■ 大人の特権 後日譚の後日譚

 目覚めと同時に、広いベッドの上で、とろけるバターの匂いが鼻腔に届いた。

 カーテンの向こうには綺羅綺羅とささめいて輝く朝の光が見える。

 

 独り残されていたほの暗い寝室で、私は緩慢に身を起こし、ベッドから出て周囲に散らばっていた寝間着を拾い上げ、ゆっくり着直していった。

 とはいえ昨晩は、ベッドの中で服を剥がされて素肌にされた後は多少の悪戯を仕掛けられたくらいで、何もせずにそのまま眠った。はず。確か。

 今日がレコーディングの日だから、という私側の事情を彼が考慮してくれたのかどうかは判らないが、いずれにせよ私としては、彼との生活の日々は、日常の諸々を含めて適度なペースで進めてもらっていると感じる心地良さがある。

 彼に改めて訊けば「毎晩でも」と臆面もなく言われそうなので、まだ敢えて尋ねたことはない。

 もう少し落ち着いてから、ゆっくり休暇でも取れることがあれば、いずれ彼のなにがしかの希望も、叶えてあげたい。

 いずれ、は意識的に気を付けていないとそのままではいつまでも実現しなかったりするから、忘れないように近いうちに具体的に計画することにする。

 

「……おはようございます。」

 扉を開いてリビングに入りながら発した自分の声は、まだ幾分かぼんやりとしている。

「おはよう、リュミエール」

 ニュースでも見ていたらしい傍らのタブレットから目を離し、ダイニングテーブルから立ったオスカーが私にキスをして、両腕で抱き締めてくれる。彼の身体はいつも私より熱く、こうやって抱き締められるのはとても暖かくて気持ちいい。朝は大抵彼のほうが早く起床し、時間のぶれも彼の方が少ない。私などは時に妙に早く目が覚めてしまったりする事もあるけれど。

 普通と言うには随分恵まれ過ぎている境遇だという自覚はあるが、それでも、普通の生活というのはこういうものなのか、と、彼の腕の中で改めて思った。

 聖地に招聘されてからというもの、朝、起き、身支度を整えて、用意された食事を摂る。一人で。執務から帰ってきて、用意された食事を摂り、自室での時間を過ごし、就寝の準備をして、眠る。一人で。

 もう随分永い間、ほとんどの時間をそうやって過ごしてきていたから、家族のある生活というのを、未だにふと、不思議に感じる時がある。

 幸せだ、と、改めて思う。

「朝飯、どうする?」

 テーブルの上を見遣る。彼の朝食、バターの効いた半熟のチーズオムレツと何切れかの厚切りベーコン。オーダーを言えば何でも彼が進んで作ってくれる。最初は恐縮も遠慮もしていたが、作ってやれることが嬉しいし、作ることが楽しい、と彼が言うから、ほどほどに甘えさせてもらっている。

 だからといって非科学的な古典栄養学などは一顧だにしない人だから、「朝は何か食べろ」と私に強いるような事もないし、早い時間帯には往々にして食欲の出ない私にはとても助かる事だった。

「…一口、貰ってもいいですか?」

「もちろん」

 椅子に座った彼がスプーンで切り分けて掬った、オムレツの一口分が口元に寄せられて、素直にそのままぱくついた。バターとチーズのいい匂い。

 蕩ける食感とほんのりした塩気を味わって食べて、コーヒーも一口貰ってから、もう一度彼とキスをして、出掛ける支度を整えに部屋へ戻った。

 

「今日は?」

「送るよ」

 用意が全て出来てから彼に尋ねたらそう応えが返ってきたので、軽く頷いてから彼とガレージに向かった。公共交通機関で通学する方が何かと気が楽なのだが、彼の事情を知っているので強いて一人で行くような事はしない。

 季節が深まり、良い天気でも外の空気は少し肌寒い。葉が色づき、澄んだ青い空を背景に街の色が少しずつ変わっていっているのを見上げながら、彼の車の助手席に乗り込んだ。

 聖地には準備が必要なほどの寒冷な季節が無かった――何回かのハプニングは別として――から、幾度目かの、まだ習慣づいてないこの先の冬支度の事に思いを馳せる。

「行ってらっしゃい。気を付けて。愛してる。」

 彼の運転で大学近くの駐車場に到着してから、車を出る直前、そんな言葉とともに抱き寄せられて、少しだけ深く口付けられた。人目がないような、あるような。けれども私も随分と慣れた。軽く腕を回して、彼の口付けに少しだけ長く、応える。

 時々無意識に、彼の中にサクリアの気配を探している自分に気付くことがあって、聖地に居た随分永い間、いつの間にかそれが習慣になっていたのだとその度に思い返す。

 当然の事ながらもはや彼にも私にもサクリアの感覚は辿れず、その代わりに互いから感じ取る気配と暖かさは、もっと近しい、もっと物質的で即物的で、身近なそれに取って代わった。

「行ってきます。貴方も気を付けて、オスカー。…愛してます。」

 彼の笑顔を後にして車から降り、校舎へ向か…おうとして、ふと気付いて開いたままのドアの中を振り返った。

「帰りも?」

「迎えに来る。大学には一度戻ってくるんだろう?」

 頷いて、軽く手を振ってドアを閉め、校門に向かって歩き始めた。

 そのまま車内でしばらくニュースのチェックやメールの確認、返信、スケジューリングをするのが彼の習慣だ。見送るか見送られるか、その悩ましさをスマートに一択で解決する、彼らしい捌き方。

 背後の暖かさに心残しつつ、葉の落ち始めた歩道を歩く。

 

 今日は朝から2単元の授業を受講して、それからレコーディングスタジオへ向かう予定になっていた。

 未だ学生の身だが、有難いお声掛けや学内の指導者の薦めもあって、既に幾つか楽曲をリリースさせてもらっていた。私のような変わった経歴の人間が入学するような独特の学風の音楽大学で、学校としても在学時からの学生の幅広い活動を支援しているような所だ。

 ハープはやはり単品の作品、ソロまたは少人数でのアンサンブルの需要が高く、これまでのアルバムもそういうラインナップでの発刊だった。有名曲から知られざる小作品、自作の楽曲も有難いことに幾つか。そのうちいずれは古典や近現代の奏鳴曲ソナタ、協奏曲なども広く世に知ってほしいと思うし、指導者からも将来的にはこの楽器の認知度や裾野、可能性を広げていくようなそういう活動を期待されている。

 それ自体に否やは当然無いのだが、

「持って生まれた物は、最大限活用しないとね」

と指導者からもプロデューサーからも当然のごとく要望があり、言われるがままに私の写真撮影などがあって、リリースの度にかなりしっかりしたブックレットが併せて製作されている。撮影も複数箇所で、しかもかなり遠方にまで移動して行われたこともあって、収録よりも撮影の方が手間が掛かっているように思うのは、きっとあながち気の所為でもない。

 この現代にあってディスクの形態での楽曲の販売など、ちゃんとした売上が立つのか半信半疑だったが、うっかり毎回チャートにランクインしてはその度ごとに周囲よりも自分が一番戸惑っている。

 私が一番率先して売り出すべき立場にあるのだから「うっかり」など言うべきでないのは承知しているが、これには未だに慣れ切れない。

 そうして今回は、初めてのシングルリリースを、自分のオリジナルの曲で行うことになった。コンセプトははっきりしていて、恋人への想い、すなわちオスカーへの。ジャケットには私とオスカー、二人のツーショット写真を載せる事になっている。ブックレットにも。その撮影は今日でなく後日改めて行う予定になっていたが。

 それはどうなのだろう、と思ったけれど、大学関係者も音楽事務所も、オスカーすらも、周囲が揃って太鼓判を押すものだから、半ば自動的に順調に事は進んでいた。

 話の挙がった当初から、オスカーは「喜んで」と、嬉しそうに笑って了承してくれていた。

 

 この企画を受けたのにも、理由がまったく無い訳ではない。

 

 オスカーの事を想って作った曲の幾つか。身近な人達を前に時々弾いて披露し、彼の事も特段隠しもせずにいたら、彼を想って弾く時だけはジャクリーヌ・デュ・プレのようだね、と、往年の名演奏家の名を挙げて評された。

 水のよう、穏和、癒やし、芯のある澄んだ音色、そういう評価を主に受けてきた私にとって、奏でる楽器は違えど、時に奔放なほど情熱的な演奏で知られた彼女と比されるのは極めて珍しい事態だった。また指摘されるまで、そういう自覚もなかった。

 演奏家として表現の幅を広げるのは当然必要な事で、今回のリリースまでの取り組みはそういう点で、一種のチャレンジのようなものだった。

 ちなみに当の対象であるところのオスカーは、ジャクリーヌ云々の話のくだりを私から伝えた時、何とも言えない微妙な顔を見せた。

 どうかしたのですか、と私が問うたら、

「……お前は、俺が絶対、誰よりも幸せにしてやる」

と言って、私を強く抱き寄せて深々と長いキスをくれた。

 若くして病に倒れ、幸福だったとは必ずしも言い切れない彼女の事を、そこはかとなく聴き知っていたらしい。

 

 昼からスタジオに入る。今まで使ってきた録音スタジオの中では広い方だ。前半はソロから始まって通奏低音が加わり、後半より小編成のオーケストラが入る。オーケストレーションはこの機会に、大学の高名な客員教授に指導と共著を受ける事が出来た。本当に身に余る光栄だと思う。

 何度かのテイクの後、終了の合図が入って、自然に周囲から拍手が沸き起こった。素直に嬉しく思う。

 気付けば薄く、汗を佩いている。幾人かの演奏者に請われて握手し、皆で記念写真など撮影した。

 

 オスカーのことを想って演奏する、私にはまだ、それを完全にコントロール出来ている自信がない。

 普段の演奏では弾くほどに心が落ち着き、聴く人々皆を幸福にしたいと、旋律、和音、ただそれだけに集中することが出来る。

 それがオスカーを想う時は、悩みが生じ、迷いが出る。彼はこの旋律を、好きだと言ってくれるだろうか。緩急、強弱、私の奏でるこれが、想うが如くに彼に伝わるだろうか。

 彼の笑顔、彼の真剣な眼差し。

 この音色で彼を包み込みたいと、そのはずがやがて意識の中の彼の存在に包まれ、どこまでも没入してゆく。あの存在の中に。

 

 簡易的に編集を済ませた録音のコピーを受け取り、傾き始めた陽の中を大学へ帰った。輸送を依頼していた楽器が先に帰ってきていて、練習曲を何曲か弾き、その後でレポート作成のために図書館へ暫く籠った。

 いつもの約束の時間、すっかり日も暮れて、街灯が照らす冷えた空気の中を歩いてゆくと、ちょうどオスカーが校門に着いた所だった。私がうっかり時間に気付かず約束に遅れた時は、何度か校舎まで迎えに来てくれた事もある。

 共に駐車場に向かい、帰りの車中で今日の収録したての曲を再生する。

「どうですか?」

 最後まで聴き終わり、彼の感想を聞きたかったのだが、彼は無言で再度、その曲を最初から流しただけだった。

 

 ガレージに車を停め、家の中に入るなり、彼にベッドの中へ引っ張り込まれ、抱かれた。情熱的に。

 

 時々、思う。この時間の時、彼に奏でられているようだと。

 彼の指が私の肌を辿り、彼の腕が私の躰を抱き込む。彼の動きに私は反応し、応え、声音が零れる。彼の思うまま、熱を煽られ、彼を求め、彼への想いが私の中から溢れ出す。

「街中に流れるよ。きっと。お前の曲が。」

 想いを交わし逢った後の、彼の腕の中での微睡みの中、彼の言葉が聴こえた。

「お前が俺を想う、愛の謳が。街中に、この宇宙中に満ちて。」

 

 彼は日中、どうやら、王立派遣軍に関わっていた頃の人脈を活かし、各惑星国家間の要人の会合をアレンジするような仕事をしているらしい。

 定期的で確実な収入が見込めるような類のものでもないし、彼もそれを承知の上での行動のようなので、仕事、と呼ぶべきかどうかは微妙だけれども。

 何故そんな事を、と言えば、彼として、最終的には現宇宙内の惑星国家の軍備縮小を推進したい、という目的があるようだった。

 それを知った時、改めて思い返した。炎の守護聖として在った間の彼を幾度となく襲った、戦乱の記憶の数々を。

 目を開き、腕枕で私を抱き寄せている彼の、アイスブルーのその瞳を覗き込んだ。彼の腕の中から身動みじろいで手を伸ばし、頬に触れ、緋色の髪を撫でる。

 オスカーは、どうしたのか、と言いたげな表情をしたけれど、無言で私の手付きのされるがまま、私の方を優しく見詰め返してくれている。

 当然の事ながらそういう話には利権だの既得権益だの権力だのが絡み、彼のその行動を歓迎しない勢力も常に存在し続ける。彼はそういう情勢を見計らい、物騒だと判断した時期には私の送り迎えをし、可能な限り、私の傍らに在ろうとする。

 あからさまにそれと気付いたことはないけれども、そんな時期には自宅周辺の巡回も強化してもらっているようだった。こういう点、主星の行政機関は要人警護に慣れているから、これは進路を主星上の大学に定めた事の意外な利点だった。彼とこうなるまでは想定だにしなかった事だが。

「腹、減ったろ?」

「そうですね」

「待ってろ。そのまま寝てていい。」

 私の髪を撫でてオスカーがベッドから抜け出し、服を着て寝室を出る。言葉に甘えてとろとろと微睡みながら、彼が料理する手際のいい音を遠くに聴いていた。

 少しスパイシーな匂いがしてきて私の空腹をそそった、その時だった。

 インターフォンの音色に思い切り被る形で、声がした。あの懐かしい声が。

「やっほー、御役御免おやくごめんでお邪魔虫に来たわよー。開ーけーてー。」

 キッチンからは派手に何かを取り落とす音がし、私はと言えばベッドから思い切り飛び起きた。

「オスカー、待ってください! 私も!」

「待っててやるから、せめてガウンを着て来い!」

 けたたましく室内で交錯する様々な音と、玄関の外から響くあの明るい笑い声とが、奇想曲のように鮮やかに私達の心を彩った。

 

 



■ 2017年のいい夫婦の日記念に。