「悪いが、面白可笑しく酒を飲む気にはなれん」
「そんなもん今のアンタに期待しちゃいないわよ」
執務を終え、炎の居館へ酒瓶を抱えて訪れて、オスカーのいる私室のドアを開けたとたん言われた台詞を、さらりとそうかわして夢の守護聖は部屋の中へ入った。
「じゃあ、何をしに来た」
「傾向と対策」
「ご親切なことだ」
「アンタのことじゃないわよ」
オリヴィエの言葉にオスカーは怪訝そうに眉をひそめた。
「リュミちゃんのこと。アンタ、気がついてないの?」
「知らんな」
その言葉が逆の意味を明確に孕んでオリヴィエに伝わったことに気がつくと、オスカーは小さく舌打ちをした。
「アンタ、何かやったの?」
オスカーは返事をしなかった。
あの日から一週間が経っていた。
オリヴィエの言う通り、何かと呼べるようなものはあったことになるのだろう。だが、自分がリュミエールに最低の言葉を投げつけたというその事実と、オスカーの視界でこの一週間起こっていた事との間には、奇妙な解離があった。だからオリヴィエの問に対して返答できなかった。
リュミエールが落胆してるとか、怒っているとか、オスカーを無視しているとか、そんなものならまだわかる。
そうではなかった。リュミエールは不思議なほどに澄んでいた。
もともと透明感の強い人ではあったが、この一週間はそれが驚くほどに増しているのが、誰の目にも明らかであった。異常とも言えるくらいに。
歩いたり、笑ったり、そんな動作仕草の一つ一つも。水が具現化したかと思うほどの透明感を、ここ何日かのリュミエールは周りに印象づけていた。
確かに何かがおかしい。しかし、それとオスカーの投げ付けた仕打ちとを結びつけるのには酷く違和感があった。
「それにさ」
オリヴィエは言葉を続ける。
「最近リュミちゃんがあちこちの執務室に顔出してるの、知ってるでしょ?」
「また呑気に茶会でもしてるんだろ」
「それがちょっと違うのよね」
オスカーがひそめた眉をオリヴィエの方へ向ける。
「表向きは実際にそーなんだけど。お茶でもいたしませんかとか笑いながらね。でも、アタシようやく今日気がついたんだ。もっと早くから気がついとけばよかったと思ったんだけど」
「何のことだ。早く言え」
話の先を強要る。
「あの子さ。たぶん、他の守護聖の仕事までやってんのよ。自分が処理できる仕事なら片っ端から全部、ごっそりヒトんちから持って帰ってる。」
オリヴィエはリュミエールとの短い茶会の後、仕事に立ち戻ろうとして、書類の山が減っているのに気がついたのだ。
一見してそれとは気づかれないよう、巧みにカムフラージュされて。
オリヴィエも、つい最近たまたま取り寄せて気に入った布地、その産地である惑星の書類が今朝方回ってきていているのに気がついて。そしてそれが昼過ぎには消えていて、なおかつ水の守護聖でも処理できるような処務であったことを覚えてなければ。リュミエールの行動は、未だ誰にも気づかれないままであっただろう。
オスカーはますます眉をひそめた。彼自身にも心当たりがあったのだ。
リュミエール自身が炎の守護聖の執務室に来たわけではなかったが、最近、炎の守護聖に回ってくる仕事が目に見えて減っている。
水と炎は対立するサクリアであるがゆえに、水の守護聖の仕事で炎の守護聖が処理できるもの、あるいはその逆であるような仕事はかなり多い。
オスカーは忌々しそうに舌打ちした。その点、オスカーが最も早く気がついてなければならなかったのだ。
水の守護聖が他所の仕事まで引き受けている、ということに。
「何を考えてるんだ、あいつは」
「だからそれを話しに来たんじゃない、もぉ」
ぽん、と音を立ててオリヴィエは持参したワインの栓を抜いた。
それを2つのグラスに注ぎながら、ちら、とオスカーの表情を盗み見る。
「否定しないってことは・・・何かあったんでしょ、こうなるきっかけが。」
その内容を話せば、おそらくこの夢の守護聖は激怒するだろう。とうてい許容されうる言葉ではないと、オスカー自身、そう思う。
だが、他にどうすればよかったというのだ?
あの優しい人を、自分の恋情に引きずり込まないためには。
こんなに、こんなに離れようと努力しているのに。何故、あいつは俺のことを嫌わないのだろう。
オスカーはワインの注がれたグラスを手にした。
近づきすぎて自分の感情に耐えられなくなるよりは諍いあっているように、そう無駄な努力をしているのは炎の守護聖のほうだけだ。水の守護聖は、どんな激しい言い争いの後でも、いつもと同じように暖かな微笑を見せ、穏やかな声で笑いかけてくれる。
今日の夕方近く、森の湖で偶然その水の守護聖に出会ったことを思い出す。
最初遠目から見た時、水の中に入っているのかと思った。まるで水の守護聖の体が透けているかのように、その向こうの湖と一体化して見えたのだ。
このまま通り過ぎてしまえと願う理性の言うことをオスカーの足は聞いてくれず、その姿に近づいていくにつれ、リュミエールがただ単に水際に立っているだけなのだということにようやく気がついた。
風がさらさらと青銀色の髪を漉き、一本一本が夕暮れの太陽と湖の反射光に照らされて光る。
そしてその姿が、草を踏み分ける音に振り返った。
「オスカー」
優しく、微笑む。
泣きたいほどに透明で、儚げで、綺麗だった。
俺はあれほど酷くお前を罵ったのに。
自分の顔は少し辛そうに歪んだかもしれない。
だがもう、いつものように、皮肉な言葉を投げる気にはなれなかった。
自分の方に向けられている視線に、自分の想いを見透かされるのが怖くて、目を合わせることが出来なかった。
「綺麗だな」
オスカーはリュミエールの右側に並んで立ち、湖の方を見ながら、湖へではない思いを密かに込めてそう言った。
リュミエールは嬉しそうに微笑んで、湖の方に向き直った。
「そうですね」
自分から逸れた視線に安心して、オスカーは隣にいる水の守護聖の横顔をじっと見つめた。
ふと、気がつく。
「お前、少しやつれたんじゃないのか」
もともと細い人ではあったが、頬のあたりが少し細くなっているような気がした。――いや、だいぶん?
リュミエールが少しオスカーの方へ振り返った。視線が合う。
気がついたときには遅かった。自分の左手がリュミエールの頬へ伸びていた。
そのあたりを覆っている青銀色の髪を、す、とオスカーの手が掻き揚げた。
薬指が青いイヤリングを掠めた。
ずきり、とオスカーの胸が沁みた。
こうやって触れるだけで。
こころが、痛い。
ゆっくりと、手を離した。
さらさらと自分の指の間からリュミエールの髪が流れてゆく。
「そう…ですか?」
リュミエールはさっきまでオスカーの手があった辺りに自分の手をあてた。
「大丈夫ですよ、何ともありませんから」
そう言って、もう一度微笑む。
オスカーは自分の中に湧き上がる衝動を自覚した。瞳の中に白い炎が上がる。
何もかもぶちまけて、思い切り抱きしめてしまえれば―――
リュミエールから見えない位置のオスカーの手が、硬く握り締められた。
……これ以上、ここには居られないと思った。
「いや、…余計なお世話だったな」
そう言って、さっき来たばかりの道を戻ろうとする。
「いえ、ありがとうございます」
リュミエールの言葉はオスカーの背に向けられる形になった。
歩みは鈍い。少しでも長く、近くにいたくて。
「オスカー」
そんなオスカーへ呼びかける、リュミエールの声。あれ以来、ますます澄んで暖かく優しく、綺麗になったような。
ゆっくりと、オスカーが振り返る。
「……なんだ」
視線が合う。見つめ合う形になった。
水の守護聖の唇が動き、言葉を紡ぐ。
「さようなら」
そして、微笑んだ。
「……ああ」
それだけを言って、その場を去った。
それだけしか言えなかった。
あの時の雰囲気は、それだけをしか言わせてくれなかった。
何故?
ワインをもう一口飲んで、ふと、その理由に行き当たった。
……ああ、あいつの口から「さようなら」なんて聞いたのが初めてだったからか。
瞬間、締め上げるようなどす黒い戦慄がオスカーを襲った。
ワイングラスを投げ捨てた。硝子の砕ける甲高い音が響く。
「行くぞ!」
夢の守護聖は呆然としている。オスカーは自分のマントを掴んで乱雑に肩に掛けた。
「リュミちゃんのとこ?」
それでもオリヴィエの反応は早かった。只事ではないオスカーの様子に何か感じ取るものがあったからか。彼自身も手早く出かける用意をする。
オスカーは叩き付けるようにドアを開けて出て行った。すかさずオリヴィエも後に従う。
厩舎まで走った。
彼を乗せてこの炎の私邸に戻ってきたアグネシカはすでに鞍を外されていた。すぐに鞍を付け直すよう命令する。
それを待っている間も、オスカーは苛立ちを隠すゆとりさえ無いように見えた。
「何なのさ一体」
ようやく追いついたオリヴィエが、息を切らせながらそれだけを尋ねた。
ぎゅっと、オスカーの表情に力がこもる。
オスカーにも何かわからない。だが、気配さえ口にするのもはばかられる、嫌な予感。
準備の出来たアグネシカに飛び乗って、駆け出した。
水の居館へ。
出迎えた執事はずいぶんと驚いていたようだった。水の守護聖の私邸で炎の守護聖の姿を見るなど、皆無に近い。ましてや、見たこともないような緊迫した様子でなど。
オスカーは水の守護聖の在宅を執事に確認すると、案内をと言う執事を押しのけるようにして館へ上がった。何度も外から見上げていた時に見当をつけていた私室を目指す。少し離れた後ろの方でオリヴィエが到着した気配がした。
私室までたどり着いて、ドアに手を掛けた。
一瞬、躊躇する。
その時、嫌な音がした。
水のサクリアが歪んだような感触を感じた。
「リュミエール!」
叫んで、飛び込んだ。
息を呑んで硬直する。
水の守護聖は部屋の中央に座り込んで、俯いている。首の辺りが似つかわしくない色に……炎の守護聖の髪と同じ色に染まっていた。刺さったままの刃の隙間から、脈動のように赤い液体が次から次へと流れ出る。
スローモーションのように、その顔がゆっくりと上げられた。
視線に力はなく、何処に焦点が結ばれているかわからない。だが、わずかに身じろぎして、……この場の侵入者の姿に、確かに驚いたようだった。
唇が、ぎこちなく、オスカーの名を呼ぶ形に動く。音は聞こえなかった。
刺さったままの短剣の柄に、リュミエールの両手が掛けられた。
「やめろ!」
怒鳴って、弾かれたように駆け寄り、短剣を強く握ったリュミエールの両手、その手首を掴んだ。刺傷は凶器を動かすのが、そして抜くのが一番致命的だ。
後ろでオリヴィエの悲鳴が聞こえた気がした。
柄から、リュミエールの両手が離れた。そのまま手はオスカーの顔へ伸びて、静かに、頬に添えられた。オスカーの震える手がその上に重なった。
オスカーの頬と手に、液体の感触がした。
熱い―――
全身が戦慄した。目の前の出来事が、現実なのだと。
許してくれとは言いません。許されるとも思いません。許されたいとも思いません。
あらんかぎりの罪は、私がこの身に受け止めるべきものですから。
ただ。
いきなり、頬に添えられたリュミエールの両手が強くオスカーを引き寄せた。
見下ろす位置、目の前に、リュミエールの顔がある。その瞳がオスカーを見据えている。
「どうか」
ひどく低い、抑え込むような、掠れ声だった。
「どうか何も仰らないでください」
それだけを囁くと、信じられないくらいの強さでオスカーを突き飛ばした。
転がったオスカーの目の前で、リュミエールが両手で一気に短剣を引き抜く様子が目に映った。
次の瞬間、視界が一面に赤く染まった。
ただ一つ。
この想いだけは。
オスカーの絶叫が、水の館に響いた。
私が一人ではなかった。
貴方が近くにいた。
そのことの証である、この想いだけは。
どうかいつか、その罪を赦されますように。
贖罪が、この想いの元へ届きますように。