■ 崩壊する真空

※黒背景の解除はこちら

 絶望は、いとも簡単に、ごくカジュアルに、何て事のない顔をして、万人の下を訪れる。

 

 

 粒子加速器が暴走を始めた、それを試みた者は、そもそも恒星アルゴール星系内への粒子加速器の建設を最初に提案した人物だったらしい。

 ただ末端の一研究者で、その建設案は最終的に所属部署の決定として吸い上げられ、実際の建設が始まってからも彼が特に注目された事は無かったようだ。彼自身にとってもその方が好都合だった。宇宙を崩壊させるのだという、固い決意に根付いた密やかな計画を進めるためには。

 その惑星の沸き立つような激しい地殻活動の、突発的な噴火と火砕流で婚約者を亡くしたのだという。彼女も研究者だった。

 最終的に宇宙を巻き込む事になったその絶望を、責める気にはなれない。

 彼が負った運命に比べれば比較しようのないほど軽い話でしかないが、私だって、猫の鳴き声たったひとつで、永遠に絶望したのだから。

 

 

 

 

 

「アイ・オープナー」

 すっきりとした瀟洒な造りのカウンターで、バーテンダーに注文を告げた。

「お前は何にする? オリヴィエ」

「エル・ディアブロ。あんた最低。」

 アルコール度数の低いロングドリンクだ。酔い潰れる気はまだなさそうだった。それにしても悪魔とは。

 オーダーを受けたバーテンダーが滑らかな所作で動き始めたのを少し眺め、それから答えた。

「最低とは何だ、最低とは」

「今日みたいなあんな楽しい会やっておいて、リュミエールもすごく嬉しそうで、これで大丈夫かって私に安心させておいて、それでこんな場に呼び出すって、どういうことよ」

「別に嫌なら何も言わなくていい」

「そういうところが最低っていうの。バカ。」

 オリヴィエがカウンターに肘を付き、片手で額を抱え込んだ。場は沈黙し、バーテンダーがドリンクの用意を続けるグラスと金属の音だけが小さく鳴っている。

 黄色いカクテルグラスと赤いロンググラスが無言で差し出された。

 乾杯、と言える雰囲気でもないから黙って飲み始める。オリヴィエも一旦顔を上げてグラスに手を伸ばし、口をつけた。それからグラスを置き、悲痛な顔で堰を切ったように話し始める。

「何度も言ってきたでしょ。夢なんて気にするなって。私だけじゃない、皆だって気付かない、知らないように、このまま続けばそれでいいように振る舞ってきたでしょ。それでいいじゃない。楽しかったわよ、今日なんて特に。あんたのお陰で。だからすごく感謝してたのに。どうしてそのまま知らない振りしてくれないのよ」

「頑張ったな。ずいぶん長いこと。辛かったろう。ありがとう。」

 そう礼を言ったら、オリヴィエは一瞬きょとんとし、そうして顔を再度歪めて赤くして、とうとうその濃青の瞳から堪えきれずに涙を零した。

 自分を落ち着かせるように夢の守護聖が赤い飲み物を呷って一息で飲み干すのに合わせ、俺もグラスを空ける。

 オリヴィエがグラスを置いて綺麗にネイルの入った指先で目元を押さえ、しばらく沈黙してから、話した。

「……辛くなんてなかった。私はこのままで良かった。リュミエールを護るためなら、何だって、いくらだってしたわよ」

 声のトーンが一段上がる。

「私らがこうやってうだうだして、それであの子の命が永らえるなら、いつまでだって、何だってしたわよ……!!」

 

 子供のようにぼろぼろ泣き始めたオリヴィエの頭を軽く引き寄せ、緩いウェーブの金色の髪をゆっくり撫でた。

 しばらく思うままに泣かせてから、静かに告げる。

 

「リュミエール自身が、それを望んでいない。……お前だって判っているんだろう?」

「…………」

 オリヴィエはじっと黙ったまま、頷かなかった。判ってはいても、認めたくはないらしい。

 すい、と、オリヴィエの正面に綺麗な琥珀色の液体が入ったカクテルグラスが差し出された。二人して顔を上げる。

「アフィニティです。どうぞ。」

 3種類の異なる酒をステアしたカクテル。契約にも似た親密感、アフィニティ。

 強い酒だから、酔え、ということかもしれない。

 オリヴィエはバーテンダーの顔をじっと見つめ、そしてグラスに手を出した。

「貴方にはこちらを。キス・オブ・ファイア」

 俺に差し出されたカクテルはやや赤みがかっている。スノースタイルの、苦くも甘くもあるカクテル。

 二人で、作ってもらった酒をしばらくただ飲んだ。空になる頃合いに再び話し始める。

「一応、告白はしたんだがな。断られた。」

「ちょっと、聞いてないわよ、そんな事」

「今、話したからな。」

 玉砕やめてよ伊達男ー、と、泣いて飲んで力の抜けてきたオリヴィエが力の抜けた口調で呟く。自棄じみてグラスを呷って空にして、やがてぽつりとオリヴィエが呟いた。

「……判ってる。あんたの言葉に、どれだけ迷っても悩んでも、結局、「ここ」でそれを受けるような子じゃないってことは。判ってる。」

「俺が「俺」かどうかは疑わしいが、それにしても向こうの「俺」がとっとと言っておけば良かったんだ、と思いはする。」

「ほんとそれ。やっぱ最低だわ、あんた。」

「ホワイト・リリー」

 バーテンダーにオーダーする。ほとんど無色透明なのに強いアルコール度数の、強情なあいつのような酒。

「マグノリア・ブロッサム」

 オリヴィエが続けて注文した。白くほんのりと薄紅の、優しく爽やかな飲み口の、これもまた、あいつらしい。

「それで、どこまで知ってるのよ。あんたは。」

 カクテルが出されてから、もはや躊躇なしにオリヴィエが尋ねてくる。

「俺はあいつ、だろうが、実はまだ、夢が終わっていない。判らないことがまだある。「ここ」がどこか、だ。」

 あの夢の後、あいつに、「俺」に、何が起こったのか、まだそれを知らない。

「ずっと星空を探してたもんね。さっき。見てた。」

 あの後、様々な観測機器ですべての星空を探した。

「あった?」

「無かった。どこにも。恒星だけでなく、ブラックホールでも。」

 

 アルゴールが。

 あれほど大きな星が、たとえどんな形態であったとしても、全天のどこにも見つからなかった。

 

「どういうことだ?」

「どういうもこういうもないでしょ。あんたにしちゃ察しの悪いこと。恒星としての光もない、ブラックホールとしても見当たらない、蒸発して消えるには大きすぎる、「ここ」からどこを探しても見つからないんなら、「ここ」に対する答はひとつに決まってるじゃない。」

 

 言葉を無くした。

 そして悟った。

 

「………ああ。そういうことか。」

 辛うじてその言葉だけが、口をついて出た。

 そうしてオリヴィエの、その絶望の程を改めて辿る。

 判るでしょ、と言いたげな、再び俯いて涙を落とす、その横顔を眺めた。

 

 一人でずいぶんと苦労させて。

 今、俺がこいつに出来ることはひとつだけだった。

「心配するな。俺の責任だからな。必ず、俺が救ける。」

 

 たとえその言葉に、何らの根拠がなくても。

 きっと俺は、そして「俺」は、これまでもそうやって道を切り開いてきた。

 

 オリヴィエは泣き顔を上げて、俺を見て、そして笑った。

「そういうバカ、嫌いじゃないよ。」

 それからバーテンダーの方を向き、語り掛ける。

「あんたもこいつのこういう所、好きだったでしょ? リュミエール。」

 

 バーテンダー――リュミエールは、ただ黙って微笑んだ。

 

 グラスがまた空いて、

「ね、なんか見繕って作ってよ。リュミエール。」

 オリヴィエはリュミエールにそう頼んでいる。

「では」

 また静かに用意を始めて、しばらくしてから出されたのはショートカクテル。濃い赤色の。

「これ、何?」

薔薇色の人生ラ・ヴィ・アン・ローズです。」

 オリヴィエは顔を上げ、リュミエールのその微笑を見た。

「……よい人生でした。」

 オリヴィエはリュミエールをしばらく見つめて、目を閉じ、両目から一粒ずつまた涙を零した。

 それから目を開けて、涙の残る顔でリュミエールに語り掛ける。

「ね、あんたの分も作って。一緒に乾杯したい気分。」

「じゃ、俺の分も作ってくれ。」

 目を丸くしたリュミエールは、間を置いてからくすくすと笑った。俺とオリヴィエを何度も幸せにしてきた、その優しい笑い声。

 そうしてから手早く、2人分の同じカクテルを用意する。

 3人揃った所で、それぞれがグラスを掲げた。

 

「乾杯」

 

 ちりん、と綺麗なグラスの音が響いた。

 

 

 

 

 

 

「リュミエール!!」

 誰の叫び声だったのか。次元回廊を通して届く声。

 状況は知らされずとも判った。粒子加速器が予定に無かったはずの稼働を始め、時計回りと反時計回りに走る一対の粒子を制御不能の状態でどんどんと加速させている。光速に近づくにつれエネルギーを蓄積し、ほんのちっぽけだった粒子が相対論的効果で恐ろしいまでに質量を増していく様子が、遥か遠くのここからでもはっきりと感じ取れた。そのエネルギーは、聖地側で試算していた想定値の上限を、それですら真空崩壊の危険性が相応に高いと予想されていた値を遥かに超えている。

 もはや今この時ですら、粒子の衝突が起これば真空の崩壊は必然であり、拡がってゆく真の真空の泡に飲み込まれ、この宇宙は―――。

 自分の位置、彼の在る連星惑星の現在地点、アルゴールの質量と地軸方向、粒子加速器までの軌道距離。一通りをざっと脳内で洗い出し、今なら間に合うと判断した。迷っている暇は無い。

 異常事態を察した研究者達のシャトルが粒子加速器から離れ、遠方に向かって急いで退避を始めたらしいことだけが、唯一やりやすくなった点だった。

「始めます!」

 次元回廊の先の聖地から微かに危険を告げる声が聞こえるが、今、看過すればもはや宇宙の命運はない。

 両手を蒼い恒星アルゴールに向けて大きく翳し、力の限りにサクリアを放出して、それから目を閉じて集中した。その代理たる私に繋がる、女王陛下のサクリアの力をも借りて。

 

 恒星アルゴールの中心の無限小の一点に、無限大の重力――特異点を作り出すべく。

 

 すぐにアルゴールの中で小さく小さく生まれたそれは、恒星自身の莫大な重力と圧力に四方八方から押し潰され、あっという間に周囲の質量をその中へ吸い込み始めた。中心で破壊される時間と空間、拡大してゆく地平線。

 それはもはや紛れもない、ブラックホールの姿だった。何もかもを、その特異点の中に飲み込む。

 しかしアルゴールはあまりに大きく、恒星の中で拡大を続けるブラックホールの周囲を大量のガスの層が未だ厚く厚く覆っている。

(早く。もっと早く…!)

 時間と空間とをも動かす、女王陛下の不確定性原理、ブラックホールの形成をこの身のサクリアで支えながら、一瞬でも早いその拡大を自分の内に繋がる力に願う。特異点に雪崩れ込んでゆく質量。恒星の自転はブラックホールの自転となり、恒星内の赤道面に回転する降着円盤を形成し始め、形成しては事象の地平線の内側へ雪崩れ込み、質量の加速と破壊とが急激に恒星を加熱させ、ブラックホールの質量と事象の地平線とが大きくなってゆく。

 目の前の蒼く燃えていたアルゴールが、内部からの更なる熱によって眩く膨張する様が視えた。

 恒星の外部には宇宙空間に残っていた彗星や小惑星、僅かな星間ガスが赤道面上に集中し始め、既に降着円盤を形成しつつあり、幾つもの欠片が私の周囲を通り過ぎてアルゴールの内へと向かっていった。

 遠方の軌道上の粒子加速器の長い長いその中空のループが、重力分布の急激な変化と放射熱とに晒されて、軋む音を立てたような気がした。そしてその中を未だひた走り、エネルギーを蓄積してゆく粒子。

『リュミエール!』

 声が聞こえた。聖地からではない、私の、天頂方向の遥か遠方から。

(オスカー…)

 彼の緋色の姿を脳裏に想い描いた、その時だった。

 

 背後を振り返る、自分のその動作がスローモーションのように感じられる。

 見えるはずもない彼方の粒子加速器の、さらにその中で近付いてゆく2つの大質量の粒子の様子が手に取るように見て取れた。あまりに集中して力を使い過ぎ、私の周囲の時間と空間とが歪んでいる。

 互いがほぼ光速で近付いているはずなのに、それもまたやけにゆっくりと感じられる2つの大質量の粒子の、その距離が少しずつ、少しずつ縮んでゆき、

 

 本来ならば激しく衝突し、莫大なエネルギーから生じる億千の粒子の軌跡が銀河のようにこの宇宙の空間中に描かれるはずだった。

 だがその2つの粒子は、出会い、そして運命のように対合し、崩壊し、この世界から綺麗に消え去って、

 ……異質なものを生み出した。

 

 その空隙を、その色を、どう表現していいか判らない。

 それはこの世に、あってはならないものだった。

 

 真の真空。

 

 目を覚ましたかのようなその空虚が、この世界を破壊し尽くすべく、光の速さで拡大を始めたのが判った。

 

 

 

 この時にあって、今、私は貴方と会話をしている。

 声にならない貴方の声が聞こえ、声にならない私の声が答える。そして貴方が、沈黙する。

 

 貴方なら判るでしょう?

 だって真の真空が広がる速さは、たかだか光の速さでしかない・・・・・

 時間を、空間を超えることのできる女王陛下の御力なら、そしてその代理たる守護聖なら、真の真空が宇宙へ拡散してしまうその前に、ブラックホール・アルゴールの中へ――光すらも逃れることの出来ないその事象の地平線の中へ、真の真空を捉えることが出来るはず。

 私の全力はブラックホールの拡大に注いでいる。他の守護聖は時空を隔てた遥か聖地に。

 助力を乞えるのは、今、惑星上のそこにいる、貴方しかいない。

 

 

 守護聖のサクリアが尽きることなく湧き出る、それが何であれ作用をもたらすエネルギーを有するものなのだから、そしてエネルギーとは質量と同等であるのだから、きっと守護聖には物凄い重力が作用していますね、と私が言い、

 貴方が、俺たちの周囲に重力レンズ効果が見えるかもな、と言い、

 オリヴィエが、プロポーションの歪みを気にしてか、それとも重力=体重と考えてか、やめてよそんな怖い話ー、と言い、

 貴方が笑った、

 昔、そんな事もありましたね。

 貴方と私とが共にいて、ささやかに平穏だったそんな時は数えるほどしか無かったけれど。

 

 

 天頂を見上げ、沈黙を続ける貴方へ、力の限りに呼び掛けた。

「オスカー…!!!」

 

 

 判ってくれるでしょう?

 貴方なら。

 

 

 猫の鳴き声が聴こえて、彼の気配が動いた。

 

 

『必ず、俺が救ける……!!!』

 

 その言葉を最後に、溢れるほどの貴方の力が私に届き、注がれた。

 

 

 

 ……ありがとうございます。

 

 貴方が力を尽くし、宇宙の命運を掛けて注ぐ信頼が、私の上にあったことも。

 たとえ貴方のその言葉が、絶対に叶わない言葉だと知っていても。

 ただ、その信頼が、その言葉が、何よりも嬉しい。

 

 

 

 そうして私は、エネルギーそのもの、重力そのものとなって、真の真空を引き寄せ、人食い鬼の蒼い光へ引き寄せられる。

 

 

 

「リュミエール!!」

「アンジェリーク! 危ない!」

 時空の激しい歪みに途切れた次元回廊の向こうで、白い翼の少女が手を伸ばしてくれたのも、それを引き止めてくれた人々がいてくれた事も嬉しかった。

 在るべき所で為すべき事を為してくれる、かけがえのない仲間たち。

 

 

 

 粒子加速器が至る所で壊れてゆき、他の破片や小惑星と共に、そして私とともに、アルゴールの膨張する光へ、その中のブラックホールへ堕ちていく。

 拡大しつつある真の真空は、その形を歪めながら、空間ごと私とブラックホールの重力へ引きずられ―――事象の地平線の中へ消えていった。

 ブラックホールの急激な形成と降着円盤の激しい運動によってもたらされた莫大なエネルギーは、蒼い恒星の地軸の先、南北の2つの極方向へ集中して、恒星の最後のひと殻を突き破り、ガンマ線バーストとなって宇宙の彼方へ走り出た。

 北極方向、天頂の、その先には連星惑星。

 ガンマ線バーストは、潮汐力で互いを煮え立たせてきたその2つの惑星の、生命を擁さぬ一方へと直撃した。光の筋の中に惑星は丸ごと飲み込まれ、一瞬にして粉々に砕け散り、見る間にその大半が蒸発し、残った僅かな破片はバーストと共に、遥か光年の先へ飛び去っていった。

 何十秒かのバーストの持続の後、光は消え去り、辺りに宇宙の穏やかな沈黙が戻って、残ったもう一方の惑星は、今は静かに、自転と公転の宇宙空間の旅を続けていた。

 その惑星上に在る、彼の存在と共に。

 

 

 時間と空間を越えて、そこまでを視た後、ようやく我が身を振り返った。

 アルゴールの蒼い光はもはや消え、宙域に数多あった破片も小惑星も尽く飲み尽くされ、巨大な質量の大半がそれと化したブラックホール・アルゴールと、僅かな降着円盤が残されていた。

 既に特異点の中へ消えた物々に幾分か遅れて、後はただ、どこまでも堕ちていくだけの私がある。

 ブラックホールの存在はその中心の特異点ただ一点のみの存在で、事象の地平線なんてものは実際には何も無い空間であり、ただ引き返せるかそうでないかの概念上の領域でしかないのだけれど、不思議とその時、そこがそれだと判った。

 私の情報が二度と外部へ戻れなくなるその境界を超える直前、最後に何かを伝えるべきか、少し考えた。

 

 こうなった事に後悔はない。宇宙を救えて、貴方達と共に在れて、幸せだった。

 …ああ、だけど。

 だけどひとつだけ、もしひとつだけ、遣り直せるのならば。

 

 

 ……猫のなき声が聴こえた時に、あんな事を言わなければ良かったと。

 

 

 

 そうして私は、事象の地平線を越え、全ての時間と空間が終わる特異点へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう、これで何度目の講義になりますかねぇ……」

 着席している二人の受講者を前に、ルヴァが遠くなった昔を懐かしむようにそう言った。

「今日で、私の講義は最後になりますでしょうか。宇宙の終わりについてです。

 宇宙に終わりは、あるのでしょうか。あるとしたら、どんな風に終わるのでしょうか。

 そしてその時、思考を持つ我々は、いつまで、どのように永らえるのでしょうか。あるいは、潰えるのでしょうか。」

 黙って聴いている、その二人の背中を、俺は少し離れた遠くから眺めている。

 ルヴァは沈黙し、何をどう語るべきかしばらく思案した様子で、そうしてから例ののんびりした口調で話し始めた。

「思考、とは、原理的に、何かしらの入力インプットに対する処理と出力アウトプットです。そしてまた、出力は別の系統への入力となり、処理と出力がなされる。これが思考の連続性です。」

 一度間を置いて、それから話を続ける。

「一方、宇宙の命運はというと、昔は2通り――いや、3通りというべきでしょうか。考えられていました。

 ご存知のように、現在、宇宙は広がり続けている。これは原初、宇宙が爆発的な拡大からその歴史を開始したことによります。この先に想定される命運は2通りです。宇宙がそれ自身の重力に引き戻され、拡大を止め、縮小に転じて、最後は極小の領域で特異点を形成し、その生涯を終えること。もうひとつには、重力から逃れて永遠に拡大を続け、どこまでも発散して、宇宙の歴史はその全ての星が燃え尽き、すべてのブラックホールが蒸発し、すべての粒子が対消滅するまで、そしてそれから先も永遠に空虚な状態で永らえること。

 この2つはどちらかが正解で、研究が進んだ現在は前者の縮小説の可能性が否定されつつあり、宇宙はどこまでも拡大していくと考えられています。

 これらとは別に、例えば真空崩壊などの激しい現象によって、突然に宇宙の歴史が遮断されること。これもまた、想定される宇宙の命運のうちのひとつです。

 そうならないように、私たち守護聖が、宇宙を護るべく尽力しているわけですが。」

 とうの昔によくご存じですかねぇ、こんな事は、と、ルヴァが少し恥じるように笑った。

「さて、そのような宇宙の命運の中で、我々の思考は、いつまで続くのでしょうか。

 思考とは入力に対する処理と出力。であれば、当然のようにその作業を行うためのエネルギーが必要になります。では、無限の思考を保つためには、無限のエネルギーが必要になる、と、そう思えそうですが、実はこれは正確なところではありません。

 思考とは、主観的な経験です。ひとつの思考の処理作業は、その主体にとってひとつの時間単位と認識される。もし宇宙がどこまでも拡大していくのなら、枯渇していくエネルギーに合わせ思考の間隔を長くし、もし宇宙が狭まってゆくのなら、収縮により溢れてゆくエネルギーに合わせ思考の間隔を短くすれば、原理的には有限のエネルギーで無限の思考を続けることが可能になります。ひとつの惑星の人類全ての思考を永遠に維持するために必要なエネルギーが、太陽の燃焼たった数時間分で事足りる、という試算も出ているほどです。」

 そこまで言って、ルヴァは少し困ったように笑って、小さな子供に優しく言い聞かせるように、言葉を選びながら話を続ける。

「ええ、ですからね、その……ええ、このままでもいいと思うんです。収縮する世界では、有限の時間であっても、無限の思考が可能になる。であれば、いつもの平和な聖地でずっと、永遠に、過ごしているのと、何ら変わりはない。きっと皆さんですね、心配していると思うんです。あなたのことを。だからこのままでも」

「ありがとうございました。ルヴァ様。」

 ひとつの背中が立ち上がった。

 ルヴァに、そして軽く振り返って俺に、穏やかに微笑った。

 

 リュミエール。

 

「もう、よいのです。ありがとうございました。駄目だとずっと思いながら、とても幸せで、ずいぶん永らえてしまった。

 でも、もう、終わりにしなければなりません。

 ここは私が作ってしまった、私でしかない世界なのですから。」

「リュミエール」

 もうひとつの姿――オリヴィエが、立ち上がって水の守護聖に堪らず声を掛ける。ルヴァの姿は、いつの間にか消えていた。

「オリヴィエ、貴方にも。ずいぶんと助けられ、それから、辛い思いをさせてしまいました。

 こんな世界であっても、…こんな世界なのに、」

 リュミエールは自嘲するように、少し唇を歪めた。

「私はオスカーと、二人で向き合う自信が無かったのだと思います。だから貴方をずいぶん頼ってしまった。私の中の貴方に。」

「そんな事、言わないで。それが私の望みだった。」

 オリヴィエはぽろぽろと泣いている。リュミエールは黙って、軽くオリヴィエを抱き締め、それからその腕を離した。

「ありがとうございました。」

 オリヴィエはリュミエールを見詰め、その泣き顔で俺を見、

「頼むよ、オスカー。」

 そして静かに歩み去っていった。

 

 世界の残りはもう、ずいぶんと狭くなっている。

 ごくほんのりとした灯りの下、二人だけになって、リュミエールが、俺の方を振り返った。

 唇が何かを言おうとし、そのまま迷って、それから微笑った。

 綺麗で、そして哀しい微笑みだった。

 

「……ごめんなさい。オスカー。何よりも、貴方に。」

 

 

 俺はゆっくり、口を開いた。

「この世界に気付いてから、考えていた。何故、こうなったのか。」

「…………」

 

「遣り直したかったんだな、お前は。最初の、シュレーディンガーの猫から。」

 

 リュミエールは再び微笑った。申し訳なさげに、そして自嘲気味に。

 

「愚かな事でした。あの時、あんな事を言った事も。この時にあって、もう一度遣り直したいと、そうして今度は貴方のように強く在りたいと、そう望んでしまった事も。」

 ああ、お前は俺になりたいと望んだのか。だからか。

 リュミエールは上目がちにこちらを見て、諭すように俺に言った。

「本当の貴方ならば、言葉を尽くして私を責め立てるところですよ。そこは。」

 それには答えず、俺は尋ねた。

「シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるか、ルヴァに尋ねられた時、お前が何と答えたか、覚えているか?」

「覚えています、もちろん。何度も後悔しましたから。貴方は?」

「思い出した。今。」

 リュミエールは黙って、断罪のような俺の言葉の続きを待っている。

 

「『猫は泣いています』、と。」

 

 リュミエールは俺の言葉にくすくす笑って、そして眉根を歪めて、涙を落とした。

 

 

 

『猫は泣いています。きっと。可哀そうです。箱に閉じ込めて、生きるか死ぬかの目に遭わせるなんて。』

 互いが守護聖に就任してからその最初のルヴァの講義の時まで、何事もなく普通の同僚として過ごしてきた俺たちが初めて大喧嘩をしたのは、そのリュミエールの言葉が切掛だった。

 「俺」が何を考えてのその喧嘩だったのか、詳しくは判らない。俺はこいつであって、「俺」ではないから。ただいかにも軟弱だとけなして「俺」が嫌いそうな言葉ではある。

 その徹底した判り合えなさに、リュミエールはただ絶望した。

 そうしてリュミエールと「俺」との接触は、それ以来、断たれた。

 

「申し訳なくて。……貴方の対たるべき私の、その弱さを当たり前のように曝け出してしまい。呆れられても当然ですよね。

 あんな事を言わなければ良かったと、そうしていれば、私たちの関係も少しは変わっていたのかと。ずっと後悔していました。ずっと。そしてまた、」

 リュミエールは目を閉じ、俯いて、涙を零す。

「弱い私は今になってこんな事を望み、「貴方」とは似つかない勝手な貴方を作り上げ、再び、貴方を貶める事になった。……すみません。」

「………」

 擁護の言葉は見付からない。それをしたい想いは十二分にもあったが、もはやこの場に至ってそれを尽くしたところで、結局はどこまでも一人芝居でしか無かった。

 それでも。

 

 

 少しずつ消えてゆく世界の中。

 

 

「それでも、俺はお前が好きだった。

 目が覚めても、ただそれだけは、否定しないでくれ。」

 

 お前と共に在った、俺の存在を。

 

 

 リュミエールは涙に濡れた目を見開き、再び溢れそうになる涙を堪え、そうして、微笑ってくれた。

 きっと、俺のために。

 それで良かった。

 

 

 

 

 そうして、俺は目を閉じ。

 

 

 

 

 

 

 ひとつ、深呼吸。

 

 そしてもうひとつ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと目を開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、目覚めた私は。

 

 

 

 

 

 

 彼の瞳のような、煌めきの。

 

 数多の星々に囲まれた虚空の、只中に在った。