「まるでオスカーのような事をするのだな。そなたが」
「―――」
私は少し逡巡してから、伏せていた瞼を閉じて頭を振った。
四方八方から私を覆う、圧力さえ感じそうな程の光の中で。
あの時は、私もそう思ったけれど。
ただの錯覚だったのだ。
私の想いが、彼のそれと一致するなど。
最初から、一欠片も在り得ないことだったのだ。
光の守護聖の執務室は、白を基調とし、女王への敬意を表す金の配色がふんだんに施されている。窓は可能な限り広く取られ、そこから差し込むのは常春の聖地の柔らかい日差しであるはずなのに、この室内へ入った途端、有無を言わせぬ荘厳な光のユニゾンとなる。
恒星アルゴールの、彼の瞳のように何もかもを飲み込もうとする蒼い光とも異なる、それ。
オルバースの二律背反の、途方もなく明るい夜空が本当に存在したならば、こんな感じなのだろうか。
どこまでも続く、無限の星々が満ちる無限の宇宙――。
視界を覆い尽くす圧倒的な白い世界の中、背反者たる私の存在が未だここに在るのかどうかすら、もはや定かではなかった。
「……そなたの考えは、判らなくもない。万一の事が起こった時に宇宙へ齎す影響の甚大さを考えれば、今のうちにあの建造物を破壊してしまうのが賢明なのかもしれぬ。
だが、いかな理由があるとは言え、この度の視察における女王陛下のご意思に背く行動であったのは確かだ」
「仰る通りです。異論はございません。」
目を閉じたまま頭を垂れて、光の首座の言葉を受ける。
彼は黙したきり、ただ、私に投げ掛けるその視線だけを感じた。私の真意を測りかねているようだった。
「……自邸にて謹慎を命ずる。遍く宇宙を慈しむ陛下の御心について、よく考え直すように。」
無言で、深々と一礼した。
そして身を翻し去り掛けた半ばで、いささか私を宥めるように、光の首座が言葉を発した。
「オスカーも、そなたを止めるためとは言え、守護聖が軽々しく守護聖に刃を向けるとは。あやつにも、相応の注意をせねばな。」
足を止め、ゆっくりと振り返った。
いかに首座の言葉といえども、それは聞き捨てならない事だった。
「オスカーは、私の愚行を止めてくださったのですから。どうぞ咎めの無きよう、お計らいください。
何卒、この身に代えましても、重々お願い申し上げます。」
先程までとは打って変わって力の籠もった私の声音に、彼は軽く目を見開き、そして黙って頷いた。
「……おい?」
訪れた部屋の奥、明るい窓際の溢れる陽の中で、セイランが妙なものを描き続けていた。
一抱え以上もある真っ白いキャンバスに、真っ白い絵の具で描かれる無数の点。惜しげもなく絵の具を使うのはいつもの事だが、この絵の白い点のひとつひとつは、またことさら立体的に盛り上げられている。
「何だ?これは」
「オルバースの夜空ですよ。」
「はぁ?」
「おや、炎の守護聖ともあろう方がまさかご存知ないんですか? オルバースのパラドックス。」
「いや、そりゃ知ってはいるがな。」
「興味深いじゃないですか。無限に続く星々が創り上げる、太陽のように輝く全天の夜空、なんてね。実際に目にしたら、どういうものなのかなと思いまして。」
「で、描いてみた感想はどうなんだ?」
「そうですね……」
感性の教官は陽を受ける目の前のキャンバスを眺め、しばし考えてから、言葉を続けた。
「ここの聖地の光じゃ、鑑賞するには柔らか過ぎますね。全天が太陽のごとく熱く明るく輝くオルバースの夜空の中で見てみたいってところです」
「それじゃ堂々巡りじゃないか」
呆れて返した。
全く、芸術家のする事はよく理解出来ない。芸術家がと言うより、こいつ自身の個性によるものだろうが。
学芸館の広間のようなこの部屋は至る所にガラス窓が嵌め込まれていて、ちょっとしたサンルームのようになっているところを、誰が持ち込んだのか大小様々な観葉植物が所狭しと配置されている。
「あの、結局、オルバースのパラドックスとは何なのでしょうか。」
唐突に声がして振り向いた先では、そんな植物の葉と葉の間に埋もれるように赤錆色の髪が見え、一人掛けのソファの中でその大きな身体をいささか居心地悪そうに竦める姿があった。
「なんだ、お前も居たのか、ヴィクトール…そこで何してるんだ?」
「はあ、ここを通り掛かってから、そのパラドックスとやらが何なのかをセイランに何度か尋ねても、軽くあしらわれるばかりで。」
首を伸ばして視線をずらせば葉陰の更に隣、青い羽飾りを髪に差したエキゾチックな王太子も座っている。
「よう、ティムカ。お前も知らないのか?」
「白亜宮の惑星に居た頃に一応は学びましたが、セイランさんが仰らないものを、僕ごときが口出しするのもどうかと思いまして。」
にこにこと温厚なようで、こいつもなかなかに食えない性質だ。
「お二方とも、こんな調子で。去るにも去れず、どうしたものかと」
子供のように困惑して頭を掻くヴィクトールの、その視線方向ずっと先の開いたままのドアの向こうに水色の姿が見え、俺の心臓が跳ねた。
「ごきげんよう、オスカー、セイラン。…おや、セイランは制作中ですか。」
リュミエールはそう言って紫紺の髪の芸術家の方へ歩み寄り、キャンバスを覗き込んだ。その表情も、声色も目線も穏やかで、一瞬俺の胸を過った暗雲が、この室内の柔らかい陽のように緩やかに晴れる。
夢の中で軟禁状態となったリュミエールはあくまでも夢で、そもそも夢の中のリュミエールはこいつではなく俺自身であるのに(面倒な話だ)、それでもやはりこうやってその姿を目にすると、紛れもない安堵感が胸を満たす。
リュミエールは絵に目を遣ったまま、しばし沈黙した後で
「…オルバースの星空ですか?」
と顔を傾け、セイランに尋ねた。
「ご名答。どうして判りましたか?」
「無数の円が、すべて白い真円であること。円の直径が半分になると、その個数が4倍の割合で増えていること。それから、一見同じように見える白い真円ですが、素材と技法の異なる円が、大小にかかわらず入り混じっていること。そんなところでしょうか。」
「種類があるのか?」
「そうですね。顔料としては、チタニウムホワイト、鉛白、炭酸カルシウムは胡粉でしょうか、白亜でしょうか、…この少し違う感じのものは、ひょっとして珪砂ですかね? 固着剤には、樹脂、乾性油、テンペラ、蝋、膠。」
「流石ですね。その流れるような解説で、そちらの憐れな方へオルバースのパラドックスについても説明してあげていただけますか?」
ひらりと舞わせたセイランの手の先を振り返り、相変わらずの困惑顔のヴィクトールとリュミエールとが顔を合わせ、ティムカが浅く頭を下げて一礼した。リュミエールが軽く声を立てて笑う。
「失礼しました。貴方方もいらっしゃったのですね、ヴィクトール、ティムカ。オルバースのパラドックスはご存知ありませんでしたか? ヴィクトール。」
「申し訳ありません、不教養なもので」
立派な体躯がリュミエールの前でますます縮籠るように見えた。
「そんなことを仰らないで下さい。ずっと王立派遣軍の任務に一筋でいらっしゃったのですから。」
そう言ったリュミエールはヴィクトールの方へ歩いてゆき、手袋に覆われたその右手を取り、そいつに向かって緩く微笑んだ。
おい、なんだか妙に近付きすぎやしないか? こら。
リュミエールはヴィクトールの手を取ったまま、低く詠うように言葉を続ける。
「貴方がこれまで幾度となく航ってこられた、漆黒の宇宙。
……では、宇宙は何故、輝く星々が数多在るにもかかわらず、漆黒なのでしょう。その理由がおわかりですか?」
おそらく疑ったこともないであろう事実を唐突に問われ、ヴィクトールは案の定、ぽかんと呆気にとられた。ようやくしてから気を取り直し、リュミエールに手を取られたまま、姿勢を正して返事をする。
「あ、その。それは、宇宙があまりに広く、星があまりに疎らだからではないでしょうか。」
「宇宙は広い。星は遠く離れている。そうですね、その通りです。しかしながら」
リュミエールはそこでようやく精神の教官の手を離し、その手を明るい空へ掲げた。
「宇宙に星が均一に存在するのなら、我々の近くに、たとえ星がひとつしか無かったとしても。その倍の距離、面積として4倍に相当する球面上には、4倍の数の星が。3倍の距離の先、面積として9倍に相当する球面上には、9倍の数の星々が。4倍の距離には16倍の星々が。そうやって、全天にはどこまでも、無数の星々が存在するはずなのです。」
「遠くの星々は暗く見えるのではないですか?」
「星の明るさは距離の2乗に反比例しますから、2倍の距離にある4倍の数の星々がそれぞれ4分の1の明るさで輝くのも、3倍の距離にある9倍の数の星々がそれぞれ9分の1の明るさで輝くのも、同様にして遥か遠くの無限までもが、掛け合わせればすべて同じ光の強度になります。つまり宇宙は、どの方向も、均一の明るさで満たされていなければならないのです。計算すれば、すべての方向が太陽のごとくに熱く明るく輝いていることが容易に求まります。」
「ほう。しかし実際の宇宙はそうなっていない、と。」
ヴィクトールが顎に手を当てて考え込む。奴なりにこの命題の解決を探ろうとしている様子だ。
「では、宇宙空間に光を遮るような物質が存在すると考えてはどうでしょう。もしくは、宇宙がどこまでも続くという前提、均一であるという前提が誤りで、限りや偏りがあるとすれば?」
リュミエールが微笑んだ。出来の良い生徒を誇るように。
「良い回答ですね、流石です。…ですが、幾らか問題がありまして。暗い物質が光を遮り続けると、やがて吸収した光と同じ温度になり、星と同じように輝いて光と熱とを放ち始めるというのがひとつ。後の方で仰った、宇宙に限りや偏りがあるという考えにはさらに重大な問題点があります。」
「何でしょう?」
「重力です。宇宙の星々はひとつ残らずその全てが万有引力に支配されているがために、宇宙に限りや偏りがあれば、星々は質量の多い方へと途端に収縮を始め、たちまちのうちにその距離を縮めて、最終的にはただの一点に崩壊してしまうのです。ブラックホールのように。」
「ああ、なるほど。」
「宇宙が無限であるとすると、夜空は真昼のように明るい。宇宙が無限でないとすると、途端に崩壊する。これが、オルバースの二律背反です。…さて、では、何が誤っていて、何が正しいのでしょう?」
腕組みをしたヴィクトールの、傾げた首の角度が深くなる。しばらく考え込んでいたが、やがてヴィクトールは腕組みを解いて溜息を付き、笑ってリュミエールへ軽く両手を広げた。
「降参です。正解は何なのか、教えていただけますか? リュミエール様。」
水の守護聖は目を細め、穏やかに微笑った。
それはすべてを諦めたようでありながら、あまりに自然で、温かく、美しい笑顔だった。
「宇宙には限りがあり、時には限りがあり、光にも限りがあること―――それが、この宇宙の法則です。」
そう言って天から差し込む陽の光を見上げ、再度その手をゆらりと掲げる、その指先から紗のような、星屑のような細いサクリアが流れ出た。
「すべての光は、有限の速さで疾走ります。すなわち、ここへ届いた光は、今この時の姿でなく、過去の輝きなのです。」
夢の中、リュミエールの指先から、漆黒の中に零れ出たサクリア――
あれは、誰の? 俺の? あいつの?
「1億光年先の距離から届いた光は、1億年の昔の光。10億光年先の距離から届いた光は、10億年の昔の光。もし宇宙の現在の年齢が100億年であるのなら、100億光年より先の光を見ることは出来ません。何故ならそれより遠くの光は、未だここまで届いてはいないのですから。」
溢れる光の中で、詠うような声は続く。
「故に星の光は、無限とは成り得ず、宇宙は漆黒の背景と有限の星々で彩られる。これが、答です。
永遠は、いつか、どこかで、必ず否定されなければならないのです――たとえ貴方が、どれだけ永遠をこの世界へ顕現しようとしてくださっても。セイラン。」
唐突に声を掛けられた紫紺の髪の教官は、先程までの沈黙と明らかに異なるニュアンスで押し黙った。
リュミエールが視線を明るい空から下げ、淡い瞳で感性の教官を見遣る。
「リュミエール様」
ティムカが耐え切れずといった風に、気遣わしげにリュミエールへ声を掛けた。
「……貴方は優しいのですね、セイラン。とても。」
「買い被り過ぎですよ。」
セイランは外方を向いたまま、リュミエールと目線を合わせない。
「というか、そこまで理解していらっしゃるのに、優しさを司る水の守護聖様のはずが、随分とまあ、夢を壊すようなことを。」
「夢を壊す、確かに。」
何が可笑しいのか、リュミエールは楽しげに暫く小声で笑った。
そうして笑い収めると、静かに目を閉じて、その表情に、ゆっくりと痛みを滲ませた。
「そうあらねばと、思います。……そうであらねばならなかったのです。本来ならば。もっと早くに。」
漆黒の宇宙の満天の星空の下、庭先へ出た。
冷え切った空気の中、天頂を見上げれば、あの日よりも早くに中天へ昇ったその小さく淡くも鋭い輝きがある。
ミザル銀河系。
あの銀河の光の中では、未だ敵意と憎悪とが渦巻き、その意志が着々と例のものの建設を推し進めている。
どうか争わないで。憎しみを誤った方向に向けないで。
目を閉じ両手を広げ、私から流れ出た水のサクリアは、天へ昇る途中で力を失って霧散する。
宇宙はあまりに広く、星はあまりに遠く離れている。永遠を思わせるが如くに。
未だ謹慎の身で、星の間への出入りは赦されていない。
優しさを届けたくとも、ここからでは無限とも思えるほどの隔たりがある、それでもなお意識を集中させる。
あの銀河の光の中。あのアルゴールの蒼い光を意識に思い浮かべ。
長い時間、身体が冷え切っても。一心に。ただ一心に、このサクリアを。
だから気が付かなかった。近付く人影に。
唐突に背後から腕を廻されて、けれど驚くより先にその熱い気配の正体に思い至り、それから同調を図ろうとするその意図に気付いたから、再び目を閉じて集中を続けた。
彼の扶けを得て、その炎の熱さが私の中へと流れ込む。漆黒の世界の中、閉じた瞼の裏で、視界が白熱する。オルバースの夜空のように。
私から溢れ出る水のサクリアが、一筋、二筋と、そして後から幾筋も幾筋も、星屑のような軌跡を描いて、天の高みへと駆け上っていった。
どうか優しさを。そして彼のような強さを。
……どれほど、そうしていただろうか。
身動ぎすらもしない彼の腕の中、背後から囲われたままの私の身体が熱い。
肩口に埋められた顔、髪。密やかに繰り返す呼吸。
片手だけ、あの指が、抱き締める位置からゆっくり私の腕を上り、微かに首筋を撫ぜた。それから髪を、一筋、梳いた。
離れてゆく最後の瞬間、耳元に触れた、唇の感触。
彼の気配が完全に消え去っても、長い間、動けなかった。
その熱が去り、もう一度身体が冷え切ってしまうまで。
彼の残酷さを思い知ったのは、未だこの身の謹慎の解かれない中、彼がかの惑星へ直接視察に向かうと人伝てに知らされた時だった。