■ 聖地と故郷と貴方(4)

 傾き始めてもなお強い日差しに包まれた草原を通り抜け、着いた先は、老女の言葉に少しも違わない小さな小さな木造の小屋だった。

 質素な作りだが、外構には幾許かの種類の花が咲いていて、丁寧に手入れをされている様子が見て取れる。これまた簡素な木製の玄関扉を開けて中に入れば、ひと部屋の中にキッチンと小さなダイニングテーブルとソファ、ベッドが収まっていて、その他にはドアの先の別室に風呂と洗面所があるだけだった。

 ガスや水道のパイプラインは当然のように無く、辛うじて有線電源がこの場所を終端として、地平線の向こうから1本だけ、ひょろ長い電柱を伝って頼りなくここまで伸び、強さを増してきた風に靡いている。その根本の地面には、同じように草波の切れ目なのか道なのかが判然としない程度の薄い筋が1本、やはりこの家を終わりに視界の先まで長く伸びていた。

 濡れたローブの裾とブーツは実用に程遠い薄手の儀礼用のものだったことが逆に幸いし、泉からここまで歩いてくる間、からからに乾いた草波と空気とに晒されて、気を使わずに室内に入れる程度には既に水気が飛んでいた。実用品なのか装飾なのか、室内の壁に唯一ある装いは剣と蹄鉄とをあしらったもので、女性の一人暮らしでも武威を忘れず保とうとするのは、この土地の風習に寄るものなのだろうか、と考えた。

 家の中に水道があるところを見ると、地下水からポンプで汲み上げているらしい。乾いた土地のようだったが、先ほどの泉といいここの地下水といい、この辺りには僅かに水脈があるようだった。

 星間航行も可能な主星文化圏であれば相応に科学技術は発達しているはずだが、余計な文明を享受する娯楽の類は一切見当たらず、ただダイニングテーブルの隅にひっそりと、糸目も解らないほど繊細なレース織りの仕掛けが置いてあり、台座の周りを無数の糸巻きボビンが取り囲んでいた。

 

「休んでいてください。どうか」

 リュミエールへ客人としてのもてなしを用意したがる老女に、リュミエールは重ねてそう声を掛けた。何度かの固辞の後、ごめんなさいね、と最終的に老女は言い、ベッドにその小さな身体を横たえた。リュミエールがそれに包まれてこの地に現れた、異変の光を見てからの今日の彼女の歩みは、普段と比べて随分と長過ぎたようだった。

 その威厳に満ちた精神とは裏腹に、老女の身体はずいぶんと長かったのであろう年月に、もはや既に酷く擦り切れ、萎んでいた。それはこの大草原の中の風へ溶け込もうとするような、ごく自然なことであるかのようであり、それをことさら隠す気も、この老女にはさらさら無いようであった。

「こう見えても、これまで随分と栄誉と栄華にまみれた人生を送ってきましたの。最期くらいは、この星のこの素晴らしい自然の中で過ごしたくて。」

 それとなく問うリュミエールへ、老女はそう答えた。

 彼女の望みであるのなら、それは喜ばしいことなのだろう。そう思いはするけれども、つい今しがた、母の報に接し、そうしてまたこうやって、どうしようもない運命に対する己の無力を突き付けられて。

「哀しいお顔は、なさらないで。歩み出すその時まで、どうかここで穏やかに過ごしてくださいな。」

 何もかもを無くして過去から切り離された、空虚でただの真っ白な自分に、その言葉が染み入る。

 その気遣いに心から感謝しながら、リュミエールは多少の無理をして微笑を作った。

 

 外部との通信の手段は何も無いとのことで、今から移動を始めれば夜に掛かる。何にせよ、明朝までは言葉に甘えてこの家で厄介になることにした。

 家の中のものは自由にしていいと言われ、何か食事を作ってあげたいと思い、食材などを確認する。故郷から離れてまた再び、ひととき、誰かの世話をすることが出来て、不謹慎極まりないとは思いつつも多分にそれを嬉しく感じた。

 リュミエールにとって、誰かの事を想い、何かをしたいと考えるのは、自分に対するそれよりもずっと喜ばしく、息をするより自然なことだった。

 

「息子さんか――お身内の方が、いらしたのですか? つい最近」

 それにしては物品に乏しそうだ、と思いつつ尋ねる。

「え? いいえ、身内は誰も。3週前に、雑貨と郵便の配達さんが、おひとりだけ来ましたが」

「え?」

 リュミエールは思わず振り返り、聞き返した。

 

 では、あれは。

 

 確かにあった。

 玄関先の、乾いた土に僅かに残された、蹄鉄の跡。まだ新しそうな。

 この家に対して幅広に並んだように残されていて、少なくとも単独での来訪ではなかったのが見て取れる。

「……まあ」

 念のためもう一度玄関先まで出てから、再度確認したその事を知らせると、彼女は驚いたように声を上げた。

「よくぞ、そんな事にお気づきで。…と、いいますか」

 そうして小さく、溜息を吐いた。

「もしそうだとすると、不本意ですが、貴方を面倒なことに巻き込んでしまったかも、しれませんねぇ」

「面倒なこと?」

 それ以上の確認は、すぐに不要となった。

 玄関扉が激しく繰り返し叩き鳴らされ、軋む悲鳴を立てたからであった。

 

 

 訪問の理由が穏やかならぬものであることは、その無礼極まりないノックの音だけで十二分に知れた。

 老女の方を見遣れば、ゆっくりと身を起こそうとする気配を見せながら、リュミエールへ向かって、「ご随意に」、とその瞳で語っている、――自分の気の所為かもしれないが――ように思われる。

 リュミエールは無言で、壁に掛けてあった剣をすらりと引き抜いた。

 軽く構えて、未だ殴打の音が鳴り続ける扉のノブに手を掛ける。

「国母様! ――国母様!!」

 ――国母?

 リュミエールは疑問に思いながらも、扉を開け、素早く剣を構えた。

 

 先程まで激しく扉を叩き続けていたであろう、扉の前のその人物は、呆気にとられた、を絵に描いたように、永い間呆けて自失していた。

 それも無理からぬ事で、何分にも、東屋のような小屋の扉から出てきたのが、宇宙の粋を集めた威儀の儀礼用のローブに身を包み、不可思議にも流れるような気配を纏った至上の美貌の麗人で、しかも剣を構えているというのだから。

 随分と永い間の呆然を続けた挙句、軍人らしきその人物はようやくむっとした様子で、

「な――何者だ、貴様、」

それでも狼狽を取り繕いきれず、どもりながらリュミエールに問うた。

 

 リュミエールは目の前のその人物の装備品、装飾をざっと見計らった。背後に3名の部下らしき者を従えている。国軍ならば分隊長クラスであろうか、と見当を付けた。

 そうしてふと、なんだか可笑しくなった。

 何者、か。

 過去のすべては故郷とともに置き去られ、新たな地では未だ着任にも至っておらず。

 何もかもを引き剥がされた、何も無い自分。

 それがこんな所で、こんな風に役立つとは、思ってもみなかった。

 柔らかな笑みを浮かべて、リュミエールは清々しいほどに言い切った。

 

「何者でもありません。…が、招かれざる客人から、貴方が国母と仰っているらしい、あの優しい方を護りたい、とは思います。」

 

 涼やかにも気迫に満ちたリュミエールに完全に気圧けおされる形だったが、それでも分隊長は辛うじて反撃を試みた。

「な――何たる無礼な物言いを、」

「無礼なのは、そちらのほうでありましょう」

 リュミエールの背後から人影が現れ、

「国母様!」

 突進しようとする軍人を、リュミエールが構え直した剣で無言のうちに押し留める。

「勝手な戯言を、仰らないでくださいな。私は、ここから動きませんからね。」

 その言葉も、細くはありながら見過ごす事が出来ないほどに重々しく。

 軍人たちは一歩引き、こちらの様子を窺いながら小さく話し合っている、その会話の端々が漏れ聴こえる。

「――派遣軍に悟られれば、厄介な――――」

「――我軍の後発隊がもうすぐ――」

「――多勢で一気に―――」

 

「い、致し方ありません。それでは後ほど、また威儀を改めまして、国母様をお迎えに参ります。」

 可能な限り重々しく、を図りつつ、この場の誰の目にも明らかに滑稽な言葉を残し、小隊長とその部下たちは去っていった。

 老婆はふう、と溜息を吐き、リュミエールに向かって、皺の深い笑みで笑い掛ける。

「ごめんなさいね」

「……いいえ。」

 剣を扉の内の柱に立て掛けると、もう気力もずいぶん尽くした様子の小さな老婆を支えながら、ベッドまでの道程を戻った。

「国母、とは……」

 差し出がましいかとは思ったが、この人を護り通すのであれば、今少し状況は理解しておきたかった。

「そんな、大層なものではありませんよ」

 ベッドに身を傾けつつ、老婆の言葉は続く。

 リュミエールは椅子を寄せて、小さな人の横たわるベッドの傍らに座った。ぽつり、ぽつり、と、彼女は話を続けた。

「女王陛下のご加護を頂く宇宙の内に在り、共和制を敷くこの星に於いて、国母など、愚かなこと。

 それでも時折、ああやって物の道理の解らぬ人々が、このばばを何やかやと担ぎ上げようとするのですよ。

 このところはめっきり途絶えてましたから、このまま死ぬまでは、安楽できるかと思っておりましたが。」

 ひととき言葉は途絶え、場はしばらくの沈黙に包まれた。

 彼女の威を借りて、自らの勢力を誇示したい集団が常に絶えなかった、ということなのだろう。

 窓からは、朱い夕焼けの光が差し込み始める。

 宇宙の女王の加護。国母。

 守護聖、という存在。

「…煩わしいこともありますし、どの勢力にもくみするつもりは毛頭ありませんが、それでも……息子の名が世に違わず、宇宙に広く響くことの証として、多少は喜んでよいのでしょうね。」

 

 トントン、と、儀礼正しいノックの音が軽く響いた。

 リュミエールもついさっき驚いたのだが、辺境の地にあるこの小屋には、扉の鍵すら付いていなかった。先ほどの小隊長は、無闇矢鱈と扉を殴打せずとも良かったのだ。

 リュミエールが振り返った視線の先で、正しい者には正しく開かれる、その扉が、静かに開かれた。

 

「……お久しぶり、オスカー。元気にしていて?」

 

 リュミエールは、その人の名を、その時、初めて知った。

 緋色の髪は朱い陽の光に縁取られ、その瞳は、高温の星の色。

 その全身から燃え立つ、己とは性質の異なる、しかし同じように溢れ出す、サクリア、というものの気配。

 

 

「…………ご無沙汰しております。母上。」