気がついた時には、キスをしていた。
顔はわずかに上向かされ、全身を埋め尽くす名前の知らない強い感情に、閉じた目からは涙が零れていた。唇は深々と重ね合わされて、その人の熱い唇が、途切れることのない想いを綴り続けるように自分の唇を辿っている。
自分を抱き締めて捉える腕には痛いほどの力が込められていて、仰け反る背筋が軋む音すら聞こえた。
やがて余韻を残してゆっくりと唇が離れ、拘束する腕が緩み、けれどその手に柔らかく身体を支えられたまま、それでも二人の間に空間が生まれた。
頬を伝っていた涙が顎先から落ちる感触がして、足元の波の中へと還っていく。
閉じていた目を開き、水滴の残る睫毛越しに、目の前のその人を見た。
水平線から届く夕日の逆光を受けて、緋色の髪が朱く眩い縁取りに彩られている。
光を背負って翳の射した表情が少し追いづらいけれども、それでも驚きを湛えた精悍な顔立ちは見て取れて、自分を見つめる見開かれた瞳はこの上なく冴え冴えと、星のような高温の情熱を湛える氷の色で。
…とても。
とても綺麗な、男性だった。
なのに。
誰だか、判らない。
その人が。
「…貴方は、誰ですか?」
反射的に問うていた。
尋ねられて息を飲み、抑え切れない狼狽をその鍛えられた身体から滲ませるその様子に、この事態をうっすらと知覚する。
「俺は……」
独り言のようにそう呟いた後、ややあってから、明確に自分に向けた言葉が発せられた。
「…お前は、誰だ?」
その問を予想していたような気がするのに、それでも己の内から返ってきた答に衝撃を受ける。
「わたくし…?」
判らない。
何も。
互いの狼狽を互いが無言のうちに共有したまま、ただ長い間見つめ合い続けて、そうしてからようやく周囲を見渡した。
その人の肩越しに、夕日がゆるゆると、朱い尾を引きながら海の描く水平線の弧の向こうへ向かいつつある。見下ろす二人分の素足にはまだ青みを残す浅瀬の白波が戯れていて、潮風に靡く自分の水色の長い髪の流れを片手で押さえながら振り返れば、一対のサンダルと一対のスニーカーが、無造作に白い砂浜の上に投げ出されていた。
小さな潮騒が聞こえるだけの、誰もいない海だった。時が止まったかのような。
傍らの人と再び目を見合わせて、何かを言わなければと考えて、そして。
誰もいない海のはずだったのに。
唐突に生じた複数の人の気配に、一瞬で警戒心が沸き起こる。振り返りざま、緋い髪の人はおそらく無意識にであろう、自分を気配から庇うような位置に素早く移動した。手慣れた動き。その右手は左腰の辺りで空を切っている。
砂浜が途切れて草波が茂り始めるほどの位置から姿を表したのは、初老に差し掛かろうかという年齢の――しかしその印象を覆して余りある威厳を帯びた、二人の人物だった。一人は豪奢な金髪、もう一人は絹糸のような艷やかな漆黒の髪。
再度の驚きに満ちる自分達をその二人は無表情で暫く見遣り、そうしてから先に目を閉じて小さな溜息を吐いたのは、黄金の髪の持ち主の方であった。
「覚えておらぬな。」
続けて、言った。
「…それでよい。」
二人とも、何も言えなかった。
「リュミエール」
「はい」
黒髪の人に呼び掛けられて反射的に応えを返し、そうしてから気付いた。それが自分の名なのだと。自分の狼狽と、傍らの緋い人の軽い動揺をも感じる。
紫水晶の如き瞳に見据えられ、告げられた。
「確りと覚えておくがいい。これから先、お前の身に起こる事を。そして思う事を。その全てを。」
「…はい。」
何もかもが判らなかったが、そう答えなくてはならないような気がした。何故か。
「オスカー、持っておけ。そなたのものだ。」
金髪の人の差し出した手に収まっているのは、見るからに質量感のある長剣。宇宙の虚空の海すら航ることのできるこの時代においてはあまりに古式泰然として物騒極まりないものだが、自分の傍らで立っている力強い人にはこの上なく相応しいと思った。
(オスカー)
それがこの人の名前。
無言のままで歩み寄り長剣を受け取って、鞘から抜き、天高く翳した刀身に夕陽が射して輝く様子にようやく懐かしいものに安心したように目を細める、オスカーと呼ばれたその人のその姿に、リュミエールも安堵感を覚えた。
「オスカー、リュミエール、…今、あなた達に会えて、本当に良かったですよ。」
いつの間にか、三人目の人がいた。穏やかな瞳に笑みを湛える、ターバンを纏った人。
「どうか誇りと安らぎと、知恵とが、あなた達の未来を照らしますように。」
そう言ってもう一度穏やかに笑うと、背中を見せ、既に立ち去り始めた先の二名の後を追って歩み去っていった。
再び、微かな波音と二人の姿だけが、ただ辺りに残された。
この地の季節は春のようだった。
それから後は、自分達に出来る事を凡そ一通りした。
海から上がって動ける態勢になり、まず持ち物を確認する。二人ともごくシンプルな服を身に着けていた。オスカーは白い薄手のニットに黒いスラックス、リュミエールは白いシャツに青いストールを掛け、少しだけ裾の短い紺色のクロップドパンツ。私物はほとんど無く、ただ先程オスカーが渡された長剣と、それ以外には身分証を兼用する金融機関のカードがそれぞれのポケットに1枚、それからオスカーの片耳のピアスと、あとはリュミエールが、青い貴石の裸石を持っているだけだった。
海から比較的すぐ近くに近代的で治安の良さそうな都市が開けていて、徒歩で移動してからカードの中身を確認した。オスカーの長剣はあまりに剣呑が過ぎるのでリュミエールのストールで包む。
雰囲気のいいショッピングモールの片隅の、端末を操作して画面に表示された残高は、二人とものそれが控えめに言っても、一生を豪遊し通しても使い切れないほどの金額だった。身分証明の情報の方も確認してみるが、あるのは姓名だけで、生年月日も年齢すらも記載されていない。それで何故それが身分証として機能するのかは、ただ一点、それがどこの星系政府の発行のものでもなく、その代わりに何者をもの有無を言わせぬ「女王府」の紛れもない真正の電子署名があるからだった。
聖なる地で宇宙を統べる、女王陛下。
「…次はどこへ行きますか? オスカーさん」
「オスカーでいい。図書館か書店だな。」
自分と同じ事を考えていた。
ホテルの部屋に落ち着き、ソファに腰掛けて、買ってきたハーブティーのボトルを開栓し、一口だけ飲む。結局増えた所持品は今日のところこれだけだった。オスカーは手近なカフェのテイクアウトからカプチーノを同じく持ち込んで、まだ立ったまま飲んでいる。下ろすような荷物も、一人掛けのソファに横たえられたあの大事そうな長剣を除けば、無いと言えば無い。
ビーチリゾートらしい、ベッドルームとリビングルームが分かれたゆったりとした造りをしている。部屋を別に取るべきかとリュミエールが思っているうちに、オスカーがフロントに向かってツインの空いていることを確認すると、さっさと手続きを取ってしまっていた。まだ話したいことが――事態が事態であるから、人には聞かれずに――あったから、落ち着いて話が出来るのは都合がいいと言えばその通りだった。
結局、自分達の素性に関しては何も判らなかった。つまりそれ以外の、判ることに関して、が今日の最大の結論だった。
あれから書店に向かい、適当な本を手当たり次第に読んだ。書籍は携帯端末で見ることの多いこの時代だが、こういう時にやはり書店と紙の書物は便利である。それで判ったことは、自分達の事以外については何でも理解している、という事だった。女王の坐すこの宇宙の事、歴史の流れの果てに至るこの時代背景、標準語を含めた数種類の主要な言語、金銭感覚、衣食住などの日常生活を送る上での一連の手続き。知識という話になると、何でも、というより、おそらくは標準的な同世代の人間よりも遥かに多くのことを知っているようだった。片端から確認しても、まるで見たことのない情報、というものが凡そ見当たらない。
自分達の事に関しても、それが素性を明らかにするようなものでない事については概ね覚えている。というのも、それに初めて気付いたのは夕食を摂るために先程入ったレストランでであった。
食べられないものばかりでは困るということで料理の種類を広く取り扱っていそうな店を二人で選んだのだが、メニューを眺めて、自分の食の好みを自分が知っている事、それからこういう時には自分の食が細る事。サラダと簡単なアラカルトだけをつつく自分の目の前で、その人が注文した肉料理のオンス数と、それを苦もなく平らげる様子に目を丸くしたけれど。
ようやく向かいのソファに腰を下ろしたその人を改めて見遣れば、その精悍な顔に優しい笑顔を浮かべ、こちらも思わず微笑を返す。
この人がいてくれて良かった、と思う。もし独りだったら、あの海の中、そこで自分に起こったであろうのはおそらく狼狽などではなくて、ただ何も無く、自分というものさえ持たず、ずっとそのまま、陽が落ちた今でも真暗闇のあの海で佇んだままだった。何故だかそういう気がした。
これほどまでに自分達に関する情報が皆無である、と判ると、砂浜で逢ったあの三人にもう少し話を聞いておくべきだったか、と今更ながらに思ったが、そうした所でおそらく彼らは何も語らなかっただろう、というのが二人の一致した意見だった。
一目で尋常ではないと知れる、三者三様のその威厳。
ある意味、それに救われたとも言える。カードの中の並外れた桁の金額。今日ここに至るまで、一般市民のごとく街中を歩き、何度かあった支払いの際にはその手持ちのカードで決済をした。日常生活を営む以上、経済活動と無縁ではいられない、けれどその資金の出処も知らないのに。ひょっとすると非合法な何事かに関わりがあるのか、とも考えたが、そこで脳裏に浮かんだのが彼らの姿だった。理に外れる事がそこに在ったのなら、おそらく彼らはそれを見逃したりはすまい、と確信できるものがあった。躊躇いつつもそのカードを使えたのはそういう、一種の信頼感によるものだった。
そうは言ってもこの先何があるのか判らなかったし、無闇に所持品を増やすのは得策ではないように思われたので、何を買うかは明日以降決めるということで話が落ち着き、今日のところは何も購入せず、ただ先程の夕食と手元のそれぞれのドリンクにだけ支出して、そうして今ここに居る訳だった。
自分の前でカプチーノを飲み干したオスカーが、カップに残ったミルクの泡をぺろりと舐める。今日の街中での彼の洗練された動きから鑑みるに、おそらく彼にしてはそれは行儀の悪いことで、それが自分と彼と二人だけでのこの場で彼がリラックスしていることの現れなのだと判って、少し嬉しくなった。
互いの正体を互いが問うたりはしない、訊いても答のまだ無い詮無い事なのだと今日一日でこれ以上無く理解出来ていたから。代わりにあの三人の威厳について語った、向かいのその人自身のことについて言及する。
「そういう貴方も、常人とは思われませんけれど、ね。」
鍛え上げられた身体、無駄のない身のこなし、端正な顔立ち、炎の如き緋色の髪、対照的に映えるアイスブルーの瞳。姿形だけなら稀とは言え並ぶ程度の者がいるだろうが、オスカーが何よりも他を圧倒して印象的なのはその眼光の強さだった。街を歩くと、尽く全ての者が彼を振り返る。
そういう趣旨のことを言うと、何故か軽く溜息のようなものを吐かれ、
「……、そういう、お前こそ………」
珍しく語尾に躊躇いを残して、彼がこちらに片手を伸ばす。何か、と思って少しそちらに身を乗り出すと、伸ばされた指先が微かに自分の頬を撫ぜた。
無言のまま、視線を合わせるだけの時間が過ぎた。
「……そろそろ休むか。疲れただろう。明日もある。」
目を逸らされて立ち上がり、オスカーはさっさとシャワールームに向かった。
頬に残る彼の指の感触。それから思い出した。あの海で、この世界に戻ってきた時のあの腕を、唇を。酷く強い感情と、流した涙を。そして今、胸元の辺りを締め付けるこの想い。それに名前を付けたら最後、二度と元に戻れないような気がした。
手早くシャワーを済ませて備え付けの部屋着で出てきたオスカーと入れ替わる。顔も目も見られない、声も出せない。長くは居たくなかったから、長い髪は纏め上げて今日は濡らさないようにし、上せたと言い訳できる程度に熱いシャワーを充分に浴びて、それから同じく部屋着を着て出た。
オスカーは窓越しに暗い海を見ていた。外から聞こえてくる、繰り返す微かな潮騒の音。
「…先に寝みますね。おやすみなさい。…今日はありがとうございました。」
無言のその背中にそう告げて、ベッドルームに向かい始めて、その距離をどうやっていつの間に詰められたのか、
…背後から拘束された。
自分よりもなお熱い身体。それが判って、同じように己の身の内の熱が否応なく煽られる。
微かに震えているのは自分の身体なのか、きつく廻された腕なのか。
肩口に埋められていた顔は、逡巡を幾度か繰り返し、それから熱の籠もった吐息を小さく長く吐いて、自分の首筋に口付けを落とした、その感覚に視界が白熱して眩暈がする。
「…嫌か?」
短いその言葉にすら、気が遠くなりそうなほどの熱量が籠められていて。
一瞬言葉に詰まったけれど、応えまでの時間は短かった。
「……いいえ。」
身体を翻され性急に引き寄せられ、何事かを考える間も無く深々と唇が重ねられ、自分と彼の熱さが交わった。キスの所為ではない息苦しさに耐えかねたようにその唇がすぐ離される。
「ずっとこうしたかった。ずっと。お前に触れたくて仕方がなかった。リュミエール」
「オスカー…」
「何者でもないただのお前が、好きだ……」
熱っぽい言葉を重ねられながら、その腕が強く自分を抱き締め、掌が背を辿り、上衣の裾から素肌を探す。抱え上げられ、気が付いて慌てかけた所で、もうベッドに身体を埋められていた。唇がまた重なって、伝わる彼のその想いの激しさにただ圧倒された。
淡い灯りの下に全身を晒されて、肌を重ね合わされて、触れられて。甘く、激しく、時に残酷なほど優しく。
明滅する意識の中で、応えなくては、と思い、覚束ない身振りでそうしようとしたら、やんわりと、しかし有無を言わさず押し留められた。
「俺にさせて。……お前を愛したい。思う存分。」
それでもう、何もかもが白光の中に溶けていった。
…気が付けば、その人の腕の中で、遠くの波音を聴いている。
それと、その人の息遣い、自分の頭を載せている力強い腕越しに微かに聞こえる血潮の流れ。胸壁に顔を寄せると鼓動が聴こえた。
何もかもがここにあって。全てが満たされていた。
「…もう、このままで。二人で、過ごさないか。」
自分の考えを読んだように、…そしてそれが同じように、彼の考えであるとも判って。
オスカー。
この人が自分の傍らにいてくれて、自分を愛してくれて。他に欲しいものは何もなかった。
なのに即答出来ない、自分の中で答の見つからないその逡巡が嫌でたまらなかった。情けないと思われたくは無かったが、涙を抑えることができなかった。ただ泣けて仕方がなかった。零れる涙を彼の手に優しく拭われ、責めるでも急くでもなく緩やかに髪を撫でられ続ける、それに尚更涙が止まらなかった。
一頻り泣いた後、自分の胸に問う。
「…思い出さなければならなかったような気がするのです。他の誰でもない、貴方の為に。」
「……」
沈黙が恐かったけれど、ややあってから答えが返ってきた。
「それが、お前の望みなら。」
引き寄せられて、唇を重ねた。
「……ひとつだけ、約束が欲しい」
「…何でしょう」
「俺から離れるな。この先、何があろうとも、俺と共に生きろ。」
「……」
ものすごく大事な約束であるような気がした。
そしてそれが、自分の最大の望みでもあるのに、答えを返せない自分の内の闇に気付いて悪寒が走る。
オスカーは黙って待っている。
「……」
乗り越えなければならないのは、おそらく自分であった。目を閉じて覚悟を決めた。
「約束します。何があろうとも、永遠に、貴方と共に。」
大きな吐息が聴こえて、痛いほどに抱き竦められた。
「…あと、もうひとついい?」
暫くしてから打って変わった甘い口調で訊かれた。
「?」
「明日一日でいいから、二人だけで過ごしたい。ここで。」
ここで、が指す場所に気付いて顔を火照らせつつ、頷いたらまた深々とキスをされた。
明後日、動けるんでしょうか、と頭の片隅で思いながら。