私の瞬きとともに零れた涙は、もはやどこへも堕ちることが出来ずに、ただ、私の目の前で小さな球を作った。
ここは時間と空間の終わりの、重力の果て。
球の中には、そして私の周りには、四方八方から雨のように降り注ぐ星の輝き。
事象の地平線の内から外へは何物も、光でさえも逃れることは出来ないが、外から中へは全ての光が落ちてくる。
星の瞬きをその中に湛える透明な球は、しばらく私の周囲を漂ってから、ゆっくりと何処かへ消えていった。
「―――……」
私は、顔の前に掌を掲げてみる。
無限小の領域にあって、すでにそこに実体はない、観念のみの存在。
実際には、事象の地平線を越えてからの一瞬と言える時間だったのだろう。
思考とは、主観的な経験。
永い永い夢。
この短い時間で、何もかもを諦めた振りをしながら、私に都合の良い彼を酷く捏造してまで、一人芝居でしかない夢をあれこれと数多の人に理由づけさせては延々と引き伸ばしてまで、そうまでして彼の事を知りたかったのかと、もううんざりするほど重ねた自嘲に更なる自嘲を重ねて涙が溢れた。
結局、何も判らなかったではないか。本当の彼の事は、なにひとつ。
あの新年の儀の時に、私をそのアイスブルーの瞳で射竦めた彼が、何を考えていたのかも。
何故彼が、あの雪の夜を、私と共にしたのかも。
『俺の責任』と語った彼の、『夢から覚めた』と言った彼の、その優しい微笑みの、その真意が何であったのかも。
私には、本当に彼が解らなかった。
至極当然だった。私は彼ではなかったのだから。
シュレーディンガーの猫が生きているのか死んでいるのか、それすらも判らずに。
目を覚まし、これ以上もなく顕らかに星の光の下に晒されたのは、ただ私の愚かさと、貴方への恋心だけ。
そのどちらもが、私がこのままこの特異点で消え去ってしまうに充分な理由だった。
むしろこの上ない贅沢だとさえ思うべきだろう。
宇宙を救えて、そして次元回廊を開く障害を取り除けたことで、惑星上の彼をもおそらく私は救えたのだろうから。きっと。
このまま貴方と永遠に隔たれようとも、ただ無事に、ただ皆と笑っている貴方がいれば、もう、それだけでよかった。
そう考えて、私は安堵の笑みを浮かべて。
「……………」
なのに。
何故私は、こんなにも永く在り続けているのだろう。
空間も時間も、何物をもその無限の重力で破壊し尽くす特異点には、とっくの昔に到達している。
いくら思考が主観的な経験だとはいえ、もう私にはこれ以上必要ないことなのだと思い定めたのに。
睫毛に残る涙を指元で軽く拭い、辺りを見渡す。
私を包む、一面に広がる星々の瞬きと、無限を思わせる果てしない静寂が広がる中、
――猫の鳴き声が聞こえて。
私はゆっくりと振り返った。
目を逸らすことも出来ずに。
私を真っ直ぐと見据え、ゆっくり近づいてくる、その、アイスブルーの瞳から。
……彼の顔には、如何なる表情も無い。
彼と向き合っている私は、ただ驚きに囚われて、ただ視線を合わせたまま、
「……オスカー?」
辛うじて、ただそれだけを尋ねた。
彼がここにいるはずは無い。本当の彼は、事象の地平線の外側の、安全な場所に在る。
だとすれば、未だ私は懲りもせずに、所詮は私自身でしかない夢を見続けているのだろうか。
私の疑問に応えるように、ふ、と、彼が笑った。
あの時と同じ、彼らしくない、優しい微笑みだった。
「考えている事はだいたい判るが、それは正確じゃないな。俺はお前でもあるが、お前ではない、とも言える。」
それは、どういう――
「夢が一人で見られるものだと、そう思っていたか?」
そう言うと、私のほんの近くまで来ていた彼は歩みを止め、ゆびさきが近付いてきて、あの、長い指が――私の頬を撫ぜた。
笑みは既に無く、そのアイスブルーの瞳に、私は再び射竦められる。
「ハイゼンベルクの不確定性原理、だ。」
彼の親指が、私の唇の上を滑った。
「小さなエネルギー、小さな素粒子であれば、こうやって近くにいるだけで、粒子の持つ位置の不確定性により、リュミエール――お前を構成する粒子と俺を構成する粒子とが、入れ替わっている。
……ましてや俺達は、あの雪の夜、誰よりも――誰よりも近い距離に在っただろう?」
彼に見つめられて私の鼓動が大きく音を立てた。彼の指が触れる頬が、唇が熱い。
「お前を構成する粒子の幾らかは、今、かつて俺だった粒子で構成されている――その俺だ。だからお前であり、そしてお前ではない。
お前ではないから、お前の忘れていた事も教えてやれる。例えば、特異点の定義。」
「定義?」
「特異点とは時間と空間の終わりではない。正しくは、物理法則が適用できなくなる点、換言すれば、何が起こるかを予測できない点、だ。だからこその「特異」点だ。
何が起こるかを定められないのであれば、我らが女王陛下が、その願いを途絶えさせるはずがない。お前を救いたい、という。」
この身に、未だ女王陛下の加護が――。
思わず、片手を胸に当てた。
実在を持たぬ観念でしかない存在で、未だ鼓動を刻む、私の身体。
「それと、もうひとつ。まだお前は、最後まで目を覚ましていない。」
…どういうことか、判らなかった。
私の愚かさは充分に思い知った。貴方への恋心も居た堪れないほどに曝け出された。これ以上、何を突き付けられるというのだろう。
「あの夜明け、夜を交わしたその最後、歩み去ってゆくお前を抱き締めた俺が、何と言ったか。覚えているか?」
意外な言葉に少し戸惑って、それから記憶を辿った。
……それは。その時は。
あの凍えた雪の夜、別れの曙。私を背後から抱き締めた彼。
あの時、耳元で彼の唇が動いた気がした。でも何も聞こえなかった。
蓋を開けさえしなければ。
シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるかなど、誰にも解りはしないのだから。
猫自身にさえも。
……今、私は何と?
「気付いたか?」
ぽとり、と、横から私の頬に水滴が当たった。
何処かへ消えた私の涙ではなく、加速度を持って落ちてきたそれは、事象の地平線の外側からここまで落ちてきたもの。
私の前に立つ彼が、その地平線の先を向き、その唇が動いて、私に告げる。
「猫が泣いている。蓋を開けてやれ。
お前自身が、あいつ自身が永い間、開けようとしなかった蓋を。」
事象の地平線の内側へは、すべての光が、すべての情報が落ちてくる。
私は地平線の外側へ視線を遣り、そこで繰り広げられている光景を見た。
「リュミエール」
願いを捧げ続ける二双の白い翼と、その力に護られた次元回廊の終端の宇宙空間に集う、すべての守護聖。神鳥の宇宙の、聖獣の宇宙の。その皆がこちらへ、一心に力を尽くして。
「戻ってこい、リュミエール」
こちらへ両腕を広げて皆と同じように守護聖の力を使いながら、絶え間なく涙を流す、貴方の姿。夢にですら、一度も見たことのない。
溢れる涙はゆっくりと重力に引かれ、星の光とともにここへと降ってくる。
「……何をしているのですか。皆…」
事象の地平線の内から外へは何物も、光ですらも出ることは叶わない。
それはこれ以上なく自明の法則であるのに。それを皆、当然彼も、知っているはずなのに。
「サクリアの引き上げだ」
私の背後の彼が言い、私の思考は一瞬空虚になった。
その言葉の意味するところと、宇宙を律する物理法則とが私の脳裏を交互に巡る。
「………まさか。そんな。」
地平線の外から目を離せないまま、思わず呟いていた。
ブラックホールの縮小と蒸発の加速に乗じて、私の情報をホーキング放射として地平線の外へ引き出そうと?
「――そんな。こんな巨大なブラックホールで、そんな無茶な、……」
信じられずに、背後を振り返ってそこにいる彼に確認する。彼は無表情を重ねたまま。
極小ブラックホールであれば充分に熱く、爆発的なまでのホーキング放射が見られもするが、アルゴールほどの大質量を持つブラックホールは極寒の、それこそ宇宙背景放射よりも遥かに低い温度しか持たない。それが充分な放射を発するに到るまでの時間は恐ろしく永く、宇宙が生じてからここに到るまでの何百億年の、そのまた何百億を掛け合わせたよりも長い時間を要する。
だからといってそれをサクリアの引き上げで早めようなど、無理にも程がある。守護聖の内から無限に沸き起こるサクリアの放出とは違い、対象から守護聖へのサクリアの引き上げは酷く不自然な行為で守護聖の身体的負荷が甚だしい。ましてや惑星よりも通常の恒星よりも遥かに莫大な質量を擁する、このブラックホール・アルゴールをサクリアの引き上げで縮小させようなど、いかにすべての守護聖が力を合わせたとて……
背後の彼は微笑って言う。
「それで諦めようとする者など、あの中には一人もいない。」
地平線の先をもう一度振り返って、その先の皆を、彼を見た。
「うー。気分が悪ぅいよぅ……」
「頑張れ、マルセル。俺も頑張るからな、諦めるな!」
「諦めるなんて一言も言ってないもん! 負けないからね、ランディ!」
「オスカー様、無駄にブラックホールの質量を増やさないでくれますか。ただでさえブラックホールからのサクリアの引き上げは大変だっていうのに」
「お前だって泣いてるじゃないか。セイラン。」
「泣いてません。涙が出るほど呆れてるだけです。」
「ちょい、オリヴィエ、ぼーっとすんなよ! 何してんだ!」
「…ごめん。夢、見てた。」
「はァ?」
「アンジェリーク、ごめんなさいね。こちらの宇宙の事に付き合わせて。」
「そんな事ないです、ロザリア様! 私にとっても、宇宙と同じくらい大事な人ですから!」
「そーだヨねッ! さっすが、そう来なきゃ、私のアンジェリーク☆」
その他の皆も、神鳥の光と闇の守護聖すらもが、無謀とも思えるサクリアの引き上げを無言で続けている。
「リュミエール」
彼は泣いている。そして私に呼び掛け続ける。事象の地平線の内から、何一つ私の応えが返らなくても。
「戻ってこい、リュミエール。……愛しているから。」
彼の涙が、再び私の顔に降り落ちた。
蓋が開いてゆく。
私が、彼が、永い間、開こうとしなかった蓋が。
切掛けは――猫だった。
お前が俺を再び見た、その時も。きっと。
あの新年の夜の、凍えた雪の中で、猫が鳴いたからだった。
互いが聖地に来たばかりで出会った俺達が、その時から互いに仄かな好意を抱いていたことを、お前は遥か昔に忘れただろう。俺も永い間、そうだったから。
稀有な青銀の髪。深海色の瞳。
何を見ても、何処へ行っても、俺とは全く違う物の考え方が新鮮で、そして心惹かれた。俺に無いものをお前が与えてくれ、俺に欠けるものをお前が埋めてくれた。時に意外なほど、強情なほど我を張るお前の芯の強さもこの上なく好きだった。
戯れに淡く唇を合わせたことすらあった。たまたまか意図的か判らない程度に俺が仕掛けたそれに、薄く頬を染めて俯き、けれど俺の傍らから逃げようとしないお前に、それ以上の衝動を抑えるのがやっとだった。
先に逃げたのは、俺だ。
『猫は泣いています。』
俯いた綺麗な横顔で呟く、リュミエールのその言葉を聞いた瞬間、その底無しの情の深さに恐れ慄いた。そして自分が自分であることを保てなくなるほどその存在にのめり込みそうになる予感に、お前への欲深い愛情でお前も俺も徹底的に壊してしまいそうになる予感に、俺は慄然として、反射的に罵った。自衛手段だった。何をどう言ったか全く覚えていないが、その場にいたルヴァがおろおろと狼狽え、そして恐ろしく珍しいほどに怒ったから、それは相当なものだったのだろうと思う。
まだ若く未熟だったあの頃にお前を愛していたら、俺が恐れた通りの筋書きが辿られてお前をぼろぼろにしていただろうから、あの時の自分の想いに蓋をしたことを、過ちだったとは思わない。
だがその過程でお前を手酷く傷つけたのだと、そして同じようにその淡く優しい記憶に、その心に、固く冷たい蓋を永遠に掛けさせたのだと、そう気付くのに長くはかからなかった。
最初から無かったことにした。俺も、お前も。蓋をして。目も合わせなかった。俺達がいる場は常に緊縛感が付き纏った。何年もの間。
そしてその間、俺には幾らでも恋の相手がいた。幾らでも。
事態が動いたのは、あの新年の儀の最中に、猫の鳴き声が聞こえたからだった。きっと。
お前が、俺を見ていた。永い間閉ざされていた、その深海色の瞳が、俺を辿っていた。それに気付いて、俺は狼狽に身じろいだ。
その瞳が揺れて、閉じられて、そしてゆっくり開いて、目覚めて。
その綺麗な深海色の瞳で、俺の瞳を見た。
それを逃せば、もう機会はないと思った。
リュミエールは完璧な恋人だった。誘いへの応え、夜を迎えて、過ごして、別れの暁まで。何から何まで文句の付けようがなかった。稀有な青銀の髪、深海色の瞳。流れるようにしなやかな躯。滑らかな肌。
なのにその従順な躯に現実的な手触りは一切なく、実感と呼べるものは何一つ無かった。その瞳は俺の愛撫に熱を帯びて俺を見ているのに、その視線はずっと夢を見ているようだった。俺の腕の中にあるのに、薄布ひとつをいつまでも隔てたようなもどかしさに、抱き締めるほどにすり抜けていくような焦燥に胸が締め付けられた。
リュミエールが辛うじて一瞬でも目覚めたかと思ったのは、あの新年の儀に俺の瞳を見た時と、躯を交わして白光の中で至った瞬間だけ。
その胸の痛みをその時はどうしていいか判らず、何度も唇を重ね、何度か躯を交わし、結局俺は、夜明けの最後まで完璧な恋の相手を演じた。そうする事しか出来なかった。正しい答を知らなかった。
暁の色彩に目を覚まして、逃れようとするお前。その躯を引き寄せて、抱き締めて、何度も口付けて。
目を合わせて。
綺麗な深海色の瞳。綺麗な。
何も言えない俺に、お前の瞳は静かに語っていた。
これ限りなのだと。
非日常は昨日限りで終わったのだと。
どうすれば留められる?
どうすれば固く閉じられた蓋を開き、お前を目覚めさせる事ができる?
激しくなる胸の痛みを抱えたまま何度も愛撫を交わして、だけどすり抜けたお前が身支度を整えるのを呆然と眺めて、一歩を踏み出したお前を後ろから強く強く抱き竦めて。
その時、ようやく答に気付いたから、耳元でただ一言、囁いた。
「愛してる」
恋の相手は幾らでもいた。幾らでも。
なのにこの抉られたような半身を埋めてくれる存在は、何処にもいなかった。お前以外には、何処にも。
……長いのか、短いのか、わからない時間が過ぎて。
ぽとり、ぽとり、と、俺の腕に水滴が降った。
そのリュミエールの無言の涙に、
信じられないのだと、
無かったことにするのだと、
蓋を開けさえしなければいいのだと。
それら全てを突き付けられて、俺は腕を緩めるしかなかった。
雪に閉ざされた静かな大地はすべての生物の気配を遮断していた。
猫の鳴き声も、もう聞こえなかった。
目覚めなかったリュミエールは、そのまま夢を見続けるように俺の瞳と同じ色の蒼い恒星へ引き寄せられ、あの夜に交わされたその身の内の俺のサクリアに気付かぬうちに翻弄され、その強い意志で宇宙と俺とを救い、けれど――
「……俺は二度、間違えた。あの時、お前を離すべきじゃなかった。
絶対に離さずに、傷付けたことを何度でも謝罪して、愛してると何度でも言うべきだった。信じてもらえるまで、お前が目覚めるまで、何度でも。そうすれば――」
自らの手で、最愛の存在を事象の地平線の内へ追い落とすような事にならずに済んだかもしれないのにと。
「ほんとそれ。やっぱ最低だわ、あんた。何回でも言うけど。」
オリヴィエも泣いている。
「リュミエール、そろそろ諦めて、戻ってきて。貴方が戻らなかったら、オスカーも私も、二度と笑えずに、このまま永遠に泣き暮らすわ。」
白い翼のアンジェリークも、泣いている。
彼が何故、あの新年の儀の雪の夜を、私と共にしたのか。そして私自身が何故、それに応えたのか。
「何故?
愛していたからだ。それ以上の理由が必要だったか?」
愛してる。
「愛している、リュミエール。だから戻ってこい。……戻ってきてくれ。」
戻って。
涙が溢れて止まらない。
この身は既に、遥か昔に、貴方という存在に、もはや永遠に捕らえられたまま。
特異点のようなその無限の重力に引かれて、私の戻るところは、貴方の下にしかない。
「猫が泣いている。蓋を開けて、戻ってやれ。」
その声に、背後の彼を振り返った。
「心配するな。俺はいつでも、お前と共に在る。」
ふわりと後ろから抱き締められて、私にその暖かさが溶け、彼の粒子が再び私と混じり合ったのが判った。
オスカー。
貴方の下へ。
粒子となって、放射となって、光となって。
「来るぞ!」
神鳥の闇の守護聖が鋭く叫んだ。
「しっかり捕まえろよ、オスカー!」
「判っている!」
ゼフェルに短く答えたオスカーが、涙を振り払い、眩い放射に光り始めたブラックホールを凝視する。
愛しています。
愛しています。
愛しています。
「………愛しています。」
……そうして、目覚めた私は。
「……愛してる。」
涙に濡れた貴方の、強く強く抱き竦める、腕の中。
箱から飛び出た猫が、小さく鳴き、笑って、そして歩み去っていった。