■ ハイゼンベルクの不確定性原理

※黒背景の解除はこちら

「それでは、先週の宇宙の動向について王立研究院よりご報告申し上げます。」

 

 週明けと同時に、聖地は平常執務に戻った。いつものように週始めの御前会議の冒頭、エルンストの報告の声が流れる。

 年末年始の宴の余韻など、もう何処にも無い。

 もちろん、いつもと同じように私の正面に着席している、彼と私の間にも。

 

「先月から崩壊が進んでいた識別番号シリアルナンバー0593492−004388712、固有名称タウ銀河系恒星サンドゥリークですが、先週木の曜日に事象の地平線を認め、ブラックホールの形成が確認されました。以後ブラックホール・サンドゥリークと呼称されます。超新星爆発前の質量は約103単位恒星質量、ブラックホール形成時の質量は約54単位恒星質量、ホーキングの絶対温度は0.00000000115度、シュヴァルツシルト半径は約159kmです。

 その他にブラックホールの形成が確認された主な恒星と爆発前の質量について申し上げます。イザル銀河系恒星タラゼット、約83単位質量。ルクバー銀河系恒星フェルカド、約78単位質量。アゼルファファジ銀河系恒星カーフ、約62単位質量。カイトス銀河系恒星フォマルハウト、約56単位質量。その他5030単位恒星質量の恒星13個に関してブラックホール形成を確認しております。

 以上の恒星について各々の識別番号、固有名称、爆発前の質量、ブラックホール質量、絶対温度、シュヴァルツシルト半径を配布の資料1に詳記してあります。ご確認ください。

 次にフェクダ銀河系恒星アリオトを始めとして以下142個の恒星に関して新たに超新星爆発を観測しました。うち19個の恒星については数か月以内にブラックホールを形成するものと予測されます。その他52恒星に関しましては限界質量を超えており中性子星に、残り71恒星に関しましては星間ガスを形成するものと思われます。詳細は添付資料2をご覧下さい。

 また資料3にありますように、361個の小恒星につきましては、膨脹期を超え白色矮星への移行を認めております。

 以上全ての恒星系に関しまして、その支配惑星における生態系は発生してないか、もしくは他星系への移住を完了していることを王立研究院側で確認しています。

 恒星系の報告は以上です。」

 

 年始であろうが平時であろうが、エルンストを始めとする王立研究院のメンバーの仕事は丁寧で秀逸で変わりない。

 恒星は崩壊を続けるし、それによって生成される莫大な量の残渣は新たな星雲を作り出し、再び億万の生命を育む揺籠となる。

 

 ハイゼンベルクの不確定性原理は、宇宙に起こる大なり小なりの事象の揺らぎの幅を収束させ、結局はひとつの最も在り得るべき道へとその運命を導く。

 

 私のこの矮小な身に、一時の、些細な出来事が起こったとしても。

 何も、何一つ、宇宙は変わりなどはしないのだ。

 

 ――彼と私の、その決して交わることのない運命も。

 

 当たり前すぎる事実に、思わず小さく笑ってしまった。

 

 エルンストの報告に従って、資料のページを繰ってゆく。合間にふと顔を上げれば、歳若い同僚たち、特に風と緑の守護聖は必死になって報告書の文章を追っている。

 その純粋な直向ひたむきさに、自然と笑みがこぼれる。

 なんと彼らは、真っ直ぐにのびやかで美しいのだろうか。

 

 自分の身を省みて、笑みに自嘲が混じる。

 私はそっと、再び資料の束に目を落とした。

 

「次に惑星系及びその文明の動向についてご報告申し上げます。……」

 

 ……軽く目を見開く。

 

 繰っていた資料の間に見つけた単語。

 

 

 ―――ミザル銀河系 恒星アルゴール―――

 

 

 ……報告を続けるエルンストの声も、周囲のページを繰る音も聞こえなくなる。

 目の前の文字と数値の羅列も、あっという間に意識から排除されてゆく。

 

 ――そして代わりに視界一面に広がる光景は。

 

 

 それがあの日の曙に見上げた天頂の銀河であったと、そう気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっと、オスカー様ったら聞いてる!?

 明後日の方向に飛んでいた俺の意識は、レイチェルのその声で現実に引き戻された。

 慌てて頬杖を離してそちらのテーブルを見やれば、久しぶりにこちらの宇宙へ遊びに来た新宇宙の女王と補佐官が不思議そうな顔をして俺を見遣っている。

 柔らかな日差しの青空の下、女王陛下の宮殿のテラスは暖かい風が穏やかに吹いていて、若くとも十分に魅力的なお嬢ちゃんたちとのデートにはうってつけの日和だというのに。

 レディたちをほったらかしにして、あまつさえこの炎の守護聖の隙を見せるなど、俺らしくもない失態だ。

 それもこれも、最近立て続けに見るあの夢の所為だ。今度オリヴィエに文句を言ってやろうか。

「なんだかオスカー様、お疲れみたいですけど……」

 栗色の髪のアンジェリークが心配そうに声を掛けてくる。

「ああ、済まない。最近夢見が悪くってな」

 俺の体調を気遣ってくれるとは光栄だ、と言ってウインクをひとつ投げてやったら、内気な彼女は候補生時代と同じように顔を赤く染めて俯いてしまった。

 とても宇宙ひとつをその白い翼に担っている女王だとは思えないが、それも彼女らしくて良いものだと俺は思った。

「へ〜、炎の守護聖サマをへこたらせる夢って。どんな夢なんですか?」

 レイチェルが興味津々な顔で聞いてくる。どんなことも気の済むまで追及する研究者肌の彼女らしいと言えば彼女らしいが。

「……いや、はっきりとは覚えていないんだが。目が覚めるとなんとも言えない嫌な気分にさせられる夢でな……」

 俺は曖昧に言葉を濁した。ふうん、と半分納得のいったような半分納得のいってないような顔でレイチェルが応じる。

 霞がかかったように夢の内容をはっきりとは覚えていないのは確かだが、全然覚えていないわけではない。だからといって夢の中で俺はリュミエールになってるようで、あまつさえ俺とヤッてました、なんてのはとても人に言える内容じゃないが。

 我が夢ながらどうしてよりによってそういうストーリー展開になるんだか、さっぱり判らない。夢を見ている最中にこういう疑問が沸かないのは全くもって不思議だが。

 俺自身もあまり追求したくない内容なので、すぐに意識の中の記憶を打ち消した。

「で、麗しのお嬢ちゃんたちは気になって気になって仕方がない俺の噂話でもしてたのかな?」

「もう、そんなのじゃありませんヨ!」

 素早く話を掏り替えると、聡明であっても純粋で世間馴れしていないレイチェルは、こちらの思惑通りに彼女ら本来の話を語りだした。

「アンジェリークが女王になったのはワタシだって自分の事みたいに嬉しかったんだけど、だって親友だからね♪、でもでもやっぱりなんか納得いかないところもあって、でもでもやっぱりなんかひどいよ〜、って話。」

「ああ、その話か」

 それなら以前にも何度か聞いたことがある。

 新宇宙の女王と女王補佐官として相応しい、これ以上はない程の固い友情と結束を見せる彼女らだが、レイチェルは未だにこの件に関して消化しきれない含むところがあるらしい。

 何だか微笑ましくて思わず笑ってしまった。

「笑い事じゃないですよ、オスカー様!」

 ますますむくれて頬を膨らませ、むきになって反論するレイチェルは、普段の優秀な女王補佐官の顔をひととき脱ぎ捨て、歳相応の初々しい少女に見えてとても可愛い。

 機嫌を損ねたらしいレイチェルを宥めようとして声をかける直前、背後からの別の声に俺の発言は遮られた。

「あ、アンジェリーク、レイチェル! いらっしゃい、よく来たね!」

「あ〜、どうかしたんですか? 大きな声を出して」

「けっ、またおっさんがつまんねぇ事言って揶揄からかってんだろ」

「本当なの!? ひどいよ、オスカー様!!

「……お前らな」

 多少脱力しながら俺が振り返ると、午前中にはまた合同勉強会をしていたのか、お子様3人組とその保護者がまとめてこちらへ近づいてきていた。気合を入れなおし、声に力を込めてその姿に反論する。

「おい、俺を何だと思ってるんだ、その発言は」

「…当たらずとも遠からず、でしたよね、今のは」

 聞かせる風でもなく小さな声でぽつりと呟くお嬢ちゃんは、内気な癖にこういうところが密かに恐い。

「ねぇ、みんなで何のお話してたの?」

 俺の位置でかろうじて聞こえた発言は、小さく肩を震わせて忍び笑いをしているレイチェルと俺以外には聞こえなかったらしく、マルセルがこちらのほうへ駆け寄ってきてそう聞いてくる。

「たまごが孵って新宇宙が誕生したときの話を、ね〜〜〜、アンジェ」

 勢いよく振り返って顔を向けられ、ね〜〜〜、の部分を意味深に伸ばされ、アンジェリークはちょっと困ったようにはにかんで小首を傾げた。

「ああ、あの時はアンジェリークの力の貢献が大きくて、結局それが最終的な女王試験の結果に繋がったんだよな」

 試験に勝った者と負けた者の両方を目の前に置いた状態でそう喋るランディは、一般にデリカシーが欠けると称される発言に走っているような気がするが、それを耳にするや否やレイチェルはといえば、

「そうなんですよぉ、それそれ!」

その発言に勢いを得たようで、矢継ぎ早に話し出した。

「だってだって宇宙のたまごってのは結局ビッグバンから発生した初期微小宇宙で、宇宙の創世なんてのは結局、宇宙全体の物質量から宇宙の広さ恒星の量からその光度果ては宇宙の寿命に至るまで、究極的には全てたまごの大膨張つまり宇宙生成学で言うところの『インフレーション』の制御にかかってると言っても過言ではないんですよ! だからワタシ王立研究院始まって以来の天才と称えられた頭脳を駆使して、何回も何回も何回も何回も重力方程式解いて、たまごに送るサクリアの配分からインフレーションの持続時間を何チックにするかなんてところまで計算し尽くして、そりゃもう完璧☆、ってくらいに準備したのにぃ、なのにこーのー子ったら!」

 宇宙の女王をこーのー子呼ばわりするレイチェルは、もはやすっかりヒートアップしていてそのことに気が付かない。

「宇宙の創世に関わる理論も方程式も宇宙生成学も量子力学も全然知らなくて、計算も計画も、な〜〜んにもしなかった癖に、ワタシよりも上手にたまごを孵すなんてっ、信じられない! もー守護聖の皆様方ワタシがどれだけ悔しかったかわかりますかっ!?

 そうレイチェルに力説されて水を向けられた年少組たちは、話の内容も実感もいまいち判らないらしく、困り顔で顔を見合わせたり曖昧に笑ったり約1名は相変わらずの仏頂面のままでいたりしている。

 彼らのその反応に、レイチェルは大いに不満顔を作った。

 俺も彼女の言いたい事はわかるが、実感として身に迫るものはあまり無い。それならばむしろ――

「ああ〜、貴女たちもよく来ましたね〜、ロ……」

「わかりますわ。……そのお気持ち、よ〜〜っくわかりますわよ、レイチェル。」

 そう、ゆっくり歩いてきて開口一番、レイチェルにそう答えたこの青い瞳の女王補佐官なら、身に沁みて良く共感できる感慨だろう。

「ロザリア様!」

2人とも、元気にしてた? 新宇宙の様子はどうかしら?」

「陛下! お久しぶりです!」

 午前の執務が少し長引いたのか、少し遅れて昼休みに入れたらしい金の髪の女王とその補佐官がやって来、彼女らに滅多に会えない新宇宙の2人は椅子から立ち上がってとても嬉しそうな顔をした。

 よく響く女の子たちの歓声は、澄んだ明るい青い広い空に良く似合う。

「でもロザリアったら〜、まだその事言うんだから〜〜」

 上目遣いで拗ねるように、あるいは甘えるようにロザリアの顔色を伺う、金の髪の女王。彼女らがまだ女王候補生だった時代、頻繁に見掛けた光景と少しも変わらない。

 ほんの少し前のことなのに、酷く懐かしく暖かい思い出のように記憶が蘇る。

「だってアンジェリーク、あなたったら」

 ロザリアもその表情につられたのか、昔馴染みの呼び方で親友の名を呼んでから、あら失礼、と右手で唇を抑えた。

「陛下ったら宇宙の育成に関して、あまりに何にもご存知なくって、わたくし試験中、何度勉学をご指導差し上げたことか。ルヴァにも何度もお手伝い頂いて。」

 あ〜うんうん、そんなこともありましたね〜〜、と地の守護聖は笑う。

「そもそもですわね、どうしてスモルニィ女学院が何故、女王候補生のための特別クラスを設置しているか、その理由をご存知ですか?」

 急に飛んだ(…と思った奴は思っただろう)話題に、ランディが首をかしげながら答える。

「……って、そりゃ女王になるための特別教育を受けてるからだろ?」

「それはそうですが、でしたらその内容はどんなものだとお思いになる?」

「えーっと……礼儀作法とか、宇宙の歴史とか?」

 そう答えたのは緑の守護聖だ。

「そんな優雅なものばかりでしたらよろしいのですけれど、そういったものはほんの少しだけで。実際のところは」

 そこでロザリアは言葉を止め、大きく息を吸い込んだ。

「宇宙の運行に関わる、一般相対性理論ジェネラル・レラティヴィティですとか超ひも理論スーパー・ストリング・セオリーですとか量子力学クオンタム・メカニクスですとか超大統一理論「スーパー・グランド」・ユニファイド・セオリーですとか、一般社会では全っ然役に立たない恐ろしく宇宙学専門的な分野ばかり勉強しているのですわよ」

 かくん、とランディとマルセルの膝が抜けた。

 考えてみればそうかという気もするが、知ってなければ確かに意外の極みかもしれない。

「ですから、女王候補生のクラスは一般クラスと分離されているのです。……アインシュタイン方程式の展開計算をごく普通の女子生徒に教えても仕方ありませんしね」

とロザリアは、当時の苦労を思い出したように深い溜息をつく。ちなみにアインシュタイン方程式の展開計算は普通にノートに書き出すと30ページや40ページは優に超える代物だ。

「わたくしそういったクラスの中で幼い頃から一生懸命に勉強して、完璧な女王候補と自他共に認められるまでに研鑚を重ねてきましたのよ。その努力の結果として見事女王候補に選出されたと思ってましたのに、いざ聖地へ来てみればライバルと紹介されたお方はなんにも知らない普通の女の子でいらっしゃって」

 ロザリアはちょっと拗ねたように隣の金の髪の少女へ視線を送る。その場の皆の視線を一身に受けた若い女王は恥じるように心持ち身を小さくした。

「試験が開始されてからも、守護聖方のサクリア……アップダウンストレンジチャームボトムトップ6つの香りフレーバーに、赤、緑、青の3つのカラー……それらクオークの複雑な複合体である守護聖方の9つのサクリアの、大陸への分布からその比率、各々の相互作用に至るまで全て計算して、その上で守護聖方にお願いしてフェリシアへとサクリアを送っていただきましたのに、結局」

 ロザリアは、さっきよりも一層深い深い溜息を吐いた。

「そういった類の計算など、な〜んにもなさらなかった陛下のほうが上手にエリューシオンの育成を進められて、次期女王が決まった時には陛下とお友達になれていましたから恨めしく思ったりなどは全然無かったのですけれど、陛下が即位してからもわたくし、どうして試験に負けたのかしばらく悩んだものですわ」

「そうそうそう! そーですよねっ、ロザリア様! もー信じられないっなんでふつーうの女の子のアナタたちの方が上手に育成しちゃうわけっ!?

 勢い込んでレイチェルが2人の女王へ詰め寄る。おいおいレイチェル、その態度は下手すると不敬罪だぞ。

 ジュリアス様がこの場にいなくて良かったと、俺は心底安堵した。

「だって……」

「だって……ねぇ、陛下」

 何とは無しに身を小さくし、顔を見合わせる宇宙の女王と新宇宙の女王。

「だって?」

 畳み掛けるように、レイチェルが言葉の先を求める。

 2人の女王はもう一度顔を見合わせた後、一堂のほうを振り返り、にこり、と、とても美しい表情で同時に微笑った。

 

「こうあってほしいと――」

「ただ、そう願うだけで――いいんだもの」

 

 示し合わせたような2人の女王の言葉に、2人の補佐官はこちらも図ったように揃って一瞬押し黙り、それから一対の大きな溜息を吐いた。

「それこそが、女王のサクリアの、本質とは言え――」

「なんか納得いかないもの、ありますよねっ、ロザリア様!?

 本人たちにとっては至極真面目な困惑は、しかし彼女ら4人の仲の良さを知っているだけにあまりに微笑ましく見えて仕方がない。

 俺が声を押さえてくつくつと笑っていると、恐る恐るといった感じでマルセルがルヴァに話し掛けるのが聞こえた。

「あの……ルヴァ様?」

「はい? 何でしょう、マルセル?」

 そこでマルセルはふと我に帰って周りを見回し、自分が何とは無しに皆の視線を集めていることに気がついたようだった。顔を赤くして身を縮込ませる。

「いえ、その笑われちゃうかもしれないからいいです」

「あら、そういうのはよろしくありませんわよ。笑ったりいたしませんから、仰って?」

 ロザリアに促されて、緑の守護聖がおずおずと口を開く。

「あの……僕、女王陛下の御力の本質って何なのか、実はまだ知らないんですけど……あの、時間の操作だけじゃない、って聞いただけで、」

「ああ〜そういえば最近は守護聖の実務に関連した話ばかりで、その話はこの間のまだ途中のままでしたね〜、うっかりしてました〜………ええとそうですね、でしたらこの昼食会が終わってからの午後の講義でお話ししましょうね〜」

「あら、それ、私も聞いてみたいわ♪」

 唐突に横から飛び込んだ台詞――金の髪の女王のその言葉に、ルヴァはそちらを向いて「はぁ?」と数瞬ぼけっとした後、慌てたようにぶんぶん首と両手を振った。

「いえその、陛下の前で講義するなんてそんな恐れ多い〜、いえいえそんな困ります〜」

「駄目? 私、昔の貴方の講義が懐かしくてまた聞きたいんだけど……」

 小首を傾げ、困ったような上目遣いで見上げられて、ルヴァはますます慌てて顔と手をぶんぶん振り回し、顔を赤くしてだらだらと汗をかき始めた。

「いえその駄目だなんてことは全然ありません、ああええとそのそんな哀しそうな顔をなさらないで下さい〜、いえあの、その私なんかのつたない講義でよろしければ〜」

「ほんと? 嬉しいわ!」

 ぱっ、と顔色を明るくして喜色を浮かべる綺麗な緑の瞳。彼女のこのきらきらした瞳を見ると、結局誰も彼も彼女のために何かしたいと思わずにはいられないような。

 彼女の一転した喜びようにルヴァは明らかにほっとした顔を見せ、しかしだらだら流れ続ける汗は早くも午後の御前講義のことを心配しているらしく、ターバンの端布で額を拭っている。

「さあさ、残りの方もいらっしゃったようですし、取り敢えずは新宇宙の女王とその補佐官との久しぶりの再会を祝って、予定通りお食事会にいたしませんこと?」

 ロザリアのその言葉に俺が背後を振り返ってみれば、並んで歩いてくるジュリアス様とクラヴィス様(珍しい光景はおそらくジュリアス様が出不精な闇の守護聖を引っ張ってきた所為だろう)、それからその少し後ろには水の守護聖と極楽鳥の姿があった。

 優雅に近づいてくる水の守護聖の姿を見て、思わず昨晩の夢を思い出し狼狽える俺を、リュミエールは小首を傾げて不思議に思ったようだが、やがてにこりと笑うと、何のお話をしていたのですか? と訊いてきた。

「昼食会が終わったらな、ルヴァが陛下の御前でお子様たちに『女王のサクリア』について講義するんだとさ」

 狼狽の理由を聞かれず内心ほっとしながら答えた俺の言葉に、リュミエールは何故か少し寂しそうに目を伏せて呟いた。

「ハイゼンベルクの不確定性原理、ですか――」

 

 その瞬間、唐突に俺の意識の目の前に映った、曙の薄闇に浮かぶひとつの銀河。

 

 ……嬉しそうにはしゃぎながらテーブルの用意をする複数の声と、青い空と明るい陽と暖かい風が、どこか遠くの出来事のように感じられた。

 

 

「どうして視察を申し出た?」

 ……いったい、私の何が、これほど――この人の意に沿わないのだろうか。

 ミザル銀河系恒星アルゴール。総質量は156単位恒星質量。

 『人食い鬼』と名付けられたその超大質量級の恒星の、本来、生態系の発生し得ない星系の内部に、他星系の或る非主流派文明圏が建設した実験設備――。

 先ほどの会議で議題に挙げられた、その建造物の視察へ、単に名乗りをあげただけだというのに。

 こうやって、会議が終わって人目が無くなったとたん、検挙されるように足止められ、詰問と何ら変わりない口調で問われるほどに――何が彼の気に食わないのだろうか。

 

 ――私のすべてが、か。

 

 そう納得せざるを得ない。

 

 私は俯いて、彼の高温の炎色の瞳から目を逸らした。

 

「貴方が、何を気にかけていらっしゃるかは存じませんが……」

 

 ……あの、気まぐれのような夜があったからと言って。

 それ以後の優しい関係を築くことなどを、期待したわけではない。

 所詮あんなものは、不確定性原理に収まり得る範囲内のイレギュラーであって、ひととき振動した事象はやがて振り子のように元の位置へと収まるのが当然の成り行きだ。

 

 だからと言って――何故私は、これほどまでに、彼に追い詰められなければならないのだろうか?

 

「現地調査と申しましても、陛下の御力を拝借し次元回廊を用いて、遠方の宇宙空間から視察するだけの調査です。――如何に私が力弱き、頼むに足りぬ存在であっても、その程度の役目は恙無く果たせるつもりでいますが」

 ……多少嫌味に響いただろうか。

 私は顔を伏せたままでいたから、彼の表情は窺い知れなかった。

 彼の沈黙は意図が読めない。

 私には、本当に彼が解らない。

 

 ……仕方のないことだ。

 私と彼は、笑えるほど、こんなにも遠い存在なのだ。

 

「……お話がそれだけでしたら、私は出立の準備のために失礼させていただきます」

 そういって私は、彼に追い詰められていた壁際から離れ、彼に背を向けて歩き出した。

 顔を伏せ、彼と視線を合わせないままに。

 

「気がついていないのか」

 

 立ち去ろうとした私の身体の、右腕だけに奇妙な衝撃が走った。宙に固定された右手に、私の歩みは中断される。

 彼に腕を掴まれたのだと悟るまで、しばらく時間がかかった。

 

 私は前を向いたまま、薄く唇を歪めて笑った。

 

 

 私には、本当に――彼が解らない。

 

 

 私は仕方無しに振り返った。

 意図せずに向けた私の視線は、ちょうど彼の視線と真正面からぶつかる形になった。

 

 星の瞬きのような彼のアイスブルーの瞳は、相変わらず何も語らないまま、ただ、私を見据える。

 

 私と彼はこんなにも遠いけれど。

 彼の瞳は、嘆息するほどに、とても――とても綺麗だ。いつもそう思う。

 

「いつまで夢の中に居るつもりだ?」

 

 私の視線の先で、彼の唇はそんな言葉を紡ぐ。

 

 ――夢?

 

 何の事ですか。

 私は夢など見ていない。

 

 そう言おうとした私の言葉は、不意に延びてきた彼の指の、私の顎を捕らえる動きに遮られた。

 私の顔は固定され、顔を伏せることも、視線を外すことも出来なくなった。

 

 彼のアイスブルーの瞳は、無表情のまま、ただ、私を見据える。

 そして私を捕らえる。

 

 

 ――ああ、と、私は思った。

 ようやく気がついた。

 

 彼の瞳の光の色は、『人食い鬼アルゴール』の、何もかもを飲み尽くすような、あの巨大で圧倒的な光の色に、そっくりだ。

 

 

 この光の色に、食い尽くされてみたいと。

 そう、思ったのだ。

 

 

 私の考えたことをまるで読んだかのように、彼はその瞬間、強い視線の色をより一層強く煌かせた。

 私の顎を掴む彼の指に、力が篭った。

 

 

 

「――いい加減に、目を覚ませ」

 

 

 

 

 

 

 

「――目が覚めた?」

 ……ああ、覚めたさ。お陰様で覚めましたともさ。

 俺は真昼の太陽の直射光を目の前で遮る派手な金とピンクの髪に向かって、内心、そう悪態をついた。

 勢いをつけて芝生の上から上半身を起こし、乱雑に髪をかきむしる。自分の顔が顰め面になってるのが自分でも良く判った。

「な〜んかえらく機嫌悪そうじゃない。どーしたのよ?」

「誰の所為だと思ってる、夢を司る守護聖様」

 オリヴィエは俺の言葉に、怪訝そうに眉を顰めた。そして何故か声を小さくして訊いてくる。

「例のよく解らない、思い出せない夢ってやつ?」

「まぁな」

「レイチェルから聞いたわよ、また最近見てるんだって? オスカー様にしては珍しいって、私に何か判らないかって興味津々そうに尋ねてきたもの」

 俺は軽く肩をすくめた。

「けど断片的には憶えてるんでしょ? 何の夢なのよ、それ?」

「判らん」

「判らんって……」

「脈絡がない。何故そういう夢を見るんだか理由がわかれば別に構わないんだが、思い当たる節がないから気持ち悪いんだ」

 何故俺が、夢の中でリュミエールになっているのか。

 リュミエールになった俺が、何故俺と、ああいう関係、になっているのか。

 リュミエールを抱いた、俺の目の前の無表情の俺が、何を考えているのか。

 

 俺は空に目を向けた。

 さっきと変わらず明るく青い空は、突き抜けるように澄んで広い。

 日差しは決して不快ではない強い真昼の光で、風は聖地を包み込むように暖かく柔らかだ。

 

 この疑念を抱く余地もなく心地良い現実に比べて、あの夢は、酷く奇妙に歪んで薄翳く、不自然だ。

 

 いつかは――今は何物であるかもわからない、あの不自然さの原因と、向き合わなければならない時が来るのだろうか。

 

「……とりあえず起きなよ、ルヴァの講義が始まるよ」

 オリヴィエの言葉がそう聞こえた。

 いつもこいつは、俺が自分の不快な思考に沈みそうになる時に、タイミングよく声をかけてくる。意図してかそうでないかは判らないが、意外に人思いで気配りの利くこいつのその一端であるのは間違いないので、俺は心の内だけで小さく感謝しておいた。

 俺は芝生の上に立ち上がって、即席で用意されたらしい青空教室の準備が整った様子の、人数が集まっている方向へ歩き出した。オリヴィエが俺に並んで歩きだす。

「それにしても、どうしてお子様たちの講義で――っと女王陛下もご臨席か、けどそれにしたって、昼寝中の俺をわざわざ起こす必要があったのか?」

「私もそう思ったんだけどさー、なんでだかリュミちゃんが、あんたも起こさないと、って言うもんだから」

「リュミエールが?」

 何故?

 俺はリュミエールの姿を目で探した。

 水色のローブは、俺たちの歩いている先、青空教室のどうやら中心らしい黒板の置かれたポプラの樹の、お子様たちがその前に並んでいる、その背後で少し離れて見学するように並べられた位置の椅子に座っていた。

 近づくと、俺たちへ背を向けていた格好のその姿が振り返る。

「オスカー、オリヴィエ」

 俺たちの姿を見てふうわりと笑うので、俺は瞬間、疑問も忘れ、つい反射的に笑い返していた。

 なんとはなしに安心する。胸の奥で淀んでいた夢の重苦しく不快な印象が浄化されるようだ。

 奴の近くに並べられていた椅子に、俺とオリヴィエは座った。

 よくよく見れば、お子様たちの並びに混じって256代女王陛下の姿もある。うっかりすると見逃す、そのあまりの自然な馴染みように、俺は半分微笑ましく、半分苦笑しながら笑った。

 旧宇宙の星々を全てその白い翼の元に受け入れた彼女の治世になってから、宇宙はそれまでと比べようもないほどに安定し、豊かな成長と発展を続けている。

 星は日々、順順にその寿命を終え、崩壊を続けるが、それは以前の、ただ暗黒へと堕ち込んでゆくだけの終わりではなく、新たな生命へと還る正常な宇宙の営みとして、再び新しく若い星の輝きを生み出していく。

 

 俺はなんとなしにリュミエールの方を見た。

 リュミエールがそれに気付き、俺の方へと振り返る。

 笑いかけてくる深海色の瞳。

 

 その瞳に、夢の中の俺の瞳の色と、『人食い鬼』の、星の色とが重なった。

 

「――なあ、リュミエール」

 気がついたときには尋ねていた。何か、とリュミエールが首を傾げる。

「恒星アルゴール……って、――ミザル銀河系の中にあったよな。……今、どうなっていたっけ?」

 

 訊き終えた瞬間、踏み込んではいけない闇に足を踏み入れてしまったと――。

 背筋を走った不気味な戦慄と共に、何故か、そんなものを感じた。

 

 オリヴィエが息を飲む気配が背後でする。

 リュミエールは軽く目を見開くと、小さく微笑を浮かべながら、ゆっくりと目を伏せた。

「……憶えていらっしゃらないのですか」

「リュミちゃん」

 リュミエールが視線を上げてくる。深い色のその瞳で、俺を真正面から見つめる。

「あの星は――」

「リュミちゃん!」

 小さくひそめられるように、しかし鋭く響くオリヴィエの言葉の響きは、明らかにリュミエールの発言を留めようとする響きだ。

 

「あ〜、それではあの僭越ながら、今から講義を始めますね〜」

 

 場違いなほどにのんびり届いてきたルヴァの言葉に、俺たちの時間は唐突に遮られた。

 

 

 リュミエールが口を閉ざし、再びゆっくりと目を伏せる。

 オリヴィエが、明らかにほっとした様子で息をついた。

 

 俺だけが何もわからないまま、疑問と共にその場に取り残された。

 

 

 

「え〜前回の最後の講義では、ごく小さな領域ではエネルギー保存則が守られないことがあること、そのような状況においてエネルギーを得た仮想粒子が生成しうること、粒子が生成するか否かは確率でしか語れないこと、についてお話ししたかと思います。ええ〜と、女王陛下も、ロザリアと一緒にお教えしました、かつてのそれらの話を、覚えてくださっていますでしょうか」

 ポプラの木に掲げられた黒板の傍ら、なんだかんだで落ち着きを取り戻した様子のルヴァの開口一番に、うんうん、と、その目の前の木陰で年少の守護聖達に混じって着席する、ふわふわの金色の髪の後ろ姿が嬉しそうに頷く。

 下手をするとランディあたりの方が記憶が怪しいかもしれないとも思うが、一応の師弟関係にある身としてはあまり深く考えたくはない。

「ありがとうございます、陛下。」

 笑顔のルヴァが話を続ける。少し離れた陽の当たる観覧席には、ロザリア、栗色の髪のアンジェリーク、レイチェル、それから俺達。光の守護聖と闇の守護聖は、昼食会の後で早々に引き上げたらしかった。

「小さな領域、小さな単位では、すべてが確率でしか語れないということ。これをハイゼンベルクの不確定性原理、もしくは単に不確定性原理と言いますが、これは何も仮想粒子に限った話ではなく、原理的には実在粒子を含めたすべての物質、空間、時間に対して言えることなのですね〜。ただ、制約は当然あります。

 小さなものであれば比較的長い時間、広い空間に渡って素粒子は様々に存在できますが、大きな素粒子、つまり大きな質量を持つ素粒子は、質量というのは〜これはイコール、エネルギーのことであると特殊相対性理論が示す通りで、そのような大きなエネルギーを持つ重い素粒子は、ほんの一瞬、ほんの小さな領域でしか存在することが許されないという、いわばトレードオフの関係にあるということです。

 大きなエネルギーであれば、それを一つの領域に集めるための粒子加速器などが必要になりますが、小さなエネルギーであれば」

 そう言うとルヴァは、おもむろにマルセルに向かって掌を掲げた。その朴訥とした様子ではとてもそうには思えないが、ハイタッチ、の姿勢に見えなくもない。

「?」

 緑の守護聖が戸惑いながら、はい?たっち?と、右の掌をぺちりと触れ合わせる。

「小さなエネルギー、小さな素粒子であれば、こうやって近くにいるだけで、粒子の持つ位置の不確定性により、マルセル、あなたを構成する粒子と私を構成する粒子とが、入れ替わったりしているかもしれませんねぇ」

(近くに)

 俺は思わずリュミエールの方を見た。

 リュミエールは、真っ直ぐ、その視線の先の講義の様子を見続けている。

 それでいて、俺の気配に気付いている。

「げぇ、気持ちわりぃ」

「でも、間違いではないでしょう? ゼフェル」

「まあ、事実だけどよ。喩えようってもんがあるだろうが」

「まあまあ、では、もう少し話の先まで聞いて下さい。

 この不確定性。ゼフェル、あなたもよくご存知なように、粒子がどこにいるか、どこに現れるか、この不確定性は本来、純粋な確率のみに支配され、それ単独では予測することも変えることも不可能です。本来であれば。しかしながらここに、」

 ルヴァは視線を巡らせた。目の前の木陰の金の髪の女王に、そして少し離れた陽の下の栗色の髪の女王に。

「この宇宙のあらゆる確率を、その願いの力で動かせる方々がいらっしゃる。その方の強い願いに従い、粒子はその許された範囲の中で望み通りに振る舞い、時間と空間、これはエネルギーの存在により伸び縮みするものですから、時空が動き、ひいては巨視的な宇宙をも動かす。」

 誇らしげに背筋を伸ばす神鳥の宇宙の女王と、恥ずかしげにやや俯いて、しかし緩く微笑む聖獣の宇宙の女王。

「我々はそのお力を、調和をもたらす、女王のサクリアと呼んでいるのです。」

 

 

 

 時間を変え、空間を繋ぐ、女王のサクリア。

 その御力をもってして形成された、眩い星屑の次元回廊、その道を辿る。

 漆黒の次元を渡る道を覆い尽くす聖なる光はあまりに清らかで、この身には到底直視できない。

 目を伏せて、半ば瞳を閉じるようにし、到着点までの道程を歩み進む。

 

 やがて足元の暖かく包み込む光の気配は消え、一度暗闇が訪れた後、正面からの強烈な蒼い光が瞼越しに眼を焼く。

 視線を上げた。

 何もかもを飲み込もうとする、その光へ。

 

 

 極高温の蒼く巨大な星。

 恒星アルゴール。総質量は156単位恒星質量。

 

 

 今回の視察の道に定められた終着点、宇宙空間の只中から、その人食い鬼の光を長い間、見詰め続けた。

 そうしてからやっと、視線の手前、本来の視察の対象である、無骨で素朴な幼い造作物を見遣る。

 

 恒星中央から見たこの軌道距離には、もともと濃密な小惑星帯アステロイドベルトがあった。

 しかし他星系に比べて遥かに濃密とは言え、幅1000kmにもの広い範囲に渡って散らばっていた小惑星の数々が、その建設に必要なだけの資材として集積され、今は左右水平方向に直線的に配置しており、直線の中心には、恒星の青い光と恒星風とを受けてときおり綺羅と光る金属線が長く伸びていた。直線は左右方向へあまりに長く、視界の端に至ってようやく僅かなカーブが見え、恒星の周りに輪を描いているのだと気付かされる。

 その細い金属を取り巻くように、一部の小惑星は既にパイプ状に再形成されている。パイプ状と言っても、金属線に大電流を流し、その熱で小惑星を溶解し空洞を形成した後に固化しただけのものであるから、内側面はともかくとして外見は恐ろしく不格好な塊のままだった。そう言われなければ空管の成形物だとは気付かない。

 将来的にはここに集められたすべての小惑星が、恒星を巡って途切れることのない巨大な環状のパイプを形成し、やがてその真空の中を、光速の99.999999999%まで加速された素粒子がひた走り、衝突する。

 

 恐ろしいほどに原始的で、恐ろしいほどに巨大な、粒子加速器の姿だった。

 

 恒星アルゴールの総質量は156単位恒星質量。

 これほど巨大な星は自らの重力が桁外れに大きく、その巨大な重力に抗するための核融合反応が必然的に高温高圧となり激しく燃焼するため、星の寿命が数百万年程度しかなく、少なくとも数億年かかる生命体の萌芽をその星系内にみることがない。

 ここで粒子加速器を建設している人類は、隣接する他星系から来たそれだった。

 その惑星内での文明圏が幾つかに分裂し争っていること、火山帯および海洋の双方に富むために連続する陸地を極端に欠いたこと、量子力学が未だほとんど展開せず核エネルギーの利用に至っていない一方で、星間航行技術がいびつなまでに発達していたこと、そして何よりも、ごく近隣に潤沢な小惑星帯を抱えるこの恒星アルゴールが在ったこと。そのすべてが、今回のこの事態に作用した。

 ただ一点に莫大なエネルギーを集中させるため、粒子加速器は各文明の相応の発達段階にて建設される。通常は惑星の地上または地下に。そうして観測される素粒子同士の衝突において、高エネルギーによるハイゼンベルクの不確定性原理に基づく量子力学的作用を観察する。

 高エネルギーの下で新たな素粒子を発見すること、もしくは理論上想定された素粒子の――しかしながらあまりにエネルギーが高く、通常の環境においては観察し得ない素粒子の――実在を確認すること、それは量子力学の正当な発達において必要不可欠の、必ず通過すべき段階だった。

 だが通常は数十mから数百mの直線加速器、それから直径数kmの円形加速器までの巨大化スケールアップを段階的に踏むはずだった。

 その過程で、宇宙の崩壊に繋がりかねないあるひとつの可能性を見出すまでに。

 それから以降のより高エネルギーの粒子加速器の建設に、慎重を期すようになるための段階的発展を、この非主流派文明圏は前述の理由によりことごとく端折った。そうしていきなり、この宇宙史上稀に見る、想像を絶した恒星規模の粒子加速器の建設を開始した。

 

 真空の崩壊。

 

 先日の会議で懸案事項として議題に挙げられた、深刻な懸念がそれであった。

 女王陛下のお力添えを得て、訪れたこの視察で、目の前に広がるその工作物は、実際に目にしても原始的な文明の、幼稚としか言いようがない代物だった。

 だが、所与の性能は充分に達成しうる。そして宇宙を崩壊に陥れる。

 まるで子供のごく純粋な無邪気さが、時として大人の想像を絶するほどの残忍性として顕れるが如く。

 

 再び、視線を上げた。

 何もかもを飲み尽くす、恒星アルゴールの蒼い光が、私の目を焼く。心を熱する。

 あの人の瞳のように。

 

(オスカー)

 

 いかな女王の恩寵たる不確定性原理と言えども、このおぞましい造作物を収める確率は、この宇宙の何処にも寸分たりとて存在しないはずだった。

 

 無意識にゆっくりと掲げた、右手の先に熱が篭もる。

 当初の視察するだけの予定には欠片も無かった、私のサクリアレベルの急激な変化に、遠く離れた王立研究院からのざわめきが微かに聞こえる。

 眼下には未だ何も知らず、作業に従事する幾つかのシャトルが見える。高度に自動化されているとはいえ、建設物が全面的に崩壊すれば、幾十人か幾百人かの生命が消えるのは免れ得ないだろう。

 構わなかった。咎はどこまでも、この身に負うつもりだった。

 

「そこまでだ」

 

 喉元に触れる、冷たい刃の感触。

 背後から伸びる。

 

 時は止まり、私は目を伏せ、再び、唇を歪めて笑った。

 

 私には――本当に彼が解らない。

 

 力を失い、ゆっくりと下ろす私の右手の、その途中でゆらりと炎のようなサクリアが漏れ出た。

 あれはきっと、貴方からの素粒子。

 あの雪の夜に、貴方と私との間で交わされた。

 

 心持ち引き下げられた剣の、しかし未だ私を射程に捉える切っ先と、彼の身体との間で、私は静かに振り返って彼を見た。

 人食い鬼の恒星と同じ色の瞳は、やはり何も語らないまま、ただ、私を見据えていた。

 

 その瞳は、本当に嘆息するほど綺麗だけれど。

 私には、本当に貴方が解らない。

 貴方だって、貴方なら、きっと、こうしたでしょうに。

 

 


シュレーディンガーの猫オルバースの夜空
  

■――以下素人趣味人の駄文、お暇な方だけお読みください――

 

 

 

 

 

「単位恒星質量」は太陽1個分の重さで、ふつう「太陽質量(M)」(←本当は◎の内側のまるは塗り潰し)と言ってるものです。とある理由から知的生命体の発生する恒星系の恒星質量はだいたい1単位恒星質量前後に限定されてしまうので、主星の属する太陽(恒星)もこの程度の質量であることが予想されます。続編にて出てくる予定。

恒星の運命について簡単に説明すると、

 〜4単位恒星質量:白色矮星へ

 4〜8単位恒星質量:超新星爆発後に星間ガスを形成

 8〜30単位恒星質量:超新星爆発後に中性子星を形成

 30〜単位恒星質量:ブラックホールを形成

となるようです。

ブラックホールの温度というと普通100万度〜1000万度ぐらいって書いてありますが、これはブラックホールに吸い込まれる物質(いわゆる降着円盤と呼ばれるもの)が放射するX線(γ線)の温度で、ここで出てくるホーキング絶対温度とは違います。ちなみにブラックホールの質量Mと絶対温度Tとシュヴァルツシルト半径rには相関関係があり、

 r=2GM/c2

 T=hc3/16π2kGM

となります。Gは万有引力定数、cは光速度、hはプランク定数、kはボルツマン定数。2017年に本文数値とともにこっそり修正。2002年から比較すると調べ物が断然楽になったなぁ。

ブラックホールに関しても後章で詳述予定。

1604年の超新星(SN 1604, Kepler's Supernova)Credit: NASA/ESA/JHU/R.Sankrit & W.Blair

きれいよねー。これも2002年当時には無かった。でも実際の見た目じゃなくて、画像下部にもある通り「高エネルギーX線」「低エネルギーX線」「可視光」「赤外線」による観測の合成写真。まあ、人間の目がX線から赤外線までの範囲で受光できればほぼこの通りに見えるはず、という。