■ 海(仮)(2)

 

 ……貴方がいてくれれば、他に何も要らない。

 

 なのに記憶を失ったということは、

 …この記憶が、貴方を傷付けたということ。

 

 

 それに気付いた時、貴方の腕の中でもう一度泣いた。

 

 

 

 

 ……お前がいてくれれば、他に何も要らない。

 

 なのに記憶を失ったということは、

 …この記憶が戻れば、お前を失うかもしれないということ。

 

 

 それに気付いた時、俺の腕の中でもう一度泣くお前の涙を拭い、力の限り抱き締めた。

 

 

 

 

 

 

 聖地の空気は、万人をその慈愛に包むが如く、常にまろく、纏い付くように優しい。夜は尚更のこと。

 時として真綿で首を絞めるように、蜘蛛の糸が絡むように酷く疎ましく感じてきたそれが、今日のような日には逆にどこまでも肌に馴染む気がする。

 その空気と一体となるように、寝台の上で横たわる互いの首筋へ、胸元へ顔を擦り寄せ、相手の身の内のその気配を探る。腕を回し、柔らかく引き寄せて、そこがサクリアの宿る場という訳でもないのに、無意識に心臓の少し上辺りに顔を寄せて、相手の中のそれを互いに何度も確かめる。

 どれだけ望まざる時であっても、サクリアは常に溢れるほどに満ち満ちているものであったから、そこに生じた欠片は逆に何かが微かに芽生え始めているようにも錯覚する。寸分狂わず同時に訪れた、自分の、相手の裡に。それは喪失の前兆であるというのに。

 リュミエールは穏やかな顔をして、その顔をオスカーの胸元に押し当て、指で胸壁を緩やかに辿っている。先程オスカーが出迎えた時の、その事そのものが絶望の淵の、終わることのないそれを繰り返し見続けたその苦渋の表情から、打って変わった穏やかな顔。

 そのリュミエールはやがてゆるりと身を動かし、オスカーを優しく見下ろすと、柔らかくその首に両腕を廻した。無言のままにオスカーは導かれて、リュミエールの首筋に顔を埋める。

 腕を背に回し、囲い込んだ環の中のその存在を確認して、優しい肌触りの奥、ゆっくりと欠け始めたサクリアを、自分と同調するそれを、その深い心を探るように目を閉じた。

 どこまでも飲み込まれていきそうなその果てのない情愛の内に、揺るがぬ意志を読み取って、オスカーは目を開き、その人を見た。

 この時になって、優しく穏やかに自分を見つめ続ける、深海色の瞳。その手が自分の頬を愛しげに撫で、自分の緋色の髪を優しい手付きで梳く。

 永遠にこのままであれば良かった。訊きたくなど無かった。

 それでも、確かめるより他に道はなかった。

 

「……俺から離れるつもりなのか。リュミエール。」

 

 リュミエールは、穏やかな、ただ心からの穏やかな微笑を見せて、言った。

 

「…オスカー、わたくしは嬉しいのです。

 貴方を、ようやく何の翳もない、明るい未来へ、ようやく解放できることが。」

 

 

 

 

 

「そりゃあね。理解はできるわよ。同意は到底できなくても。」

「オリヴィエ、お前」

「あんただって本当はそうでしょ、オスカー。どうしてリュミエールがそう言うのか、判らないなんて言わせないわよ。今更。」

「………」

 リュミエールは目を伏せて、穏やかな表情を浮かべている。

 いつもの変わらぬ聖地の明るい日差しをいつもより暑く感じるのは、おそらく気の所為で、その感覚の違いはひとえに新しい守護聖たちを迎えた聖地の賑やかに沸き立つ空気の違いによるものであった。この庭園の背後、宮殿の中では、未だ年若の者たちのかまびすしい声がひっきりなしに行き交っている。行き過ぎるそれを時折制止しているのが、もはや年長と称されるようになったすっかり長身の鋼の守護聖の力強くも落ち着いた声なのだから、かつてより遥かに時は過ぎ去ったものだとつくづく実感する。

 テーブルを囲んでめいめいの飲物を用意し、しかしそれぞれがカップを手に取ったまま一向に減ることのないそれに、会話の届かない傍目には、近づく別れを惜しむ三人の何てことのない茶会に見えるであろう。

「オスカー、あんたに納得しろとは言わない。私だって納得できるわけない。だけどリュミエールはこんな優しいていだけど、今までどれだけその内心で血を流してきたか、オスカー、あんたが知らない訳ないでしょ?」

 リュミエールの手の中のカップが、きゅ、と擦られて音を立てた。

「正直、私はあんたを恨んでる。オスカー。あんたの所為でリュミエールが負わなくてもいい余計な業を負うことになった、って。最初に知った時、本気で殺してやろうかと思った。」

「オリヴィエ」

 そう呼び掛けたのはリュミエールだ。

「…ごめん、言い過ぎた。こればっかりは当人同士にしか判んないよね。オスカーだってさんざん傷ついてきたんだろうし、」

 そう言うと、オリヴィエは天を仰ぎ、片腕の袖でダークブルーの両目を覆った。

「…リュミエールはリュミエールで、オスカーに愛されて幸せだった、って、言うんでしょ。きっと。

 言わないだろうし、泣けないんだろうから、代わりに私が、……」

 涙声はそこで途切れた。

「………」

「……オリヴィエ」

 顔を下ろしたオリヴィエは目元を隠したまま手で目尻を拭うと、毅然とした顔で話を続けた。

「今日まで、誰も死なずに、誰も殺さず殺されずに、なんとかやってこれた。今更になって死人が出るのはなんだよ、私。退任してからリュミエールをオスカーのそばに拘束するくらい、幾らでも可能かもしれない。だけどそうしたら、リュミエールは本気で自死でもなんでもするわよ?」

「オリヴィエ…」

「今更取り繕ったって仕方ないでしょ、リュミエール。じゃあ、そんな事ないって言える?」

 オリヴィエに問われ、リュミエールは目を伏せたまま、暫くしてから目を閉じた。

「……否定はできません。」

 あくまでも穏やかに応えるリュミエールに、それが自己の欲求からではなく、ただ一途にオスカーの未来を想ってのことだと痛いほどに判るだけに、今度はオスカーが空を見上げて目を閉じ、オリヴィエは黙って二人を見遣った。

「…だからってオスカー、仮にリュミエールがこの宇宙から永遠に居なくなったとしても、あんたは自殺なんて出来ないでしょ。そういう性質たちじゃないもんね。……褒めてんだよ、これでも。」

「…けなされているようにしか聴こえない。」

「私だって納得してる訳じゃないって言ったでしょ。オスカーの居ない所にリュミエールの幸せがあるとも思ってない。」

 すっかり冷めきった紅茶をようやく口にし、決然とオリヴィエは語った。

「オスカーは一緒にいたい、リュミエールは離れたい。何とかするしかないでしょ。お互いに打てる手は限られるだろうけど。」