■ 聖地と故郷と貴方(3)

 目立たない普段着でも、普通に道を歩いているだけでも、そのさらさらと水の流れるような涼やかな気配は、本人が思う以上にその存在を主張している。

「あら、リュミエールちゃん、お帰りなさい」

 学校から家への帰り道では、必ずと言っていいほどご近所さんから声を掛けられるリュミエールだった。今日のお相手は庭の芝生の手入れをしていたご近所のおばさん。

 近所といってもリュミエールの住む家は、集落から少し離れた海辺にあるから、彼はこれから家までもう少し歩かなければならない。

「こんにちは、おばさま」

 リュミエールが微笑みながら返事をする。その匂い立つような美貌に思わず見とれてしまうご近所さんだった。

「お母さんの具合は如何?」

「ええ、最近気候が良いせいか、このところ調子がいいみたいなんです」

 本当に嬉しそうにしてそう笑うリュミエールの微笑は、彼を知る誰もが斯く有れと強く望む笑顔だった。特にここ何か月かは、彼の母親の病状が悪化する一方で、彼の表情も得てして曇りがちであったから。

「そう、それはよかったわ」

 その言葉に、リュミエールの笑顔は一層深くなる。

 彼独特の、人を思い遣る、暖かな慈愛に満ちた微笑は、まるで見るものの方が逆に癒されていくようなそれで。

 軽く会釈して自宅の方向へ歩み去ってゆくリュミエールを、長い間見送った。

 確かに彼は、他に類を見ない、稀有な存在だった。

 

 リュミエールは門扉を開けて家に入った。玄関脇の金木犀は今が盛りとばかりに咲き誇り、家全体を芳しい香りが包んでいる。

 母親の体調のためには良いのだが、1か月に40日雨が降るといわれるこの土地にしては珍しく晴れ続きだった。庭の植物たちに水を遣ったほうがいいだろうか、と考えながら、鞄から鍵を出して、玄関のドアを自分で開けた。

「ただいま帰りました」

 家の奥に向かって声を掛ける。返事は無かった。

 父は仕事で、兄たちも妹も学校のはずだ。

 そして母は。

 リュミエールはいったん自室に鞄を置きに行くと、両親の寝室へ向かった。ノックをしてからドアを開ける。

「ただいま帰りました、母さま」

 ドアから覗き込むようにして声を掛ける。

「……お帰りなさい、リュミエール」

 返された声は、弱々しい、とても小さなものだった。

 

 かつては美しい人だった。リュミエールの容姿は母親譲りだ、とよく言われた。

 雪のように白かった肌は、今は黒ずみ、目は落ち窪んで、痩せ細ってしまった体がベッドに横たわっている。

 そんな母親を深海色の瞳で見つめ、一呼吸空けてから、リュミエールは部屋の中へ入った。

 ベッドサイドに置かれた食事はほとんど減っていない。

「今日は……ずいぶん早かったのね」

 何でもいいから口にしてほしい。何か食べたいものはないか、とリュミエールが聞こうとした時、母の方から先にそう問われた。

「私のことを心配して、早めに帰ってきたのではなくて?」

 母のその言葉に、リュミエールは曖昧に微笑み返した。適当に誤魔化してしまった方が良いことはリュミエールも判っている。けれども母と同様、どうしても嘘は吐けない性質だった。

「駄目ですよ……来年の進学について、先生とちゃんと相談してきましたか?」

 だいぶん前、少しだけ話した話題を、彼女はしっかり覚えていた。

 不意を衝かれて、リュミエールは一瞬口篭もった後、ベッドの脇に膝をついて、細く細くなってしまった母親の手を両手で包んだ。

「母さま……やっぱり、学校を辞めて、母さまのお世話をさせてください」

「駄目ですよ」

 リュミエールの要望に対して、即座に返事が返される。

「だったら、せめて何処かで働いて」

「駄目です」

「母さま」

「子供は勉強をするのが仕事ですよ」

「もう充分すぎるほど、勉強させてもらいました」

 少し顔を赤くしながら、リュミエールは反論した。

「それに、もう16です。子供じゃありません」

「子供ですよ」

「母さま」

「貴方は、いつまでも、私の大切な子供ですよ」

 静かな言葉。リュミエールは息を詰めるように言葉を失った。

「大切な大切な子供だから、本当の意味で、貴方のためになることをしてほしいの」

「…………………考えておきます」

 答えるリュミエールの声は、微かに震えていた。

 たったこれだけの会話をするのも、母にとっては体力的に辛いことのはずだ。息が乱れている。

 どうすることも出来ない。考えうる限りのありとあらゆる治療は、もはや彼女の身体を痛めることにしかならない。安静にさせておくぐらいしか対処法がないのだ。

 庭の植物に水遣りをする旨を告げて、リュミエールは部屋を出た。

 ドアを閉めて、そのままドアに背を当てて凭れ掛かる。

 そのままじっと、母から与えられた言葉を想って、立ち竦む。俯いた両頬に青銀色の髪が流れ落ちた。

 浮かんでくる涙を、白いシャツの袖で拭う。

 

 

 どくん、と、胸鳴りがした。

 

 

(………え?)

 リュミエールは俯いた姿勢のまま、目を見開いた。

 

 続けてひとつ。ふたつ。

 潮騒のように繰り返され、そのたびに大きくなる何かが――自分に向かって流れ込んでくる。

 優しいけれども容赦なく自分を飲み込んでしまうその何かに、揺さぶられ、押し流されていってしまう。

 

 鼓動が速くなり、ひとつ胸を打つごとに、どんどんと膨れ上がって行く、それ。

 

「……リュミエール?」

 ドア越しから微かに声を掛けてくる母も、何であるか解らないその何かに気が付いたのだろうか。

 

 

 その時だった。玄関のチャイムの音がしたのは。

 

 リュミエールは顔を上げると、もう一度手早く涙を拭いてから玄関へ向かった。

 ドアを開ける。

 ――瞬間、違和感に包まれた。

 

 男女合わせて数人が玄関先に立っていた。一見これといって特徴のないように見えるその人々は、しかしこの辺りの土地に普通に見られるその地味な服装が、どこか馴染んでいなかった。

 この地域の人ではない、という事はすぐに判った。しかし自分の家に何の用があるのだろうか?

 訝しげにそう考えたリュミエールの前で、先頭の男性が、膝を突いて低く身を屈めた。

 

「リュミエール様――で、あらせられますか」

 

 

 

 

 彼らが訪れた目的を聞かされたとき。

 頭が、心が、

 自分自身が、真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 光に包まれたかと思うと、天地がひっくり返るような感覚に襲われた。

 それから急に、重力を感じた。咄嗟に受身を取る。

 ばしゃん、と膝まで水に漬かる感触。跳ね上がる水飛沫が目に映った。

 片膝を軽く曲げて着地した姿勢のまま、しばらく目の前の水面の波紋と、透明な水の中でゆらゆら揺れる白いローブの裳裾を眺める。

 そうして、ゆっくりと顔を上げた。

 

 さっきまで自分が何処にいて、何が起きたから、どうなったのか、を。

 一時的に失念した。

 

 明るいようにも暗いようにも思える光の中で、長いようにも短いようにも感じられた時間の間、思い出していたのは、故郷での、あの運命の日の出来事だった。

(……ああ。)

 あの日に訪れた人々は、絶対の存在からの丁重な要請、しかし実情は絶対の命令であるそれを、自分の元へと届け。

 自分の行為の無意味さを知りつつも、母を案じてその命令を拒否した日々。

 静かに促す母の言葉。

 何人もの護衛に囲まれ、家族に見送られながら家を後にした。立つことすらままならない母が玄関先まで見送りに出ていた。

 その家族に、母に、背を向けなければならなかったあの日。

 「道」をくぐる直前、自分の後を追うようにして届けられた報せ。

「―――――」

 別のことを考えようと思考を逸らしたら、とたんに意識の光景に緋い色彩が広がった。それから、高温の炎の色の瞳。

 深い深い、口付け。

 ぱっ、と頬に熱が上がった。

 リュミエールは慌てて頭をぶんぶん振った。今は思い出したくないことだ。

 とりあえず、目の前の現状を把握することにした。

 

 

 眼前に見晴らす草原は、遠くでいくつかの丘が重なって地平線に続いている。まばらに生えた木は、ところどころで林を、遠くの山手の方で森を形成している。

 見渡す範囲に、人工物の影はひとつも見られない。

 背の方から風が吹いて足元の水面をさざめかせ、草原に掛かって草波を揺らし、そのまま視界の先へと流れていった。

 日はあと少し傾けば、夕暮れの色を作りだすだろう。

 

 小さな頃、友達と遊んでいて、夕方になり、子供たちはひとり帰り、ふたり帰り。

 誰もいなくなった茜色の景色の中、独りきりで見た海に沈む夕陽の光景を思い出す。

 

(帰らなければ)

 咄嗟にそう思う。

 

 それから気付く。

 

(帰るって、何処へ?)

 

 故郷の星とは既に別の時間を歩み出し、過去の中にしかそれを求める術は無い。

 ほんの数分居ただけの聖地と呼ばれるあの場所を、帰る場所と思えるほどの執着も無く。

 

 ただひとつ故郷から持ってくることを許されたハープも――ただひとつ、自分を支えてくれたものたちとの絆を証すハープも、いつの間にか自分の手の中から消え。

 行く場所も、帰る場所も無い。

 

 

 真っ白なままその場に立ち竦んでいた、その時、

 ――背後に、微かな気配を感じた。

 

 

 振り返ると、視界を遮る草波の合い間に、小さな小さな人影が見える。

 ずいぶんと小柄で、草間に埋もれてしまいそうなほどに背の低いその人物は、女性で――老女?

 ゆっくりゆっくりと、一歩一歩近づいてくるその姿に引かれるように、リュミエールは自分をびしょぬれにした泉の中央から、濡れた裳裾を引き流しつつ水際の岸辺の方へと歩み寄っていった。

 けれども何故か、最後の淵から先へは――草生い茂る陸へは上がれなかった。リュミエールの足はそれ以上動かなかった。

 自然、緩徐に歩み寄ってくる老女を待つ態勢になった。

 

 やがて草波を掻き分けて、その人物がリュミエールの目の前の岸辺に立った。

 

 小さな顔に深く刻まれた皺は、静かに年老いた者特有の穏やかな笑みを湛えている。

 その背は曲がっていて小さな身体をますます小さく見せていたけれども、リュミエールは何故かその老女から、何ともいえない不思議な強い威厳を感じた。

 

「……綺麗な髪をしていらっしゃるのね」

 老女を見つめたまま茫然と立ち竦んでいたリュミエールに、しわがれた小さな声が――しかし決して無視することのできない存在感に満ちた声が届いて、そこで初めてリュミエールは我に帰った。

 それから相手の言葉と、濡れねずみの自分の醜態に気が付いて顔を赤らめる。

 そんなリュミエールの様子に、老女はさわさわと笑い、可愛い人ね、と囁いた。

「息子がいた頃なら、うちのお嫁さんにぴったりだったのに。残念だわ」

 最初リュミエールは老女の言葉の意味が判らず、その文章はぐるぐると頭の中を3周ほど駆け巡り、それからようやく何を言われたのかを理解した。

「いえあの、申し訳ありません、わたくし、男なんです」

 よくわからないこの状況と老女の対応と会話の流れに混乱しながら、リュミエールは切れ切れにそう答える。

 老女は小さな目を軽く見開くと、もう一度さわさわと小さく笑った。

「それは……失礼なことを言ったかしら。ごめんなさいね」

「いえ、故郷の星でもよく間違えられていましたから」

「そうでしょうね。だってとても涼やかにお綺麗でいらっしゃるもの」

 混乱したままの会話を続けながら、リュミエールは頭の片隅でぼんやりと、ここも星間航行技術を有する――つまりは主星文化圏内の中にある惑星だということを悟った。故郷の星、という単語に老女が驚かなかったから。

「とりあえず、そこからお上がりなさいな。年寄りの一人住まいの家にいらしても、大したものはご用意できませんけれども、泉の中よりは暖かいベッドくらいならありますから」

 ただそれだけを言って、自分に背を向けて再び歩みだす老女にリュミエールは驚いた。

 それから――その姿を追うことが出来ず、その場に立ち尽くす。

 動かない気配に、老女が振り返って、軽く首を傾げた。

 

 もうずいぶんと傾き始めた太陽に照らされた、一面の見慣れない広大な乾いた草原の光景の中、すぐ目の前に立っているはずのその小柄な女性との距離が、果てしなく遠く感じられて。

 

 リュミエールは唐突に気が付いた。

 自分がそれ以上、先に歩めない理由を。

 

 自分は異邦人なのだと。

 何処とも、何物とも繋がりを持たず。自分が立つこの場所でさえ、自分のものではなく。

 行く所も、帰る場所も、帰る方法も知らない―――

 

 足元が揺らいだ。

 

「どうかしました?」

「……いえ、あの………」

 穏やかに尋ねてくる老女をしばらく見つめた後、リュミエールはゆっくりと目を伏せた。

「……わたくし、この星の人間ではないんです……」

 何からどう言っていいのか判らず、リュミエールはそれだけを小さく呟いた。

「ええ、そう思いましたわ、服装も、その髪の色も。それにお見かけしましたもの、宙に現れた綺麗な七色の光の中から、落ちていらっしゃったところ。」

 さらりとそう答える老女に、リュミエールは驚きを隠せなかった。

 未だ動こうとしないリュミエールに、老女はただ不思議そうな顔を見せるだけで。

「……お尋ねにならないのですか? わたくしが何処の星の、何者であるか、とか――」

 混乱を深める様子のリュミエールへ向けて、老女は皺の深いその顔に、より一層の穏やかな笑い皺を作った。

 

「何処の星の、どなたであっても、暖かい料理と柔らかいベッドと、帰る家は必要でしょう?」

 

 その言葉に、リュミエールはただ目を見開くことしか出来なくて。

 

 何も言えず立ち尽くすリュミエールに、老女はゆっくりと、皺の寄った小さな小さな手を差し伸べた。

 

 

 その瞬間。

 リュミエールは、まるで風が通り抜けるように、白い道がその女性に向かって延び、己の身の水のサクリアが迸るように流れ出して―――そして目に映る限りの草原いっぱいに広がっていくような感覚を憶えた。

 

 リュミエールの足が、自然に動いて。

 真っ直ぐに、その人の元へと導かれていくように。

 

 老女は微笑んで、手を差し伸べたまま、穏やかに微笑ってリュミエールの歩みを待っている。

 

 差し出されていた小さな小さな手を、リュミエールは少し震える両手で包んだ。