■ 輪(リング)(2)

 新月の夜だった。

 月の縁が微かに光り、細い輪を描いて夕日と共に堕ちていったその晩、深夜と呼べる時間になってから唐突に水の守護聖の私邸のテラスに現れた執務服のままのその姿に、リュミエールは驚きながらも扉を開け放ったのだ。

「オスカー? こんな時間にどうかなさったのですか?」

 扉を開いたその細い両手首を、オスカーは強引に掴みあげた。

「オスカー?」

 戸惑いを含んだ声が響く。

 

 氷青色の瞳の中に、白い炎が上がった。

 

「…………………………お前は」

 抑揚を欠いた、低い、激情を押し殺した声がオスカーの体全体から響いた。

「どうして平気なんだ」

 掴んだままの両手を、思いきりねじ上げる。

 痛みはあっただろうが、リュミエールの瞳はそれを上回る驚愕に竦んでいた。

 手首が熱い。掴まれた痛みからではなく、掴んだオスカーの手が、全身が、燃えるような熱を孕んでいたからである。

「俺はこんなにもお前の存在を求めてやまないのに」

 リュミエールは、オスカーの背後に上がる白い炎を見た気がした。

「お前はどうして平気でいられるんだ」

 リュミエールの寝着に包まれた細い腰が、急激にしなる。

「………ッスカー!」

 アルコールの匂いの染み着いた、オスカーの両腕に締め上げられて。

「酔って………いらっしゃるのですかっ……?」

 急激に呼吸を制限された苦しさに息をつきながら、辛うじてリュミエールがそれだけを尋ねる。

 視界に遮られて見えないオスカーの顔が、ふ、と笑った気配がした。

「……………酔ってるさ」

 自分が壊れることなど、どうでもいい。

 狂おしいほど愛おしくて、哀しいほど大事に護ってきたはずの人を壊すのは、泥酔するだけの酒の力を借りないと無理だった。

 次の瞬間、抑え続けていた凶暴なものが、弾け飛んだような感触。

 リュミエールの背が強く反らされて、視界がオスカーの髪の緋色一色に染まった。

 

 深く、深く口付けられた唇。

 無作法に、強引に侵入する舌がリュミエールの舌に絡みつく。

 リュミエールの全身の血が沸騰するように熱くなって、足元から一気に逆流した。

「……………………っ…………!」

 自分の腕の中で跳ねる身体にオスカーは煽られる。

 濡れる唇を滑らせて、乱暴に、これ以上はないほどに深く重ね合わせる。

 全身を探られるような舌使いに、リュミエールの視界が明滅した。

「……………っん……………」

 身を捩って辛うじてついた息はすぐに再び塞がれる。首筋のあたりをオスカーの手が探る。

 リュミエールの脳髄が燃やされるように熱く急き立てられた。

 指先が、全身が痺れて動かせない。膝ががくがくと震える。

 くずおれそうになるリュミエールの身体を掻き抱きながら、オスカーの舌はリュミエールの舌を、口内を犯し続けた。

 身体が熱くなって、言うことを聞かない。意識が白光とともに遠ざかる。

 深い口付けに思考を奪われたリュミエールの姿は、オスカーの本能を煽り立てた。

 リュミエールの手の下に腕を回し、片手で抱え上げるようにして引きずるように隣の寝室へ連れて入る。

 ベッドの上にリュミエールの身体を投げ遣ったのと、その上にオスカーの熱い躯がのしかかるのとはほぼ同時だった。

 リュミエールの唇が何かを言うよりも早く、再びオスカーの濡れた唇に塞がれる。

 駆り立てるように唇を貪る。リュミエールの熱を孕んだ全身が、さらに煽られて一層の熱を帯びた。

 押さえ付けられたリュミエールの手が、狼狽の形に動く。

 唇の間に、距離が生まれた。

 ようやく息をすることを許された口付けは、しかしそのままリュミエールの首筋に滑る。

「…………っ……………!」

 全身を貫く、快感とも悪寒ともわからない感覚。悲鳴を飲み込むような声がリュミエールの口から挙がった。

 反射的に握り締められた手がオスカーの流れた指先に当たり、爪の形を印し付ける。爪を立てられたオスカーの指が、リュミエールの指と絡むように移動した。どちらからともわからずに強く握り締められる。

 首筋に口付けたまま緩く開かれたオスカーの唇から、舌が伸びてリュミエールの首筋をなぞる。とたんにリュミエールのしなやかな身体が跳ねた。

「…………っやぁ………………!」

 何故自分の口からこんな声が出るのか。何故自分の身体が自分の身体とは思えないほどに熱く熱せられているのか。今自分が感じているものが何なのか。

 リュミエールの身体だけがオスカーの与えるものを知っているかのように、淫らに動き、ベッドの上でシーツを乱す。

 全くの未知の感覚、初めて感じるであろう強烈な官能に、何が起こっているかも理解できず身も世もなく狼狽して乱れるリュミエールの姿は、理性を放棄したオスカーにとって媚態以外の何物にも見えない。

 音を立てて引き裂かれた。いつもと変わらずに水の守護聖の穏やかな眠りを守るはずだった薄い夜着が、オスカーの節くれ立った手によって。

 夜目を欺く白い肌が、月も照らさぬ闇に晒される。

 狂うほどに恋焦がれつづけた滑らかな白い肌が目の前にある。

 ようやくこの手に入れられるのだ。

 最初で、最後。ただ一度きり。

 オスカーの最後の抑制は弾け飛んだ。

 後はただ、残酷な本能のままに暴走するだけだった。

 噛み付くように滑らかな白い肌に口付け、強く吸い上げた。痛みにか、リュミエールが小さく鋭い声を上げる。

 オスカーの両手と唇がリュミエールの身体を探り、苛烈な愛撫を加え続ける。

「やっ………」

 オスカーから与えられる、躯中を走るどうしようもない感覚に、悲鳴のようなリュミエールの高い声が上がった。

 自由になったリュミエールの手は行き場を無くしたようにしばらく宙を泳いだ後、胸の上に覆い被さるオスカーの緋色の髪を強く掴んだ。

 オスカーの手が白い身体を伝って、リュミエールの胸から腰へ、そしてさらにその先の、常識として絶対に触れないことになっている辺りへ伸びる。

 リュミエールの狼狽が急に強くなった。

「……っだ! やっ…オスカー!…………んぁっ……ぃやっ……!」

 リュミエールが抵抗し、揉み合うようにベッドの上でしばらく暴れた後、リュミエールはいつのまにか全ての着衣を剥ぎ取られ、全てを晒した状態でオスカーの前に横たわっている自分に気がついた。

 その間も、それでも、リュミエールの躯の奥までも探るようなオスカーの愛撫は一時も止む事がない。与えられ続ける強烈な羞恥と、体中を電撃のように走る未知の感覚に、リュミエールの声が高く強くなる。

「オスカー! 駄目っ………っや! や……んやぁ!」

 オスカーの髪を掴む白い手の力が強くなる。首が強く反らされて、背が大きくしなる。身体が跳ねる。

 オスカーの愛撫は、苛烈さを増してゆく。リュミエールの理性はオスカーに与えられた熱で細片にまで砕かれ、白光の彼方に消え去ろうとしていた。

 いつのまにかリュミエールの片足は、着衣を半ば脱いだオスカーの肩に乗せられ、高く掲げられていた。

 オスカーが身を乗り出して、唐突に深く唇を重ねる。熱い舌が進入してリュミエールのそれと長く絡んだ。

「んは…………」

 苛烈な愛撫に上がった呼吸を急に塞がれた反動で、唇が離れた瞬間、リュミエールは大きく息をついた。一瞬、躯から力が抜ける。

 白熱する意識の片隅で、自分の身体でないものが触れる感触。オスカーが身を勢いよく乗り出した。

 瞬間、リュミエールの全身を、激痛と快楽が貫いた。

「ぃやあああああああああ!」

 反射的に引こうとした腰をオスカーの大きな手が強引に押さえ付ける。オスカーの褐色の背に、リュミエールの両手の爪が強く立てられた。

 躯の中に進入してくる強烈な存在感。身体中が、頭まで串刺しにされたような感覚。

 痛みに締め付けるその部分を、オスカーは何度も何度も腰を打ち付けるようにして最後まで深く刺し貫いた。

 最奥まで到達したそれは、しかしそれでもリュミエールの中で、上に横に、緩やかに動いて、その動きを止めない。

「あうっ……あふ……ぁん……や、だ…………あ………」

 深海色の目が焦点を失って潤む。リュミエールの片手が胸の上にあるオスカーの頭に移り、紅い髪の中を力なく彷徨った。その間も止まらないオスカーの動きに合わせて、密やかな声が上がり続ける。

「オスカー…ぁ………あ、だ………や……ぁは………」

 急にオスカーの動きが激しくなった。

「オスッ……やぁっ! や……あぁん!………っ………っ! やっ!」

 急激なリズムで身体の奥を叩きつけられる。オスカーの存在がリュミエールの身体の中に刻み込まれていく。

 深く刺し貫かれ、身体の中身が抜かれるかと思うほどに引き、再び深く沈む。テンポが次第に上がってゆき、それと共にリュミエールの声が高く、大きくなってゆく。

「……っ、オスカっ、……っ、やっ、あっ、やあああああああああ!」

 リュミエールの白い喉が仰け反った。オスカーの背に爪が強く立てられる。

 視界を奪う白光に包まれた遥かな高みに上り詰めさせられて、リュミエールの唇から、この上もなく強烈で華麗な快楽の嬌声が上がった。

 

 

 オスカーの褐色の背から滑り落ちて、ベッドの上に力なく投げ出されたままの白い腕。

 呆然として焦点を結ばない深海色の瞳。

 滑らかな肌に付けられたいくつもの紅い印。

 聖痕エニグマだ。

 

 壊した。

 狂おしいほど愛しい、綺麗で大切な人を。

 自分の手で。

 

 呆然として、目を見開いたまま動かない姿を見て、そう思った。

 

 もっと、壊したい。

 自分の手で。

 

 そう、思った。

 

 手を伸ばして、滑らかな肌の上に指を滑らせた。

 快楽に慣らされた躯が、揺れる。

 オスカーの中で、凶暴な衝動が再び頭をもたげる。

 ゆっくりとリュミエールに覆い被さり、唇を深く重ねる。

 欲望に濡れた舌をリュミエールの中へねじ込んだ。

 

 

 前から、後ろから、オスカーは一晩中リュミエールを陵辱し続けた。

 何度も嬌声を上げさせ、何度も達かせ、もう止めてと何度も懇願させた。

 どんな懇願もオスカーの暴走した欲望を煽るだけだった。

 その度に唇を塞ぎ、苛烈な愛撫を与えて喘ぎ声を、嬌声を上げさせた。リュミエールの声が掠れても枯れても止めなかった。

 繰り返される痛みと、それを上回る快楽にリュミエールが意識を手放しても、オスカーはリュミエールを抱き続けた。

 

 

 

 …………夢を見た。

 穏やかな、日常。

 その中にいた時は、穏やかなどと思わなかった、昨日までの日常。

 顔を合わせれば皮肉ばかりが口から出た。

 かの愛しい人はそんな自分を、よく困惑の表情で見つめ返したり、時には辛辣な返答を寄越したりしたけれど。

 ああ。

 なんて愛おしい、穏やかな日常だったことだろうか。

 変わらぬ日々の、繰り返し。

 永遠に繰り返されるはずだった時の輪は、自分の手で、壊した。

 二度と取り返しのつかぬほどに。

 

 目尻から、涙が零れた。

 

 堕ちて粉々に砕け散るはずの雫は、優しい手が拭った。

 

 

「………オスカー」

 覚めたときにはすでに開いていた視界に入った光景は最初、オスカーの意識に容易くは受け入れられなかった。

 あるはずのない光景。この手から失ったはずの存在。

「オスカー」

 それが現実のものであることをようやく認識できたのは、目尻から零れつづける涙を4回拭われ、かさかさになるまで掠れた、しかしそれでも優しく穏やかな声で、2度目に名前を呼ばれた後だった。

「………………リュミエール」

 手をついて斜めに身体を起こしていた、青銀色の髪の人は、名を呼ばれて微笑んだ。

 オスカーは横たわったまま、優しく見下ろしてくる深海色の瞳を見つめた。頬に触れる愛しい人の手の感触。自分の震える手を、確かめるようにそっと重ねた。

「……………どうして」

 目の前の状況が理解できずに、ただ、それだけを呟いた。

 

 オスカーの言葉を聞いたリュミエールが。

 リュミエールの微笑が、わずかに霞んだ。

 

 瞬間。

 オスカーの渇望が弾け飛んだ。

 否定される恐怖に全身が慄いた。拒否の言葉を聞きたくなくて、リュミエールの言葉を塞ごうとした。

 ベッドから跳ね起きて、細い身体を強く掻き抱いた。

「嫌だ!!」

 強さを司る炎の守護聖が、悲鳴のように叫ぶ。

「嫌だ!嫌だ!」

 まるで子供のように強く首を振って、白い首筋に顔を埋める。

「お願いだ……何処にも行かないで、離れないで…………嫌いにならないで………」

 泣きながら唇を滑らせて、リュミエールの唇に触れる。身体ごと唇を震わせながら、そっと塞ぐ。

 リュミエールは目を閉じて、成すがままにされていた。

「………………愛しているんだ……………」

 わずかに離れ、唇を触れさせたまま囁く。

「愛してる」

 一度離して、強く、抱きしめた。

「愛している」

 ………腕の中で、微かに、頷く気配を感じた。

「愛してるんだリュミエール。離したくない」

 再び、頷く気配。

「……………嫌いにならないで」

 その言葉に、確かに、腕の中の人は頷いた。

「何処にも行かないで」

 頷く。

「離れないで」

 再び頷く。

「…………俺を、愛して…………」

 ………少しの、間があって。

 背に回された腕が、オスカーの服を強く掴んで。

 リュミエールは、小さく、だが確かに頷いた。

 

 オスカーはその時、朝日の昇り始めた彼誰かわたれの淡い光の中で、初めて人の胸で大声を上げて泣いたのだった。

 

 

 ぼろぼろになるまでオスカーに犯され、痛めつけられたリュミエールの身体が回復して、次にリュミエールを抱いたとき、オスカーは最初から全部やり直した。

 何度も愛してると囁いた。愛してるから、お前の何もかもが欲しいと。

 リュミエールが頷くのを見届けてから、オスカーは触れるキスから始めた。

 顔のラインを、指で、唇で、何度も辿った。唇を何度も掠め取った。

 口付けは徐々に深くなり、愛撫はだんだんと熱を増していった。

 やがてオスカーの自制心も薄れ、苛烈な愛情で翻弄して予告どおりにリュミエールの何もかもを奪った時、リュミエールは高みへ上った快楽に意識を失う間際で、この上もなく暖かい表情でオスカーに微笑みかけた。

 オスカーは、この時に、確かにリュミエールから愛されている自分を知ったのだ。

 

 ……………けれど。

 それを、聞くのは、怖い。

 尋ねれば、否定の言葉が返ってきそうで。

 あれ以来、何度も夜を重ねた。何度も愛してると告げた。

 しかし、リュミエールの口からその言葉を聞いたことはない。

 聞くのは、怖い。

 

 愛していると言われなくても構わない。

 傍にいてくれるのなら。

 だから、追求しない。

 

 ………………だが…………

 

 何度も、夜を重ねて。

 何度も夜を重ねてから、初めて見た、リュミエールの涙。

 

 ………何故、泣いた………?

 

 初めてリュミエールの涙を見たあの、いちばん最近の夜を思い出しながら、オスカーは月が再び輪を描いた晩、涙を見たあの夜以来の逢瀬の通い路を再び歩いていた。