■ 聖地と故郷と貴方(5)

 室内のその光景を改めて見遣って、オスカーは内心、少なからず驚いていた。

 サクリアの気配で気が付いていたとはいえ、リュミエールがこの星の、この場にいることが。自分の、故郷の星の。

 そして共に在るのが、紛れもない、己の母であるということが。

 これも「道」の意図した導きの内なのだろうか。

 リュミエールは、先ほどの聖地での初めての出逢いの、あの時、とは随分印象が違っていて、凛とした深海色の瞳で、ベッドに歩み寄る自分を、驚いた様子もなく、真っ直ぐに見上げている。

「判っていたのか?」

 そう尋ねた。ベッドの上のこの人と、聖地で逢った自分とが、親子である、という事を。

「……途中から、判りました。何となく、似ていて。」

「似て?」

「ええ。雰囲気とか、………ちょっとだけ、強引なところ、とか、でしょうかね」

 そう言って、水色のその人は悪戯げに微笑い、オスカーは思わず苦笑した。

 ちょっとだけ強引、か。詳細は母には、とても聞かせられない。

 そうして母の方へと、改めて向き直る。

 

 母、とはいっても、つい数か月前のオスカーと共に在った、記憶の中の母ではない。

 髪は白く、皺は深くなり、小柄だった身体は一層小さくなって。

 それでも彼女は、過たず、この自分の母であった。

 そう遠くないであろう生涯の終焉を前にして、変わらぬ笑顔。威厳を伴った強さ。…波動。

 守護聖としての任を受託した時に、もう二度と逢えないであろう事は、正しく覚悟していたのに。

 別れと出逢いと、思い掛けぬ再会の、運命の数奇を思う。

 ベッドの脇で両膝を付いて屈み、記憶よりも小さくなったその手を取った。

 

「オスカー。あなたにとっては、ほんの少しの時間でしたでしょうに。

 随分、立派になった気がするわ」

「母上の名誉を汚さぬよう、日々、精進しています」

「まだまだ子供っぽい所も、おありのようだけれど」

 ウインクを飛ばされて、その仕草を酷く懐かしく思いながらも冷や汗がどっと出た。

 多少の後ろめたさを抱える自分の中の、どこまで、何を見透かされているのか、いつもこの瞳の前で肝が冷えたものだ。そして今も。

 

「…すみません」

 

 椅子に掛けたまま、目を伏せて俯いたリュミエールが、その時、ぽつりと呟いたのが聴こえた。

 自分も母も、何の事かとそちらへ視線を移す。

「この方には、行く先も、己すらをも見失ったわたくしを、ここまで暖かく導いていただいたのに。

 わたくしには、何も出来なくて。…何もして差し上げられなくて。

 …また、何も。」

 ほんのりとした幼さのまだ残る声音に、切実な痛みが滲んで見える。

 この水色の透明な人が、彼の故郷で思い知らされた、その痛切な何かが垣間見えた気がした。

「そんな事を言うな。……母を守ってくれたんだろう?」

 ここへ来る途上、遠目に見えた、立ち去る軍人らしき者たちの姿。扉の脇に立て掛けられた剣。

 このあえかなる人が、その細い身体を張って、精一杯に立ち向かって。きっと。

 膝を付いた自分の目線の高さにあるその頭を、軽く引き寄せて青銀の髪を撫でた。水のように指の隙間を流れてゆく、艶やかな髪。

 リュミエールはされるがままに頭をしばらくオスカーへ預け、それから涙の滲んだ目元を緩く拭うと、

「……少し、風に当たってきますね。」

 そう言ってふわりと、質量を感じさせない動作で立ち上がった。

 白いローブに包まれた、すらりとしたその背を少し見送ってから、オスカーは視線を母の方へ戻した。

 

 扉を出る直前、リュミエールは、脇に立て掛けてあった剣を、音もなく、すい、と手に取った。

 

 

 リュミエールは扉を閉め、もう一度目元を軽く拭い、大きく息を肺の中まで吸った。

 この土地に独特の、からからに乾ききった草波の匂い。

 この何処までも続く草原の中で、あの緋い人は成長し、残されたあの暖かい方は生涯を過ごし通したのか。

 そう考えてから、遥か遠くに視線を遣る。

 

 一面の夕焼けの景色。

 その中にほんのりとした夜闇が混じりつつある丘の方で、蠢く複数の、人影。

 視線をそちらから外さないまま、吸い込んだ息をゆっくりと吐いた。

 

 たとえ己の故郷の母の短い生涯が、彼女にとって不本意なものであったとしても。

 たとえここの、あの彼の母の長い生涯が、彼女の本懐であったとしても。

 そこに何らの違いはなく、どちらのひとも、力の限りに精一杯生きたのだ。

 そうしてこの己が何も出来ない、無力な存在であるというのなら、なおさらに輪を掛けて、力の限り。

 

「……もう、泣きません。二度と。」

 片手に下げた剣を緩やかに夕暮の風に靡かせ、歩き出した。

「あの優しい方たちの代わりに、わたくしが、あの方たちの慈しんだ、この宇宙の全てのものを護ります。

 力を尽くして。

 わたくしの命の、そしてこの守護聖の使命の、及ぶ限りに。」

 

 

 

 

「……俺達に気を使ってくれたんでしょうかね」

 オスカーの自問にも近い何気ない問い掛けに、老女は緩やかに笑っただけで応えた。

 それから別の問い掛けを、オスカーに返す。

「判りましたか? ……判っていますね、オスカー?」

「…無論です。」

 

 『いつかきっと、あなたにも唯一無二の人が現れるわ』、と。

 オスカーの幼い頃から、聖地に招聘されての別れの時まで、それが彼女の口癖だった。

 未来を占う予言ではない、定められた事実を告げる預言のような、彼女のその言葉を時に訝しく思いつつ、故郷の星に在った時も、聖地に移ってからも、いつも自分を取り巻いてきた蝶や花の如き女性の数々と次々に恋の華を咲かせながら、全ての相手が俺にとっては唯一無二さ、とずっとうそぶいてきた。

 あの衝撃に、出逢うまで。

 

「……時を共に渡る相手ひとで、何よりでした。

 絶対に、離してはなりませんよ。あの人は水。少しでも気を抜けば、あなたの手から流れ落ちる。」

「承知しています。俺が、護ります。」

 母は再び、緩やかにただ、笑った。

『ちょっと違うのだけれどね』、という口の中だけでの呟きは、オスカーに届かない。

「…何か仰いましたか?」

「いいえ」

 オスカーが訝しげに眉を潜めながら母を見遣れば、彼女は昔に比べて些か霞んだその瞳に、昔と変わらぬ悪戯げな光を宿してオスカーを見返している。

 覚えのある、こんな時のその瞳の色。そして続く言葉。

 思い出しかけた瞬間、家の外からの何かが神経を掠めた。

 沈黙して、外部の気配に集中する。時折り草原を吹き渡る風の音。風。

 その風に混じる、…微かな繰り返す剣戟の音。

「母上!」

 椅子を蹴るようにして立ち上がり、再度母を見遣れば、自分とは対照的な母の「大丈夫よ」と言いたげな落ち着き払った微笑み。

 それと、先程からのその瞳の色。

 閉じられたまま笑む母の口から、懐かしいあの言葉が、

 

『何事も、あなた自身が経験しなさい。

 でなければ、判らない事もあるものよ。オスカー。』

 

 その言葉が朗々と流れ出たような気がして、オスカーは苦笑した。

 最後まで、この人には勝てなかった。そんな気がした。

 

 別れはとうの昔に済ませた。思いがけない再びの邂逅に、あの綺麗な人へどこまでも感謝したい思いだった。

「どうぞご健勝で、母上!」

 その言葉と力強い笑いだけを投げ掛け、背を向けて、彼女の終の棲家の、小さな家を飛び出した。

 母はただ、いつまでも穏やかに微笑い続けていた。

 

 最後の瞬間、ダイニングテーブルの上の、何処までも繊細に綴られたレース織りの仕掛けがオスカーの目の隅に留まった。

 

 

 家の外に出、素早く争いの音の源を探す。

 すぐにそれは突き止められ、そちらに目を遣り――オスカーの時はそこで止まった。

 

 一面の夕日の朱く煌めく光の中、小高い丘の上で、靡く水色の髪。

 水の流れのようにしなやかに翻る、純白のローブに包まれた細い身体。その手に握られた剣。

 遠く高く繰り返し響き渡る剣戟の音が、まるで楽の音のようにその姿を彩る。

 周囲を取り囲みながら常に後退り、気圧される事しか出来ない十数人の軍人たちは、優雅な舞曲を引き立てる哀れな取り巻きの演出でしかなかった。

 

『何事も、あなた自身で。でなければ、判らない事もあるものよ。』

 

 母の言葉が再度脳裏に流れて苦笑しつつも、胸の奥から込み上げてくる限りない高揚感に、ただその水色の人を目掛けて駆け出した。

 

 思い掛けない、思い掛けないこの宇宙にも稀なる人と、この先の、生涯を共に―――!

 

 人の波に割って入り、その綺麗な人の元へ辿り着き、抑え切れない高揚感のままに剣を思い切り振るって軍人の一人のそれを弾き飛ばした。周囲が低くどよめく。

 白い姿の剣舞は背後のオスカーの気配に、やがて緩やかに剣を下ろし納め。

 静かに振り返り、深海色の瞳でオスカーを見上げて、そうして。

「……オスカー。」

 薄めの唇が、あどけなさの残るその声が、初めてその名を呼んだ。

 

 迸る感情のままに力の限り抱き締めたくなる衝動を、何とか遣り過し、その肩に手を回してから、自分たちを取り囲む一同を見渡す。

 

「何者だ! 多勢に無勢だ、全員、態勢を整えろ!」

 先程のいかにも小物に比べれば多少はましな指揮系統のようだったが、それでもこのあえかなる人ひとりにただ押される一方だったという厳然たる事実を、焦りのあまりか客観的に勘案できていないのには変わりない。

 取り乱しながらも一歩引いて隊列を組み直そうとする連中を見遣りながら、オスカーは考えた。

 強権は趣味ではないが、王立派遣軍には今少し睨みを利かせてもらうとしよう。

 いくら武威を尊ぶ気風の星といえども、いや――そういう気風だからこそ、こんな底の浅い私軍に、自分の大事な故郷を荒らされては堪らない。

 

 唐突に、ざわめきが周囲の軍人の間から沸き起こった。オスカーの背後の空から響いてくる、彼らも聞き慣れているはずのその音。

 経過時間から考えて、そろそろ頃合いだろう、と思っていた。自分の判断ミスが引き起こしたこの不測の事態にあって、その舌先三寸で素早く聖地を上手いこと丸め込んでくれたであろうカティスに、胸の中だけで感謝しておく。

 夜の帳の降り始めた空の遥か彼方から急速に疾走し、接近してくる複数の船影に、狼狽と驚愕とが巻き起こる。何かを叫び、あるいは慌てて逃げ出す者たち。

 巻き起こる風に靡かれつつ、振り返ってわざわざ確認せずとも、オスカーには有り有りと目に浮かんだ。

 いずれの船体にも誇り高く掲げられた、気高き神鳥の紋章が。

 

 その紋章を思い起こしながら、隣の凛とした佇まいの、どこか母に似たその人を見遣り。

 そうしてふと、懐かしい遥か昔の記憶が甦る。

 

 父が相当に機嫌良く酔った、幾度かの夜。暖炉の前。

 部屋の離れた所で趣味のレース編みを続けながら呆れる母を横目に、父は密かに、子供達に語った。

『父の生涯で最大の戦果はな。お前達の、母だ。』

 見たこともない程、強いひとだった。長い間、流浪の旅を続けたのだという。

 自らの人生は宇宙のために捧げ終えたのだと、素気すげく断るそのひとを口説きに口説き倒して妻に娶った。

 

 なぜ彼女が国母と呼ばれるに至ったか、想起するも憚られるその真の理由は、もはや時の流れに摩滅して久しいようだった。

 やがて彼女の生涯と共に、この雄大な草原の自然の中へ、彼女がそう望んだように還ってゆくのだろう。

 

 彼女が好んで幾度も織り上げた、レース編み。

 生涯の終焉の間際に至っても威厳に満ちた、その姿。

 

 暖炉の前で誇らしく続いた父の語りを、今、思い起こす。

 

 

 そのひとは、かつて宇宙をその手で織り上げてきたひとなのだと。

 

 

 

 カティスの報せにより、研究院がサクリアの位置から割り出した現場へ緊急派遣された王立派遣軍の艦隊は、二柱の守護聖に対する私軍の狼藉につき、管轄地域内の統制不行き届きを重ねて詫びてきた。幾度も頭を下げる責任者にオスカーは鷹揚に応じ、新任守護聖の着任に際しての『「道」の不調』のために派遣軍の手を煩わせた事を、逆に慰労する。

 オスカーがこの星を離れてから、数十年とはいえそう間も空いておらず、この地が炎の守護聖の故郷である事、その母と守護聖達との接触があったらしき事実は、双方の側から暗黙のうちに不問に付された。それは本来、有り得べからざる事であったから。

 そのまま派遣軍の船艇で宙域を移動しながら慌ただしく二人の無事を連絡などするうち、感慨に耽る間もなくあっという間に聖地へと到着する。

 新旧の守護聖の対面、他の守護聖達への引き合わせ、次々と重ねられ繰り返される自己紹介、休む間もなく女王への謁見、女王補佐官ディアによる聖地の案内。

 何故かその全てに、もはや事の成り行きでオスカーが同行しながら、目捲るしい程に忙しいその行程の最中、ふと、あの陰鬱な闇の守護聖の姿が無いな、と思った。

 陰気なかの守護聖とはどこまでも相性の悪さを感じていたオスカーには、これ幸いと好都合ではあったので、そのまま気付かぬ振りを決め込んだ。

 

 そうしてようやく一息つき、気が付けば、またこの隣の水色の人と二人、聖地の宮殿の中庭で、佇んで。

 

 隣のリュミエールが小さく、長く息を吐いた。

 今まで気を張って凛と事の対応に当たっていたその人が、再びあの「道」の前でのあどけない姿に戻ったようで、オスカーは小さく笑った。それが聞こえたのか、リュミエールは視線をオスカーへ投げ掛け、恥ずかしそうに首を少し竦めて、微笑む。

 

 守護聖の生涯は孤独なのだと、そう覚悟を決めたこの地で、出会った運命の半身の人。

 これからの永い永い時を、その微笑みも、喜びも、哀しみすらも。そして誰よりも何よりも強いその身体を、心を、何もかもを。

 この手で。そして二人で。

 

 引き寄せて唇を重ね、何処までも溶け合うように深々と舌を絡めた。

 運命の相手。

 何も疑いようのない、自然な事だった。

 

 …と、思っていたのは、果たして自分だけだったのか。

 

 ふ、と、オスカーの腕に掛かるその人の重みが、変わったような気がした。

 

 

 ……唇を重ねたまま、

(…………………。)

 …どこかで、覚えがあるような気がする。それも悪い方の。

 この状況。

 

 唇を解放し、腕の中の人を見れば、かっくりと力なく、豊かな水色の髪の流れは自分の腕に落ち掛かり、薄く開かれた目はまた気絶寸前で。

(ちょっ―――!)

 だって、そんな、あの地で、自分の母を穏やかにも優しく労り、多勢にも一切怯む様子も見せず、しなやかに誰よりも強かった人が。

 こんな程度のことで。

 

 この水の人は、つまり結局は、こういう色恋事に関してはどこまでも純真で初心うぶなのだった。

 

 オスカーがその事実に気付くのと、再び意識を取り戻したリュミエールが、目を見開いてオスカーの腕の中から身を翻したのとが同時。

 リュミエールが駆け出した、その先には「道」――

 …ではなく。

 「道」のように何処までも果てしなく、その先の知れないような漆黒の――闇の守護聖の姿。

 何故かその手に、小型のハープを抱えて。

 

 リュミエールははたと立ち止まり、その長身の漆黒の姿をしばし見上げると、

 ――オスカーにとってはあろう事か、

 その懐へと、思い切り飛び込んだ。

 

「……ほう?」

 漆黒のローブを纏った己の腕の中にすっぽりと収まった白い姿と、呆然と立ち尽くすオスカーとを順に眺めた後、

「…新任の守護聖の忘れ物だと、ディアから渡され、挨拶を促されて来てみれば――」

闇の守護聖は、その唇の端だけで、この上もなく楽しげな悪魔じみた笑みを、

「――何事も、経験せねば判らぬ事があるものだな? オスカー。」

炎の守護聖に向けて投げて寄越した。

 

 闇の守護聖がハープを持ったまま掌中の白く細い身体を両手で易々と抱え上げ、さっさと執務室へ引き上げてゆくのを、身動ぎも出来ず呆然とただ見送った。

 少し離れた背後で、途中から様子を見ていたカティスが腹を抱えて笑い転げている。

 もはや笑い死にしそうな程にうずくまって悶える年長の緑の守護聖の尻を、オスカーは力一杯蹴り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、時は遥かに下り―――

 

 

 

 執務室の控えの間を満たす心地良い旋律の数々へ、ソファに横たわるクラヴィスは身を任せている。

 カーテンの裾を軽く引けば、窓の向こうの階下の庭園で、幾人もの華やかな官女に囲まれて手当てを受けているらしいオスカーの姿が見える。

 派手な頭のコブのその成因について、炎の守護聖は果たして何と言い訳したのやら。

 

「…オスカーも、奴は奴で難儀な事だな。そう思わぬか、リュミエール?」

「……何の事でしょう? クラヴィス様。」

 グランドハープの複雑精緻極まりないパッセージを、その長い指でいとも軽やかに弾きこなしながら、淡い視線を闇の守護聖の方へ流し、水の守護聖が苦もなく応えを返す。

 カーテンの隙から垣間見える階下では、炎の守護聖がハープの音の漏れ聴こえる窓を一瞬ちらりと恨みがましく見上げたのが見えた。

 闇の守護聖はただ小さく笑って、一時も留まる事のない旋律の波に再び身を預ける。

 

 海洋の惑星の故郷から招聘されてこの聖地へ足を踏み入れた、彼のその当初からの一事が万事の出来事で、炎の守護聖から寄せられる想いは明々白々である筈なのに。

 それについてこの水の守護聖がどう思っているのか、ほんの少しですらも読み取れるものは無く。

 

 恐ろしいほど強く、恐ろしいほど純真で無垢だった水色の細い身体は、しなやかに成長し、やがてその深海色の瞳に不可思議な色をたたえるようになり、果て無い強さはそのまま、綺麗な、わかりにくい大人になった。

 闇の守護聖にとっては、それこそが好ましい。

 判りやすい人間など、側に置いた所で何の面白味もないではないか。

 

 

(…また―――)

 買い被っておいでのようだ、と、リュミエールは思う。

 闇の守護聖が思っているらしいほど深い人間でもないと、自分では考えている。

 何ということでもない。ただ。

 ただ自分は、自分を生まれ変わらせてくれた、あの時の誓いを守っているだけ。

 

 旋律を奏でる手を休めることなく、少し離れたテーブルに置かれた小型のハープを見遣る。

 故郷との繋がりをただひとつ遺す楽器の上に覆い掛けられた、糸目も判らぬほど繊細な純白のレース織りの布地は、あの時から程なくして、宇宙に数多溢れる水の守護聖への捧げ物のひとつとして、奇跡的に自分の手元まで辿り着いたもの。

 

 あの優しい人たちの代わりに。

 己の生を与えてくれた故郷の母の、そして何もかもを無くした自分を新たな世界へ導いてくれたあの草原の地の母の、その彼女らの代わりに。

 力を尽くして。この命の、この守護聖の使命の及ぶ限り。

 あの人たちの慈しんだ、この宇宙の全てのものを護ると。

 あの草原の母の慈愛と強さとが育て上げた、その人の事をも、力の限りに護り通すのだと。

 ただ、それだけの事。

 

 微笑みを浮かべ、あれからずっと胸の中で熱く絶えることなく続く誓いと共に、迸る感情の赴くまま、リュミエールは最後の一小節のグリッサンドを思い切り掻き鳴らし上げた。