薄暗い部屋にいくつもの空中モニターが光る。
刻々と知らせてくる情報は絶望的なものばかりだ。
悪化する状況に、誰が知らせるでもなく、守護聖全員がその場に集まったのは、もう30分ほども前だっただろうか。
正確に言えば全員ではない。
聖地での30分。状況がもはや取り返しのつかないものになったと誰もが感じたその時から今までの時間……中央の巨大な半球モニターに映し出される惑星では、おそらく四半日ほどにあたるだろう。
その間も。この場に欠けた炎の守護聖は。
誰もが感じうる絶望、その惑星の大地の上、争乱の一番渦中で、絶えることなく、己の剣を振るっていた。
時折サブモニターに映し出されるその姿は、髪どころか全身が炎の色に染まっている。
王立研究院のオペレーターたちが絶え間なく交わす情報、指示、警告、そして帰還を促す勧告。
中央のモニターを見つめる残りの8人の守護聖の、重苦しい沈黙とは対照的だった。
「もういいよ……」
ぽつりとオリヴィエが呟く。
「もういいよ、アンタ、よくやったよ……」
まるでその言葉を皮切りにしたように、オペレーターの声が決定的な悲鳴となった。
「オスカー様、限界です、お戻りください! ポイントA-23に次元回廊を開きます!」
同時に、部屋の片隅の空間が歪む、慣れた違和感。
全員の視線が向かったゲート状のその場所から、炎の守護聖に同行した武官が1人、2人……次々と室内へ駆け込んできた。
緋色の髪はまだ見えない。
「あのバカは……」
殿を務めているのだ。忌々しそうな台詞なのに、オリヴィエの口調はどこか悲愴だった。
少しの間を置いて。
最後に、時空の歪みから、ゆっくりと、全身を血に染めた姿が現れた。
すぐさま、次元回廊のゲートが閉じられる。歪んだ空間が元の空虚に戻る。
炎の守護聖は、沈黙。そして、無表情。
誰も何も言わなかった。
オスカーは出てきたゲートから、そのまま前に、中央のモニターに向かってゆっくりと歩いていった。
全員の視線が、再び、惑星の姿を映し出した半球に戻る。
漆黒の星空を背景に映し出される惑星の姿。
その星が、震えたように見えた。
一点から沸き起こる、閃光。
それがゆっくりと地表を舐めるように広がって。
光に包まれたまま、外側から剥がれ落ちるように、星は無数の細片に砕けはじめた。
オスカーは沈黙したまま、アイスブルーの瞳にただじっとその光景を映している。
モニターの光が返り血のついた顔に照っている。
刹那。
ふ、とその光を遮るものがあった。
半球モニターに翳された白い手。
オスカーが顔を上げたそこには、水の守護聖リュミエールの姿があった。
深海色の目元にかかる碧銀の髪。胸元にもう一方の手を当てて。
じっと惑星を見つめたまま、全身がわずかに水色に光る。
唇が無音の言葉を紡いだ……滅びゆく、惑星に、最後の優しさを、……と。
指先から滴り落ちるように、微細な水のサクリアが、モニターの先に吸い込まれていった。
……青みを帯びた光に包まれて、星は、一瞬、泣いたように見えた。
――ほんの少しの静寂が、永遠のように感じられた。
その時間が終わって、再び、しかし先程より低く小さい声で、オペレーター達の声が再開される。
「……次元回廊、正常に閉鎖されました」
「惑星ロテーの重力反応、…測定限界値以下」
「生命反応、検索開始………………終了、検出不可…」
それらの声を遮ろうとするかのように、ジュリアスはオスカーの方へ歩み寄った。
「……申し訳ありませんでした」
光の守護聖に向かって、わずかに下げられた、緋色の頭髪からは、低い低いただその一言だけが流れた。
「よい、……そなたのせいではないのだ」
ジュリアスも静かにそう答えるだけだった。
「今日はもう帰るがよい、報告は後日に……ご苦労だった。」
顔を上げたオスカーは、ゆっくり一礼してから、その場に背を向けた。
静かな足取りで。
扉から、その姿は消えていった。
惑星ロテーのサクリアのバランスが異常を示していると、初めて守護聖会議の議題に上がったのは、聖地時間で一昨日のことだった。
未熟な精神文化レベル。科学文明が不釣合いに発達した惑星に、一度発生した火種が広がるのは恐ろしく早かった。
状況は深刻だった。緊急議題に近かったような気がする。
炎の守護聖オスカーが自らのサクリアバランスを正すため惑星に出向きたいと光の首座に告げた時、流れるような動作で立ち上がり、同行を申し出たのは水の守護聖リュミエールだった。
水のサクリアが必要だと。
だが、その穏やかな物言いが。柔らかな物腰が。暗に争いの元となった力を持つ自分を非難しているような気がして、オスカーは反発した。
わかっていた。そんな考えは単なる自分の邪推だと。事態が深刻化する前に自分のサクリアバランスを保てなかった自分自身の後ろめたさの裏返しだと。
わかっていた。それを隠すように、ことさら強く反発した。
短いが深刻な論争のあと、リュミエールは黙って自分の席に座った。彼が引いたのだ。
事態は一刻を争った。炎の守護聖はすぐに聖地を発った。
炎の守護聖が惑星ロテーにいた時間は、現地で一月の期間であった。
シャワーは十分に浴びたはずなのに。
自分から立ち昇るのは、血の匂いだ。
炎の居館の居間で、オスカーは自嘲的な笑みを浮かべた。
バスローブを纏い、ブランデーの入ったグラスを手にソファに凭れる。
当たり前だな、と感じた。あれだけの人間を斬ったのだ。
滅亡へと突き進む惑星。なんとか回避しようとした。
炎のサクリアをぶつけて、奪って。人間を斬って、斬って斬って斬って斬って斬って。
暴走、衝突、悪化、絶望、崩壊、……終焉。
1か月の間、その流れの中にいた。
ゆっくりと無意識にグラスを口へ運ぶ。氷色の瞳に、いつもの力強さは無かった。
こんこん、とドアが鳴る。どこか遠くで聞こえるようなその音に、返答はしなかった。
部屋の主の返答を待ったであろう、間を置いて、扉が開く。
視界の端に移ったのは、青銀色の豊かな流れだった。
入り口でのわずかの逡巡のあと、後ろ手で扉を閉め、近づいてくるその流麗な姿も、自分と関係ない遠くの出来事のように見えた。
ソファの脇まで来て、立ち止まり、オスカーに視線を落としてくる。
しばらくそのまま、どちらも、何も言わなかった。
虚ろな目をしたまま、オスカーは何ともなしに言った。
「……嘲笑いに来たのか?」
オスカーのその声に、いつもの皮肉な調子はない。ただただ、空虚だった。
空っぽの世界に言葉だけが響く。
オスカーはそう感じた。
リュミエールからの返事はない。
オスカーは一気に手の中のグラスをあおった。
それは喉を通る一瞬だけオスカーを焼いたが、オスカーのどこにも何も残さないまま、深遠の底に消えていった。
飲んでも飲んでも満たされない寂寞感。飲めば飲むほどに渇きは強くなる。
なぜ、こいつは何も言わないのだろうか。
ソファに凭れたまま、虚ろな思考でぼんやりとオスカーは考えた。
この水の守護聖は何をしに来たのか。
そう思ったが、気にならなかった。どうでもいい。
「……どうでもいい」
氷だけになったグラスをテーブルに置き、口に出して、そう呟いた。
ふわり、と目の前に薄い青の色調が広がった。
「オスカー」
言葉と共に、かがみ込んだリュミエールに羽根のように包まれている自分に気がついた。
オスカーの頭の周りに、触れるか触れないかという程度に回された腕。
白い手の細くて長い指が、そっとオスカーの頬に触れる。
その温度は、オスカーのものより低いのに。
その手から、リュミエールの全身から。
暖かさが染み込んできた。
水音が、聞こえた気がした。
乾いた大地に、水が沁み込む音。
そのときに気が付いたのだ。
自分の心がどれだけ渇いていたか。
自分の司る強さが、炎のサクリアが、自らの弱さを隠そうとする彼自身の心をも焼き、乾燥させ、どれほど渇いて荒涼とした砂漠にしていたか。
心が、震えた。
流れ込む暖かさと優しさに震えた。
かがみ込んだままの体勢のリュミエールの背中に手を回し、思い切り抱き締めた。
気が付いたら、リュミエールの胸に顔を押し当てたまま、声を立てずに泣いていた。
今も頬に触れる手から、暖かさが沁み渡る。オスカーの心の奥にまで。
このために、この手はあったんだと。
今、ようやく気づいた気がした。
その手にそっと、自分の手を重ねた。
ふい、とオスカーを抱え込んでいた腕が緩んだ。
一度その身を離すと、オスカーの隣に座り、再びその腕にオスカーをそっと抱き締める。
ずっとここにいるから。
そう言っているように見えた。
シャワー上がりでまだ湿っている緋色の髪に、そっとリュミエールの手が差し込まれる。
そのまま、どこまでも優しく、繰り返しオスカーの髪を撫でた。
「オスカー」
その声も、自分をいたわる優しい呼びかけだと信じられた。
声音が水の優しさを帯びてオスカーの内に染み込む。
溢れ出た水は、さらなる涙となってアイスブルーの瞳からこぼれていった。
この優しさを受け取れないまま、星ごと失われた数知れない命を思った。
胸が締め付けられるように軋んで、きりきりと痛んだ。
オスカーの端麗な顔の眉根が、苦痛の表情に歪んだ。
「……俺はっ…」
かつて一度も発したことのない、許しを請うような悲痛な声がオスカーの口から流れ出た。
「おまえの言葉に従ってれば………」
こんなことにはならなかった。
知らなかったんだ。
優しさがこれほど切実に必要なものだとは、思わなかったんだ。
喉を絞められたように、懺悔の言葉は声にならなかった。
「いいえ」
暖かい水底を思わせる、どこまでも穏やかな口調で、リュミエールはオスカーの言葉を諭した。
「あなたは正しく、最善を尽くしましたよ……私が引いたのは、あなたの言うことのほうが正しいと思ったから。その上で、あなたは最善を尽くしたのです……」
言葉の一つ一つが耳に流れ、心の中に染み渡って、リュミエールの温かさを伝える。
ああ、そうだったなと意識の片隅で小さく思い出した。
この水の麗人は、自分が正しいと思うことなら、首座の守護聖が相手でも決して自分の意見を曲げようとしない。
こんな簡単なことも、忘れていた。
炎の守護聖として毎日の執務をこなし続け、4年間……ただただ、いつも強くあろうとして、自分の炎の力だけを信じ、知らない間にひたすら自らに焼かれ、ひたすら渇ききってゆく己の心にさえ気がつかずに。
「…名前を、呼んでくれ……」
「オスカー」
「もっと…」
「オスカー」
耳元で声が囁かれるたびに、心が揺れて、震えて、…満たされてゆく。
今ようやく、取り戻した暖かさを確かめるように、オスカーはもう一度リュミエールを強く抱き締めた。
自分から昇り立つ血の匂いは、いつの間にかリュミエールの匂いに置き換えられていた。
傍にいる人の表情がかすかに見える程度の薄暗い明かりの中。
オスカーは、自室のベッドに横たわっていた。
ベッドの端に腰掛けたリュミエールは、少しだけ体をオスカーのほうに傾けて、その顔を覗き込むように、オスカーへ優しい瞳を向けている。
全身を襲う酷い疲労感と、長時間涙を流しつづけて心地よく麻痺した思考、リュミエールの腕に包まれて感じる喩えようもない安堵感のせいで、ソファに座ったまま意識を手放しかけていたオスカーを、寝室まで手を引いて導いた後、リュミエールはわずかに首を傾け、目だけで静かにオスカーに問い掛けた。
「…俺が寝付くまで、傍にいてくれ……」
真摯なアイスブルーの瞳の、オスカーのその返事に、リュミエールは優しい笑顔で応じた。
深海の瞳がこちらを見ている。
手は優しくオスカーの髪を撫でている。
リュミエールの肩口から流れ落ちる青銀の髪が、ときどき頬に触れて心地よかった。
「あなたは強い人だから」
絶え間なく、優しく囁かれる言葉と、髪を撫でる手の優しさが、安堵感となってオスカーを包む。
「誰よりも強い人だと、私は知っているから」
目を閉じる。慈雨のように降ってくる、言葉。想い。
「眠って、目が覚めた時には、いつものあなたになれるから」
急速に消えてゆく意識の中で。
「だから、今だけは」
だから、今だけは。
「そのままの、あなたでいて」
俺の、傍にいて……。