水底の深淵にゆっくりと引き込まれてゆくような微睡に襲われ、自然ではあっても違和感の付き纏い続けるそれに、たとえ確証は無くとも、自分の勘がただの気の所為でなかったことを最終的に思い知った。
己を律する事に少なからぬ自負を置くオスカーにとって、罠に嵌められるのは飛び抜けて嫌悪する事のうちの一つだ。自由の効かなくなり始めた身体の内で、沸々と怒りが湧き起こる。
と同時に、この状況をふと冷静に省みて、不可解で説明の付かない芒洋とした感覚に包まれた。
リュミエールは。この水の守護聖は。
何を考えて、こんな事を。
「……悪い。なんだか…急に眠くなってきた。」
何事にも気付いていないような自然な振る舞いを扮い、ソファに座り込んだまま、俯いて両の瞼に片手を添える。動かし辛くなったもう片手をなんとか伸ばし、サイドテーブルの上に空のグラスを置いた。
気を抜けば本当に直ぐにでも意識が途切れそうだったが、表向きはそのままに、内心だけで気力を絞り出すようにして細い細い意識を繋ぎ、逆に罠を張る。
身体の力が急速に抜けてゆき、もはや失われつつある視覚が捉えた最後の瞬間、リュミエールはあの感情を閉ざした目で、柔らかく自分へ微笑い掛けていた。
「…お疲れなのでしょう。わたくしはこれでお暇しますから、どうぞごゆっくりお休みになってください。」
その声音の優しさの、深遠の響き。
「……ああ。」
オスカーはそれだけを呟くと、目を閉じ、脱力してずるりとその身を横たえソファへ沈ませた。甘い誘惑にも似た、無意識の領域への心地良い誘い。
もはや指の一本も動かせず、身動ぎも出来ない。むしろ正確には、自分からそれらを進んで放棄した、に近い。身体のコントロールを全力で投げ捨て、眠った振りをしながら、その代わりに本当に途切れそうになる意識に向けて全身全霊を振り絞り、深層で辛うじてその糸を繋ぎ留める。
「……オスカー?」
些かの間を置いてから、すらりと立ち上がった水の守護聖の、意識の有無を問い掛ける無感情の声色に、瞼を閉じたまま無言を偽り、謀る。
自分の傍らに立ち尽くす気配のリュミエール。
その気配からふと、ゆらめいて流れ出た、冷たい緊張感がオスカーの肌を刺したのはその直後だった。
各地での騒乱の度に何度か遭遇した、覚えのあるそのびりびりとした感覚。
動かぬ身体の、淡い微睡の内で、脳髄が痺れ、背筋が凍った。
リュミエールは痛いほどに気を張り、自分を凝視したまま、身体を小刻みに震わせている、見えずともその気配が手に取るように判る。
そうしてその胸の中で、ひとつの決心を、強く強く思い念じている。
「絶えよ」と。
一途に、ただ一心に願う、その強く痛い気配。
激しいその気配に襲われながら、オスカーは不意に可笑しくなった。もし今、身体の自由が効いたのなら、きっと自分は避けるでも逃げるでもなく、ただひたすら声を上げて笑っていたに違いなかった。
気付かなかった。
何がどう水の守護聖を追い詰めたのか知らなかったが、そこまで、それほどまでに、この自分たちの間の断絶が深かったとは。
気付かなかった。今の今まで。
心のどこかで、その暖かい優しさがいつか自分にも分け与えられる事を、どこかで期待していた。いつかは、と。
あからさまな強い気配をもはや隠しもしない水の守護聖の、紛うこと無きこの状況に至って、よもやのそんな夢物語も雲散霧消し、心境は既に深々とした諦めの境地でしか無かったが、だからといってこのまま思うままにされてやる気もさらさら無かった。
未だ薬の影響は深く、身体はなおもって全く自由の効かぬが故に、今ここで直ぐにどうこうする事もままならない。何かの反撃が出来るとしたら、最善のタイミングの一瞬にすべてのエネルギーを注ぐより他になかった。
ともすれば微睡に落ちようとする意識を、気力を振り絞って研ぎ澄まし、その時を待つ。
張り詰めた気配のまま、リュミエールがゆっくりと、ごくゆっくりと、音も立てずに自分の傍らのソファの座面に腰掛けた。
身体を傾け、自分の方を覗き込んでいるのだと、瞼越しの淡い光に影が射したことで知る。
緊張とともに伸ばされた片手は、顕になったオスカーの首筋を、
――そっと撫でて通り過ぎ、
頬を掠めて。
疑うべくのない、淡く優しい手付きで、その緋い髪を、梳いた。
同時に、ぽたり、と、温かい雫がオスカーの顔の上に降った。
これまでの全てを根底から覆す内側からの衝撃が、全力でオスカーの精神を叩き起こした。
ふ、と、リュミエールがゆっくり、柔らかく身を屈める。
自分の肩に微かに手を添え、羽毛のように、自分の上に暖かく寄り添う身体。細かく震え続けて。
オスカーの顔の脇に顔を埋め、濡れたその頬が、オスカーの頬に触れ。
そうして押し殺した声が、耳元で優しく、囁いた。
「……オスカー…」
オスカーの自由の効かない身体の中で、こころが、その声にこれ以上無いほど引き絞られる。
痛いほどに優しく、哀しい、その声。
その手が。その震えが。その声が。その涙が。何もかもを全て顕らかにすると同時に。
一度きりと。今この時、ただ一度きりと。それで終わりにするのだと。
その切なく激しく、哀しい想いに、微睡の中で、自分の身体までもが千々に引き裂かれそうだった。
水の守護聖は身を起こし、その優しい手がもう一度、自分の髪を梳いた。
そうして暖かい唇が、ただ一回だけ、微かに、柔らかく――自分に口付けて。
自分の顔を濡らした幾許かの雫がその優しい手に丁寧に拭われると、気配は立ち上がり、さなりと身を緩やかに翻して、扉の向こうへ静かに消えていった。
「……ええ、お疲れのようで、少しだけお眠りに。時間が経ちましたら、寝室でお休みになるようお声掛け差し上げて下さい………」
廊下での微かな遣り取りが聴こえ、やがてそれも消え、送りと思しき馬車の音が去ってから、ようやく気付いた。
あの殺気。あれは。
あいつが全身全霊をかけて、縊り殺そうとしたのは、他でもない、俺への想いだ。
俺の髪を撫で、寄り添い、一度だけのキス。
そのためだけに、あの水の守護聖がこんな危ない橋を渡り、そうして俺の下から遠く立ち去って、俺の手の届かない所で、その痛いほどに尊い想いを、永遠に握り潰そうとしている。
もはや謀る必要の相手の居なくなったソファの上で、無様なうめき声を上げながら気力を振り絞り、辛うじて片手で左耳のピアスのカプセルを折り取ると、その中に在った粉末を、首を捻って舐め取った。
睡眠薬との相互作用で多少ならずふらつくものの、急速に身体のコントロールが手元へ戻ってくる。
酷い顔色で居室から出てきた主に使用人たちが尽く驚いた顔を見せるが、気に留めている余力も暇も一切無かった。アグネシカに急ぎ鞍を付けるよう伝え、まだ思い通りに動かない身体を引き摺るようにして厩舎へ向かう。
あいつはそろそろ、自邸に着く頃か。部屋に戻り、一人きりで、あの暖かい涙と決別して、俺への想いをその哀しいこころの中で潰えさせるのか。
させない。
たとえお前自身にでも、そんな事は。
俺の事を勝手に好きになっておいて、俺がお前の事を勝手に好きになるのをよもや駄目だとも言わせない。
鞍を付けられたアグネシカの背になんとか這い登り、目的地に着くまでのひととき、脱力してその首に身を預ける。
「…頼むぞ、アグネシカ。あいつの所へ。」
水の守護聖の居邸に着く頃には、もう少し身体の自由が効くようになっているだろう。
最善のタイミングの一瞬に、すべてを注いで。
永遠に、俺のものにしてやる。
静かに駆け出したアグネシカの背で、オスカーは不意にそのアイスブルーの瞳に不敵な微笑を浮かべた。