、相手のものだったのか―――

 

 

 

 

 

「…………。」

 リュミエールは目覚めて。

 ベッドから天を見上げたまま、嗚咽を止められなかった。

 

 大丈夫。ここはパリ。今は穏やかな秋で。

 あの人はロサンゼルスにいて。弁護士をしていて。

 

 本当に良かった、と、心の底から安堵した。

 あんな苛烈な運命をあの人に背負わせることがなくて、本当に良かったと。

 

 目覚めた瞬間に、あれほど鮮明に自分たちの存在をずたずたに切り刻んだ事の詳細は、その大半が雲消霧散し、もはやいかなる事情がそこにあったのかを辿り直すことすら困難ではあったが。

 宇宙をも巻き込むあの果てのない悲嘆と絶望とは、今この時も、息の詰まるような生々しさで胸に迫り続けて。

 

 自分があの人の、対の半身であるのなら、それはとても嬉しいと思うけれども。

 それがあの人にあんな過酷な運命を背負わせるのなら、自分などこの世にいなくても良いと。ただあの人がこの世界で、自分の存在など意識にも上せず、たとえ彼一人ででも、ただ幸せに生きてくれればそれで良いと。

 心の底からそう願った。

 

 ベッドの上で、涙の止まらないままのリュミエールの真横、WhatsAppのビデオ通話の着信音が鳴り続けている。

 いつもであれば同じ朝6時、自分は既に目覚めてピアノの前で、9時間の時差の夜21時のロサンゼルスの、眠る前の時間帯のオスカーと顔を合わせ、話をするのが常で。

 リュミエールは手を伸ばして着信の拒否ボタンを押し、すぐにオスカーへテキストチャットを送った。

『オスカー、』

『どうした』

 いらえは間を空けず、すぐに戻ってくる。

『ごめんなさい。ちょっと、恐い夢を見て。まだベッドにいて。』

『通話したい』

『多分、酷い顔をしてて。声も。ごめんなさい』

『リュミエール』

 アルファベットの文字列で綴られるメッセージは、リュミエールの脳裏で、過たずあの低い声で再生される。

『愛してる。会いたい。』

 短く端的な口調であっても、それはどこまでも、決して強要ではなく。

 リュミエールはしばらく逡巡し、ベッドに横向きに横たわった姿勢のまま、ビデオ通話の準備画面でせいぜい可能な限り顔色を整えてから、通話のボタンを押す。

 待つほどの時間もなくオスカーの顔が画面に映し出されて、それだけでリュミエールは再び、整えた意味もあっという間に意味を成さなくなる嗚咽に塗れた。

「リュミエール」

「……よ、かった。…貴方に、何事もなくて。……本当に…。」

 手と腕で顔を覆い、次から次へと溢れる涙を必死で拭う。

 この人に、あんな苛烈な業を負わせずに済んで、本当に良かったと。

「……俺もベッドで横になるから。ちょっと待ってて。」

 リュミエールは無言で頷き、必死で涙を抑えようとすれば、

「好きなだけ泣いて。本当は、今すぐ飛んでいって抱き締めたいんだが。せめて、俺の前でだけは、好きなだけ。」

 そう言われて、ますます涙が止まらなくなる。

 しばらく嗚咽を小さく上げて泣き続け、ようやくにして目を開いて画面に目を向ければ、同じく画面の向こうで肘を立ててベッドに横たわり、こちらを心配げに、だが優しく覗き込む氷青色の瞳がある。

「可哀想に。そこまでお前を泣かせた俺は、どこの不届き者の俺だ?」

 そう言ってこちらに片手が伸びたかと思うと、向こうのスマートフォンがオスカーの身体の方へと引き寄せられる。

「…どちらかといえば。私が、貴方を、泣かせた側だった気もします。」

「嬉し涙なら、いつでも流す準備はできているが。そうでなければ想像するのも恐ろしいな。相手がお前だからこそ。」

 夜の灯りを広い身体が遮ってやや薄暗い、向こう側のフロントカメラに軽くキスが降った気配がした。

「今すぐ抱き締めてやりたいよ。リュミエール。」

 リュミエールは涙に濡れたまま、微笑って、オスカーと同じようにスマートフォンを手に取り、胸元に引き寄せる。

「今は、私も。貴方に抱き締められるよりは、貴方を抱き締めたい、気分です。」

「それは困った。どっちを優先させればいい?」

 リュミエールはようやく、その時になってようやく、心からの微笑みをオスカーに返すことができた。

 

 

「ちょっとリュミエール、痛い痛い痛い。痛いんだけど。」

 呼び掛けられ、無意識に綴り続けた鍵盤からふと、力が抜け、音圧が柔らかなそれに戻る。

「……すみません、オリヴィエ。セイランも。」

 話しながら綴り続ける曲の、意識的にメロディを暖かく柔らかなものへと切り替えて。

「まあ、確かに胸を引き裂かんばかりに痛かったけど。聴き応えとしてはむしろ、そちらの方が十二分にありますよね。」

「にしてもやりすぎでしょ。音色で人を殺しそうになるって、ほんとどういうことよ。恐いわね、もう。」

「ごめんなさい。」

 会話を重ねつつ、演奏を続けながらももう一度謝罪し、軽く息をついて意識をこちらの世界へ戻した。

 ここのところ、気が付けばあの出来事を考えていて。

「どうしたの? リュミエール。随分とまあ、何ていうか、」

「……業が深いな、と。そう思って。」

「あなたが『業』だとかを、言う日が来るなんてね。ずっと天使みたいに、いつまでも純白のまま奏で続けるのかと思ってたら。」

 濃紺のショートヘアを揺らし、楽しげにセイランが目を細めてリュミエールを見遣る。

「僕には今のあなたのほうが、とても興味深いから、その変化は心から歓迎するけれど。長生きもしてみるものですね。」

 一番年下(の癖して)(なのに)((といっても1歳差だけだけ(れ)ど))、と言わんばかりの視線が、リュミエールとオリヴィエの二人からセイランへと注がれる。

 今日のここは、スペインのバルセロナ。この三人が一同に会する機会など本当に滅多となく、それもセイランが多少の無理をしてトゥールーズからわざわざ足を伸ばしてきてくれてのことであったから、本当に珍しいことだった。

「で、何のことよ? 業って。」

「――――、」

 あの出来事。

 あれほどに彼に残酷な運命を背負わせ、己は彼に酷く傷付けられ、それ以上に彼に負わせた運命に対して深く、間違いなく自分はそのことのほうにより深く、傷付いていたというのに。

 二人でともに、余人の立ち入られないほどに二人だけの世界でともに傷付くこと、ともに死を――死を?――選んだこと。最近、気付けばまるで極上の甘美な夢のように、抗い難い誘引力をもってその選択に引き寄せられている自分がいて。否定しようのない己のその望みにふと、気付かされ、今のこの現実の中で我に返って戦慄する。ここ最近、幾度もその繰り返しで。

 ともすれば、こちらの世界の何も知らないオスカーを、自らが進んで手を差し延べて、幻惑させ、狂わせて、昏く痛く甘い、絶望の宿運へと導いてしまうのではないかと。時にそんな予感すらして、底のない深淵へ堕ちるが如くに背筋が冷え。

「ふうん」

 酷く曖昧な記憶と、酷く鮮明なその激しい感情とを自らが消化し切れないまま、芸術に係わるこの二人にはきっと伝わるであろうことを願って、茫漠とした言葉の綴りで伝えれば、セイランがどことなく腑に落ちた様子で相槌を打つ。

「まあ、映画にだって舞台にだって、人気があるといえばあるストーリーの仕立てではあるわよね。運命に翻弄され、死を共にする悲劇の二人。」

「…こう言うのも、どうかとは思うのですけど。今、現実の世界で、あの人からとても大事にしてもらっていて。それが本当に、心からとても嬉しいと思うのに、」

 奏で続ける手元とは異なる方の宙へ、目線を伏せて深海色の瞳が憂う。

「なのに、どうしてそんな酷い話に、それほど惹かれてしまうのか、自分でもうまく説明ができなくて。心理学的にはいくらか解説している資料があるんですけど、もうちょっと脳生理学的とか、進化生物学的とかでの理由が知りたくて。そうすれば、業が深い、なんて悩まずに、納得して心の整理が付けられるのかもしれないんですけれど。」

「何だっけ、リュミエール。あんたから聞いた気がするけど、痛みを脳が感じるにしても、感覚によるものと感情によるものとがあるとか。」

「ペインマトリックスですね。痛みの身体的な――つまり痛いという感覚は、視床の外側部を通って一次体性感覚野へ。情動的な――つまり痛みが不快だと思う感情は、視床の内側部を通って大脳辺縁系に至ります。」

「あ、やっぱヤメヤメ。覚え切れないから。身体への刺激と心の動きが別、ってことだけ思い出せたからオッケー。」

 資料が少なくて困っているから、もっと情報が欲しいんですけど…、と、残念そうに小声でリュミエールは呟く。

「心理学的にだと、禁断の実効果とか、ロミオとジュリエット効果とか?」

「死そのものが、生物としては本来、強力に忌避すべき対象ですからね。禁断の実禁忌に惹かれる効果は言い得ているかもしれません。」

 顎に片手を当てつつ、どこか愉快そうにセイランがオリヴィエへ応じる。

「ロミオとジュリエットは、どちらかというと原因じゃなくて結果じゃないですか? 順調すぎるがための恋に、障害を生じさせたくなる。その障害が発生して初めて、ロミオとジュリエット効果が生じる。そして障害があれば燃え上がるという現象が普遍的であるが故に、ロミオとジュリエットという古典が、ウエストサイド物語ストーリーとしてリバイバルし、度重ねて大いなる人気を博す。尤もあれは、恋物語というより合衆国の分断を描いた側面が大きいらしいけど。」

「流石に理解が早いよね、セイラン。イリュージョン幻想奇術の構成はいつもあんたが自分で考えてるだけあって。私は兎にも角にも、貰った台本ほんにとりあえず一度は乗っからないといけない立場だからさ。」

「そんなベタな筋書き、僕は大嫌いですから絶対に実演しやったりしませんけどね。スポンサーから提案されることならしょっちゅうありはするんですが。驚きをもたらさないイリュージョンなんて、そんな存在意義のないものを、よりによってこの僕にやらせようなんて。」

 『つくづくうんざり』を少しすがめた目線だけでこれほどまでに雄弁に語れるのは、このイリュージョニスト幻想奇術師を措いて他にいないでしょうね、と、期せずしてリュミエールとオリヴィエとの内心が一致する。

「そもそもロミオとジュリエットにしたって、下地として既に先行して存在していた話が9か月に亘る物語だったのを、シェイクスピアが5日間という超短期間の恋物語に短縮したからこそ、衝撃と感動とをもって迎えられたわけですし。」

「問題なく順調に進んでいるものに、わざわざ障害を持ち込んで喜ぶほど、自分が捻くれているつもりはなかったんですけど……」

 苦笑しながら、念のためリュミエールが二人を相手に言及する。

「もしそれが本当なら、昏い想像などより、そちらの方がよっぽど業が深いなと。そう思います。」

 再び目を伏せて首を傾け、長い髪が目元へと落ち掛かる。

 力強く笑う、緋色の髪のあの姿を脳裏に浮かべて。

 自分がいることで、あの人を幸せにできるのなら。あの人とともに在ることが許されて、幸せを分け与えてもらえるのなら。そうしたいと、そうでありたいと、心から、ただそれだけを願っていると思っていたのに。

「話を聞いてるとさ。あんた、あっち側のオスカーの、超常的?な力に、惹き寄せられてるようにも見えるけど。」

 オリヴィエから問い掛けられ、ふと、リュミエールの目線がオリヴィエへと向き、それから虚空を漂って、

「……それは、そうかもしれないです。」

 緩やかなピアノの音を背景に、ぽつり、と呟いた。

 それが何だったのか、もう思い出せはできないけれど、あのオスカーがその運命を狂わせたほどに強大だった、圧倒的な何かの力。

 確かに、他を圧して余りあるあの強さを恐れながら、同時にどうしようもなく惹き付けられる自分がいて。

「まあ、誰もが等しく強大な力に惹かれるからこそ、世界に数多の神話が生まれたわけだけどさ。創造と破壊。何だかシヴァ神みたいね。」

「炎、ですか。哪吒みたいでもあるね。」

「哪吒?」

「Nézhā。ナタ、もしくは、ナーザ。火を放ちながら空を飛ぶ乗り物に乗り、火を放つ槍を持つ神で、物語の中で様々な神や魔王と戦う。若者の反抗の象徴みたいなところがあって人気があるから、中国では今でもいろんなコンテンツでしょっちゅう主人公に採り上げられてるね。ロミオとジュリエットはともかく、哪吒はいつか僕の舞台に組み込んでもいいかも。」

「その時は、オスカーと二人で是非、見に行きますね。」

 昏い世界に誘引される自分の、未だ心は少しざわつくけれども、大切な友人の新たな舞台は純粋に楽しみで、リュミエールは微笑いながら希望を述べた。

 セイランが演じる哪吒を前に、『貴方もあの役のモチーフだそうですよ』と伝えたら、オスカーは一体どんな顔をするだろうか。

「にしても、人は変わればとことんまで変わるものですね。」

「? 私のことですか?」

 セイランの目線で自分の事だと了解したリュミエールが返事を返すが、それは納得を伴う返答ではなく。

 以前にセイランと会った時の自分と、今の自分とで、何かが変わった自覚なんて何一つ、

「僕たち二人を前にして、あなたが一切躊躇うことなく、そこまで惚気のろけるようになるなんて。本当にね。」

「惚気け……」

 リュミエールの視線が、それまで向けられていたセイランと無言で同意を示すオリヴィエの方から大きく逸れ、Largoで緩やかに綴られていた曲のテンポがAllegroまで急加速する。

「あの、ええと、すみません。そんなつもりはなくて。本当に、その。」

「自覚がない方がよっぽど重症でしょうよ……」

 呆れたようにオリヴィエが呟く。

「全く、あンな男と、リュミエールがねぇ。聞いた時は本当に、しばらく寝込んだね。」

「あなたの幼馴染でしたっけ? オリヴィエ。僕はまだ顔を合わせたことはないけれど。」

「幼馴染ってほど早くじゃないけどね。高校ハイスクールから。まあ、親友と言ってやってもいい程度には今でも付き合いがあるし、友人としては気のいいやつで申し分ないんだけどさ。ねぇ。高校ハイスクールからあの素行を目にしてきた身としては、ねぇ。しかもあの女たらしが、ここまで激変するところをの当たりにさせられると、ねぇ。」

「ねぇ。だそうだよ。」

 オリヴィエとセイラン二人の視線が集中し、顔を火照らせたリュミエールが視線の遣りどころなく、深々と足元の方まで俯く。

「…いえ、でも。もし私が変わったというのなら、変えてもらったのは、オスカーのお陰ですし。」

「うわー。」

「そうと言っていいのなら、今のあなたは以前よりずっと魅力的だよ。少し悔しい気もするけど、そこはオスカーさんとやらに感謝しておきましょうか。」

「うわー。セイラン、あんたもノリで何言ってんのよ。」

「あうあうあ」

 自分で言い始めておきながら、白い砂浜に勢い余って打ち上げられた魚のようにぱくぱくもごもごと意味不明の音を呟きつつ、曲の最後をAllegroのままで駆け抜けると、リュミエールは一息き、ふと、右手の後方を振り返って、宙を見遣った。

 オリヴィエもセイランも、リュミエールの綺麗な深海色の瞳の視線の先が向かう、その方角の意味をもう知っている。

 ロサンゼルス。

「……でも、そうですね。」

 リュミエールが、どこか自分の心に納得を得たように、柔らかな声音で続けた。

「人知を超えた、強大な力など持たなくても。悲劇的な運命など背負わなくても。

 この世界のオスカーは、ただあの人のあるがままで、充分に。魅力的だと思います。とても。」

 目を細め、何の面映おもはゆさもなく、心から嬉しそうにそう話すリュミエールに、

「ちょっと、最終的な話のオチがそれ!?」

「どう足掻いても、今回はもう話の主導権を握るのは無理だと思うよ、オリヴィエ。店々がシエスタの休憩時間に入る前に、そろそろ昼食を摂りに行って、リュミエールの話の続きを聞かせてもらいましょうか。いろいろと。」

 セイランの清々しいほどに楽しげな、滅多と見ないそんな表情と声とが、我に返って赤面するリュミエールと呆れるオリヴィエとを、一旦の休憩の出支度へと向かわせた。

 

 今回リュミエールが使っていて、他の二人が集合したそのスタジオはアシャンプラ地区の中程に位置しており、オリヴィエが「美味しくてヘルシーなところを知ってるから」と、少し距離のある目的地のランブラス通り沿いのレストランへと向かって、カタルーニャ広場の方角へと三人で歩き出す。

「セイランは今日、こっちで泊まるんだよね?」

「次の公演が明後日だからね。明日には戻るけど。」

「今日はずっと三人で一緒にいられますね。とても嬉しいです。」

「リュミエール、あんた、リハーサルとかは?」

「ごく内輪の会なんです。Rel……知人Acquaintanceの集まりで。」

 ちらり、とオリヴィエとセイランとが目を見合わせる。

 半ば話を打ち切るようにもして、先に進むリュミエールの背中を少し離れた後ろから並んで見遣りつつ、二人が小声で会話を交わす。

「リュミエール、時々ああいう時があるよね。この夏のカーネギーホールの公演で絶賛された後も、未だに『幻のピアニスト』で、あんまり大々的には表に出てないらしいし。」

「本人は『そのうち』と言ってたから、いずれはもっと活動するつもりなんだろうけど。」

「セイラン、あんたが猫みたいに懐いてみせれば、リュミエールもその辺り、ぽつぽつ話すと思うんだけど。どう?」

「そう易々やすやすとひとの言うことに従わないから、どうせ猫呼ばわりなんでしょう。僕は別に、今、あの人に話させようとは思わないから。けっぴろげなんて何も面白くないじゃない。」

 歩いてその背を追いながら、目線の先のその背中で揺れる、長い髪の流れを見遣り、セイランが言葉を続ける。

「あれだけ優しい人なのに、言うに言えないことがあってもどかしげにしている様子も、それはそれで風情があるものだし。」

「相手への純粋な思い遣りから出てる意見じゃない辺り、あんたらしくていいけどね。」

 オリヴィエも諦めた様子で、セイランの横から離れてリュミエールに歩み寄り、先程の話題の続きを交わし始めた。その様子をセイランは一人、ゆっくりと歩きながら二人の後ろに続く。

「……じゃあ結局、夢の中のその二人がどうなったのか、判らないままなんだ。」

「そうなんです。正直なところ、その後のことがとても気になっていて。」

 オリヴィエの方へと首を傾げ、再び少しだけ翳を帯びるリュミエールの横顔をセイランは後ろから眺める。

「……でも。貴方たちに話せたお陰で、少し気が楽になりました。本当に、ありがとうございます。」

 そう言ってオリヴィエに笑い掛け、やや後ろも少し振り返り、謝意を伴ってセイランにも投げ掛けられる深海色の瞳へ、セイランが目線だけで笑んで応えると、深い青色は暖かく解れ、再び前を向き、オリヴィエとの会話を再開する。

 そうして、カタルーニャ広場を回り込む外周の道に差し掛かり。

 

 ふと、セイランの周囲の世界から全ての音が失われた。

 気配にゆっくりと振り返った、セイランのその目線の先では、噴水が音もなく水流を高く吹き上げ、紗のように広がり薄く波打って池へと落ちてゆく。

 その噴水の縁の前、青々とした芝生の上で、寄り添って立ち、こちらを見て笑い掛ける二人の姿。

 噴水の紗の如くにうっすらと宙に透け、一人は武装で剣を腰にし、一人は胸に竪琴を抱え。

 青銀の長い長い髪と、慈愛を帯びる微笑みに彩られたおもての、端麗な唇がセイランの名を、心から嬉しそうに紡ぐ。無音の世界の中で。

 セイランが初めて目にする、緋色の髪の持ち主のほうへと目を遣れば、氷青色の瞳の色は強い意志を湛えながらも、どこか柔らかく穏やかに、この世界とその中に在るセイランと、先をゆく二人の後ろ姿と、背後からその腰に腕を回して抱き寄せた己の恋人とを、愛おしげに見詰めて。

 肩越しに背後を振り返って目を見合わせた長い髪の恋人を、もう一度強く片手で引き寄せ、その耳元に口を寄せて緋色の姿が何事かを囁けば、青銀の長い髪の姿がふわりと顔を綻ばせ、また何事かを囁き返し、どこかくすぐったげに、幸福を湛えた微笑みを浮かべ。

 そうして、ゆっくりと目を閉じ、身体を傾けて、唇は笑みを形作ったまま、背後の恋人の胸の中へと、穏やかに身を預けて――

 

「セイラン!」

 

 そこだけ音を取り戻した、セイランの歩む道の先、オリヴィエの呼び掛けの声が聞こえてくる。

 一組の恋人たちは、再びセイランへと暖かい笑みを向け、しばしの邂逅の礼を、その二対の色合いの異なる青い瞳にともに浮かべた。

 その姿を見納めたセイランは、彼らしい皮肉げな微笑みで、二人の笑みへと応じ。

 前を振り返り、一歩を歩き出す。

 視線の先には、徐々に音を取り戻しつつある世界で、多くの人々の歩みが行き交う中、こちらを振り返ってセイランの歩みを待つ、二人の愛しい友人の姿があって。

 

 セイランは、もう一度だけ噴水の方へと振り返り、二人の恋人たちの姿を再び目にした。

 寄り添い、強くも優しく抱き寄せて、柔らかにその腕へ身を預け。

 どちらもが静かに目を閉じて、肩越しに口付けを交わす、一瞬の、そして永遠の、芸術のようなその姿を。

 

「セイラン」

 再びの呼び掛けは、リュミエールの柔らかなテノールの響きをもって、セイランへと届き。

 

「……イリュージョニストが、幻想イリュージョンを見せられるというのも、」

 あの恋人たちの、得も言われぬ尊さに。

 海のように何もかもを受け入れる、その暖かさに。

「それはそれで、なかなか乙なものですね。」

 ほんの少しでいいから、触れてみたいと、心の底からそう願って――

 

 セイランは二人の友人の下へと走り出し、その背後の真中へと駆け寄って、両腕を大きく二人の肩口へと回して身を寄せた。

 触れ合う腕から、胸元から、二人の暖かさが伝わってくる。

「セイラン?」

 普段とは様子の異なるセイランに、少し驚いた気配でリュミエールが名を呼んで問う。

 セイランの鼓膜を柔らかく叩く、慈愛に満ちたその言葉の響きを、心の奥底で嚙み締めた。

「……イリュージョンのいいところって、そういうところでもあるよね。」

 目を閉じ、少し潤んだ瞳を誤魔化して、歩みの向く先を二人へと預ける。

「いいところ?」

 オリヴィエの問に、

「現実が、もっと愛おしくなる。」

 短く、セイランはそれだけを応え。

 

 目を閉じたままだったが、リュミエールが表情だけで柔和に微笑った気配がセイランには判った。

「あんたにしちゃ、随分と殊勝なことを。」

 オリヴィエの、からかうような言葉の字面とは裏腹に、その情愛深い声音と、柔らかくセイランの頭を撫でる穏やかな手付き。

 掛け替えのない生と幸福とが、揺るぎない暖かさをもって、確かに今、ここにあって。

 

 噴水のほとり、寄り添うふたつの姿は、じゃれ合って道を辿る三人の後ろ姿を、いつまでも見送り続け。

 

 深まる秋を忘れさせる、地中海気候の暖かな風が三人の周りを柔らかく包み、通り抜けていった。