■ 一千億年の恋 第5

 そろそろ片手の指を越そうかというくらいに重ねてきた恒例のことになっていたから、もう水の館の執事の案内も付かなくなった。というよりも、俺が雰囲気だけで無言のままにそれを断ったというほうが正しいだろうが。

 こういう気分の時は、たとえ短い時間でもあまり他人と一緒に居たくない。

 主とその館の夜の静謐を乱す俺へと投げかけられた、彼の諦め気味の溜息と多少の非難めいた視線と彼自身とを玄関ホールに残して、俺はまた前回と同じように廊下を辿った。そうして行き着いたリュミエールの私室の扉を開く。

 多少乱暴に室内へ響いた音は荒れ気味の俺の心情を嫌と言うほど如実に表しているようで、それがまた俺の神経を苛つかせた。

「オスカー」

 部屋の主は膝の上の本から顔を仰ぎ上げて俺を見、この時間帯にはたいていそうすることが日課になっている読書を中断し――奴のその習慣ももう覚えてしまったし、就寝までの時間消化とも言えるその時間帯を見計らって俺も来ているのだが――サイドテーブルの上に本を置いてソファから立ち上がった。青銀の長い髪と薄い夜着の裾と、肩に掛けられた白いショールが優雅な動作に合わせて靡く。

 どうやらこいつは客が来た時は立って出迎えるべきだと律儀に考えているようで、夜も更けた頃に足音高く押しかける礼儀知らずの、到底客とは呼べないような俺にまでその対応を崩さない。どうせすぐソファに引き戻されることがわかっていても、だ。

 俺は仏頂面のまま無言で、近づいてきたリュミエールの手首を乱暴に掴み、さっきまでリュミエールが座っていたソファに向かって歩き出した。リュミエールももう慣れたもので驚きもせずについてきて、俺を追い越すようにして直ぐにソファに腰掛ける。

 俺は掴んだ奴の手首を離さないまま、その足元の床に座り込んだ。そうして少し冷えた白い掌に顔を埋める。

 そのままソファに凭れると、目の前に奴の膝がある。指先を頬に当てるようにして俺は動かず、ただ時間だけが流れた。

 しばらくされるがままにじっとしていたリュミエールの手が、やがてゆっくり動いて俺の髪を撫でる。俺は目を閉じて素直にその手を離し、髪の中に滑り込む指先の感覚だけを追った。

 一撫でされるごと、触れる指先からの波動に、ささくれ立った神経が宥められ、穏やかに暖かに浄化されていくのを感じる。

 ついさっきまで張り詰めていた、俺の肩から緊張が解れていった。

 きっとリュミエールは、優しい深い瞳を俺に向けて、穏やかに微笑っている。そういうことが見なくても判る程度にはなっていた。

 

 俺はあれから、何度かこうやってこの手を必要としていた。

 

 幾億幾千万の命を抱えた惑星ごと、不可抗力とはいえ死に追い遣った俺の痛手は思ったより深く、リュミエールのサクリアに包まれながらようやく眠ったあの日の後も、それまでならば何とも思わなかった些細な事があるごとに容易く神経は刺激され、逆撫でされた。

 それが積もり積もって酒でも女でも解消しきれなくなり、どうしようもなくなって今日のようにこの水の館に押しかけたのが、丁度あれから1週間後のことだった。

 もう深夜と呼んでいいほどの時間帯に姿を見せた俺に、リュミエールは多少ならず驚いていたようだったが、何かを尋ねようとするリュミエールを無言で押し留め今日のように強引にその手を借りた俺の様相に、瞬間で全てを心得たようで、ただ黙って優しく微笑ったまま、何度も何度も繰り返し俺の髪を撫でたり梳いたりしていた。

 ささくれた棘だらけの神経を抱え、他人も自分自身も傷つけずにはおかない、そんな状態の俺が、暖かく深い海にどこまでも飲み込まれ、躯の内側から癒されてゆくような、無言で注がれるその途方もない安堵感――。

 不覚にも目頭が熱くなったが、目を閉じ神経を集中してなんとかその衝動には耐えた。

 崇高なものを見るような思いで、この水の守護聖の存在をまるで奇跡のようだと思った。

 

「……俺はお前に嫌われているからな」

 

 それでも奴に投げかける皮肉交じりの俺の口調は、もうはるか昔からの癖になっていて直しようがない。

 俺の髪を梳きながら穏やかに微笑ったままただ耳を傾け、俺の言葉を無言のままに否定も肯定もしないリュミエールの態度が、俺にとっては嬉しいようでもあり悔しいようでもあった。

 

「これ以上嫌われる心配が無いから、どれだけ迷惑千番でも気にせずに済む。」

 

 俺の言葉に、囁き声のようにほんの微かにリュミエールは笑った。自分の発言が恐ろしく餓鬼っぽい言い草になっていることは自覚していたから、明後日の方向に視線を向けて聞こえないふりをする。

 リュミエールの白い手が、俺の前髪を掻きあげた。誘われるように俺は目を閉じた。

 

「……いつ来て下さっても結構ですよ。私も……こうやっていると、とても落ち着くのです。」

 不思議ですよね、とリュミエールが囁く。優しい声音は水のように俺の胸のあたりへ染み込んで、また自分が酷く焼き付いて乾燥していたのだと思い至った。

 

 それでもこうやって水の館を訪れる機会は、1週間に一度、それが2週に一度になり、更に延びて数週に一度のことになっている。

 そんな風にしてこの習慣もフェードアウトするように消えてなくなり、あの日から少し良い方向へと形を変えた俺とリュミエールの関係は、そのまま維持されていくのだろうと思った。

 ずっと変わらないものだと、思っていた。

 

「女々しいよな」

 リュミエールの表情は視界の端に切れていて判然としなかったが、小首を傾げる気配がした。

「お前のことじゃないぜ、俺もそこまで底意地悪くは無い。……俺のことだよ。」

「……そうなのですか?」

 リュミエールが身じろぎして青銀の髪が流れ、さらさらと紗のような音が鳴った。止まった手首を軽く引っ張って促すと、リュミエールの手は再び俺の髪の中を泳ぎ始めた。

「普通こういうことは女に求めるものなんだろうが、レディたちにとてもじゃないがこんな情けない姿は見せられたものじゃない」

「全宇宙の女性の騎士ナイト、炎の守護聖・オスカー様ですか」

 皮肉みのないくすくす笑いが俺の耳に届く。

「俺にとって、女性は守り慈しみ愛する対象であって、甘えを見せる相手じゃないからな」

 それから俺は、唇を歪めて笑った。

「……こんなに弱い俺を、曝け出すことも出来ないでいる。」

「……貴方は弱くなどありませんよ」

「弱いさ。……また惑星を、危険に晒している。」

「……貴方の所為ではありません」

 一瞬だけ、リュミエールの腕が俺の頭を抱え込むように廻され、力が篭められた。

 

 あれから数か月以上が過ぎてようやく落ち着いてきていた俺の神経が再び荒れだし、何週間かぶりにこうやってまたこの手を必要としてきたのには理由があった。

 最近、また雲行きの怪しい惑星がある。

 発達しすぎた文明が、知的生命体と称する人間自身の生態系と、そして何よりも惑星全体の生態系を破壊し始めていた。対立する複数の文化圏が相次いで核エネルギーを獲得するに至って、この傾向が加速度を持って急激に進んでいる。

 あの惑星ロテーと同じように――――星ごとその存在が宇宙から消滅しかねないほど、危険な状況を帯びている。

 

 惑星カレル。

 それがその星の名前だった。

 

 王立研究院の予測を超える勢いで急激にその惑星の科学技術が発達したのは、小国間の些細な――あらかじめその発生を予測することが不可能であったほどの、ほんの些細な抗争を初発とする世界大戦の勃発にあった。

 凡そ全ての科学文明は、戦争を契機として大幅に進歩する。コンピュータ・プロセッサの発達は大気中の空気抵抗を包括する砲弾の軌道計算のため、核分裂・核融合の実用化は原子爆弾・水素爆弾の製造のため、そして宇宙技術の発展は軍事衛星の開発のために為される。

 未だ星間航行技術を獲得していないその惑星は、女王府と王立研究院の不文律の元、まだ主星文化圏へは組み込まれておらず、従って主星の、女王の絶対的権威を背景とする各国間の調停も出来ない状況にあった。

 こんな状況での女王権の介入が、どれほど無力で、どれほど実効を為さないものであるか――それはこの間の、あの生々しい、数々の流血をもたらした、そして結局悲劇的結末に終わった惑星ロテーの一連の経過が指し示すところであった。

 嫌と言うほどそれを心得ている。女王府も、王立研究院も、他の守護聖たちも、俺自身も。

 

 心得すぎるほどに、皆、心得ていた。

 

 それが今回の出来事の、裏側の問題だった。

 

「嫌なものだな」

「……何が、でしょうか」

「絶対的な地位と力とを行使することが可能な立場にあるってことは」

「……………………」

 

 

 ……何十億年という歴史を重ね着実にその生命を育んできた末、惑星自らが最終的に生み出した、最も高い知能を獲得した種による惑星丸ごとひとつの壊滅、というあの出来事は、俺だけでなく凡そ聖地で各々の役目を果たそうと志していたもの全てに多大な衝撃を与えた。

 己の無力。自分たちが良かれと考え、行った、それら全ての行為が数多の生命を巻き込んで宇宙の塵へと帰した時の絶望感。

 あの過ちを繰り返すなと。

 ただ1系統の種のために、他の幾億の種をその背に乗せた美しき生命の揺篭が再び滅びるようなことがあってはならぬと。

 過剰な警戒を帯びた多数の思考は、再び繰り返されつつある危機に対して、あるひとつの極端な道を選択しようとしていた。

 

 

 ――あの悲劇を再び招かぬために。

 ―――自らに罪の無い、他の生態系を絶やさぬために。

 ――せめて最低限、星の命が長らうように。

 

 ―――人であって人たらぬ者の、貴き力を行使すべし――

 

 

 ヒトという種族は生命樹の最も極みにあり、多様な生活体系を創り上げるための最も複雑な生体恒常性を有するが故に、突然の環境的衝撃インパクトに最も弱い種でもある。

 惑星にとっては些細な、その歴史上何度も繰り返されてきたほんの些細な変化に、その星の創世の曙に見られた天変地異と比べれば可愛いほどに穏やかな小さな天災に、文明と呼ばれ培われてきたものはいとも容易く且つことごとく破壊され、複雑な生体はその複雑さが仇となって生命の維持機能を喪失する。

 

 ……おごれる種に、女王の名のもと、天の鉄槌を下せと。

 つまりはそういうことだった。

 

 

 そう暗に陽に囁き交わす者たちは、それを行使せねばならぬ守護聖の立場を考えたことがあるのだろうか?

 

 

 ……あの夜の酒の、口の中が干からびるような味を思い出す。

 

「……そんなことはさせません」

 

 俺の考えていたことを読んだように、リュミエールは静かな、しかし決意に満ちた声で言い切った。

 触れるか触れないかという程度に、両手で俺の頭をそっと囲い込み、覆い被さるように俺の頭上で顔を伏せた。長い水色の髪が俺の周りに流れ落ち、柔らかく光を遮った。

 それはどこか、強い祈りの姿に似ていた。

 

「……そんなことは、誰にもさせません。他の守護聖の方にも、……貴方にも。」

 

 はっきりとした物言いはしかし穏やかで、そして決して暖かさを欠くことなく、頭上から俺の周囲へと、渇きを癒す慈雨のように降り注ぐ。

 再び訪れた、俺の司るサクリアが原因でもある宇宙の危機に直面し、しかも守護聖として最も嫌悪すべき方向の力の行使を暗黙裡に要求され、固く痛く強張っていた俺の心が、暖かい水の底へと融けてゆく。

 状況の悪化が加速化したこの何日か、心身共に疲れ切った俺が求めたいかなる何物も誰も、それを成し得れたものはひとつも存在しなかった。

 

 惑星カレル。

 豊かな水系に囲まれた、……奴の故郷にどこか似たその水の惑星に、この水の守護聖が昔から特別に思いを寄せている事を、俺は知っていた。

 

「……お前は強いな」

 水の優しさに心を委ねることの、染み渡るような心地良さを実感しながら、俺は本心からそう告げた。

「……強くなどありませんよ」

「強いさ」

 自分が願いをかけ、慈しみ育て庇護下に置いてきた惑星が、かつてない程の危機に晒されているのに。

 暖かい未来をただ信じて自分自身の精神を支えられているだけでなく、俺までをもその中に包み込んでなお余りある、その包容力。

 優しさと不可分のものでは有り得ないそれを、強さと呼ばずして何と呼べばいいのだろうか?

「…私は、本当は強くなどないのです。」

 俺は視線を上げた。見上げたすぐ先には、物言いたげな深海の瞳の、柔らかい微笑がある。

「……いつかきっと、貴方にもわかりますよ」

 

 もしそうならば。本当にそうならば。

 この水の守護聖がいつか誰かの手を必要とする、その時、傍らに在るのは、俺でありたいと――思った。

 ……せめてもの報いに。

 そう、こうやって何度も暖められたことへの、せめてもの返しとして。

 

「……守るよ」

 

 水の守護聖の両目が、問いたげにまたたいた。

 

「あの星を。……な?」

 同意を求めるように俺が問い掛けると、もう一度目をしばたたかせたリュミエールは、やがてふわりと……幾重にも重なった柔らかな花弁の蕾がほころぶように、心から嬉しそうな暖かい笑顔を見せた。

 

 ……守りたいと思った。

 これほどまでに優しく落ち着くこんな一時、こうやって、俺だけに見せる、リュミエールのその暖かい微笑を。

 

 

 守護聖たちと王立研究院の連携によるサクリアの供給・引揚げが大幅に、そして微に細に入り行われたにも関わらず、惑星カレルの状況は改善の兆しを見せなかった。

 戦乱の火の粉はもはや惑星全土に及ぶに至り、既に破壊された文明圏は数十箇所、戦乱が開始してから絶滅した生物種は万を超えたと言われている。

 

 リュミエールの姿を星の間で見かけることも頻繁になってきていた。

 優しさを受け取ることを拒む星の上の数多の意識へ、日毎夜毎、絶えることなく水のサクリアを送り続けるその姿は、まるで尊いものに祈り縋る――そして自らの罪を懺悔する、殉教者のようだった。

 今回の事態に、誰よりもリュミエールが心痛め、懸命に事態を改善させようとしているのは皆の知るところであった。

 大切に慈しみ護ってきた――そして今は、その愚かさに気付くことなく滅びへの道を自ら進んで歩みつつある星のために、水の守護聖は宮殿で、王立研究院で働き、奔走しては他の守護聖にサクリアの調節を依頼し、そして何よりも自分自身の優しさのサクリアを送り続けている。

 それでも巨大な慣性を抱えた星の状況の、悪化のスピードを遅らせる、それだけしか出来ない。決して事態がプラスの方向へ向かう事は無かった。

 守護聖たる身が、己の、その至高とされる力の如何に無力であるかということを、嫌と言うほど思い知らされるのはこんな時だ。俺もそれは知っている。

 最近ではほとんど休息を取らなくなったリュミエールは、誰の目にも明らかなほどにやつれていき、その瞳からは憂いの表情が常に漂い、消えなくなってしまった。

 

 そろそろ、限界だった。

 守護聖たちの状況も、惑星カレルの状況も。

 

 明日の月の曜日の、週明けの守護聖会議では、何らかの形で結論を出さなければならなくなるだろう。

 そんな日の曜日だった。ジュリアス様のお供で、遠乗りに出掛けたのは。

 

 

「温まったか?」

「はい、お陰様で。――せっかくの遠乗りが、災難でしたね。」

 

 突然降り出した夕立の中、俺とジュリアス様は急ぎ早駆けで光の館へと戻ってきた。

 濡れて冷えた身体に俺は私邸の客間のバスルームを使うよう勧められ、上がってくると夕餉の用意が整えられていた。

 シュラスコのようなラフな料理もいいが、豪奢であっても華美ではないこの光の館での、屋敷の佇まいとその主の在り様に相応しい格式だった晩餐も、俺は決して嫌いではなかった。

 

 遠乗りにしろ、晩餐にしろ、俺にしろジュリアス様にしろ、心から愉しむ、などとは程遠い心境であったが。

 

 それほどまでに、行き詰まった惑星カレルの状況は、星自身も守護聖たちの心理をも、計り知れないほどの疲弊に追い遣っている。

 

 ――この雨の中、リュミエールは何処で、何をしているのだろうか。

 

 

「―――陛下も、お心安らかではおられないのだろうか……」

 ジュリアス様が食後のエスプレッソを手に、降り続く窓の外を眺め遣りながらぽつりと呟かれた。

 俺にも、光の守護聖の意中が何とは無しに推し量られた。

 

 気候の安定した聖地に於いて、夕立というのは本当に珍しい。

 256代女王の座に就いたばかりの、金の髪の愛らしい女王陛下は、それまでよりも大幅に天気や気候を変えたりして、その候補生時代からのお転婆ぶりを今でも発揮しているが、それでもこれほど急激に激しい雨を降らせて誰かを困らせたりするようなことはしない。

 

 最近の惑星カレルを巡る悪境は、当然ながら既に彼女の耳にも届いている。

 

 この雨は――彼女の心の揺れの表れなのだと。

 

 ジュリアス様は俺のほうに向き直り、白磁のカップを下ろして、その強い両の碧眼の眼差しを真っ直ぐに向けてきた。

「まだ、表立ってはいないようだが――研究員たちが検討中の、この件についての対応策を、そなたは聞き知っているか、オスカー」

「存じております。……守護聖として、到底、承諾しかねることとは思いますが」

 

 あの日のリュミエールの言い分を、もっともだと俺も思っていた。

 今まで自分たちの手で育ててきたものを、自分たちの手で破壊するようなことなど――それも数知れない、膨大な命を巻き込んで。

 研究者が机上で弄んでも、守護聖たる身が及ぼすべき行為ではない。

 

 ――そう当然のように考える思考過程の中に、わずかな言葉で交わしたリュミエールとの密かな約束が、全く念頭に無かったとは言えなかったが。

 

 

「……守護聖として取るべき道、か。」

 

 ジュリアス様はゆっくり席を立たれると、激しく降り続く外の雨を映す窓のほうへと歩み寄った。緩やかな弧を描く金の髪がその背の上で揺れる様子が目に映った。

 

「彼らの主張する道が、本当に守護聖の本分から外れたものだと――そう言い切れるであろうか?」

 

 俺は息を飲んだ。

 椅子を蹴って立ち上がる。豪奢な室内に不似合いな鈍い音が強く響いた。

 

「ジュリアス様!」

「あの惑星が、これから先、改善の気配を見せることがあると――そなたはそう思えるのか、オスカー?」

「……それは……」

 

 咄嗟に反論しようとした俺の言葉は、ジュリアス様のその言葉と、振り返った碧い瞳の、閃光の強さに遮られた。

 

 それは。

 どう見ても絶望的だった。

 どうやっても否定しようの無いほどに、明らかに。

 

 どれほどに守護聖たちが、王立研究院が、女王陛下が、リュミエールが奔走しようとも――状況は既に、引き返し様のないところまで進んでしまっているのだと。

 

 

 ――だからと言って。

 何もそんな――そんな決定を下さなくとも。

 

 

 俺の身体中に緊張が張り詰める。手の置かれていた椅子の背を強く握り締めた。

 口の中が何時の間にか、からからに痛いほどに乾いていた。

 

 

 意識の片隅に、約束の夜のリュミエールの柔らかな笑顔が映った。

 それがどこか遠くに感じられた。

 もう何日も、あいつが笑顔を――誰と一緒に在っていても、何処に居ても、見せていないことに気がついた。

 

 

「――クラヴィスが、それとなく言い添えてきた。」

 

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 

「あの者なりに、リュミエールのことを心配しているらしい。」

 ……数秒遅れて、闇の守護聖の意図を悟った。

 

 

「星ひとつを、丸ごと滅ぼす痛みは――そなたが一番知り及んでいるであろう」

「………………」

「今なら、まだ……まだ、あの星の大半は救える。」

 

 ――守護聖の力の、意図的な行使による、数多の命を奪う行為と引き換えに。

 

 

 ジュリアス様は言葉を閉ざした。

 それは決して言いたい事を言い終えた沈黙ではなく、続く言葉を躊躇い言い淀んでいる沈黙なのだと気付かされた。

 

 

「――私は、もう、あの日のそなたのような姿の者を、見たくはないのだ。」

「………………」

 

 部屋の中の重い沈黙の上に、降り続く雨の音が重なった。

 

 

 ……守りたかった。あの星を。

 あの日口にしたそれは、決して嘘偽りではなかった。

 

 

 けれどもそれ以上に、あの日の、リュミエールの微笑を――守りたかった。

 

 

「……他の者に負わせることなど、考えてはいない。全て私が――」

「俺が!」

 

 ジュリアス様は、振り返り目を見開いて驚いたように俺を見た。

 

「俺が――俺にやらせてください。」

「……そなたが責を負わなければならぬ理由など、無いように思えるが」

「俺のサクリアが原因とも言えるこの状況です。俺にやらせてください。……強さと争いと、破壊とを司る、炎のサクリアに。」

「………………」

 

 

 リュミエールの微笑を守りたかった。

 守るのは――俺でありたかった。

 それがあいつへの、俺に与えられ続けたものへの返しとなるならば。

 

 たとえそれが、本来、望んだはずのものとは異なっても。

 

 

 ジュリアス様はしばらく逡巡された後で、小さく、すまない、と呟いた。

 

 

 

 

 翌日の週明けの月の曜日、全ての手筈は、会議の前に整えられた。

 俺と、ジュリアス様と、王立研究院との間で。

 

 先に会議の間に来て着席していた俺の前の席に水の守護聖が姿を現し、椅子を引く文官に促されていた。

 顔色は酷く悪い。

 結局、リュミエールは土の曜日も日の曜日も、休みを取っていなかった。そう聞き及んでいた。

 

 腰を下ろす瞬間、リュミエールは俺の存在に気付いたようだった。

 そして少しだけ、まるで葉が風にそよぐ瞬間のようにほんの少しだけ、あの、柔らかい微笑を垣間見せた。

 

 何日ぶりか――いや、もう何週間ぶりかに見る、リュミエールの微笑。

 水の守護聖の公のそれとしてではない、あの微笑。

 俺に全幅の信頼を寄せているのだ。

 あの夜の、約束の下に。

 

 ――俺は思わず、反射的に視線を逸らした。

 

 リュミエールは訝しんだだろうか。

 それを確認するために視線を戻すことは出来なかった。

 

 ――星のため。

 ――そして、お前のためなのだと。これがお前のためでもあるのだと。

 

 会議が始まるまでに収めなければならない動揺を収めるために、俺は胸の内で何度もそう繰り返した。

 

 あと数分もすれば、全てが予定通りに進められるはずだ。

 動揺している暇など無かった。

 

 

 ジュリアス様が入室する。間を置かず、研究員数名が入室してきて守護聖達の着席している卓の下座に控える。

 もうすぐ、会議の間の最上座に金の髪の女王が姿を現すだろう。

 

 俺は窓の外に目を遣った。

 墨を流したような、陰鬱な曇り空だった。

 

 

 

 女王御臨席の元で御前会議が開始された早々、王立研究院から惑星カレルの動向について報告があった。

 惑星の絶滅種はとうとう億に達した。その背後で失われた生命の数は想像を絶する。

 沈痛な空気がその場に広がった。

 研究員が遠回しな言い振りで、女王と守護聖の裁断を求める。

 

 ジュリアス様が起立した。

 打合わせ通りの行動のはずなのに、俺の緊張感は1秒ごとに増していく。

 

「今の王立研究院の報告にあったように、もはやサクリアの調節だけで事態を乗り切れる時期は過ぎたと私は考える。――よって、守護聖のサクリアの行使による惑星カレルの文明圏破壊を提案する。」

 

 他の守護聖達も以前から暗に聞き及んでいたはずのその対応策は、それでも会議の場を一斉に低くどよめかせた。

 

 俺は正面に座るリュミエールのほうを見た。

 

 真っ青な顔をして、俯いている。

 

 胸が痛んだ。

 俺が今からしようとしている事に対して。

 泣けるものなら、泣きたかった。

 ……でも泣ける筈も無かった。

 

 

 俺はあえてその水の守護聖の姿から目を逸らさないまま、軽く挙手をして、着席したジュリアス様と入れ替わるように立ち上がった。

 努めて冷静な顔を作る。

 あの夜に形成された何かへの、決別の言葉を紡ぐ為に。

 

「俺はジュリアス様の意見に賛成します」

 

 水の守護聖が、弾かれたように俺を見上げた。

 俺はその視線を真正面から見据えた。

 決して動揺を見せまいと用心していたはずの俺の心構えは、予想だにしていなかったその表情に、いとも容易く揺さ振られた。

 

 その深海の瞳の中には、俺が恐れたような傷ついた表情や非難の表情はなく。

 聞いたばかりの言葉が俺の口から発せられたとは信じ難いように、ただ――ただ呆然と、俺を見上げる。

 

 俺の軽く挙げたままの手が、震えそうになった。

 耐え切れずに視線を逸らした。けれど決して視線を下げることはしなかった。出来なかった。

 轟然と。強さを司る、炎の守護聖らしく。

 そう見えるよう、俺はことさら意図的に振舞った。

 

 俺は提案に同意した理由を打合わせの通りに並べ立てた。

 内容的には昨日、ジュリアス様の私邸で交わされた会話の要約だった。しかしより散文的に、事務的に。

 意識して保っていた俺の冷徹な声と表情が、その印象に拍車をかけただろう。

 ジュリアス様が垣間見せた顧慮を伝えることなど、出来得る筈も無い。

 

「――――私は同意しかねます!」

 

 そして俺の言い納めの言葉に、覆い被さるように重なった声。

 

 

 ……わかっていた。お前ならそう言うだろうと。

 

 それを受け止めるのもまた、俺でありたかった。

 だから椅子を蹴るようにして立ち上がった水の守護聖を、俺は着席しないままに向かい合って強く見据えた。

 

 

 リュミエールは信じられないほどに綺麗だった。

 怒りでもない。哀しみでもない。

 ただ静かに、凛然と背を伸ばし、吸い込まれそうに何処までも深いその瞳を真っ直ぐに向けてくる。

 気配が立ち上りそうなほどに強い意思。先ほどまでの儚げに俯いて青ざめていた表情が嘘のようだった。

 

 俺が思わず目を細めたその姿は、神々しくさえあって。

 

 

 瞬間、引き裂かれんばかりの強さで、その存在をこの両腕一杯に掻き抱きたいという渇望に揺さ振られた。

 

 

 

「――同意しかねます。いかに――いかに情勢が悪化しようとも、自らの手で育み護り育ててきたものを、自らの手で滅ぼすなど――」

「ならば如何なる対策が残されている? 今のままの対応で、情勢が好転すると思っているのか?」

 反射的に俺はそう問い返した。

 気を抜けば水の守護聖の、その暖かい意思に沿ってしまいそうだった。

 自らが尤も奔走し、そして疲れ果てた水の守護聖なら、もはや情勢は動かし難いと――それを一番理解しているのだろう?

 そう伝えたかった。

 俺の冷たい響きの言葉に、リュミエールは哀しげに眉を顰め、辛そうな表情を見せた。

 予期していたはずのリュミエールのその表情に、しかし俺はかえって冷静さを失った。

 

「未来への望みを、何故自ら進んで断ち切るのですか。希望を持っては――いけないのですか?」

 悲痛な響きを帯びた、祈りのような言葉。

 

 混乱した俺の頭に、じわり、と血が上ってゆく。

 

 希望。

 それが断たれた瞬間を――俺は惑星ロテーの時に嫌というほど味わった。

 

 お前にそんな思いをさせたくない。だからこその選択なのに。

 お前のためを思っての決断なのに。

 お前自身が、それを踏み躙るのか――!

 

「お前一人の希望のために、幾万幾億の生命を星ごと殺すつもりか!」

 激昂した俺の口から、怒鳴り声がそう迸り出た。

 

 リュミエールは俺の叫び声にびくりと大きく身を竦ませて、初めてその時――傷つけられた子供のような表情をした。

 

 

 あの夜が壊れる音を、その瞬間、俺ははっきりと耳にした。

 

 

 

 何も言えないまま、深い淵にゆっくりと沈んでいくように、脱力したようにリュミエールが椅子に身を沈める。

 それが会議の行き着く先を全て物語っていた。

 

 

 程なくして、採決は下された。