あっけないほど簡単に全身を脱力させて、オスカーはずるりとソファへ横たわった。
そうして残りの集中力を、微睡んで絹糸のように細くなった意識の維持に全力で注ぐ。
近くに立って自分を見下ろすリュミエールから、ひやり、と、冷たい気配が肌に届いて、それが紛れもない殺気なのだと否応なく気付かされた。
今度二人で査察に降りることになった惑星は、決して難しくはないが面倒ではあると言える案件で、前調査と打ち合わせ、それから二人揃っての準備は思っていた以上に手間取り、予想外に長い時間を食った。
炎の守護聖の執務室に夕焼の色彩が射し込み、壁のレリーフに陰翳を形作る。
その朱い光越しに縁取られ、一本一本が銀糸のように綺羅と輝く髪房。
難しくはないが面倒、まるで自分たちのようだと、自分の執務机に椅子を寄せて無言で書類を繰っている、その眼の前の水の守護聖を見遣った。世に稀なほど整った顔立ち、彫刻のように端麗で、そして冷たく。
己の緋色の髪を無造作に掻き上げ、長時間の業務の疲れからか、それともこの不本意な状況の気疲れからか、殊更大袈裟な溜息が自分の口先から盛大に溢れた。
水の守護聖はちらりと冷めたままの視線をこちらへ寄越し、その微かな動きに肩口から長い水色の髪が一房、流れた。
自分達の間にあるものは、聖地に来てからこれまでというもの、常にごく単純な、単純な話だった。相性が悪い、犬猿の仲、相反する存在。ただ単に、それだけの話だった。こうして同じ場に在る、その緊縛感だけで互いが酷く疲労する程に。
この自分へも一見平等が如くに投げ掛けられる微笑の、その実、その視線が他者に向けるときのそれのように柔らかく解れていたことなど、一度も無い。思い出せる限り、ただの一度も。
豊かな情愛、と聖地中から称賛される一方で、自分に対しては常に固く閉ざされたままのその感情。気性相性ばかりは如何仕様もなく、それならそれで仕方がない事だと思いながら、双方が受け流せればいいものを、頑なまでのそのリュミエールの態度が尚更オスカーを苛立ちに駆り立てるのが常だった。
それでも自分たちが対の力である事は、否定しようのない事実であり、故にこうやって二人揃って事態に応ることはそう稀でもなかったが、その度ごとに無言有言の対立は数限りなく燻し出され、すっかり出来上がった溝は深まるばかりだった。
再度溜息を吐き、そんな自分を無感情に小さく伺う水の守護聖の気配を感じる。
やがて窓の外に夜の帳が下りた頃、ようやくオスカーは自分の書類の束の最後の一枚にサインを終えた。同じようにペンを走らせたリュミエールから無言で差し出された書類と自分のそれとを交換し、もう一度署名をする。大きく息を吐いた自分と同時に、その人も小さく溜息を吐いたのが耳に届いた。
この時間まで掛かってこれだけ捌いても、未だ無事に終わり、とならないのは、自分も相手も口に出さずとも嫌というほど承知の上だった。この上、現地に着いてからの、大雑把な進行についての詰めの打ち合わせが残っている。だがもう、この息の詰まるような状況はつくづくうんざりだった。
「腹が減った。続きは俺の邸でだ。」
目の前の、顔立ちだけは綺麗なその人は驚きに軽く目を見開いて戸惑った風だったが、今更構ったことではない。空腹を満たし、アルコールでも入れなければこれ以上やっていられるものか、とオスカーは思った。
話し合いながらの食事が済み、ドルチェが片付く頃にはおおかたの調整が済んでいた。打ち合わせというよりも言い争い、という方が適切であったかもしれないが。双方が大いに不満を残しつつ、ひとまずの予定の見込みは立ち、何はともあれ、これで後は現地に向かうだけの状況が仮にも整った訳だった。
用が済んだのだからそのまま邸から追い出しても何ら差し支えはなかったはずだが、オスカーは半ば自棄のように酒席に誘った。毒を食らわば皿まで、の気分とも言えたし、形式的に誘ってさえおけば、当然のようにリュミエールの方から辞退されてもこちら側は薄情者の誹りを免れる。
意外にもリュミエールの返答は諾で、誘った手前、応じない訳にもいかなかった。早々に酔ってしまうことに内心決め、諸々の手配を使用人に告げながら、二人で居室に移動した。
違和感はあったのだ。オスカーはその手の勘には長けている。
だが飲み干した。
まさかリュミエールが、という思いがあったし、いくら犬猿の仲と言えども、交わした盃を途中で放棄するのは相当な非礼に当たる。それで飲んだのだから、ある意味承知の上での成り行きとも言えた。
油断と言える点があったとしたら、リュミエールがどのタイミングで薬を入れたのか全く気付かなかった事だった。