■ 聖地と故郷と貴方(2)

「俺が、ですか?」

 敬愛する首座の守護聖に対して無礼になるかと思いつつも、気が付いた時には既に思わずそう尋ね返していた。

「俺はカティスみたいに歳が往ってる訳でもないし、まだ聖地に来て数か月も経ってないのに―――」

「誰が歳が往ってる、だ、おい」

 楽しげな笑い声で反論されては怒られている気にもならない。もちろんカティスも怒ってなどいないのだろう。

「お前の相棒なんだよ」

 続いて聞こえたカティスの声は、確かにそう言葉を綴った、ように聞こえた。

「はぁ?」

 よく話が飲み込めず、炎の守護聖にしてはいささか情けない声で聞き返してしまう。

 そなたはいつも話をき過ぎる、とジュリアスに言われ、舌を出しておどけてみせるカティスの姿は、まるで子供のようだった。

 

 カティスと違い、聖地に来て間もないオスカーがその新任の守護聖となるべき人を迎えに行く理由は、新たに来るその人が、オスカーの対となる存在、だからであるかららしい。

 長い在任期間を共に生きる、水の守護聖なのだと。

 首座を始めとする、先輩の守護聖たちからそう聞かされた時のオスカーは、まだ見ぬその相手を、単なる同僚ぐらいにしか思わなかった。

 

 オスカーが迎えに行くその人は、自分よりひとつ年下だと聞く。

 そいつもあの時の俺のように、何もかもを無くした状態で不安に身を包んでいるのだろうか。

 だとしたら、俺はあの時のカティスのように、そいつの不安を解消してやって。

 俺があの日から今日までに手に入れて、自分のものとした、いろんな事を教えていこう。

 サクリアの扱い方だとか、惑星の育成の方法だとか。先任の守護聖たちを紹介してやって、これまでに知った彼らの裏情報をこっそり教えてやって。

 そろそろ慣れてきた、聖地の佳い女たちのことや、気晴らしとロマンスを求めて下界へ抜け出す手段―――

 そこまで考えて、自分が先ほどまでの感傷から抜け、普段の自分らしい自分に戻っていることに気が付いて、少し笑った。

 

 

 故郷に少し似ている広い草原。

 しかしそれが故郷のものでないという事をはっきりと知らしめる、その光景が視界に入るようになってきた。

 

 聖地は主星上に存在するのだという。

 しかし聖地は、主星の他の場所とあらゆる意味で隔てられている。時の流れ方さえ異にする。

 外界と聖地を分け隔てる、女王陛下の力によるそれは―――

 

 どこまでも続くと思われた草原は、そこで真一文字にぷつりと切れている。実際には聖地を取り囲んでいるのだから、直線ではなく緩い円周であるはずなのだが、聖地はあまりに広大で、視界の届く範囲では真っ直ぐにしか見えない。

 その先は―――何も無い。無い、という事さえ存在しない。

 視線をその先に向けようとすると、まるで両眼が存在しなくなったかのように、その先の視界だけが奪われる。

 明らかに人知の力を超えたものだとわかる、それは―――壁、そう、「壁」と呼ばれていた。

 

 

 初めて聖地に着いたあの日、最初に目にした草原の風景から振り返ると、今しがた自分が出てきたばかりの七色に渦巻く「道」の出口と、――この「壁」があった。

 歩けばほんの数メートル先で、こちら、と、そうでない場所、をすっぱりと切り分ける、目で捉えることの出来ない境界が、地平線に霞んで消えるその先まで、一直線に伸びるその光景に、圧倒的な畏怖感を覚えた。

 そして動くことすら出来ないまま、身を竦ませて、「道」の前で、

 ――あの時の自分と同じように、佇む姿。

 足元まである白いローブを纏っている。

 楽器らしきものを胸に抱くように両手で包み、「道」の方を向いて立ち、こちら側に背を向けている恰好だ。

 

 清流のような、背に流れる透明な青が、その人の動きに合わせ、揺れた。

 

 水色の髪? ―――珍しい。

 

 オスカーは、やはり聖地に来てから、自分のものとして手に入れた愛馬をゆるやかに駆り、近付いていった。

 

 確か、名は―――

 

 蹄の音に気が付いたその姿が、ゆっくりと振り返る。

 視線を合わせようとして、オスカーは――――

 

 

 名は――――確か、「リュミエール」と――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……その瞬間に、生まれた渇望。

 

 

 全身の血が逆流して、その人へと向けて迸り出てゆくかと思うほどの――激情を覚えた。

 

 

 

 

「……お前…、欲しい」

 

 オスカーの口から、勝手に言葉が滑り出ていた。

 

 至上の美貌。

 過度の緊張に耐えるように、わずかに強張った表情は、それでも今までオスカーが目にしてきた何者よりも美しく、しなやかで、優雅で。

 何よりも。

 強さを司るオスカーとは正反対の、それでいて、ただ一人の半身として、オスカーの魂をすら包み込む、溢れるほどの優しさを湛えた包容力。

 

 今まで築き上げてきた全てのものを失って、空いた巨大な空洞を補って、なお余りある存在。

 この人の笑顔ひとつに比べれば、今までに手に入れたどんな宝でさえも、塵ほどにその意味を無くすに違いない。

 

 

 オスカーの言葉に、大きく見開かれた、深海の瞳。

 

 

「…………え?」

 

 ……ああ、なんて優しい声音だろうか。

 

 

 その動きに合わせて波打つ、青銀の髪。

 透けそうなほどに白い頬の下には、紛れもない紅い血潮が流れている。

 生きて動いて息をしている事が奇跡のようだ。

 

 ……ようやく、と思った。

 ようやく逢えた。

 俺の、俺だけの相手。

 もう、何も要らない。

 こいつさえ居れば、もう、何も要らない。

 

 

 オスカーは滑り降りるように馬上から降りた。

 自分が馬から降りたということすら意識に上らなかった。

 一歩一歩、確かめるように、こちらを向いたままの人に近づいてゆく。

 合わされたままの視線は一度も外される事なく、目の前に、向かい合って立った。

 

 

「お前が欲しい」

 

 お前が、お前だけが欲しい。

 お前の代わりになるものなど、何もない。

 

 これから先の永い永い永い時の流れを、この人と共に歩めるのだと。

 この人の微笑みも、小さな仕草も、怒ったり泣いたりする姿も、その全てが手に入れられるのだと。

 そう思った瞬間、狂おしいほどの愛おしさが込み上げて、腕の中に囲い込み、壊れんばかりに力の限り抱き締めていた。

 

 全身で感じるその人の存在。抱き込んだ腕の中で跳ねる躯からは、脈打つ鼓動が伝わってくる。

 両腕を掴んで、間近で顔を覗きこむ。暖かい海の色の瞳を縁取る長い睫。動きに合わせてさらさらと流れる、子供のような艶の髪。

 微かに動く唇が、何かを言いたげに息を零した。

 

 

 それを目にした瞬間、オスカーの自制は吹き飛んだ。

 強く引き寄せて、荒々しく、強引に唇を塞ぐ。

 そのまま、深く口付けていった。

 

 オスカーは溢れるほどの幸福感に襲われながら、何度も何度もその感触を確かめた。角度を変え、舌を絡め、ようやく手に入れた存在を捕らえて離すまいとするように。

 自分の肩の後ろ辺りの服を掴むその人の仕草に、愛しさがいっそう煽られた。その人の全てを探るように舌を使った。

 

 

 ……魂さえも溶かし尽くすような、熱情の口付けは、いったいどのくらいの間、続いていたのだろうか。

 

 

 ふ、と、オスカーの腕に掛かるその人の重みが、変わったような気がした。

 

「――――――――――?」

 

 夢から覚めたように、オスカーは自我を取り戻し、しかしまだ甘い感情に半分以上まどろみながら、唇を解放して、腕の中の人を見た。

 白い頬は薄く朱に色づき、濡れた唇はこの上もなく扇情的で、ついうっかりオスカーは呆然と見惚れてしまった。

 オスカーの腕に凭れて見上げてくる、薄く開いた青碧の目。

 その視線が、オスカーの視線と絡んだかと思うと――瞼が完全に落ち、かくん、と白い首が仰け反った。しなやかな躯はぐったりとして、さほど重くない体はオスカーの腕一本で抱えられる形になる。

 白い衣装に囲われたハープが白い腕の中から滑り落ちそうになるのを、オスカーのもう片手が慌てて支えた。

「――――ちょ、おい、ちょっと!?」

 冷水を掛けられたように意識が覚醒して、オスカーの全身からどっと汗が噴き出す。

 腕の中の美貌の人は、キレイさっぱり気絶してしまっている。

 まずい、とかやりすぎた、とかいう言葉だけが次々と頭の中を巡り、今までに誰にも晒したことのないような狼狽ぶりでオスカーは慌てた。

「ちょっと、おい、大丈夫か、……リュ―――」

 咽喉まで出かけた名前が、何故だか解らずにそこで止まる。

 リュミエール、と言うのだと。その人の名前を、そう、先輩守護聖たちから聞いていた。

 初めて音に出して呼ぶ名前は、しかもまだ自己紹介すら交わしてない状況では、微かな抵抗と違和感がある。

 片手のハープを地面に下ろすと、その手を青銀の髪の中に差し入れて、傾いた首をそっと支えてやる。

「――――リュミエール………」

 小さく、小さく、囁くように、初めて、その人の名前を呼んだ。

 瞬間、オスカーの胸に痛みが走る。

 その痛みを、オスカーが不思議に思う間もなく。

「……………ん………」

 腕の中の人が、微かに身じろぎした。人というのは、大声での無闇な呼び掛けより、小さな声であっても自分の名の方が意識に触れやすいものらしい。

 浮上しつつある意識に、オスカーはもう一度、呼び掛けた。

「リュミエール……」

 つきん、と、再び胸に走る痛み。そして再び甘美な夢の中へ沈んでいくような感覚。

 ああ……、と、オスカーはそこで気が付いた。

 愛しいのだ。

 名前を呼ぶだけで、胸が詰まるほどに。

 初めて出会った、最後の相手。

 その人が自分の腕の中で目覚める様子を、オスカーはじっと見守った。

 深海の瞳がゆっくり開かれていく。視線は焦点を結ばずに、しばらくの間、オスカーを彷徨った。

「…あ……、……わたくし………?」

 まだ状況をはっきり理解していない様子のその人の唇から、年齢よりもあどけない声音が零れて、オスカーはつい微笑んでしまった。

 そのオスカーの微笑を向けられた白い頬が、ぱあっと花弁を散らしたように朱に染まる。

 その変化はあまりに鮮やかで、まじまじとオスカーは眺め入ってしまい、躯を支える手が緩んだ。

 次の瞬間。

 青銀の髪の人は、オスカーの胸を、どん、と突き飛ばし、くるりと振り向きざま、闇雲に駆け出した。

 その先にあったのは、――七色に光る「道」。

 オスカーの伸ばしかけた手と開きかけた口の前で、目の前に輝く光に驚いてよろめいた白い衣装の躯が、すう、と水に溶けるように、「道」の光の中へ消えていった。

 

 ――――後に残ったのは、さわさわと嘲笑するような草波のざわめきと、

 

 ざぁ、と音を立てそうな勢いで、一気に顔から血の気を引かせた炎の守護聖だけだった。

 

 

 「道」は常に下界のひとつところに繋がっているのではない。土地から土地、星から星へと、次々に接続する場所を変えてゆく。

 炎の守護聖を迎えるときは炎の守護聖の星へ、水の守護聖を迎えるときは水の守護聖の星へ、それ以外のときはそれ以外の何処かへ。

 まるで「道」が、それ自身の意思を持っているかのように。

 七色の光に飲み込まれた新任の水の守護聖が、どの星のどの土地に辿り着いたか――全く見当がつかなかった。

 見るからにたおやかで優雅で、儚げで頼りなげな印象の、運命の人が、見知らぬ土地でどんな目に遭っているのかも。

 

 

 女王陛下に、他の守護聖たちになんと報告すれば。かの人は何処に辿り着いたのか。追いかける術は。無事でいるのか。

 ぐるぐる回る思考に、狼狽えに狼狽えたオスカーが、なんだか訳のわからないことを叫びそうになった瞬間。

 

「馬鹿か、お前…………」

 

 背後からの呆れきった声音に、オスカーの膝が思わず抜けそうになった。

「気になって後を追ってみれば、色恋沙汰に関しては百戦錬磨のはずの炎の守護聖が、とんだ失態だなぁ、おい?」

 図星だったので振り返る気力もなく、思い切り脱力してオスカーは呟いた。

「……楽しんでないか、カティス…………」

「まあ、それは措いておくとして」

「措いとくなっ!」

 振り向きざま叫んだオスカーの目に入ったのは、その口調とは懸け離れた、真剣な表情の緑の守護聖だった。

「措いとけって。いいから、さっさと追え」

 そう言って「道」を指差す。

「は?」

「行け! 今ならまださほど到着ポイントは移動してないはずだ! 聖地の1秒が下界のどれほどに当たるか、知らない訳じゃないだろう!」

 珍しく鋭い語調のカティスの言葉には、それでも同僚を思いやる暖かい響きが含まれていて。

 一瞬、表情を引き締めたオスカーは、すぐに笑顔になって、「道」へ向かって駆け出した。

「後のことは任せとけ」

 いつもの大らかな口調で、最後にそう呼び掛けたカティスに、オスカーは「道」へ飛び込む寸前、軽く上げた片手と自信に溢れた笑いで応えた。

 あっという間に、炎の守護聖の体が七色の光の中へ吸い込まれていく。

 

 そしてその場に残ったのは、緑の守護聖と、地面の上に置かれたハープ、そして草原の葉擦れの音だけになった。

 

「……さて、と………」

 ほんの少し、垣間見ただけの水の守護聖の印象そのままに、優雅な曲線を描くハープを手に取り、カティスは何処へともなしに呟いた。

 これは運命。与えられるものではなく、選ぶものである、それ。

 守護聖という、宇宙中で9人だけの至上の地位にあり、年月を重ねるにつれ、実感する、それ。

 女王の慈愛は、宇宙の全てのものの上に降り注ぐ。それは、全てを奪われ、何もかもを無くして、聖地と言う孤境に来ざるを得なかった守護聖に対しても何ら変わることはない。

 失ったもの全てに比するほどの、無二のものを、守護聖たちはこの聖地で手に入れることが許されているのだ。

 だがその過程は易しいものではない。それをそれと気が付かないこともよくある。

 だからこそ、聖地でのさまざまな過程は迂遠な手順がやたらと多い。

 女王陛下の御座す宮殿までの道のりを遥かに進まなければならない、聖地の辺境のこの場所に在る「道」に象徴されるように。

 長い道程の中で、迷い、悩み、新たな発見をし、乗り越え、手に入れる。

 どうやら炎の守護聖に関しては一瞬で気が付いたらしいその、唯一無二のものを、あの2人は互いに、順調に手に入れることが出来るだろうか。

 ましてや対の力は、引き合う時には強く引き合うが、反発する時のそれも並ではない。

「ま、楽しくなりそうだってのだけは間違いないな」

 嬉しそうにそう口にする緑の守護聖は、けっこう無責任かもしれない。

 若い2人の同僚の、とりあえず無事な帰還を祈りながら、宮殿へと共に帰るため、炎の守護聖の愛馬へ挨拶をしに、カティスは「道」に背を向けた。