一瞬、どこに迷い込んだのかわからなかった。
まだ召喚されて間もないこの常春の聖地といえど、この場所に比肩する程の庭園は無いであろうことは容易に察せられる。
一面に広がる薔薇の海。色は白を中心として淡いものが多く、香気もこの種類の花々にしては弱いほうだろう、と思われた。
優しい色合いの中で時折混じる真紅の薔薇が、かえってその存在を強く主張する。
決して広大な空間ではなかったが、聖地の中にあってなお、別世界の楽園のような―――
そう、ここは「理想の箱庭」なのだ、と思った。
すべてが夢の中のようだ。
自分の揺らした茂みの音に、驚いて振り向いた、長い長い髪の麗人も。
非現実的といえば、その風景の中心のその人物こそが最も非現実的に見える。
白い、おそらくは絹のローブに包まれた長身は、しなやかさと柔らかさを兼ね備え、男性のものか女性のものか一向に見当がつかず。
見たこともない色合いの艶やかな青銀の髪は、足元まで延びてなお余りあり、薔薇の庭園を縁取る芝生の上に広がっている。
驚きに見開かれた深海の瞳は、少しの間を置いて、やがてふわりと笑みの形に変えられた。
暖かい、包み込むような波動。
どこまでも広がる大海が意識の片隅に映った。
この感覚を、自分は何処かで知っている。
いつ、何処で?
「駄目ですよ、ここに来ては……オスカーに怒られてしまいますよ?」
首座の守護聖を敬称なしで呼ぶその声音は、春を迎える暖かい雨を思わせるもので。
驚いて何も言えず動けもしないままでいると、白い手がゆっくりと、迎え入れる形で伸べられた。
そこで我に返って初めて、自分が垣根の中に半分埋まったままの状態でいることに気がついた。あわてて体を茂みから引き抜く。
そういえば、この辺りは炎の守護聖の私邸の近くだった、とその時思い出した。
他の7つの守護聖たちが幾つも代を重ねる中、聖地の時間でさえ気の遠くなるほどの永い時を一人で在任したままの、その首座の守護聖について聞かされた奇妙な風聞も、記憶から立ち上る。
炎の守護聖の敷地内には、彼が彼以外の人間の立ち入りを一切禁じている一角があると。
ではここが、その場所なのだろうか?
立ち入るどころか、近寄ったことが炎の守護聖に知れるだけで、烈火のように怒りを顕にすると聞く。
あの物静かで落ち着いた首座の守護聖からは、到底想像もできなかったが、本当のことらしい。
噂を聞かせてくれた、大抵の事には動じない緑の守護聖が、命が惜しければ近づくのは止めといた方がいいぜ、と青い顔で言う程度には。
「あの、あなたは……」
考えるより先に言葉が口をついて出た。
が、向かいの優しげな人が小首を傾げ、さらり、と流れる艶やかな髪の流れを目にした瞬間、自分がひどく不躾な態度をとっていることに気がつく。
「あ、あの、すいません、俺、ランディって言います! 今度、女王陛下より風の守護聖の任を拝命しました!」
この状況も目の前の人物も何もかもがさっぱりわからなかったが、とりあえずの最低限の礼節としての自己紹介というのは、聖地に来てから強く躾けられてきた習慣だ。
前任に連れられて、他の7人の守護聖たちに紹介されて回った時の台詞を、咄嗟に口にする。
目の前の麗人は、軽い驚きを、次いで柔らかな微笑をその顔に浮かべた。
「素敵ですね……ご存知ですか? あなたの2代前の風の守護聖も、ランディという名だったのですよ」
「あ、はい、俺、その方の御名を頂いたんです」
不思議そうな顔をする麗人に、風の守護聖が言葉を継ぐ。
「俺、前の星では番号で呼ばれてたから、前任の風の守護聖の方が、『俺の師匠の名だ』って言って、つけてくださったんです」
「そうですか……いい名を頂きましたね」
優しげな人はそれだけを言い、細い手を伸ばしてランディの髪を撫でた。訳もなく顔が赤くなる。
ふと、白い手の動きが止まった。
かと思うと、指の感触が風の守護聖の頬の上をなぞる。指の辿った線に沿って鈍く走る痛みを感じた。
どうやらさっきの垣根を通り抜けた際、木の枝で引っかき傷でも作ったらしい。
「痛みますか?」
「少し……」
よっぽど気が動転していたのだろう。我に返ると少しずきずきと痛む。特に1箇所、深い所があるらしい。
「ここで少し待っててください、直ぐに簡単な手当ての道具を持ってきますから」
至上の美貌で微笑まれながらそう言われて、風の守護聖はどもりながらはい、と返事をするのがやっとだった。
質量を感じさせない身体が風のように軽く翻って、長い長い髪が薔薇に囲まれた芝生の道程に靡く様子をただ見ていた。
やはりどう考えても、ここがあの噂の禁断の地で、どう考えても、ここに居るのはまずいように思う。
青銀色の髪の麗人が戻ってくるまでの間に、ランディはそう考えた。
あの恐い物知らずの緑の守護聖を怯えさせるほどの、首座の怒りを買う場所。それは確信だ。
楽園を思わせるこの庭園。そしてそこに住む、至上の美貌と深く優しい慈愛を持つ佳人。その人がその身に纏う、不思議な、それでいて、ランディにもよく馴染んだことのあるような波動。
首座の炎の守護聖をして、極秘事項にせしめるだけの理由が、理屈でなく感覚だけで十分に理解できた。
やがて小さな箱を手に戻ってきた、優しげな人に恐る恐る尋ねる。
「あの、俺……ここに居たら、まずいんじゃないんですか?」
気まずそうに芝生に座り込んだまま、小さくなって見上げるようにそう訊いてくる風の守護聖の目の前に、その麗人は座り、箱を開けながら優しく微笑った。
「勿論、そう長居は出来ませんけど、傷の手当てぐらい私にさせて頂けませんか?」
それから、少し表情を変えた。薄めの唇の上に人差し指を当てた、悪戯っぽい微笑。
「恐い恐い首座の守護聖様は、今日も今日とて私を置いて、お一人でお仕事に出てしまいましたから」
そう言ってくすくすと笑うその姿は、先ほどからのその人よりも遥かに幼く映った。
「あの人も、昔はずいぶん悪童で。聖地を抜け出しては怪我をして……もちろん強さを与える炎の守護聖ですから、大きな怪我はしませんけれど。でもどうしようもなく女性好きで、喧嘩好きで、下界に降りて小さな傷を作っては、他の守護聖の方々に内緒で、私がこうやって手当てしてあげてたのですよ」
ぽかん、と口を開いた風の守護聖に気づき、再び佳人が優しく笑いかける。
「意外ですか?」
「意外……です」
「今では、立派な首座の守護聖様、ですものね」
目の前の人はそう言って再びくすくす笑うが、風の守護聖に言わせれば、意外、なんてものではない。
ランディの知っている首座の炎の守護聖は、確かに明るく快活で楽しい人物だが、他の遊びたい盛りの守護聖たちが気が引けるほど、およそ下界に行っただとか浮いた話だとかを聞くどころか、想像することさえ困難な相手だ。
「誰にでも、若く、何も知らない頃というものがあるのですよ」
気がつけば、傷の手当てはすっかり終わっていた。
頬に触れていた優しい手つきの手が、そのままランディの頭へ伸び、優しくその髪を撫でる。
「だから貴方も、今はまだ若くて、多くの失敗を犯すかもしれませんけれども。それは決して、恥ずべきことではないのです。貴方の先輩である、他の守護聖たちも、オスカーでさえも……たくさんの失敗を重ねて、そして成長してきたのですから。」
そう静かに語る表情は、痛みを知っている人の優しさだと、ランディには感じられた。
「守護聖の運命は過酷ですけれど、どんなに傷ついても、辛い目にあっても、進むことを止めないで下さいね……それこそが、宇宙を導く、ただひとつの道なのですから」
優しい手が、ゆっくりと離れてゆく。
治療を終えた手から微かに匂ったのは、多くの薔薇の香りと、ほんの少しのハーブの香りだった。
「私はいつでも、貴方方を見守っていますから」
深い微笑を湛えながらゆっくり語る、その言葉に嘘は無い。
その佳人からは、ランディを、聖地全体をも包み込んでしまうほどの、優しい水のような波動が――――――
唐突に気がついた。
なぜそれまで気がつかなかったのか、不思議なほどに、はっきりと。
これはサクリアだ。
首座の守護聖、その炎の性質には欠けているはずの属性を帯びたサクリアが、常に炎の守護聖のその大きな欠片を埋めるように、その身の周囲に存在していた。
聖地に強く存在する首座の炎の守護聖の力、その本質に常に寄り添うように存在していた、聖地を包み込むもうひとつの力。
星の美しく輝く深夜、誰もが眠りの海にまどろむ時間に、何度か感じたことのある、聖地中を巡り、そして星々へと向かって流れ出す、暖かく、優しい気配―――
今まで一体だと思ってきた力が、常にひとつところに身を寄せる2つの力から成っていたのならば。
軽い違和感を覚えた、首座の守護聖から感じるサクリアの意味が明快に知れる。
(首座の、あの方は―――ご自分の時を止めてしまった、のだそうだ。)
俺も師匠からの伝え聞きだが、と断りながら、夜の闇に紛れさせるように、ランディに語った先代の言葉を、今ようやく鮮明に思い起こす。
(俺たちと同じように流れ行くはずだった、時を引きとめ、―――禁を犯したのだと。)
―――禁を犯した、罪人なのだと。
(かつて―――守護聖の座は、9つ、あったのだそうだ。)
失われたひとつは―――
「―――それでも」
はっと現実に引き戻されると、向かい合ったままの麗人は、その深海色の目を閉じ、静かに言葉を続けていた。
その瞼の裏には、何が映っているのか。
「サクリアを持つ身こそが守護聖であり、守護聖こそが―――宇宙を導く、絶対的な存在なのです」
例え、禁を犯した、罪人であれ。
ランディに向けて、ゆっくりと開かれた、宇宙を思わせるその深い色の瞳が、無言のままにそう語った。
「―――あなたも……」
これ以上、聞いてはいけない。
翳く深い闇に足を捕らわれたような悪寒を感じ、そう考えながらも、ランディは、気がつけば震える声で尋ねていた。
尋ねずにはいられなかった。
「あなたにも、何も知らない、若い頃というものがあったのですか……?」
青銀色の長い長い髪の人は、少しだけ驚いた表情を見せ。
再び、ゆっくりと眼を閉じて。
「ありましたよ。―――何も知らない、無知な……無知な子供でした。」
桜色の薄めの唇が、静かに、そう言葉を紡いだ。
「彼は、罪を犯し」
代の変わることのない、ひとつの、守護聖の座と。
「そして彼を止められなかった、私も、罪を犯したのかもしれないけれど」
表に出ることのない、ひとつの、守護聖の座と。
「それでも」
歪められた摂理は、どちらかを失った時、崩壊への道を辿るのだろうか。
「オスカーこそが、私の絶対的な存在で―――オスカーを、愛しているから」
突き放された赤子のように、不意に言葉が途切れた。
「さあ、もうお行きなさい」
その人の背後に広がる、淡い色の薔薇の波が目に写った。少し傾いた聖地の日差しが柔らかく景色を照らし出している。
地に流れるほどの長い長い、青銀色の髪を持つ人は、深い慈愛をその全身に湛え、暖かい表情でランディを見守っていた。
何が変わったか。何も変わってはいなかった。
「オスカーを……お願いしますね」
ただその言葉だけで。
その人が、どれほどに深く首座の守護聖を愛しているか、痛々しいほどに伝わってくる。
すべての世界から切り離され、楽園に囲われた、炎の対となる存在。
宇宙の表側から失われた、ひとつの、守護聖の座。
名を訊きたかった。
でも尋ねてはいけない、と知っていた。
白い立ち姿は、垣根を通り抜け、楽園から消えてゆく赤いマントをただじっと、長い間、見送っていた。
そして身を翻すと、炎の守護聖の帰還を告げる赤い夕日に照らされながら、長い青銀の髪を波打たせ、薔薇に包まれた楽園からかの人を迎える小さな館へと、静かにその姿を消していった。