今更だが、気付いた事がある。
ここのこの草原は、故郷の景色を少し思い出させる。
しかし―――と、馬上のオスカーは考えた。
それでも、違うのだ。
今日もこの地を照らす日差しは、常春のそれのように包み込むような柔らかさで。風は適度な湿気を含んで、掠める頬に優しい。
その陽の下、視界の届く限り広がる緑の波。緩やかな丘がいくつもの重を作る。
風景自体は故郷のそれとさほど変わらないもののはずなのに、与える印象はひどく違う。
故郷の日差しは厳しく、強かった。昼も、夕焼けも。
水分をほとんど含まない乾いた風は、天高くからの光をそのまま強く草原に照り映えさせ、視界一面の草葉の縁は、触れれば切れそうなほどに鋭く見えたものだ。
どこまでも続くように思われる草の波の中、愛馬の上でゆっくりと揺られながら、珍しく感傷的な気分になっている自分に気が付き、オスカーは小さく苦笑した。
以前にこの辺りを通った時は、まだ思考がひどく混乱していて、景色を見るゆとりすらなかった。
いや、草波を目にはしていても、風の音を耳にはしていても、それはオスカーの前を通り過ぎるだけで、オスカーの中身はここに到着したその時からの、真っ白の状態から遅々として更新されなかったのだ。
自分の内部へ入力される視覚や聴覚の情報を、「受け取っている」という実感がオスカー自身に湧いてこなかった、というべきか。
今は違う。
柔らかく重なり合う緑の波も、踏み分ける草の湿った匂いも、故郷のものとは違うそれらが、確実に、染み入るように自分の中に入ってきているという実感。
あれから少しの時しか経っていないとはいえ、既にここの景色は、自分の手の中にあるべき「自分のもの」だという感触がある。
ここ―――そう、この「聖地」の風景は。
オスカーの中にある一番古い記憶は、どこまでも続く草原を夕日が照らす中で、一面の朱い世界に包まれて佇む自分自身だった。
果てしなく遠くまで、ただ冴え冴えとした朱い光景しか自分を取り巻くものはない。
幼いオスカーはその時、急に不安な気持ちを覚えた。ただ一人、この世界の中でありとあらゆるものから切り離され、果てもない孤独に取り残されたような。
目にするもの、目に入るものの全てが、どんなに手を伸ばしても一体となることのできない、自分自身とは異なる存在であるということ。
それは確かに、幼い子供が、彼自身を取り巻く周りの世界とは異なる存在である「自我」というものに気付き、その周囲の世界から分離した瞬間でもあった。
それは人に恐ろしいほどの孤独感を苛む。オスカーは生まれて初めて恐怖というものを覚えた。
なにものとも、つながることが出来ない。すべてのものから遠く隔て分けられた、無防備で無力な自分。そんなことを思った。
その時、馬に乗って迎えに来た母親が遠くからやってくるのが見えた。
草原の女は皆、男勝りだった。
馬上から降りて、ゆっくりと近づいてくる彼女の姿。その柔らかな曲線も紅に彩られていた。
………ああ、このひとはここにいる。いてくれる。自分から切り離された、その向こう側の世界にではなく、自分の、傍らに。……オスカーはそんなことを考えた。
彼女はオスカーの横まで歩み寄ると、あなたの髪はこんな夕焼けの中でもいちばんに目立っていて綺麗だわ、と優しく髪を撫でてくれた。
そしてその暖かい手が、オスカーのまだ小さな手を握った。
その彼女はオスカーとその周囲の世界とを繋ぐ掛け橋のように、彼を家へと、そして彼を取り巻く世界へと、彼が彼自身のものとして受け取ることが許された世界へと、手を引いて連れて帰ってくれたのだ。
例えば、そんな母や、その時の彼女の掌の感触や、巨大な恐怖の後の、言葉で言い表すことができない染み入るような暖かさや、……
オスカーは長兄であった。彼の下には、弟と、可愛い妹。
彼らの世話を焼くのはとても好きな事だったし、彼らもオスカーを慕って暇さえあれば戯れてきていた。
弟にはよく剣の稽古をつけてやった。妹は少し年が離れていたこともあって、可愛くてたまらないほどで、兄馬鹿と周囲からからかわれるほどにべたべたに甘やかした。
次は彼らに何をしてやろうか、何を教えてやろうかと、あれこれ考えるのが好きだった。
彼らの髪を撫でる時や、彼らを愛情いっぱいに力を込めて抱きしめる時の、自分の手に伝わる柔らかい感触と暖かみが好きだったが、そんな時に惜しみなく返されてくる彼らの満面の笑顔はそれ以上に愛おしかった。
例えば、そんな弟妹や、抱き締める感触や、響くように返され染み入ってくる暖かい笑顔や、……
軍人の家系だった。
祖父や曽祖父たちと同じように、やはり軍で活躍する父の姿を見ながら育った。自分も軍人になり、父と同じ道を歩むのだと信じて疑わなかった。
15の年に士官学校に入学した。規律も訓練も厳しかったが、オスカーはそれまでのどの生徒より優秀で、強靱だった。学友どころか、教官たちにすら一歩も引けを取らなかった。
たまの休暇に、草原の中の家へ帰ると、祝いの酒で酔った父が自分の戦歴を自慢するのが常だった。父親の話に誇張はなく、語る内容全てが事実であったから、オスカーは少しも不快な気分にならず、むしろそんな父を誇りに思った。
オスカーが初めて覚えた酒の色は、決して不快ではない夜の深淵の中、暖炉で燃える火の照り映えた琥珀の色だった。
例えば、そんな父や、耳に心地よい響きの低い声や、ひとつひとつが生き生きと語られる話や、グラスの中で揺れた灯火の揺らめきや、……
そして再び士官学校へと帰り、日々の訓練や講義を受け、
もうすぐ卒業しようかという17のあの年に、
唐突に自分の中から膨れ上がる、爆音と閃光の洪水にも似た、激しい衝撃。
時を置く間もなく、自分の前に跪いた見慣れぬ人々が―――
例えば母だとか、父だとか、弟妹だとか、今まで出会った全ての人だとか。
自分が現実のようにくっきりと思い描いていた自分の未来だとか。
歴史が傷となって残っている白い校舎の壁や、父から貰い受けて手に馴染んだ万年筆や、来週の授業の予定。
そういうもの全てを、あの日、
自分の中から湧き上がったあの莫大な力と引き換えに、
あの日、全てを―――――
全てを無くしたのだ。
何もない、自分。
真っ白な、自分。
今まで関わってきた人、物、時間、全てを失って、自分の中に空いた巨大な空洞。
足元がふらつく。
踏みしめるべき大地さえ、奪われて。
何処とも、何物とも、繋がる術はひとつも無い。
躯が震えた。
聖地に持ってゆくことが許されたのは、新たに自分のものとなったその力と、父から譲られた帯剣を始めとする2・3の品物だけ。
それが慣例なのだと聞いた。
聖地に入る、守護聖となるべきものは、全ての過去から切り離されるのだと。
故郷の星の王立研究院から、アーチ状の枠の中、虹色の渦が巻くゲートの前に立つ。
迎えのものが同行するのはここまでだった。
ただ一人で、ゲートをくぐる。
実家を発ってから王立研究院に着き、ここに立つ直前、差し出された衣装に改めさせられた。
衣服すら、過去のものを共に携えては行けないのだ。
そして足を踏み出した先の――
故郷では見たことのない、柔らかな日差しの太陽。
頬をなぶる柔らかい風。
草を踏む、足元の感触。
迎えに来た、初めて会う人。
あの日から、全てを奪われたゼロの状態から、再び、一つ、一つ、平然とした振りをしながら、その実―――必死に、「自分のもの」を懸命に手に入れ直してきたのだ。
そのものたちとの繋がりを増やすたび、次第に濃くなる、自分の輪郭を獲得するために。
故郷の星から、ゲートをくぐって出た先は、目の前に広がる広大な草原だった。
故郷とは違う、常春の風景のそれ。
聖地に辿り着いたのだ、と気が付いた。
ふと、自分の背後を振り返って―――
目にした光景に、驚愕した。
思えばあの時、迎えを待ってその場に佇んでいた間、自分はひどく緊張していた。
ひとは誰しも、普段は些細だと思っている、しかし数え切れないほど多くのものとの繋がりの中で、自分という存在を支えることができるのだ。
関わるものを全て取り払われた、寄る辺の一切無い生身の状態の自分が、どれほどに不安定で揺らぐ存在であるか。
覚えのある感覚―――あの幼い日の、夕暮れの中のあの絶対的な孤独。
再びぐらつきかける足元を自覚した時、遠くからゆっくりと近づいてくる馬影に気が付いた。
これも既視感。あの日の、母のような。
単身迎えに来たその人は、オスカーから少し離れた所でひらりと馬から降りた。一目見るからに人を安心させる、暖かい微笑と包容力、そして長い金の髪を持つ人だった。
「よぉ、新しい同僚」
そう言って、不安に身を固めて待つオスカーの背を力強く叩き、暖かく笑ったその人―――緑の守護聖に、オスカーの不安は多少なりとも和らいだのだった。
聖地の果てにあるその場所から、中心に聳える女王陛下の住まう宮殿までの道のりを、その日、彼を単身迎えに来たカティスに伴われて通った。
あの日、人生の全てがリセットされて、再び始まった、その日に通ったこの草原を、今、オスカーは逆方向に辿っていた。
あの時とは、逆の立場―――先輩として、新任の守護聖を迎えに行き、そして聖地で初めて出会う者となるために。