■ 大人の特権 後日譚

 淡い光の中で最後の一音を叩き終え、この辺りで少し休憩にしようかとリュミエールは考えた。

 

 一応週一で主科と副科の講師にそれぞれレッスンに来てもらっているが、どちらともからまず問題ないと既に太鼓判を押されてはいる。とはいえまだまだ学ぶことはあるし、当日まで何もせずにのほほんと過ごす類の話でもなく、また恵まれたことに今は毎日が自由時間なので、起きている時間の大半は練習に費やしている。

 開け放った明るい部屋よりもレースカーテンを1枚閉めた程度の少し薄暗い部屋の方が集中できるのは、長年闇の守護聖の執務室や私室で曲を奏で続けてきた習慣のせいだろうか。あの方の前では演奏だけに集中できた。人が演奏している最中に堪え切れない様子でしょっちゅう邪魔を入れてきた、別のもう一人の前とは違って。

 楽典に関しては問題ない。宇宙中の音楽にいつでも触れられる、しかも自分の体験として歴史的にも精通するという、ある意味この上なく最適の環境に居たので。聴音もまず大丈夫だろうと思う。今度この曲を弾いてくれ、としばしば請われることが長らく続いて、耳から楽譜に変換する事にずいぶん慣れてしまった。副科のピアノもハープほどには得手としていなかったが、調性変化が激しくてハープでは演奏できない部類の曲もリクエストされたりしたので、代わりに鍵盤楽器で演奏してきたのが今になって良かった。

 あの鮮烈だった人の影響が暗に陽に自分の中で残っていることに、小さく苦笑する。そもそもこの当面の進路を決定したことにだって、あの人の影響があるのだ。

 生涯豪遊を続けても充分なほどの恩給がこれから一生支給され続けるとはいえ、はいそうですかと人の金で日々を無為に過ごすのは自分の性質ではなかった。今後、何の職に就いてどうやって自力で糧食を得ようか、と、自由の身になってからしばし考えた。

 旧職に就く、だけは絶対できないことなのだなと最初に気付いて、心の底から大笑いした。あれを職業というのなら、特殊も特殊極まる職業だったのだ、あれは。しばらく笑い続けた後、さてと振り返って自分にできそうなことを考える。

 宇宙の運行に力を尽くすのは嫌いではなかった。王立研究院の研究者として身を立てることも考えたが、表立って言わずとも研究員たちには自ずと気付かれるであろう元守護聖なんてものがいれば、さぞかしやりにくかろうと思い残念だけれども諦めることにした。もはや自分は旧時代の人間なのだ。

 炎の守護聖の横で王立派遣軍の業務を見ていたので、いざとなったら一兵卒から務めようかとも思った。が、向き不向きはともかく自分にとって心楽しくはなさそうなので、どうしても食べていけないとなった時の最終的な選択にしようと考えている。

 飛空都市の件以来、システム管理の重要性に気付かされたので、ゼフェルや王立研究院とともにソフトウェアエンジニアリングにもずいぶん関わった。システムエンジニア。しかし実践的なところばかりやっていたので、基礎が抜けている気がしていまいち心もとない。

 山のように積み上がった業務や書類を片っ端から捌いてきた経験もあるし、普通に事務作業などでもいいが、いささかとうが立っているのが就職に関しては難点だろう。

 そうやって検討を続けていた頃に街中で見初められ、熱烈に要請されてモデルも一度やってみたが、ものすごい騒ぎになったのでお詫びを伝えて早々に引退させてもらった。この先ずっと身辺が騒がしく落ち着かないのは避けたかった。今でもひらりちらりとファンレターや仕事の依頼などが舞い込むことがあるが、この類の仕事に関しては断れる限り断っている。ただ、同じように街中で目を掛けられても「引退した伝説のあの人」という扱いにしてもらえるので、今後の騒音を削減するという意味では却って良かったのかもしれない。

 しばし逡巡してから、やっぱり一度は自分の好きなことを思う存分やってみたいと思い、大学受験をすることにした。しばらくの生活費程度は稼いだとはいえ、学費は恩給に頼らざるを得ないが、17歳という歳から十年以上に渡って休みなく執務を続けてきたのだし、退職金くらいは受け取ってもいいだろうと、後ろめたさを覚える自分を納得させることにしたのだった。

 美術にするか音楽にするか検討したところで、いつの間にかずいぶん音楽寄りになっている自分にその時初めて気がついた。

 誰の影響かといえば、間違いなくあの人のせいだ。

 最初の女王試験中のあの特筆すべき出来事以来、イーゼルを用意しキャンバスを用意し油絵具を用意してゆっくり風景に向き合う、なんて悠長な時間はしばしば妨害されてきた。おかげで徐々に、準備不要、一曲完結型の、集中力と瞬発力があれば済む趣味の方にすっかり偏ってしまったのだった。だからこそ自由になった今は絵画の方を、と思わなくもないが、真面目に職として検討する必要があるのであればより習熟している方に力を入れるべきだと思い、音大受験の準備を進めている。

 年齢制限のある大学が多いし、制限がない所でも十代の輝かしい将来の若手と合格枠を競い争うのは気が咎めたので、少し亜流の、自分のような変わり者が多く入学している大学を選んだ。これで必然的に受験地、すなわち居住地が主星になった。本当ならば故郷のような、海洋の多いゆったりとした星を選びたかったのだが。

 それでも人の多いところは苦手なので、かなりの郊外に小さな一軒家を借りている。

 ずっと座っていたピアノの前の椅子を立ち、カーテンを開け光を取り入れて、庭に出てからしばらく迷い、結局はカモミールの花を十個弱ほど摘んだ。このところずっと続いているが、生花で楽しめるのは今の時期だけなので存分に堪能しておくことにする。家に戻って軽く水洗いし、耐熱ガラスのティーポットで時間を掛けて濃い目に抽き出す。

 テーブルに着き、カップに注いで、一口味わい、室内に降りた静けさを同じように味わったところで、その静けさに予感がした。昔のように。そうして昔ではない今の状況を省みて、そんなまさか、と思う。

 郊外だし在宅していたので鍵を掛けていなかった玄関扉が激しい騒音とともに叩き開かれ、テーブルの上のポットの水面が大きく波立ち、直通のこのリビング兼キッチン兼練習部屋に風とその姿が飛び込んできた。

 

「リュミエール!」

 

 ぎりぎりカップを置くのが間に合った、とこちらは思っているというのに、案の定自分の姿以外は何も視界に入らない様子で、駆け寄ってきて性急に引き上げられて抱き締められる。

 昔のように。昔ではないのに。軽装にジャケットという出で立ち。昔ではないのに、昔通りのその緋い緋い髪で視界が塞がる。力任せの腕が自分を絡め取る。何度も何度も何度も、繰り返し繰り返し聖地でそうされてきたように。

 そんなまさか、とふたつ思った。背に手を添えてみたその熱い身体から、炎のサクリアの気配がしないこと。彼が顔を埋めた自分の首筋に、暖かく湿った涙の気配がすること。

 一度も彼は泣いたりなどしなかった。自分もそうだったけれど。

「オスカー…?」

 顔を伏せたままの身体がびくりと震えた。

「…………その声が聴きたかった。その声だけが欲しかった……」

 涙声を隠しもせずにそう答えられる。

「どうしてここに?」

「判り切ったことを聞くな。退任したからに決まっている。」

 自分が退任して聖地を降り、外界で過ごし始めてから1年も経っていない。外界と聖地との時間差を考えると、早過ぎるほどあまりにも早い。

「言っておくが、卑怯な手は何一つ使っていない。最後まで勤めを果たして、引き継ぎもきっちり済ませてきた。」

 まだ涙の残る顔をようやく上げて、リュミエールを抱き締める手は離さないまま、ふてぶてしいほど凛とした表情で言い切られた。それでもこの様子だと、すべての残務をあたう限りの最速度でこなしてきたであろうことは容易に想像がついた。最年長となって残り全てを押し付けられたオリヴィエに、一度詫びの手紙を書いたほうが良さそうだとリュミエールは思った。

「それはそれは、永の年月、お勤めご苦労様でした。それで、どうしてここに?」

 改めて訊いたら、視線を合わせたまま深い深い溜息をかれた。そうして顔が寄せられ、深く唇が重ねられる。息継ぎもろくにさせてもらえず、かなりの長時間探られた。いつもの如く器用なことだと思うが、唇が休みなく動く一方で腕は腕で確かめるように自分の身体を辿り撫で擦る。キスも愛撫も、相変わらず相当に上手くはあった。

「…薄々気付いてはいたが、お前、俺のことなんて何とも想ってなかっただろう……」

 唇を離して、脱力したように小さく呟かれる。

「貴方の方こそ、女王試験などのたびに誰かしらと親しくなっておいででしたよね。特にエンジュとは。彼女と将来を共にするのかと思っていましたが」

「そりゃあ、彼女らは皆、魅力的だったからな。まばゆいほどに。」

「今でも間に合いますよ、きっと。王立派遣軍の指揮官として貴方が戻れば大歓迎されるでしょうに」

「ようやくただの人間になる権利が与えられたっていうのに、何を好き好んでそんなことをするものか」

「そうですね、わたくしもそう思います。」

 オスカーの腕の中から離してもらえないまま、リュミエールは目を閉じ、万感の思いを込めて呟いた。

「ただの一人の人間として、自分の生活を自分で営み、日々働いて糊口を凌ぎ、ささやかに社会に貢献し。恋をして。かなうことなら、誰かを愛して結婚し、家族を持ちたいと思っていますよ。」

「け」

「もはや普通の幸せが許される、只人となったのですから」

「そうだ。普通の幸せが許される只人だ。だからこそだ!!」

 怒鳴られて両腕を掴まれ、身体を突き放された。

 

 身を離して涙を隠そうともしないオスカーが、ポケットから箱を取り出し、開いてその環を手にした。

 リュミエールの左手を柔らかく引き寄せ、薬指に嵌める。ルビーとアクアマリンが配されていた。

 リュミエールが視線を自分の手からその人に戻せば、未だ涙の残るアイスブルーの瞳が、これまで見た中で最大の真摯さを伴って自分を見詰めている。

「…愛している。俺と生涯を共にしてくれ。リュミエール」

 

 あまりにも想定外すぎて、しばし呆気にとられた。

 少しも恥じる様子もなく再び涙をその瞳に満ちさせるオスカーが、手を伸ばして再度リュミエールを抱き寄せた。髪の中に大きな掌が差し入れられる。

「ジュリアス様が去られたよりも、彼女らと未来を異にしたよりも、お前が傍らにいなくなったことのほうがどうしようもなくこたえた。死ぬかと思った。息もできなかった。」

「……聖地の時間では、ほんの何週間かのことでしたでしょうに…」

「お前に二度と逢えなくなる絶望は、何千億年よりも長かった…」

「……」

 その恐怖の淵を思い起こさせるような、震える声で告げられた。自分が聖地を去るまでは、そんなこと、微塵も伺わせもしなかったのに。

 

 それまでずっとリュミエールの頭の中にあったものが、ゆっくりと滑り降りてきて心を満たし、胸を締め付ける。

 恋を始めてもいいんだな、と思った。ようやく。

 心が痛い。彼はいつから、こんな想いを抱いていたのだろうか。

 知った後でこの想いを引き剥がされることを考えたら、確かに相当に辛かった。

 

「……覚悟はできていらっしゃるんでしょうか。わたくしは多分…かなり貴方を困らせますよ」

「何事も、お前の望むままに。お前がいれば、もう何もいらない。俺の永遠のリュミエール。」

 くすぐったく甘く、低くて深い言葉が耳と心を打つ。体の芯が震えた。何もかも、すべてが初めてで戸惑うことばかりで、微笑が零れる。

 まさか自分が出される前に、自分が出すことになるとは思いも寄らなかった。

「…よろしいでしょう。合格です。」

 その声に応えて、もう一度、深い口付けが降ってくる。

 

「……じゃあ、これから検討しておきますね」

「これから!?」

 

 



■ 以前の100質で「退任ものは『同時期に』も『どちらかが先に退任してもう一方を待ってる』も書きたくない」と答えさせて頂いてたんですが、うちでの初退任ものは『先に退任して少しも待ってないリュミエールさん』になりました。結局は『同時期に』ですが。
ちなみにエトワールをやっていない私のために、Special2・トロワ・エトワールの順次リメイク、待ってます。