■ 一千億年の恋 第2

 あの時。

 カティスに紹介されて、お互いが対の守護聖だと知った、あの瞬間。

 

 

 あいつは。

 

 

 それまでの、驚きの表情を、

 ふわり、と微笑みに変えたんだ。

「初めまして・・・炎の守護聖、オスカー。」

 

 限りなく透明な水を思わせる、優しくて綺麗な微笑。

 一切の影もなく。

 ひとかけらの不純物もなく。

 ただただ純粋な優しさだけが、その体全体から溢れんばかりで。

 

 

 

 信じられなかった。

 こんな人間が、この世に存在するなんて。

 ほんとに、全然、知らなかった。

 

 

 

 俺は当時18

 若いと言われても当然の年齢だったが、聖地に来るまでの自分はそれなりの人生経験を重ねてきた、と思っていた。

 軍人として戦いに赴いた。当然、人を斬った。

 他人の上に立つ立場になったこともある。

 女も経験した。公平に言っても、同年代の男よりは遥かに多く。

 山ほど多くの、いろんな人間を見てきた。

 

 たいていの人間はどこかに傷やら影やら負の感情やらを持っている。

 強がりの中の弱さ。

 決断の中の困惑。

 いろんな感情が入り乱れる。それが態度や表情に表れる。

 それで当然だと思ってた。そうじゃない人間なんて知らなかった。

 

 

 リュミエールは。

 

 ほんとに、知らなかった。

 こんな。

 こんな人間。

 

 俺にとって、リュミエールは、「はじめて」だった。

 

 こんな純粋に優しさだけの人間は見たことがない。

 

 その表情を、瞳を、どんなに深く探っても。

 どこまでも水の深くへ吸い込まれていくだけで。

 影なんて、負の感情なんて、何処にもない。

 

 

 気がつくと、深海色の瞳を逸らせない自分がいて。

 自分から逸れない深海色の瞳があって。

 

 

 頭が痺れる。体が痺れる。手足が痺れる。

 足元が揺らぐ感覚。

 急降下しているような、急上昇しているような、そんな。

 

 こめかみに自分の熱を感じた。

 

 

 

「失礼します!」

 俺はカティスに向けたその言葉だけを場に残し、弾かれたようにつま先を翻した。

 半ば走っているような急ぎ足で執務室の方向へ戻る。

 そのままあの場にいたら、自分の中の何かが崩れ落ちてしまいそうだった。

 それほどにリュミエールは俺にとって衝撃だった。

 その純粋な優しさ故に。

 

 

 

 

 

 

 執務室に戻って、午後の仕事を開始した。

 まったくうわの空で、少しも進みはしなかったが。

 脳裏に焼きついた、リュミエールの微笑みが、繰り返し繰り返し再生されていた。

 

 ……少し落ち着いてから、思った。

 あれは欺瞞だ。

 何処を探っても、優しさでいっぱいだなんて、そんなことがあるわけない。

 あいつはそのことを上手く隠し遂せたのだ。俺から。

 そう思うと、騙された自分と騙したはずのリュミエールに酷く腹が立った。

 化けの皮を暴いてやる。

 絶対にあの瞳に、怒りや非難の色を浮かび上がらせてみせる。

 そう、決心した。

 

 それからというものだ。

 誰もが知っている、例の俺の態度が始まったのは。

 リュミエールにちょっかいをかける。からかう。難癖をつける。

 女のようにもて扱う。非難する。

 会議で対立する。反対の立場を取る。

 実際に俺達は、対立するサクリアのせいで意見が合わないことが多かったから、機会には事欠かなかった。

 たとえ一回でもその深海色の目に、怒りとかそんなものが読み取れたら。

 俺の行動はそれで終わるはずだった。

 おまえのそんな部分が見たかったんだよ。

 そう言って、そんな悪戯は終わりにするつもりだった。

 でも。

 

 あいつには一度たりと、そんなものが表れたことはなかった。

 どんな時にも。どんな酷い言葉にも。

 優しい瞳を、優しい顔を、ほんの少し沈ませるだけで。

 反抗とか、非難とか、そんなものは全然見えてこなかった。

 

 気まずい雰囲気に立ち去るのは、俺の方だったり、あいつの方だったりしたが。

 そんな諍いのあと、俺はいつも酷く苦々しい思いをした。

 自分に自覚があるだけになおさらだった。

 そしてその分、少しも俺の思うようにいかないリュミエールに対して苛立ちを覚えた。

 悪戯はエスカレートする一方だった。

 そのうち、悪戯と呼べる限界を行き過ぎた。

 

 その日も。

 いつものように、俺はリュミエールに絡んだ。

 そのうちすぐに、俺の言葉は一方的な非難になった。

 それでも。

 それでも、リュミエールはその表情に怒りの色を表さなかった。

 あいつは静かに、目を伏せた。

 髪より少し濃い色の睫が揺れた。

 

 その瞬間。

 俺の理不尽な怒りは沸点を超えた。

 頭に血が上る。

 自分の声が怒声に変わった。

 

 それから先、何を言ったのか、よく覚えてない。

 ただ。

 

「オスカー!」

 

 たまたま通りかかったジュリアス様の、滅多に見ないような極度の怒りの声と表情。

 それから、目の前で白いを通り越して真っ青な顔をしている、水の守護聖の顔に気づいて。

 自分がどれだけ手酷い言葉を投げつけていたか、それだけは理解した。

 一瞬で熱が引き、津波のような後悔の波が押し寄せる。

 

「オスカー、そなた、黙って聞いておれば、限度というものを――」

「ジュリアス様!」

 

 耳を、疑った。

 

 今の声は、おまえ、――

 

 ――リュミエール…………

 

 

 ジュリアス様の声を押しとどめたのは、確かにリュミエールの声だった。

 ジュリアス様も驚いたのだろう……俺同様に。

 驚きの表情で、リュミエールを見ている。

 

 リュミエールは、俺達を見たまま。

 ゆっくりと、かぶりを振った。

 青銀の髪が、柔らかく揺れる。

 

 そして。

 

 

 何時ものように、優しく、微笑んだ。

 

 

 

 

 俺の中で、何かが、崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 リュミエールがその場から立ち去った後も、ジュリアス様はそれ以上俺に何も言わなかった。

 たぶんその時の俺が、リュミエールと同じぐらい青ざめていたからだろう。

 

 居館に帰って、倒れ込むようにソファに横になった。

 何度も何度もさっきの出来事を反芻する。

 ようやく気がついた事実。

 そのことを確かめる為に、昨日の事、その前の事と、遡って思い出してゆく。

 どれだけ確認しても、出される結論はひとつだけだった。

 

 あいつの優しさが、どこまでも深い本物のものだということを。

 

 どんなに遡っても。

 出てきた結論を裏切る過去はひとつもなかった。

 そして。

 俺達の最初の時間に行き着いた。

 

 あの時の。

 最初に出会った時の、無垢な微笑。

 

 

 俺はあの微笑を傷つけ続けてきたんだ。

 謂れのない疑惑で地に堕とそうとした。

 

 

 胸が、痛んだ。

 

 

 そのときの痛みが、針で刺されるほどの痛みだったか、引き裂かれるほどの痛みだったか、覚えてない。

 ただひたすらに、哀しかったから。