シュヴァルツシルトの地平線を越えたものは、何であろうと、宇宙で最も速い存在である光ですらも、その重力から逃れることは出来ない。
貴方という存在に、もはや永遠に捕らえられた、私のように。
「……オスカー?」
…木漏れ日とともに、優しい声が降ってくる。
瞼を開き、膝を付いて覗き込むその水色の姿を目にした。
「…夢から覚めましたか?」
柔らかく優しい笑顔で、俺に問う。顔を少し傾け、肩から青銀の髪が流れ落ちた。
ゆっくり上半身を起こし、どうやら正午を過ぎたらしい、周囲の明るい光景を再度見回す。湖畔から立ち昇る煙と賑やかな歓声とが、昼食の用意の整ったことを知らせていた。
立ち上がり、同じく俺の傍らに立ったリュミエールと視線を合わせ、俺も微笑んだ。
「多分、まだ、覚めていない。」
目を軽く見開くリュミエールに、続けて言った。
「…今日はまだ、な。」
しばらく表情を変えずにいたリュミエールは、やがてゆっくり顔を綻ばせて、手を伸ばし、俺の頬にそっと触れた。細くて柔らかい、そのゆびさきの、温かさ。
あの新年の儀の、凍えるような雪の夜。
「……なんだか、とても不思議な気分です。…貴方が、こんなに私の近くにいるなんて。」
海の色の虹彩には俺の姿が映り、その瞳の奥の晦冥は宇宙の漆黒を映し出している。
俺も手を伸ばし、リュミエールの頬に触れた。唇が物言いたげに緩く動いた。
「あー! なんかやらしいことしてるー!」
メルが目聡くまたもや遠くからそう叫んだから、リュミエールに触れたまま湖の方を見、声を張り上げて返した。
「羨ましいか!?」
途端にきゃぁぁ、ぎぇーー、えぇぇえぇ、うおおぉ、と複数の声が上がり、俺もリュミエールも、堪えきれずに思わず笑い出した。
心ゆくまで、この世界を享受すること。
それが、今の俺の成すべき最大で最善の事だった。
『炎を消せ』
…彼の言葉は、何を指していたのか。
粒子加速器の本格稼働は、何を持ってしても止めなければならない。人類を、果ては宇宙を滅ぼす火を、それが牙を剥く前に絶対に消さねばならない。
けれど私達は、オスカーの存在を人質に取られたも同然だ。聖地側の怪しげな動きはすぐさまオスカーの身の危険となって彼に降りかかる。
あるいはそのオスカーの言葉は、彼自身の命を犠牲にしてでも、必ず成し遂げろ、という事なのだろう。彼の言葉、彼の事だから。
『お前にしか、出来ない事だ。』
そうだ。私ならやるだろう。誰が反対しても、何があったとしても、それが何よりも彼の望みであるのなら。
宇宙の存在と同じ重みで、彼の信頼が私の上にあったのだと、こんなにも永い間、彼と果てしなく隔たり擦れ違ってきたのに、今この時に初めて気付かされて涙が出そうだった。
だが泣く暇も、立ち止まる暇も一瞬たりとて無い。命を懸けた彼の信頼があるからこそ、だからこそ何があってもオスカーを救けると決めたのだから。
考えろ。宇宙を護る方法を。オスカーを救う方法を。
オスカーの命が相手方に握られている以上、救出に至るまでの事は一瞬で片付けなければならなかった。この点で宇宙艇を使う方法は検討外だ。聖天使の任務も終わりに近付いているが、いかに最新鋭の高速艇を使用したところで、惑星に接近し、着岸し、オスカーの下へ行く行程は余りに悠長過ぎて、とうてい彼の身の安全を保証できるものではない。
となれば、女王陛下の御力をもってして次元回廊を惑星へ開くしかない。これを妨げるのが惑星の活発な火山活動で、起伏が激しく、また溶岩とともに地中から吹き出る水蒸気の蓄積のため海洋に富み、平坦な土地を極端に欠き、国家間に争いをもたらす、それら全ての原因だったが、この火山活動には成因となるこの惑星特有の理由があった。
惑星のごく近傍に、生命体は無いもののこの惑星とほぼ同格の大きさの連星惑星があり、両惑星が近距離で強く引き合っているために生ずる甚大な潮汐力が、まるで煮立ったスープのように惑星の地殻を乱し、熱を生じさせているのだった。この連星さえ無ければ惑星の火山活動も地殻も地磁気も何もかもが安定し、女王陛下はオスカーのすぐ横にでも次元回廊を開くことができるだろう。
(だが)
いかな女王陛下、いかな守護聖といえども、惑星まるごとひとつをどうこうするというのは思考の埒外だった。惑星に対するサクリアの作用は時間を掛けて浸透するものであって、宇宙の真空をその質量で捻じ曲げながら動き続ける巨大な塊の前では無力に等しい。
『炎を消せ』
彼の言葉が脳裡で再生する。
私を見据える、その瞳。
その氷青色の瞳の色が、アルゴールの燃え盛る蒼い炎の光と重なった。
心が跳ねた。
(……まさか。)
瞬間的に星図を頭に思い浮かべ、条件が全て整っていることを確認して身体が震える。
恒星アルゴールの自転の軸、すなわち地軸が件の惑星の方向へ向いていること。
と同時に、真空崩壊を避け、粒子加速器を安全に消滅させる、最も単純な方法。
シュヴァルツシルトの地平線。
いかにサクリアが、巨大な岩の塊に対して無力であっても。
それより遥かに莫大な質量を有するものが対象であれば、ほんの少しの作用を与えてやるだけで、それ自身の重力そのものが容易に一連の反応を引き起こす。
特異点は、ただひととき、ただ極小の一点に在りさえすればよい。後は重力が、宇宙のその他のあらゆる力を圧倒して、質量を崩壊に至らしめる。
そしてその過程において、莫大なエネルギーを放射する。
脳内でもう一度条件と状況を洗い直し、
「エルンスト!」
私の上げた声で皆の注意が一斉に集まる中、エルンストにその案を手短に提案し、実現可能性について問うた。
エルンストは暫く、彼にしては随分長く絶句し、
「……少し…計算させてください」
即答を避けた。すぐに机上の端末に向かう。
「手伝うヨ」
いつの間にか、こちらの宇宙に来てくれたらしいレイチェルがエルンストの横に座った。
室内を見回す。オスカーを除く神鳥の宇宙の守護聖、幾人かの聖獣の宇宙の守護聖、補佐官、女王陛下。
「危険です、リュミエール。オスカーが、ではなく、それを実行する者が、です。」
ロザリアが私に近付き、流石のひとと言うべきか、声は冷静を保ちつつ、しかし青褪めた顔は隠し様なくそう意見を述べた。
「判っております、ロザリア。元より余人に任せるつもりはありません。」
「リュミエール、勝手はならぬ」
「リュミエール様」
複数の発言に被さってその後に続いたのは、夢の守護聖の声だった。
「言っても無駄でしょ。この子の強情さは皆んな嫌ってほど知ってるでしょうに。」
オリヴィエ、と声を掛けたら、彼は私に笑顔を寄越した。いつもの彼らしい、この世界に大変な事なんて何も無いんだよ、と感じさせてくれる、軽やかな彼流の笑いを。
「その代わり、必ず帰ってくるんだよ。こっちはオスカーの馬鹿をとっとと連れ戻して待ってるからさ。」
私は、ただ微笑って応えた。
「エルンスト」
そうして、席から立ち上がった彼に声を掛ける。
「可能です。」
それが彼の回答だった。
喰って、飲んで、喋って喋って、笑い、軽口を叩いて、罵り、喰って、また笑って、戯れて、走って、湖に突き落とし、怒鳴られて、飲んで、笑い、引っ張られて、突き落とされて、濡れて、怒鳴って、また笑って――
そうして、陽が少しずつ傾いてゆき、少しずつ赤みを重ねてゆき。
あの太陽は、また明日の聖地で、いつもの夜明けを迎えるのだろうか。
それとも―――
「私たちがずっと危惧していたこと。真空崩壊について、お話ししたいと思います。」
室内の、限界まで落とされた淡い照明の下、地の守護聖は語り始めた。
「真空、とは、宇宙を構成する最も単純な空間。一般に、ただ何も無い場所、と解釈されていますねぇ。しかしながら、えー、一番最初の講義でしたでしょうか、」
ふたつの姿へ、問うように、思い出すように語り掛ける。
「不確定性原理により、とても小さな領域、ほんの短い時間であれば、何もない空間から様々な素粒子がエネルギーを得て生成され、また消えてゆく。何も無い空っぽの空間のように見える真空も、微小領域ではそのような仮想粒子が生まれては消えてを繰り返す、沸き立つような世界であると考えられています。
これらの真空は、一時的にエネルギーを得てはまた元の、『ただの』真空に戻る。……では、ですね、」
地の守護聖は、問うた。これまでの、いつもの彼の講義のように。
「我々が現在、存在しているところの、この『ただの』空間は、本当に『ただの』空間なのでしょうか?
一時的にエネルギーを得ては崩壊する、その、一時的、が極端に長いだけの、『仮の』空間である可能性は?」
理解を待つように、地の守護聖は時間を置き、口調をやや改めて再び話し始めた。
「一時的に安定しているものが、長い時間の後に崩壊すること。これは何も、珍しい特殊な現象ではないのです。
例えば、放射性崩壊です。例を挙げれば、ウラン238。これは陽子が、ええと、92個に、中性子が146個から成る元素ですが、たいへん重い元素のため、陽子・中性子同士の結合に不安定性があり、その不安定性がある一定のラインを超えた時、トリウム234とヘリウム4とに崩壊します。
その期間、すなわち半減期は約45億年。
ウラン238のうち半分は45億年より前に崩壊しますが、残りの半分は45億年経っても何ら変わりないウラン238のままなのです。とても長いですよねぇー。ある期間を切り取れば、ずっと安定して存在している元素とみなされるかもしれません。」
地の守護聖の口調は、こんな時であっても静かで、長閑ですらある。
「あるいはまた、原子スペクトル、です。
えー、ご存知のように原子とは、陽子と中性子から成る原子核の周りを、電子が巡っている、という構造のものです。電子は普通、基底状態と呼ばれる最もエネルギーの低い軌道を巡っていますが、外部からエネルギーを得るとそれを吸収し、一時的に高エネルギーの軌道へと遷移します。励起状態と呼ばれるものです。
この状態、励起状態で原子はしばらく安定している。しかしやがてある時に、電子のエネルギーのゆらぎが境界を越えると、安定した時間は終わりを告げ、遷移状態から基底状態への差分に相当するエネルギーを光として放出し、原子は元の基底状態に戻ります。この遷移状態から基底状態へのエネルギー差分が原子ごとに異なるため、原子はそれぞれに特徴的な波長の位置での強度を持つ光、すなわち輝線を示すのです。これが、原子スペクトルです。一部の金属元素では、この原子スペクトルが、各々の元素に特徴的な炎色反応として観察されるんですよ。」
聞き手の二人は沈黙を重ねている。一見和やかな、その話の続きを待つ、あるいは恐れるように。
「同様に。……私たちが住んでいる、この宇宙、この空間そのものも。真に安定した基底状態ではなく、準安定的なだけの励起状態が、ただずっとずっと長い間続いているがために、そうとは気付かれていないだけではないのかと、そう考えられています。
たとえこの真空の安定が、仮の安定であっても、それがこれまでずっとずっと長い間続いてきた、それもその真空の中に、恒星の核融合反応ですとか、ブラックホールの形成ですとか、そういう激しい反応を幾つも抱えていながら空間そのものはずっと存在し続けてきたわけですから、仮だとしても相当に安定しているとは言えますよねぇー。
ただ、どれほど高いエネルギーの下でも絶対に安定している、とは、言い切れません。
……極端に高いエネルギーが、例えば、粒子加速器などによってただ一点に極大のエネルギーが集中すれば、そのエネルギーにより、現在の励起された真空が準安定状態を越え、基底状態の真の真空へと相転移する可能性が指摘されているのです。
これが、私たちの恐れている、真空崩壊です。」
地の守護聖は、それを限りに沈黙した。しかしやがて再び、静かにその語りの先が続く。
「励起状態の真空が崩壊し、基底状態の真空になると、どうなるか。
どちらの真空も、ただ何もない空間、というのは共通しています。
しかしながら、励起状態の真空が崩壊して基底状態の真空が現れた途端、基底状態の真の真空は周囲の励起状態の真空を次々と巻き込んで連鎖的に崩壊させ、それまで空間に在ったいかなる物質をも、その相転移の狭間で消滅させながら、光の速度で宇宙中に広がる、と。
…まるで、ただ一点に生じたブラックホールの特異点が、後は重力の任せるままに辺りの全てを飲み込み、破壊し、光ですらも二度と外部へ出ることの叶わないシュヴァルツシルトの地平線の中へ完全に消し去るのと同じように、
……いえ、真空崩壊の方が遥かに悲劇的ですねぇ。なにしろ、それ自身は動かないブラックホールと違って、真の真空はいかなる限界も境界も無しに宇宙の全てへ拡がり、宇宙の存在そのものが、真の真空の泡の中へ全て消え去るのですから。
そのようにして、真空崩壊は現在の宇宙そのものを消滅させることになると、そう考えられています。」
辺りの景色は夕焼けに包まれ、空は地平線から遥かに駆け上がる赤から紫紺のグラデーションを描き、天頂は宇宙本来の漆黒の色を帯び始めた。
皆は昼の間に散々食べて騒いで、夜は夜でエルンストが肝煎りで手配してくれたイベントが控えているから、それまで軽食で済ませつつ光の守護聖の別荘の室内で思い思いに寛ぎ、何人かは体力を使い果たして仮眠を取っている。
少し冷えてきたけれどもまだ暖かい風の吹く草波を歩き、坂を登って、その場所に辿り着いた。
見下ろす湖面には、没みつつある太陽から反射する幾千もの光の煌めきが絶え間なく踊り続けている。
リュミエールの後ろ姿は、長い間、没みゆく陽と湖の煌めきを見続けた後、やがてゆっくりと空を見上げた。
「星が見え始めたな」
「ええ。」
俺の気配に気付いていたリュミエールに歩み寄って横に並び、俺も宇宙を見上げた。まだ蒼みの残る天空に、輝き始めた小さな光たち。
その光の名前を、ひとつひとつ思い出す。恒星、あるいは星団、あるいは銀河、銀河団。
「小さな光。…それは星であったり、星団であったり、銀河であったり、銀河団であったりしますけれど。
私たちを擁する広大なこの惑星、それを擁する更に広大な恒星系、その恒星の集合であるところの星団、更には銀河、果ては銀河の集まりである銀河団。
……気が遠くなるようなその広大な光の集まりが、あのほんの小さな光であることも。
銀河団の中の数百、数千個の銀河の、その中のたったひとつの銀河、その中の千億の恒星のうちのたったひとつの、更にひとつの惑星、その中の小さな小さなこの場所に、」
視線を下ろしたリュミエールと、見詰め合った。
「貴方とふたり、こうやって共に在ることも、とても……」
不思議ですね、と言おうとしたのだろうか。
言葉を続けようとした唇は、それ以上動かなくなった。
「今日は楽しかったか?」
代わりに、俺が尋ねた。リュミエールは軽く目を見開いて、それから綺麗に笑った。
「ええ。とても。本当に、ありがとうございました。オスカー。」
憂いのない、純粋なその瞳。
もし、願いが叶うのなら。
「もし、…お前が望むのなら、」
リュミエールの手を取った。温かい掌。表情が軽い驚きに変わる。
湖から風が吹いて、リュミエールの長い青銀の髪が舞った。
「このまま、この暖かい世界で、お前と二人、こうやって共に在りたい。…いつまでも。」
そう告白した。
目を見張るリュミエールの、心が跳ね、揺れる様子が、手に取るようにはっきりと判った。
そして、長い逡巡。俺の目を見詰めたまま。
この世界が、いつまでも在るのなら。
その長い時を、お前と二人で。
だがその深海色の瞳は、やがて静かに伏せられて。
「……ごめんなさい」
穏やかな声音は悔恨の色を帯び、俺にそう告げた。
緩やかに、暖かい風が再度吹いた。
「……判った。」
「…すみません」
「謝るな。そうじゃない。確信した、という意味だ。」
弾かれたようにリュミエールは顔を上げ、俺を見て、そうしてからまた目を伏せた。
「……ごめんなさい」
紛れもない、罪の告白。
「謝るな」
緩く抱き寄せて、頬に手を添え、その唇にキスをした。
一度きりの、触れるだけのキス。少しだけ長く。
リュミエールが細く、ゆっくりと息を吐いた。
唇を離し、腕の中にその身体を囲う。滑らかな髪に顔を埋め、視線を上に伸ばせば、もうほとんど陽の沈んだ空に、さっきよりも数を増した星々の光。
風は相変わらず、暖かく。
「もう少しだけ、……このままで、いさせてくれ。」
リュミエールは少し冷えた身体を震わせて、それから俺に身を擦り寄せた。
それもまた、ただ一度きり。
この暖かい世界は、お前の存在があってこそ。
何もかもが暖かく優しい世界の中、腕の中のリュミエールだけが、実在の仄かな冷たさを持って存在していた。