どこかで、猫の鳴き声が――聞こえた気がした。
縦ばかり長くなってしまった自分と違って、彼はその背に見合うだけの肩幅の広さがあると思う。けれど鍛え上げられた身体だと、彼の身体付きをそう評する皆の言葉は、いつもこうやって彼の正面に立ち、彼の姿を目にする私自身にとっては、耳にするたびに微かな違和感を覚える言葉だ。
広い背中から腰、そして足へと続くラインはすらりと伸び、がっしりしているというよりは、少年の面影を残しているような細さを思わせる。大きな肩から繋がる腕は、その所為で身体から離れ浮いているように見え、元から長いその手足の長さをよりいっそう強調しているかのようだ。
私は僅かに目を伏せた先ほどからの姿勢のまま、彼のその、肩から左腕へのラインを目で辿った。
玉座に座る女王に新年の祝詞を寿ぐ光の首座の凛然とした声が、謁見の間の静かに冷えたドーム状の天井を巡って、私の耳元まで届いて来る。それに重なるのは、外で静かに降り始めたらしい雪の音だ。
紗が鳴るような雪の降る音は、絶え間ないのに不思議な静寂を感じさせる。いつもそう思う。
玉座で今ばかりは神妙な顔をして新年の儀に立ち合っている、候補生時代から相変わらずのお転婆で愛らしい女王が、せっかくの新年だから積もらせるつもりなのだと、さっきまで私達と共に控えていた間で話していたのを思い出した。
さっきの猫は――この新年の夜の、凍えた雪の中なのだろうか。
だとしたら、猫は、生きているのか、死んでいるのか?
そんなことをぼんやり考えながら、正面の彼の長い腕を目で辿っていた私の視線は、そのまま彼の指へ辿りついた。
その大きさに比べて肉付きの薄い彼の手は、その所為でよりいっそう大きく広く見える。指も長くて、節と節の間で細くなっているそれは、むしろ繊細さを感じさせる程だ。
その時、彼が微かに身じろぎした。
長い腕と細い指は、まるでそれら自身が独立した生き物であるかのように滑らかに動いた。蛛を思わせる細く長い指先が、5本ばらばらに、優雅な弧を描いて空気を舐めた。
その、彼の、ゆびさきを、見た瞬間。
言いようのない衝動が、一瞬で体中を駆け巡った。全身の血液が逆流する。肌の表面がざわついて自分から離れていきそうになる。
頭に上ったのと同じ熱さで、身体が縛られ硬直して動けなくなった。
まるで、彼のその指先で、全身を撫ぜられたかのように。
震える目蓋を静かに閉じた。密かに吐き出す息が揺れる。
……くだらない錯覚だ。一瞬の。いつまでも引きずっていい感傷とは違う。早く消さなければ。
暗くなった視界の奥で、心を空にして息を落ち着ける。ひとつ、深呼吸。そしてもうひとつ。
大丈夫。もう大丈夫。
ゆっくりと目を開く。
そうして、目覚めた私は。
――あの、星の瞬きのような、アイスブルーの。
その瞳に、射竦められた。
「…………………………………」
……俺は目覚めた姿勢のまま、ぼんやりとベッドの天蓋を眺めながら、今の夢を反芻した。
自分で自分の姿を、まるで他人のように正面から見るというのは気持ち悪いものだと思った。どうやら立っていた位置からして、俺は夢の中でリュミエールになっていたようだが、なぜそんな夢を見る羽目になったのかさっぱり解らない。
目覚めた瞬間に雲散霧消してしまった夢の内容はおぼろげで曖昧で、ただ酷く強い感情と、それから自分の指が鮮明に映し出されていたのを思い出す。
俺は横になったまま、顔の前に掌を掲げてみた。あまり改めて考えたことなど無かったが、確かに広い手ではあると思う。そういえば女達はよくそういう台詞を口にする。特に彼女らの好きなのは俺の長い指らしく、触れるか触れないか程度に一撫でしてやるとあっという間に顔を赤くする。
女というのは本当に可愛いものだと思って、ベッドの中でくっくと笑った。
夢の中で俺の指を見ていたリュミエールは――もしこの手で触れたら、どんな反応を見せるのだろうか。
そこまで考えて、想像が妙に生々しくなりそうな予感に思考を止めた。くだらない。
俺はベッドに手を付いて身を起こした。フランス窓の外に目をやる。外は穏やかな日差しの、暖かそうな良い天気だ。
ふと、夢の中の、凍える雪の夜を思い出した。
実際に新年の儀のとき、雪の降る、寒い夜があったような気がする。
あれは何年前の新年だっただろうか。
あのときの鳴き声をあげた猫は――生きていたのだろうか、死んでいたのだろうか?
(シュレーディンガーの猫は、生きているのか、死んでいるのか?)
唐突に昔の、その言葉を思い出した。
今日は日の曜日だが、すっかり日の昇ったこの時間になってもランディは来ない。
新しく聖地に来た緑の守護聖を含めて、今日からお子様達相手にルヴァの講義が開かれることになっていたことに気がつく。
偶然にも夢の中で出てきた、久しぶりで懐かしいその話を聞きに行こうと、俺はベッドから出て出掛ける支度を始めた。
「え〜つまりですね、女王陛下の、御力の本質とは、時間の操作――」
「――では、ないのですよ〜〜」
真剣な(いや背中しか見えてなかったから単なる気配からの想像でしかないのだが恐らく当たっているだろう)顔をしてルヴァの講義を受けていた年少3人組が、俺のその言葉に総崩れになった。
「―――っおっさん! 似てもねぇ物真似で茶々淹れるんじゃねぇよ!」
がばっ、と机に突っ伏していた顔を勢いよく振り回して、ゼフェルが睨め付けてくる。
「失礼だな。誰が聞いてもルヴァそのものだし、茶化してる訳でもないぞ」
「半分正解で、半分は間違いですよね」
唐突に背後から声が聞こえて、俺は内心ぎょっとした。振り返ると、いつの間にこいつもルヴァの執務室に来たのか、リュミエールが入口近くに立っていた。くすくす笑いながら流麗な動作で歩いてくる。普段の執務服よりも滑らかそうな、艶のあるローブがさらさらと紗の音を立てた。
後ろには、にやにや笑いの極楽鳥の派手な彩りも見える。
「全然似てないのは確かですけれど、オスカーの発言の内容に嘘はありませんよ」
「本当ですか、リュミエール様」
「ランディ……お前、俺はお前のことを可愛い弟子だと思ってたんだがな……」
思い切り凄みを効かせた声でそう言うと、要領の悪い風の守護聖は慌てて両手と首を振った。
「ち、違うんですよ、確かに剣技の事だけは頼りになる人だと思ってるんですけど」
「だけは?」
ますます墓穴を掘るランディは、俺への言い訳で青くなったり赤くなったりと忙しい。年下のはずの緑の守護聖マルセルでさえ、両手で頭を抱えて再び机に顔を伏せている。
「私達もさァ、ルヴァにそれやられて、思いっきりズッコケさせられたもんよねぇ」
思いっきりズッコケるオリヴィエ、見てみてぇ、と鋼の守護聖が呟くのが聞こえた。
リュミエールのくすくす笑いは尽きることがない。
騒がしく、暖かい空気はとても幸せさを感じさせる。この水の守護聖と俺が同じ場にいて、こんな冗談を普通に交わせるようになれたのはいつからだっただろうか。
何かきっかけがあった気がするが、思い出せない。
どうも今朝のあの夢から覚めてから、何かいろんな事が曖昧になっているような気がする。
「邪魔して悪かったわね、どーぞ続けて頂戴、ルヴァ。アタシたちはここで見学させてもらうからね〜」
ショールをひらひらさせながらのオリヴィエのその言葉に、俺は我に帰った。先に座ったオリヴィエに促されてリュミエールが2人掛けのソファに腰掛けるのを見て、俺も手近な椅子に座る。
「それにしてもランディ、お前、前に1人でルヴァの講義を受けたはずじゃなかったか?」
「あ、えっと、そうなんですけどオスカー様……俺、馬鹿だからほとんど忘れちゃって……」
あはははは、と無駄なほど爽やかに笑いながら頭を掻くランディに、俺ですら頭を抱えそうになった。
「女王陛下の御力の成り立ちくらい覚えておけ。ルヴァ、容赦は要らんから宜しく頼むぞ」
ああっとはいはい〜、では講義を続けましょうね〜、というルヴァの言葉に、3人がルヴァと小さな黒板の方へ向き直った。
奴らの後ろでめいめいの茶を持ってそれを見学する俺達も、かつてああやって、3人並んでルヴァの講義を受けた事があった。懐かしい風景だ。
「え〜一般にですね、女王陛下の御力は時間の操作と思われていることが多いんですが、あ〜それもあながち間違いとは言えないんですけどね〜、ですがそれだけでは、例えば次元回廊のように離れた場所を一瞬で繋いでしまうような、空間に関する陛下の御力の説明がつけられないんでして、実はその本質はもっと深い所にあるんですよ〜。」
それからルヴァは、新入りの緑の守護聖の方を向いた。
「ときにマルセル、貴方は聖地に来る前、学校で『エネルギー保存の法則』というものを習ったことがありますか?」
緑の守護聖は二・三度戸惑った後、小さく頷いた。
「ではマルセル、エネルギー保存の法則について貴方の知っている事を話してもらえますか?」
そう言われてマルセルは、うつむき加減になって真剣に考え込んでいる。
「えっと、エネルギーっていうのは例えば物体の運動の速さとか、物体の持つ温度とか、物体の置かれている高さとか、そういうものが全部エネルギーで、それらは互いにいったりきたりするんだけど、全体として足し合わせたエネルギーは一定だっていう法則です」
うんうんその通りですよ、よくできました〜、とルヴァはにこやかに頷いた。
「つまりですね、高い所から鉄の玉を落とせば、その下にある釘が……」
「うざってぇ話し方してんじゃねぇよ、全員分かってるんならさっさと先に進めろよな」
相変わらずの鋼の守護聖の物言いに、ランディが腰を浮かしかけて何かを言おうとした時、
「ああ〜そうですね〜、あなたの星は工業の発達した人工惑星でしたから、物理学はお手の物ですよね〜……でしたらゼフェル、」
ルヴァが絶妙なタイミングで、そう話を続けた。
「あなたは、そのエネルギー保存則が成り立たなくなる状況があるということを知っていますか?」
「はぁ? そんなの知らねぇよ」
エネルギー保存則っつったら宇宙すべてを支配する大前提の法則だし、法則が成り立たなくなるんじゃ法則の意味が無ぇじゃねぇか、と続けるゼフェルの言葉に、ランディとマルセルも小さくうんうん、と首を縦に振る。
「ええ確かにですね、私達の生活しているレベルの大きさでは、エネルギー保存の法則は何時如何なる時にも成り立つ法則なんですけれども、もっと小さな……われわれを構成している原子の世界、あるいは原子を構成する、もっと小さい素粒子と呼ばれるものの世界では、エネルギーは保存されていなくてもいいのです」
ああその話かよ、とゼフェル一人は納得げだ。よく解らないといった雰囲気のランディ(ランディお前な……一度以上は聞いた事があるはずだろう)とマルセルに向かって、ルヴァは丁寧に(ご苦労なことだ)説明を続けた。
「つまりですね、電子ですとか、光子ですとか、他の様々な素粒子ですとか、これらは原子や分子や私たちを構成する粒子なんですけれども、それらはほんの短い時間であれば、何もない状態からエネルギーを得て、唐突に出現することが可能なんですよ」
これを仮想粒子と言って、実際に存在する粒子、実在粒子と言うんですけれどもこれと区別することがあったりしますが、実際に両者に違いは何一つないので別にそこまでは覚えなくていいです、だの何だのとルヴァが小さな声で言っているのが聞こえる。必要なければ言わないほうが話が混乱しなくて済むんじゃないか、とこういう時いつも思うのだが、それを言ってしまうのがこの地の守護聖の地の守護聖たる所以だろう。
「そしてですね、こういう小さな小さな世界では、確かな事は何ひとつなくなってしまうのです。……素粒子は出現したかもしれないし、出現していないかもしれない。ここにあるかもしれないし、あちらにあるかもしれない。全てが曖昧であやふやで、全てが可能性……確率でしか話せなくなってくるのです」
「あ、思い出しました!」
ランディの声は無駄にでかくて、離れて聞いていた俺でさえ驚いた。忌々しそうにランディの方を見たゼフェルが、嫌そうな顔をして耳を塞ぐ。
「それで確か、素粒子ができるかどうかで猫が生きるか死ぬかって」
猫の鳴き声が――昨日の夢で聞いた猫の鳴き声が、俺の頭の中で再現された。
雪の降る夜。見えない猫の姿。
「ああ〜ちょっと話が先に飛んじゃいましたね、でもまあいいですよね」
ルヴァのその声で、俺の意識の光景は現実を再び写し始めた。
「ええとですね、そういった素粒子の性質、全てが可能性でしか語れないという性質は私たちの世界に馴染みのないものですから、そうですよね、例えば林檎がそこに在るか無いか解らないなんていうのは奇妙ですよね、ですからそのような考えに反発した人は多かったらしくて、そういう人たちが反論に使った話として『シュレーディンガーの猫』という例え話があるのですけど」
ふんふん、とそれぞれ異なるニュアンスで3人の後姿が相槌を打つ。
「猫をですね、箱の中に入れてしまって蓋をするわけです。この箱には仕掛けがありまして、さっき話したように粒子が唐突に出現すると、それを検出するような装置が付いています。で出現した粒子が検出されると、あらかじめ箱の中に用意されていた毒ガスが箱の中に充満して、猫は死んでしまう、そういう仕組みになってるんですね。そうすると、」
そこでルヴァは一息入れた。
「先程も言いましたように、粒子は突然出現するかもしれないわけです。でも出現しないかもしれない。これらはすべて可能性の話ですから、ここで仮に粒子の出現する確率を50%としますね。そうすると、毒ガス発生装置の動く確率も50%、したがって猫が死んでしまう確率も50%です。けれども――」
懐かしい話だ。俺達も――その頃はまだ、俺とリュミエールの2人だけだったが―― 一番最初の講義で、同じ話を聞いた。
「猫が生きているかどうか、外からは一切わかりません。箱を開けるまで、猫は生きているとも死んでいるとも言えない状態なのです。」
そんなことって、とルヴァの件は続く。
「そんなことって、ありうると思いますか? 目の前の箱の中に確かに猫はいるのに、生きているか死んでいるか、分からないなんて。たとえ箱を開けなくても、猫はその中で、生きているか、死んでいるか、明確にそのどちらかに分かれる筈だとは思いませんか?」
ランディとマルセルが困惑する様子が見て取れる。俺も最初は悩まされたものだ。続くルヴァの質問に。
「さて――はたして、猫は生きているのでしょうか、死んでいるのでしょうか?」
『猫は 』
俺は驚いて視線を移した。リュミエールとオリヴィエが並んで座っている方に。2人が不思議そうな顔をしてこちらを見る。
「……いや、何でもない」
別にそちらから聞こえたわけではなかったが、何かがどこかから、ほんの微かに聞こえた気がしたのだ。何もなかった振りをし、2人にそう答えて視線を落とした。
その所為で、小さく溜息をつき、僅かに肩を落としたリュミエールに、俺は気がつかないままだった。
「えー結局ですね、正しい答えは『猫は50%の確率で死んでいる、50%の確率で生きていると言えるが、それ以上の事はわからない』ということになるんですね。量子力学――素粒子などの小さい世界を扱う物理学の事をそう呼ぶのですけれど、量子力学はたくさんの素粒子の動き、場所、存在、それらの可能性については詳しく正確に記述できますし、たくさんの素粒子はそれらの確率に沿って実に正確に動くのですが、個々の素粒子については何一つ確実な事を言えないのですよ」
ちょっと長くなってしまいましたから、今日はこれで終わりにしましょうね〜、とルヴァが言う。ランディと(だからランディお前な……)マルセルはまだいまいち話の飲み込めていないという顔つきで、それでもルヴァに促されながら席を立った。
お子様には、特に14になったばかりのマルセルには荷の重い勉強だろうが、守護聖として宇宙を見守り導く以上、必要不可欠の知識であるから、少々頑張って習得してもらわなければならない。
2人に続いて席を立ったゼフェルの表情は、詰らない話に時間を取られたと言わんばかりだ。奴の出身惑星のような、物理学の下地がある環境では、今日の話など常識に近いだろう。
俺は――俺自身は、ルヴァの質問になんと答えただろうか?
そしてリュミエールは?
……どうしても思い出せない。どうも今朝から、思い出せない事が多すぎるような気がする。
「どーしたのよオスカー、妙に真剣な表情しちゃって」
休憩しにこっちの方へ来たお子様達のために、紅茶を用意していたオリヴィエがそう訊いて来た。
「夢が……」
思わずそう口にしていた。オリヴィエが訝しげに眉を寄せる。
しまった。こいつは夢の守護聖だった。
「……たいした事じゃないんだが、どうも気になることがあってな。それが思い出せないんだ」
「思い出せないんなら、ほんとにたいした事じゃないんじゃないの? いーんじゃない、夢の事くらい、別に気にしなくても?」
意外にもオリヴィエの答は簡潔だった。もっと根掘り葉掘り訊かれるかと思ったが。お子様達もルヴァも、聞くとはなしに俺の話を聞いている。
リュミエールはと見てみれば、気遣わしげな表情で俺を見ていた。
心配するな、の意味でひらひら片手を軽く振ってみせる。
こんなに、俺達の間に穏やかな空気が作れるようになったのは――本当に、いつからだっただろうか?
「シュレーディンガーの猫よね」
紅茶をカップに注ぎながら呟くオリヴィエの言葉に、俺は思考を中断して、そっちの方を向いた。
「何がだ?」
「あえて蓋を開けようとしなければ、中身の真実はわからないし、それで問題ない、って事。」
再び考え込み始めていた俺の心の動きを知っているかのように、オリヴィエはそう答えた。
視界の隅で、リュミエールの目が僅かに伏せられたのが見えた。
年に数度もない、おおっぴらに羽目を外した楽しい騒ぎの余韻を身に纏ったまま、私は宮殿のテラスへと出た。
女王の御力から紡ぎ出される時間の操作、聖地の新年をなるべく宇宙の平穏な時に合わせようと、その女王の御配慮を以ってしても全宇宙が一時に事も無しであろうはずもなく、ひとつ、あるいはふたつ程、気掛かりな星系が残されてはいたが、今日ばかりは無礼講として幾ら騒いでも光の首座でさえ文句ひとつ言わない。
この貴重な機会に皆と一緒になって燥ぐ、それはそれでとても楽しい事だが、こうやって背後に幸せの騒がしい気配を感じたまま、静かなところへこうやって出、ひとりでは創り得ない祝いの余韻を、ひとり静寂の中で味わうのがとても好きだ。この上ない贅沢だと思う。
足元が何処となくふわふわしているように感じるのは、少し嗜んだアルコールの所為ではなく、いつもとは少し違う非日常の空気の所為で。それすらも酷く心地良くて。
新年の儀の最中から降り始めた雪は、すでに見渡す限りの一面を白く染めていた。背後の室内の明かりが僅かな範囲を白く照らし出しており、そこから先はグラデーションを描いて闇へと続いている。
そのほんの少しの、本来の雪の色をしていた辺りに、影が落ちた。
影は私の視線の先から足元、さらに私の背後へと続いている。
広い肩、そして長い腕、……ゆびさき。
……私と彼の間に、常に強い緊張感が漂っているのは確かだった。
公式の執務でも、非公式の守護聖の集まりでも。彼と私が同じ場にいるだけで、周りの人々をも固めてしまうほどの緊縛感が常に付き纏う。
いつからこうなったのか……もう、思い出せないほど昔からのことだ。
……それは嘘だ、と心の中の良心が呟く。私は覚えているはずだった。
切掛けは――猫だった。
彼は私を強く揺さぶる。あらゆる意味で、あらゆる方向から。
私は彼と距離を置いた。そうしなければ、自分が保てそうになかった。自衛手段だった。
彼と目を合わせた事など、ここ数年、なかった。
私はゆっくりと振り返る。
もう、逸らす事はしない。
私を真っ直ぐと見据え、ゆっくり近づいてくる、この、アイスブルーの瞳から。
彼は笑っていない。怒っても、哀しんでもいない。彼の顔には如何なる表情も無い。
彼と向き合っている私も、同じような顔をしているのだろう。
ただ視線を合わせたまま――彼と私の間の空間だけが、彼の歩みに伴って、少しずつ、縮んでゆく。
ほんの少し動けば身体が重なり合うほどに、近くまで来て、彼は止まった。
少しの間を置いて、腕が動く。ゆびさきが、近づいてくる。
そして、あの、長い指が――私の頬を撫ぜた。
あの長い、節榑立った指が、まるでそれら自身に意思があるかのように、滑らかに動いて。
触れるか、触れないかという程、微かに。
私は静かに目を閉じた。
彼に気付かれないよう、ゆっくり吐いた吐息が、震えた。
視覚の閉ざされた意識の中で、彼の親指が私の唇の上を滑り、他の指が私の顎を捉えた。
僅かに指に力が込められ、私の顔は軽く上向かされる。
浮かされた様な熱を伴った、早鐘を打つ自分の鼓動だけが、耳の後ろで煩いほどに反響する中、
――猫の鳴き声が聞こえて。
私の顎を捉える指と、私の唇に触れる彼の唇。
――その感触だけが、全身を襲うようにして、私の躯を支配する。
掌を強く握り締めて、その衝動に耐えた。
……ほんの一瞬掠めただけの唇はすぐ離れた。
目蓋を上げれば、彼の見下ろす氷青の瞳が目の前にある。
……何故、と問う事はしない。
彼に背を押されるように促されて、テラスの階段を下り、私達は明かりから遠ざかるように歩き出した。
どこに向かうかなど解り切っていた。
私は、最後に一瞬だけ、猫の鳴き声がした方を振り返った。
そこは一面純白の雪景色に覆われている。
猫が生きているか死んでいるかなど、解りはしない。
当然だ。
蓋を開けさえしなければ。
シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるかなど、誰にも解りはしないのだから。
使用人達の寝静まった彼の館の、テラスから私室に続くフランス窓を開けて、彼は先に私を室内へ促した。
私が足を踏み入れるのと同時に、風と雪が室内に舞い込む。背後から私の髪を靡かせた吹雪は、彼が私に続いて室内に入り、扉を閉める音と共に収まった。
立ち尽くす私の肩にはうっすらと白雪が積もっている。見るともなしに見る視界の中で、手際よく動く彼の広い肩にも。
そのまま見ていたら、彼は私にバスローブを手渡し、部屋の端にあるドアのほうへ促した。
何も考えない。……考えてはいけない。
脱衣所で祝儀用の衣装を脱ぎ、心持ち長めにシャワーを浴びた。上がってバスローブに袖を通したら、肩幅と袖が少し余った。どうやら彼のものらしかった。
バスルームから出てきた私と入れ替わりに彼が入った。ベッドに所在無げに腰掛けた私の耳に、シャワールームの床を叩く細かな水音が聞こえる。
身を包む緊張感も、躯の中から脈打つような速い鼓動も、どうしようもないほど生身であるのに。
どこか夢の中の出来事のような感じがする。
今起こっている事態を、これから辿るであろう筋書きを、遠くの方から冷静に見つめている私がいる。
ドアが開く音がした。
私は自然に目を上げた。
彼の瞳は、ただ私を見つめる。そして私を縛る。
……彼はこうやって、何人の女性と夜を共にしたのだろうか?
まるで百年の恋を遂げた、本物の恋人同士のような……なんて手順通りなのだろう、と遠くの私が思う。
あの長い指で私の髪を梳き、あの氷青の瞳で私を見つめ、ゆっくりと唇を重ね……そして深い口付けへと私を導く彼も。
緊張とそれだけではない何かに身を固め、彼に触れられて、少しずつ融かされ、おずおずと彼の背に腕を回して応える私も。
……それが錯覚でないと、誰が断言できるだろうか?
彼の仕草は私に溺れていることがはっきり判る仕草で、時に激しく、時には甘く優しく、そうして私の身の内の熱に、共に熱くなる事を要求してくる。
彼の愛撫に躯はいとも容易く陥落して、私の躯は従順に彼に抱かれた。
遠くの私は容赦なく問う。
それすらも、錯覚ではないと、誰が断言できるのか?
……今だけは。
あの彼の腕が、長い指が、私を抱いている。
私だけを抱いている。
今だけは……なにものも隔てる隙などなく、彼とひとつだ。
そう思った瞬間、意識は白光の中に弾け飛んで、もう何も判らなくなった。
……私は幾度目かの目を覚ました。
外はまだ、先程までのようにその大半が闇に覆われていたが、新たに曙の赤から紫、そして青の微妙に混じり合った色合いが、昨晩のうちに降り積もった無彩色の雪の上を仄かに彩り始めていた。
背中に彼の気配、そして私の躯を抱き締めるように回された腕。髪を掻き上げられた首筋に彼の寝息を感じる。
そっと柔らかい戒めから逃れようとしたら、腕に急に力が篭り、それから私の躯を強く引き寄せた。
彼は一度、背から私の首筋に顔を埋めたあと、意図を持って私の前面から覆い被さるように慣れた手探りで近づいてきた。その瞳は閉じられたままだ。
もう幾度目かわからないほどのことで、私は素直に彼に応じるように動き、また……長い口付けが始まった。
夜中に薄く意識が覚める度に繰り返された、言葉のない受け答えは、頭よりも先に私の躯が覚えさせられてしまっていた。
けれど今は。
もう帰らなければならない。
非日常は昨日限りで終わったのだ。
ようやく唇が離れた後。
彼の目が開いて、私を見た。
その目は相変わらず何も語らなかったけれど。
アイスブルーの瞳。
彼は本当に……とても綺麗だと思う。心からそう思う。
彼はしばらく私を見続けた後、私の髪を梳き、私を抱き寄せて髪の上に、首筋に、唇を滑らせては何度も口付けをした。
それは熱を煽る愛撫ではなく、まるで手放し難いものを手放し難く思う時に湧き出る仕草のようで、私にも胸を締め付けるような切なさを与えた。
そうやって私たちは、後朝の別れを惜しむ恋人たちのような、甘く切ない愛撫を何度も交し合って。
……それすらもが彼一流の恋愛ゲームだと、私もこの浮かされたような熱にただ一時身を任せているだけだと、そう人から指摘されて、どうやって否定の仕様があるだろうか?
私には未だに解らなかった。
彼が何故、こんな行為に及んだのか。そして私自身が何故それに応えたのか。
……何故、と問うことはしない。
たとえその中身が何であっても、蓋を開けさえしなければ、誰にもわからないのだから。
蓋を開けさえしなければ。
シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるかなど、誰にも解りはしないのだ。
猫自身にさえも。
私は彼の腕の中からゆっくりと滑り出た。彼の指は最後の一瞬まで私の動きについてきた。
彼に背を向けたまま、身支度を整えた。テラスの外はもうずいぶんと明るさを増してきている。
一歩を踏み出した瞬間、後ろから強く強く抱きすくめられた。裸の腕が私を戒める。
耳元で彼の唇が動いた気配がした。
でも何も聞こえなかった。
……長いのか、短いのか、わからない時間が過ぎて、彼の腕が緩んだ。
私は彼の腕の中から歩み出し、彼のほうを振り返らないまま、窓を開き、出て、……後ろ手で閉じた。
雪に閉ざされた静かな大地はすべての生物の気配を遮断していた。
猫の鳴き声も、もう聞こえなかった。
最初から最後まで、彼と私はただの一言も言葉を交わさないままだった。
明け初めの天頂では、星のように瞬く銀河団の姿が強く輝いていた。