「昼間の茶会も悪くはないが、俺に言わせると、物足りないな。…二次会でもするか?」
「いいねェ。当然、何本かあんたが提供してくれるよね? オスカー」
「ふたりとも…女王候補の前ですよ」
陽はたっぷりと昇り切って昼の天蓋を渡り越し、夕方までの狭間の時間の、女王の宇宙の宮殿の庭園。
「…で、リュミエールも誘うのか?」
ディア主催の茶会が先ほどまで開かれていたその場のすぐ脇で、確認49%、反駁51%の意を込めて念のため訊いてみる。すぐさま皺の寄った眉間と跳ね上がった柳眉でオリヴィエから無言のままに応えられ、オスカーは疑問を口にしたことを後悔した。[1]
「往生際が悪いねェ。あんな会話をしておいて、これでリュミエールに声を掛けなかったら、まんま悪意の塊じゃないの?」[2]
「リュミエールが勝手に話に入ってきただけだろう」
「あんただって判ってるくせに。3人が一人減って話相手が2人から1人になったら、各自が入手できる情報量は半分になっちゃうでしょ」
「判っている。」[3]
『物足りないな』『いいねェ』『女王候補の前ですよ』の言外の意味が互いに理解できるのは、不仲な関係が入り混じっていたとしても、中堅組と呼ばれて久しく守護聖の座を共にしてきた自分たちだからこそと言える。[5]
ただの気楽な飲み会ではない。女王試験の開始宣言から一月。疑問を山ほど抱えたまま、不安定極まりない情勢の現宇宙を離れてでも、かつ女王試験を計画した管理者が唐突に行方不明となった後ででも、なお半ば強硬に開始された、その女王試験の行く末が何を意味しているのか。それぞれが知り得た情報をいったん総括する頃合だと見たのだ。そしてそのことを、女王候補には僅かにでも気付かせたくないという思い。[6]
年長の守護聖たちは疑問を抱きながらも各々がそれぞれに行く末を見据え、年少の守護聖たちはこの試験の不自然さに気付く術もなく無邪気に女王候補たちと飛空都市での日々を過ごしている。
自分たち中堅にとっての最善は互いに情報交換をすることだと、冷徹な理性では判っているが、それでもオスカーにとってリュミエールと場を共にするのは気が重い。
「なんでよ」
「判り切ったことを聞くな。あいつと話していると苛々するからだ」
水の守護聖の穏やかな微笑は、自分と一言二言声を交わすだけでさも哀しげに顰められる。
オリヴィエは胸の前で腕を組むと再度眉根を寄せ、しばらく沈黙した後、溜息を付きながら気怠そうに前髪を掻き上げた。
「オスカー、あんたさ、ずっと言おうかと思ってたんだけど。…じゃあ、とっておきの方法、教えてあげようか」
「方法?」
「そう。方法。あのさァ、あんたが余計なこと言い過ぎなんだよ。平和裡に会話を成立させたいっていうんなら、9割5分は黙ってな。」[7]
「は? 俺が悪いとでも言うつもりか?」
「私に言わせればその通りだね。『お優しい水の守護聖殿』とか『麗しい水の守護聖様』とか、軽い言葉言われてきゃあきゃあ喜ぶ女の子相手でもあるまいし。端から聴いてるだけの私でもイラッとするのに、毎回毎回言われてる側の身としては堪らないと思うよ」[8]
「…………」
確かに心当たりがなくはない。反りが合わずどうしても話しづらい相手に対して使う冠詞のようなもの程度の認識で、深く考えたことはなかったが。
「判った。俺にも非があるようだ。今日は控える。」
「結構結構。…って、今後改めるつもりはないワケ?」
「リュミエールの出方次第だろう?」
「…まあ、その程度が今の妥協点ってトコだろうね」[4]
女王の宇宙から新しい宇宙の飛空都市に戻る途上、二人は次元回廊の入口で佇む水の守護聖に会った。
オスカーから声を掛け、その晩の会合の約束を交わす。オリヴィエの忠告通り、いつもの物謂いは大幅に省いて。
「それでは伺います」というあっさりとした返事が返ってきたのみであったので、実質的な効果があったかどうかは判らない。
飛空都市においての守護聖たちの私邸は、女王候補たちの特別寮と反対側、聖殿を挟んで逆サイドの広大な領域内に点在する。[9]
飛空都市そのものが高度に発達したテクノロジーを用い、育成大陸の上空に浮遊していることが象徴するように、その気になれば一切人力を必要とせず全てが機能するようになっている。[10]
そこにあえて人手を介入させ、時間をかけるのが貴人の義務として、オスカーの私邸は古典的様式でまとめられ、オリヴィエの私邸は主自身の厳格な美意識に従いアナログとデジタルが使い分けられ、そして人の手を煩わせるのを好まないリュミエールの私邸は、表に見えないところで意外なほどに多くが電化されている。
飛空都市を含めた聖地においての主流としてはオスカーと同様のパターンで、すなわちそう設計すれば各地点間の移動もあっという間に済むのだが、あえてそうはしていないが故に、距離の空いた建造物間の移動は馬車か馬。せいぜいゼフェルがエアバイクを持っている程度だ。
夕刻、したがって馬車でオスカー邸に到着し、姿を表したリュミエールの出で立ちを見て、オスカーとオリヴィエは言葉を失った。
いつもの正装で身に着けている重い肩掛やアクセサリーの類は全て外され、リュミエールは真っ白いコットンシャツにブラックジーンズ、薄手のスニーカーに、やや大判の青いショールを肩から掛け、19弦の小型のハープを片手に抱えるという恐ろしい軽装でやってきたのだった。またその嵌りようが想像を絶していて、美を司る夢の守護聖をして「……嫉妬するほどだねェ」と言わしめた。
プライベートで行き来をしたことがほとんどないということもあるが、それにしても今まで目にしたことのある私服の中で度を越して無防備な格好だった。
軽装の理由をオリヴィエに問われ、水の守護聖は「新しい正装にまだ慣れず、肩が凝るもので」と、女王試験の開催を機に一新された衣装の感想を口にした。
「確かに、リュミエールに着せるにはちょっと装飾品が多いかな、とは思うねェ。もっと素材を活かした上でメイクしないとね。」[11]
「あの、オリヴィエ、念のため重ねて申し上げますが、メイクはご遠慮したいのですが…」
他愛無い会話を聞き流しながら、それだけではなさそうだな、とオスカーは思った。洗いざらい話し合う用意がある、とのリュミエールの無意識の表明だ。そちらも全て話せ、と。自分がいつもの物謂いを省いたことの影響はあるのだろうか。それについては確信がなかった。
「ね、余計なモノがないってのはいいことだろ? オスカー。」
「そうだな、メイクもない方がいい。」
「優れたメイクは素材を引き立てるんだってば…」
それぞれの好みに少しずつ沿う形で誂えられた晩餐を済ませ、部屋を居室に改めてから、ソファに思い思いに掛け、全員が持ち寄ったアルコールを改めて開栓する。赤ワインが3本に白ワインが2本、うちオスカー提供の、カティスが残していったフルボディの秘蔵品は開くのに時間がかかるのを見越してデキャンタージュ済みである。空になった瓶の懐かしいラベルを目にし、念入りなことにヴィンテージも確認してオリヴィエが歓声を上げた。その他リキュールや、炎の館に常備のブランデーやウイスキーなど。
「我々の変わらぬ友情に」
主催者が辞退したので代わりにオリヴィエが発した乾杯の辞は、素直な感情の発露とも皮肉とも取れる。あるいは願望か。自分たちを取り巻く環境を含めての。
滅びつつある宇宙を救うための女王試験。どうやらそれで間違いなさそうだった。しかしその詳細はというと、誰もが理解し得ていない不明な点が多い。最大の問題点は、総指揮者であった前鋼の守護聖が唐突に姿を消したことにある。以来、女王試験の開始までに聖地の時間でも数年を要しているが、王立研究院の雰囲気からして、万全に準備出来たとは言い難いようである。[12]
この時期にそれでも女王の直々の声掛かりで次期女王試験が断行された理由が、不安定さを加速度的に増す宇宙と、それとは対照的に現れた2人の女王候補の並外れた資質、その点にあるのも疑いがない。
女王およびその候補生が力を用いることといえば、「願う」そのことだけだ。彼女らが力を尽くして願ったそれが、守護聖の力を引き出し、大陸に、星に注がれ、願いが宇宙の時の流れを変え、果ては離れた宇宙同士をも繋ぐ。女王候補からの真摯な願いを受諾するたび、自分たちから驚くほどの力が引き出され、大陸へと降り注いでいくことに、今でも日々改めて感嘆させられている。
彼女らから請われると、その願いの強さ深さ故に、誰もが滅多なことでは断れないようになっているのだった。あるいは「いかに断れないか」ということを測ることそのものが、試験の一端とも言える。女王の資質として不可欠な、宇宙をも動かす一種の強制力を観ているのである。
もっとも彼女らから願われるのは、そう気分の悪いことでもない。
「じゃ、私はこれで」
ゼフェルがどうやら女王試験の真相を気にかけて調査に入りそうだと、話がそこまで辿り着いたところで、明日の日の曜日は用事が入っているからとオリヴィエが断り、夜半を前に炎の館を後にした。
「…どちらの女王候補でしょうね」
残ったリュミエールが、普段は滅多としない、ひとの事に口を出すような珍しい発言をした。もっとも口調に色味は一切なく、軽交う気配も羨む気配も皆無の、ただ暖かい疑問形だった。
どうやらどちらとも相性が良いらしく、また見た目とは似つかわしくない意外な常識人としてほどほどに砕けているのがいいのだろう、オリヴィエは試験開始直後から、たびたびアンジェリークと、もしくはロザリアと一緒に過ごしていた。それに比べると、オスカーやリュミエールはまだ2人から躊躇いがちに、遠巻きにされている雰囲気がする。
オリヴィエと同時に邸を辞するかとも思ったので、リュミエールがその後も残ったのはオスカーにとって意外だった。ここに至って、オリヴィエの忠告がとりあえず今日のこれまでの経過に少なからず影響していることを思い知る。そもそもオリヴィエ自身が、会の成り行きを見、これなら二人で残していっても大丈夫、と判断した気配がある。
その後も杯を重ねた二人は、オスカーならこの程度はざらにあることだったがそれでも多少は酔っており、リュミエールの方はというと普段より相当に飲んでいるはずだった。もはやソファから滑り降り、床に敷かれたラグに座り込んでソファの座面に背を預けている。もっともオスカーも似たようなもので、ラグの上で胡座をかいてグラスの中のブランデーを舐めていた。
皮肉を交えた普段の物謂いを省くと、それもオリヴィエがいなくなると必然的にぽつりぽつりと途切れがちの会話になるが、言葉に気を払う面倒さはあるものの、意外にもオスカーにとって不愉快なものでは決してなかった。
居心地がいい、だからリュミエールも残ったのだろう。ずいぶん機嫌が良さそうだ。
もっとも機嫌が良さそうだからといって、何かが大幅に変わっているわけでもなく、むしろ普段通りすぎるほどにいつもの水の守護聖である。女王候補と話す時の、飛空都市の人々と話す時の、自分以外の守護聖と話す時の、穏やかで優しい気配。自分に次いで相性の悪そうな光の首座と話す時でさえ、暖かい微笑みを絶やすことはない。
それをこれまで悉く潰してきた、その原因が自分の発言の側にあったのかと考えるのはオスカーにとって複雑な気分だった。
目を閉じてソファに背凭れるリュミエールを見遣り、軽装の、全くもって無防備な彼が自分の居室にいることを改めて考え直すと、互いが聖地に招聘されてからの長い年月の間ででもおそらく初めてのその経験に、多少の酔いが混じって不思議な心持ちになる。会話も途絶え、オスカーが見続けるその先で、リュミエールが首を反らせてことりとソファに頭を倒し、目を閉じたまま酒精の熱を含んだ呼気をひとつ吐いた。白い首筋が襟元から顕になり、水色の髪が頬を縁取り流れ落ちて、目元はほんのり朱く色づいている。
よく見ようとして近づいた、のだろうと思う。ひとの動く気配に、リュミエールがゆっくりと目を開いた。オスカーの影が覆い被さりながら、それでもその深海色の瞳とオスカーの視線とが合った、それが却って最後の切掛になった。
唇を重ねた。何気なしにやってしまった、というのが一番正しい。アルコールの所為か、触れる直前に想定したよりも唇はずいぶん熱く、そして緩やかに唇を合わせ続けているリュミエールの反応が、拒否でも応答でもなく、全くのただの受容であることに、オスカーは自分の仕掛けたことでありながら頭の隅で戸惑った。
一度唇を離し、表情を確認する。リュミエールの視線はかなりの酔いの混じったそれで幾分かとろりとしていたが、瞳の奥の意識はどこまでも澄んでいて、視線の合ったままのオスカーを無色で見ていた。
自分も同じ程度には無表情でいられているだろうか、と思いながら、オスカーは再度唇を重ねた。触れ合う場所がぴりぴりと痺れ、脳髄へと響き渡るような感触は、ここ数年の女性相手には感じたことのない昔の経験の浅かった頃を思い起こす。
幾分かの内心の逡巡の後、抱き寄せて、躰を囲い込み、深い口付けに導く。抗いがたい誘惑があった。掻き抱いたオスカーの腕から溢れるほどの水色の髪がさらさらと音を立てて零れ落ちる。
深い口付けの奥、オスカーの舌がリュミエールの舌と絡んだ時、初めてリュミエールの躰が僅かに揺れた。唇の僅かな隙間から「…ん」と小さな言葉が漏れ、その時に至ってようやく、ほんの少しの躊躇いがちらりと垣間見えた。
あの、水の守護聖が。いつも穏やかな微笑を湛えて静かに佇んでいる人が。よりによって自分の腕の中で、自分の動きに呼応して、密やかに垣間見せる、これ以上はないほどに忍びやかな反応。本人にそのつもりがなくとも、オスカーにとっては最高の媚態だった。
思わず強く抱き締めた、そのリュミエールの躰からふわりと漏れ出た気配のようなもの。何かと瞬間訝しんだが、それが水のサクリアだと気づき、その暖かい気配が自分を包んで炎のサクリアと交じり合うに至って、オスカーは理性のコントロールを手放した。[13]
リュミエールにとっては間違いなく初めてであることが有り有りと手に取るように判るのに、オスカーの愛撫に対して抑え気味に反応する他には、時折ちらちらと見え隠れする僅かな躊躇いと、同じく僅かな戸惑いのみで。その一滴一滴が、絶え間ない媚薬のようにオスカーを煽り続ける。
潤滑剤代わりに手近のブランデーを使ったのが、更にまずかったといえばまずかった。それまでに蓄積した分と併せて酔いが一気に周り、肌を火照らせてとろっとろに溶けたリュミエールと、それにオスカー自身が溺れまくってしまった、という意味では。
ラグの上で数回、それから寝室のベッドに移動して更に何度か。酔いと疲れとで抱き締めたまま眠って、うとうとと目を覚ました夜明け前の未明にも一回手を出した。
「オスカー」
「……」
「…オスカー、もう陽が高いですよ…そろそろ離してくれませんか」
「嫌だ」
「オスカー……」
「今日一日一緒にいると約束するなら、離してやる」
「………」
リュミエールがひとつ息を吐いて承諾したら、離してやると言っていた手は背後から抱き締めた状態から愛撫の動きに変わった。アルコールはとうの昔に抜けていたが、昨晩のうちに知られた弱い部分を探られ、同じ程度には溶かされた。
オスカーは手早くシャワーを浴びて、居室に戻った。テラスに続く扉が全て開け放たれていて、淡い風が室内の昨晩の酒精をすべて吹き流している。テラスの先に続く飛空都市の草原の向こうの聖殿が目に映った。
先にシャワールームを使って出ていた水の守護聖は、恐縮する使用人とともに昨晩の飲み会の後片付けをしている。着ているものこそ昨晩の軽装の珍しい格好のままだが、立居振舞はいつもの凛とした優しい風情の水の守護聖そのものである。ただし昨晩は開いていたシャツの一番上のボタンが、今はしっかり掛けられていた。
客間に使用した形跡がないのを使用人たちに訝しく思われただろうが、水の守護聖はこの居室のソファで寝みでもしたのだと思われている程度だろう。それにしたって恐ろしく珍しいことで、ましてや昨晩本当にあったことには到底思い至りようもないに違いない。
誰よりも一番、信じがたい当事者がオスカー自身であるからして。
風が心地良いからテラスの方で、と話すリュミエールの声が聞こえる。オスカーが予め言い付けてあったブランチの軽食の用意がテラスに整えられると、使用人たちが引き払ってすぐさま、オスカーはリュミエールを引き寄せて抱き締めた。そのまま鼻先の水色の髪に顔を擦り寄せて埋める。オスカーが相当に背が高い所為で、女性相手では普通この位置に頭が来ない。
とにかく、そうやって抱き締めていると恐ろしく気持ちが良かった。守護聖のサクリアのせいなのか、体の相性がいいのか、初恋じみたこの胸の詰まるような感情のせいなのか。その陶酔といったら、まるで麻薬のようだった。
目を閉じてなすがままにされているリュミエールの表情はどこまでも透明で、なんの感情も窺い知れないものの、うっとりとしているように見えなくもない。少なくとも自分と同程度にはこの感覚を共有しているはずだった。
軽く添えられるだけの相手の腕に焦れて、オスカーが「お前も腕を回せ」と自分の手を使って促したら、リュミエールはオスカーの首筋にうっすら顔を伏せてくつくつと小さく笑った、その振動に鳥肌が立ち、ゆっくり自分の背に回ったその指先の感触に総毛立って、オスカーの両手はリュミエールの頭を抱え込んで深いキスに戒めた。
ブランチを済ませると、テラスから庭先に降りた。はるか遠目に聖殿が見える。日の曜日でも登殿するのが常だが、今日ばかりはそんな気にもなれない。
リュミエールはハープを持ち出し、草の上に座ってゆるやかに爪弾いている。オスカーが草波に寝転んで黙って聞いていたら、小さく歌まで詠い出した。異郷の言葉で歌詞の意味は解らない。[14]
ふと気が付くと、その音が途切れていた。オスカーが身を起こして見遣ると、リュミエールはいつの間にか横になり、ハープを傍らに置いて目を閉じている。昨晩から相当疲れさせたはずだし、そもそもあまり眠らせてもいなかったので、むしろ今までいつもと変わらない凛然とした様子で起きていたのが確かに不思議なくらいではあった。
飛空都市の柔らかな日差しで、かつショールを掛けているとはいえ、充分とは思えなかったので、オスカーは室内から毛布を持ってきて水の守護聖の身体に掛けてやった。淡く覚醒したリュミエールが、薄く目を開いて「……ありがとうございます…」と小さく呟く。
隣に腰を下ろしたオスカーのすぐ脇で、僅かに体を丸めて毛布に埋まり、再び眠りに落ちた水色の姿を見た瞬間、オスカーは唐突に想像を絶する勢いで狼狽した。
もし、この人を本当に欲しいと思ったのなら。
生まれついてからずっとそうであった、王立派遣軍の名門の継嗣としてではなく。聖地に招聘されてからの、いかなる女性にとっても雲の上の存在でしかありえない炎の守護聖としてではなく。かといって、聖地を離れて密かに過ごす時の、互いに一夜だけと知ったその場限りの相手としてでもなく。
時を共に生きる者として、守護聖という地位が何の役にも立たないただの一人の人間として、想いを伝えなければならなくなることがあったとしたら、自分はどうすればいいのか。
あれだけ深く身を交わしていながら、何も知らない。なぜ拒絶されなかったのかも。その透明な表情で何を想っているのかも。
答を与えてくれるはずの存在は、目の前でただ穏やかに眠っている。
幽きものと思い知らされたこの儚い繋がりを今ひとたび確認しようと、オスカーは身体を傾げ、眠る水の守護聖の瞼の上に唇を落とした。
日の曜日、森の湖で、女王候補と軽やかな会話をいとも容易く交わしながら、オリヴィエの内心は半ば呆然を続けたままだった。
昨晩の炎の館を辞してから私邸に戻り、アルコールの影響が残らないように念入りに肌の手入れに時間を掛け、ベッドに入って眠る直前、習慣の就寝前の水を口に含んだ時、その気配に気がついた。片眉を寄せて訝しく思いながらその正体を探ろうとした瞬間、それ、つまり絡み合う水と炎のサクリアに背筋を撫で上げられるような感触に唐突に襲われ、嚥下する寸前の水で思い切り咽せ込んだ。
「ちょっとーーーーッ!!?」
思わずそう大声で叫んで、夢の館の使用人が何事かと2・3人寝室へ飛び込んできたが、なんでもないなんでもないからと詫びを言って引っ込んでもらい、その後で思う存分頭を抱える。
これは、確実に、ヤッちゃってる………
年少組はとっくに夢の中であろうし、たとえ起きていたにせよ、この気配に気付くほどの聡さもまだ無い。ルヴァは朴念仁で、ジュリアスは良くも悪くも独善的だ。おそらく気付かないであろう。
クラヴィスは、これはもう確実に気付いているはずだ。夜の闇は彼の領分で、その安らぎをこれだけ乱す気配に気が付かない訳がない。
などと考えながら、その発端が確実に自分の成した忠告にあることに、この上ないほど現実逃避したくなる。
(誰がそこまで仲良くなれと言ったッてのよ……)
今更二人の元に取って返し、よろしくやってる最中に割り込む訳にもいかない。そう考えている間にも気配は嫌が上にも陶酔と甘ったるさを増し、オリヴィエはとうとうベッドに突っ伏して枕を引っ被り、とりあえず顔を合わせる後日まで綺麗さっぱり無視することにした。
とはいえ夜更けまで続いたそのサクリアの睦み合う気配から枕一つで逃れられるはずもなく、悶々としたまま夢現にうとうとと一晩を過ごし、翌朝はさぞかし酷い顔になっているかと思いきや、鏡に写った自分の肌が思いのほか色艶良いことに却ってがっくりと肩を落とした。その艶の良さが、昨晩のこの上なく色めかしい気配に少なからず影響されているのを判っていたので。
仕掛けたのがオスカーの側であるのは、ほぼ間違いない。おまけによりによって執務室に約束の女王候補の来訪を受けている最中、朝っぱらからまたもや仲良くやってる気配に気付かされて喉の奥から奇妙な音を立ててしまった。
森の湖の散策中、今度会ったら絶対絞めてやると思いながら、女王候補に応えて森の湖から聖殿のテラスへ案内した時、はるか遠目に見えてしまった。こんな遠距離でも馬鹿みたいに目立つ、あの緋い髪と水色の長い髪が。そして緋い髪の持ち主が、もう一方の上に覆い被さる様が。
慌てて女王候補の両目を片手で覆いながら、これでもう一発炎の守護聖を殴る理由が増えたな、と考えた。[15]
オリヴィエがさらに頭を痛めたことに、絡み合うサクリアの気配はその夜も再び生じて飛空都市の空気とオリヴィエとを取り巻いた。
「今日一日、と言っただろう?」
「……明日は執務がありますので、配慮していただけますか」
「努力はする。保証はしないが。」
という会話が至極真面目に交わされたことなど、知る由もなかったが。
「ようこそ、オリヴィエ。何か御用ですか?」
月の曜日、早々に押し掛けた水の守護聖の執務室で、普段と何一つ変わることなく穏やかに微笑む水の守護聖の姿を見て、大いに脱力しながら、泣いてもいいかな、とオリヴィエはちょっぴり思った。水のサクリアの気配からうっすら予想はしていたが、オスカーの行為がひとまず傍目にはそれほどリュミエールを傷付けていないことに、思ったよりも深く安堵する自分がいる。
いや、変わったところといえばひとつだけある。水の守護聖の正装、肩掛の内側で首の大きく開いていた内衣が、然り気なく首の詰まったそれに差し替えられていた。
オリヴィエが、あー、あー、あー……と声の出ないまま3回呟いたところで、悟ったリュミエールが目元をうっすら赤くする。
「すみません、お騒がせしてしまいましたか」
水のサクリアが炎のサクリアと絡んで漏れ出ていたことに自覚はあったのだろう、そんな謝罪を口にした。
「いや、いいっちゃいいんだけどさ…その、大丈夫だった?」
「ええ、たいへんに良くしていただきましたので。」
とんでもない爆弾発言はどう聴いても「悦くしていただいた」にしか聞こえず、オリヴィエは何も含んでいないにもかかわらず再度大いに咽せ返った。
「すみません、そういうつもりでは」
涙目の夢の守護聖に慌てて水を用意してから、リュミエールがその背中をさする。
「…オリヴィエ、貴方でしょう? オスカーに言付けてくださったのは。」
余計なこと言い過ぎ、9割5分は黙ってろ、の、そもそもの発端のあれである。詳しい物言いは知らなくとも、何かしらの発言がオリヴィエからオスカーにあったのを察したのだろう。リュミエールに手を添えられながら水を飲んでいたオリヴィエは動作を止め、情けなくも眉を下げてリュミエールの方を振り返った。
「あー、うん、…ゴメンね、なんかこんなコトになっちゃって。」
「とんでもありません。お陰様で快適に過ごしていますよ。」
快適、過ごしています、というその言葉。恐ろしく濃密そうだったその時間とは、ずいぶんと掛け離れた違和感がある。
オリヴィエは訝しみ、しかし事が事だけに相当に逡巡し、それでもやはり結局は尋ねざるを得なかった。
「…あのさあ、単刀直入に訊いてもいい? どうしてオスカーに抱かれたの? 酔ってた?」
「確かにかなり酔ってはいましたが、それが理由というわけでもありませんね。というより、特に理由はありません」
「理由が…」
ない。なんの躊躇いもなくあっさり返答が返されたことにも驚いたが、涼しげな顔で告げられたその予想外すぎる内容に絶句した。
「いつもの彼の調子で冷笑いながらにでも求められていれば、一も二もなくお断りしていたでしょうけれど。随分と真面目なご様子でしたから、特に否やはありませんでした。無碍にお断りして、また皮肉交じりの会話に逆戻りするのも、不本意でしたし。」
「……」
「その後、悪いようにはされていませんから、正解だったと思いますよ。…だから私は、貴方に感謝しているんです、オリヴィエ。」
感謝。感謝って。思考はぐるぐる回り続けて、とてもではないが付いていけない。
付いていけないが、しかし。
発端を引き起こした責任がある人間として、それでも確認しておかなければならないことがあった。
「…この後、どうするつもり?」
「どうするつもり、と言われましても…それは私が決めうるところではないと思いますが。」
「…って、」
「いつもとはちょっと違う趣向に、たまたま彼の気が向いただけでしょうから、所詮は長続きするものでもないと思いますよ。いつまで続くかは判りませんが、この期間の間だけでも、心持ちの良くない物言いをされずに過ごすことができれば、それで充分ではないでしょうか。」
だから何も心配なさらなくていいのですよ、と逆に気遣われるように言われ、オリヴィエは唖然としてリュミエールを見遣った。そこに居るのは、いつもと何一つ変わらない、どこまでも透徹として、優しく穏やかな水の守護聖の姿。
言わんとすることはわからなくもないし、これまでの誂い混じりのオスカーの発言の数々はよほど不愉快であったのだろうし、確かにオスカーの情熱を一時の気紛れではないと保証する術など有り得るはずもないが、それでリュミエールが応じた「出方次第」は、オリヴィエのような常識人の理解の範疇を遥かに超えていた。
どれだけ溶かし尽くされ、どれだけ深く躰を重ねても、リュミエールの心は一欠片たりともオスカーの手の中に存在していない。それが水の守護聖の初体験であったろうことや、その交わりがどれだけ濃密なものであったかなど、リュミエールにとっては微塵も意味を持たないのだと思い知った。
オリヴィエは昨日の昼間、聖殿のテラスで見た光景を思い出した。眠る水の守護聖の上に、遠くからでもその躊躇いを伺わせるほど、ゆっくりと緩やかに覆い被さる炎の守護聖の姿。このリュミエールに比べれば、まだしもあのオスカーの側の方が恋情めいたものを抱いているに違いないことは容易に想像がついた。
やっぱり泣いていいかな、と夢の守護聖は思った。オスカーにも、そしてリュミエールにも、自分はとんでもない業を背負わせてしまったのかもしれない。
唐突にノックの音が室内に響き渡り、オリヴィエは文字通り飛び上がった。開いた扉の陰から女王候補の姿が見える。
「あ、ああ…じゃ、私はこれで」
女王候補を迎え入れ、挨拶してから入れ替わりに水の守護聖の執務室を立ち去ろうとする途中、室内を振り返った。ただ何気なく、そうしただけなのに。
「あなたが、私を必要としてくださるとは…とても光栄です」
ちょっと待ちなよ、とオリヴィエは我が事でもないのに激しく狼狽えた。水の守護聖と女王候補、二人の距離が近くて、なんだかものすごく雰囲気がいい。そういえばこっちの女王候補は、一昨日のお茶会でリュミエールの隣に座っていた。おまけに持参した手製の菓子はカモミールゼリーで、水の守護聖にずいぶん喜ばれた。予想外の急接近。
見詰め合う視線は明らかに見て取れる優しい甘さが混じっていて、二人を包む空気がうっすらと色付いているようにさえ見える。濃密に躰を交わしたはずの相手に対して「所詮は」と語った時のどこまでも透明なそれよりも、そうと言ってよければよほど愛情が込められていた。
これを炎の守護聖に見せてはまずい、恐ろしく嫉妬するに違いない、と思い、慌てて執務室を後にしながら、なんで自分がそんなことを考えなければならないのかとオリヴィエは脱力する思いだった。水の守護聖を巡って女王候補と炎の守護聖が恋の鞘当て、だなんて、一体どういう構図だ。
聖殿の廊下に出て後ろ手で扉を締めた、その音に重なって隣の執務室の扉が開く。案の定出てきたオスカーは上機嫌さを隠しもせず、明らかにこちらへ向かってくる様子で、目的の扉の前にいた夢の守護聖の姿を認めるとその想定外に身を固めた。
その強張った表情に、あー、こっちの奴も私が気付いてるって判ってんのねー、と薄ぼんやり思う。
いくら自分が切掛を与えたとはいえ、このバカが考えもなしにリュミエールに手を出さなければ。
果たしてどういう態度を見せてくれるのか、徐々に怒りを込み上げさせる夢の守護聖の前で、口元を手で覆い幾分かの逡巡を見せた後、開き直ったらしい炎の守護聖はよりにもよってこの上なく幸せそうな笑みを浮かべ、あまつさえ目元をうっすら染めて、ゆっくり近づきながら
「よう、極楽鳥。ご忠告は効果絶大だったぜ」
と言った。
その炎の守護聖を評して、かつて女王候補相手に
「たまには、照れたりすることあるのかな? あるなら、ちょっとだけ見てみたいよね」
なんて言ってた昔の私のバカ、そして暫くサヨナラ私の綺麗な手、と思いながら、オリヴィエは久しぶりの右ストレートを思い切り繰り出した。
■ 「…この後は、いかがなさいますか? マドモワゼル」(シルヴァン風に)
以下、ルトゥール公式設定より(一部に妙なものが混じっています)
※ コンセプト「ルトゥールの公式設定からオスリュミが成立しうるとしたら」。おそらくオスカー側からは「一時の気の迷い」しかありえない。で、それに対するリュミエールの反応とその真意はこんな感じ。
※ 裏のコンセプトは、「……と――と空白行の使用を控えて小説を書いてみる」。密度みっちり。
※ 昔のアイテムをおさらいしてたら塩沢クラヴィス様の声が出てきて泣きそうになった。