■ 理想の箱庭 - Side Black -

 夜闇の中に、雨が細く降っていた。

 こんな日でも、あいつは何時ものように、何時もの場所で待っているのだろう。ほとんど何も考えられない頭で、オスカーはぼんやりとそう思った。

 だらりと下げられた両手からは、少しずつではあるが血が滴り、オスカーの歩いた小道を点々と辿る。

 これほど酷い怪我をしたのは久しぶりだ。

 それはまた、今日のオスカーが下界でどれだけ荒れたかという証拠でもあった。

 どんな些細な怪我でも、オスカーから発せられるサクリアの僅かな歪みからか、対の存在であるあの人はそれを察して――オスカーの密かな帰り道の先、いつも決まったあの場所で、いつもの小箱を持って待っている。

 ましてやこんな日に、来ない訳がない。

 ましてや今日、オスカーに訪れた変化に、気がついていない訳がない。

 

 変化――炎のサクリアの、喪失の前兆に。

 

 

 炎の私邸の敷地内。

 オスカー自慢の薔薇の庭園。

 一面に真紅の花が咲き乱れるその場所は、夜の暗闇に包まれると血のような赤黒い海に変わる。

 その海の前で佇む、淡い水色のひと。

 青い月光に照らされたその姿は燐光のように仄かに光り、薔薇の海にも月にも満天の星にも、何者にもその神聖性を冒すことができないほどに――綺麗だ。

 

 何度も見てきた光景だ。

 何度も見たはずの光景だった。

 何の感慨もなく。時には、無闇矢鱈とも感じられるほど過剰に注がれるその優しさに、疎ましささえ感じて。

 

 なのに、この光景を見るのももう最後だろう、と思った瞬間―――オスカーは言い様のない息苦しさに囚われた。

 喉元いっぱいに苦さが広がる。

 呼吸ができない。

 

 オスカーは一度立ち止まると、大きく息をついた。

 それから、歩みを元に戻して、一歩一歩歩く。

 

 道程の先には、深海色の眼差しをこちらに向けたままのひとがいる。

 

 小箱の取っ手を持ったままの両手を、真っ白になるほど硬く握り締めて。

 

 オスカーの視線は何処に結ばれているか判然としない。

 ただ2人の距離だけがどんどんと縮まってゆく。

 硬直したまま動かない人の横を擦れ違う直前、オスカーはぴたりと歩みを止めた。

「……嘲笑いに来たのか」

 低い低い声が、炎の守護聖の身体から発せられた。びくり、と水の守護聖の肩が揺れる。

 オスカーの真左で、リュミエールが浅い呼吸を何度も繰り返す音が聞こえる。

 オスカーはただ沈黙したまま、その場に立っていた。

 やがてリュミエールは、ひとつ大きく息をついた。先ほどのオスカーのように。

「……手当てを、」

 いつも穏やかで優しい声音は、隠しきれない震えを帯びていた。

「傷の、手当てを、させて下さい……」

 雨の雫が、紫に近くなった唇の上を滑る。

 しばらくの沈黙の時が流れた後、オスカーは黙って東屋のほうへ歩き出した。

 それが、いつも、そうやって歩いた、いつもと同じ道程だった。

 少し離れた後ろを、リュミエールが付いて来る気配がした。

 

 東屋のベンチに座ると、リュミエールは小箱を開けて、いつもよりもぎこちない仕草でオスカーの手当てを始めた。

 かたかた震える白い手で、消毒液のびんがかちゃかちゃと音を立てる。オスカーの手に触れる手は氷のように冷たかった。

 やがて手当てが終わり、リュミエールの手が、治療の済んだオスカーの手を、ゆっくりとオスカーの膝の上へ戻す。

 オスカーはただ、されるがままになっていた。

 白い手が道具を小箱の中に収め終わると、再び沈黙のみが2人の上に降りる。

 リュミエールの髪の先から頬へ、雫になって流れる雨露だけが、無為に過ぎ去る時間を表していた。

 オスカーは正面を向いたまま動かない。視線はリュミエールに向けられることなく、その氷色の瞳は目の前に広がる一面の真紅の薔薇を映していた。

「……どうして」

 触れれば壊れてしまいそうな、弱々しい言葉がリュミエールの口からこぼれた。

「どうして、貴方だけが……」

 続きは言葉にならなかった。

「地の守護聖が降りて、ジュリアス様、クラヴィス様ももうすぐ聖地を去られる。―――順番から言えば妥当なところさ」

 光と闇のサクリアがその主を変え、新しい守護聖たちの研修期間も終わりに近づき、光の守護聖、闇の守護聖が下界に降りる日はもう、片手で数えられる程になっている。

「……違うんです」

 リュミエールの声音の震えが大きくなった。

 応えるオスカーの声音は低く、リュミエールとは対照的に、奇妙なまでに平坦だ。

「まあ、確かにお三方に比べれば俺の在任期間は酷く短かったがな」

「違う……!」

 リュミエールの声が悲鳴に近くなった。俯いた顔を強い勢いで左右に振る。

 柔らかい青銀色の髪が、流れを描いて宙に舞った。

 

 瞬間、オスカーの頭に、一気に血が上った。

 胸の中にどす黒い感情が広がる。

 

 本気で疎ましかった。

 誰にでも分け隔てなく注がれる、その優しさが。

 

「黙れ!」

 

 強さを司る炎の守護聖が、大地が震えるかと思われるほどに有りっ丈の力を込めて怒鳴った。

 俯いたままの水の守護聖がびくりと揺れて、全身を強張らせた。

 

「お前に俺の何が判る!」

 加熱した自我が水の守護聖にそう怒鳴りながら、頭の片隅の自分が冷静に自分に問う。

 ――何が、とは、何のことなのか―――

 

 水の守護聖の表情を見れば、目を閉じたまま強く唇を噛みしめている。泣きそうな顔をして、それでも泣き出すことはしない。

 どんな状況であれ泣く男など、オスカーが最も軽蔑する部類の人間だ。

 リュミエールもそれを判っているからこそ、であろう。

 ――だが、この水の守護聖ならば。

 そんな表情も、綺麗だ、とオスカーは思う。思ってしまう。

 耐え切れずに涙を零しても、きっとそれは、一種の感嘆をさえ呼んでしまうような美貌であるに違いない。

 

 見たくなかった。そんな顔など。

 リュミエールの優しい、何処までも優しい顔など、見たくなかった。

 

「もう、お前の顔など、見たくない」

 だからそう告げた。

 オスカーは無言で立ち上がった。全身に拒絶の意思を帯びさせて。

 リュミエールは身体を強張らせたまま、微かに震え続けている。

 

 いつの間に、これほど離れてしまったのだろう。

 長い長い年月を、ただ反発しあうことしかできなかった人。

 何かが少し違っていれば、分かり合えたのだろうか。

 

 オスカーの胸が、きしきしと軋んだ。

 

「次代の炎の守護聖とは、仲良くしてやってくれ」

 

 それまでの口調とはうって変わった静かな声だけが、水の守護聖とともにその場に残された。

 

 

 

 なぜだか分からない。

 これが何なのかも判らない。

 ただあの人が居なくなるのだと考えると、身体が半分えぐり取られたように痛くて、痛くて、ずきずきと痛くて痛くて堪らない。

 それから、気分が悪くなった。眩暈がする。悪寒がする。体中の内臓が逆流するような吐き気がする。

 我慢できなくなり、吐いた。

 吐くものが無くなると胃液を吐いた。

 それすらも無くなると身体が何も受けつけなくなった。食欲は皆無だったが、それでも無理矢理口にしたものは片端から吐いた。水を飲んでも吐いた。

 自分の身体が自分のものでないような感覚。

 身体も心も、ばらばらの方向へ四散してしまいそうなほど、気分が悪かった。

 

 

 

 退任の決まった光と闇の守護聖に気を揉ませたくなかったから、という理由で、オスカーのサクリア喪失は2人が下界に降りた後に公表された。

 みな、一様に酷く驚いた。地、光、闇に続き、今度は炎と立て続けだ。しかもオスカーの在任期間は他の三者に比べると酷く短かったことがなおいっそう驚きであるようだった。ましてやオスカーは、光の守護聖の退任後、次代の首座に任命されていたから。

 結局、オスカーの公表までの間、オスカーのサクリアの変化に気が付いた者は女王を含め誰もいなかったようだった。

 ―――あの日以来顔を合わせなくなった、水の守護聖を除いては。

 それが対の力を持つ者ということの意味だ。

 例えそれが、反発を招く為だけのものであったとしても。

 オスカーはそう自嘲気味に思った。

 

 新しく炎の守護聖となるべき人物はすぐに見つかり、まもなく聖地へ招聘された。

 短く切り揃えられた、少し固めの黒髪。整った顔立ちは、オスカーほどの迫力はないものの、その気の強さを伺わせている。

 オスカーが聖地へ来た時と同じくらいの年頃のその少年は、やはりその頃のオスカーと同じように少年の域をすでに脱しかけていた。上背もすでにオスカーとほとんど変わらない。

 そして、紛うことなき、炎のサクリアの気配。

 一日一日ごとに弱くなるオスカーのサクリアとは対照的に、天に向かって燃え上がる盛りの炎のようなサクリアを背負ったその彼は、昔のオスカーと同じように、栄えある場所での栄えある地位に任じられた事を―――酷く誇らしく思っているようだった。

 そのような後継者であることを、オスカーは喜びもしなかったが、残念にも思わなかった。

 ただこいつなら引き継ぎは順調に進みそうだな、と薄く思っただけだった。

 よく自分に似ている。新守護聖としての教育に自分も相手も戸惑うことはないだろう。

 

 ただひとつ、黒髪の少年が、その前任である炎の守護聖とは似ていなかった点。

 

 黒髪の少年はすぐに、オスカーに伴われ、他の守護聖たちへ紹介された。謁見の間に集まった一同に、順々に紹介されてゆく。

 水の守護聖の位置が近くなるにつれ、オスカーは息苦しさを覚えた。

 あの日以来、水の守護聖には会っていなかった。久しぶりに見る顔は、いつもより更に一層、透けるように白い。

 順番が回り、新しい炎の守護聖と共に自分の前に立ったオスカーと、リュミエールは一瞬だけ目を合わせた。

 縋るような、瞳。

 誰も気が付かないほどの短い時間、微かに、しかし確かに合った視線は――すぐに黒髪の少年へ移された。

「水の守護聖、リュミエールです」

 そう優しい声音で告げ、誰もが見惚れる柔らかな美貌をふわり、と見せる。

 オスカーが再び、あの時のように、その優しさに胸を苛立たせかけた瞬間、

 

 隣の黒髪の少年が息を呑み、水の守護聖へ只ならぬ視線を注いでいるのに気が付いた。

 

 

 予感は的中した。

 

 どうやら新たな炎の守護聖は、一目で水の化身たる麗人に心奪われたらしい。既にかなり本気で熱を上げているらしく、炎の私邸に帰ってからリュミエールのことをオスカーに根掘り葉掘り訊いてきた。

「あいつのことは殆ど知らない、俺とあいつは聖地でも有名な犬猿の仲だったからな」

 いい加減オスカーがうんざりしてややぶっきらぼうにそう告げた時、黒髪の少年はひどく驚いた。

 対の性質のものを求めるのは当然のことではないか、と。

「なんていうか、こう、……自分の体中に満ちているサクリアが、全身であの人を求めてるんです。」

 

 全身があの人を求めている

 

 オスカーは自分の肌がざわつくのを感じた。残された僅かなサクリアが、首の後ろ辺りから立ち上るように。

 意識しない不快な冷汗がにじむ。

「そうは言っても、男同士で、守護聖同士だぞ」

「男だろうが守護聖だろうが関係ありません!」

 唐突に黒髪の少年の声が強くなった。恐いものを知らない若さを思わせる険しさだった。

 が、その声のトーンが急に落ちる。

「あの人が欲しい」

 低い低い声でそう、独り言のように、次代の炎の守護聖が呟いた。

「この身の中のサクリアが、そう言ってるんです」

 

 オスカーは自分の中で、何かが徐々に崩壊していく気配を――感じた。

 

 

 ――心が、叫んでいる

 

 あの人が欲しい

 あの人が欲しい

 他には何も要らない

 

 ただ あの人だけが 欲しい

 

 

 

 数日もたたないうちに、若い炎の守護聖のいない時を見計らって、リュミエールがオスカーのいる炎の守護聖の執務室へ訪れた。

 訪問はあらかた予想していた。あの黒髪の少年の熱の上げ方を見れば、オスカーならずとも他の守護聖にですらわかる事だ。相談の内容もオスカーの想像していた通りのものだった。

「どうするって言われても、俺はあいつの好きにさせておくが?」

 水の守護聖が言葉を無くす様子が見て取れた。

「……でも、幾ら……あの子から好きだと言われても、同性同士で…守護聖同士ですよ?」

「同性だろうが守護聖だろうが関係ないだろう」

 数日前、オスカー自身が口にした疑問に返された返答を、そのまま告げる自分が滑稽だった。

「言っただろ、仲良くしてやれって。俺には他に何も言うことはない」

 水の守護聖を視界の端に写す自分の、胸の奥が再び不快な暗雲に襲われそうになるのに、気が付かない振りをして意識の底に押し込める。

「それと、もうひとつ言ったよな。……お前の顔など見たくないと」

 自分に出せることができたのかと自分で驚くほどの、オスカーの低い声が、リュミエールにそう告げた。

 

 

 

 水すら摂取できなくなったので脱水が酷いらしかった。それほど外面には出てないはずだったが、自分の生活の実情を知っている私邸の使用人たちが見るに見かね、王立研究院の医療班のスタッフが呼ばれ、医師は診察を少しするなり問答無用で点滴を打った。

 酷く痛んだらしい身体が点滴だけで容易に戻るはずもなく、身体の気持ち悪さとだるさは増す一方だった。

 身体の痛みなど、もうどうでもよい。

 こんなに悲鳴を上げる身体が、今更浅ましく、必要だとは感じない。

 ただ心が、痛くて、痛くて、痛くて痛くて痛くて痛くて如何仕様もない。

 

 

 

 オスカーが聖地を去る日が、明日というその日。

 水の守護聖が倒れたと、連絡が回った。

 オスカーの元にその知らせが届いたのは、聖地の日が傾きかけた頃だった。

 

 

 何かあったのか?

 ここ最近の執務の内容は、確かに炎の代替わりで少し忙しいが、体調を崩すほどではない。

 リュミエールはああ見えても自分の体調管理には気を払う。自分の身体が大事だからではなく、自分の体調不良によって他人に迷惑を及ぼすことを酷く嫌うからだ。

 そのリュミエールが倒れるようなほどのこととは……

 

 そこまで考えて、オスカーは忌々しく舌打ちをした。

 今日を含めあと2日だ。なぜ今更、今この時になっても、あいつに心を乱されなければならない?

 

 ずっとそうだった。

 初めて逢った時から、今まで、ずっとそうだった。

 あの優しげな顔を見るたびに、柔らかな微笑を零しているのを目にする度に、心を掻き乱された。

 あの優しさが嫌いだった。

 

 

 でも、今は。

 水の守護聖が運ばれた、水の居館へ出向く自分の方が、もっと嫌いだ。

 

 

 ―――酷く衰弱されていて

 ―――極度の栄養失調と、脱水症状だそうです

 ―――何でも繰り返し嘔吐されていて、ここ数日間、何も口にされてなかったと…

 ―――水を飲んでも吐いていらっしゃったそうで、この何日かは医療班のスタッフが毎日点滴を施していた程らしいです―――

 ―――どうなさったのでしょうね。大事がなければ良いのですが

 

 

 優しい顔が、嫌いだった。

 包み込むような、柔らかな笑顔が、嫌いだった。

 

 でも、衰弱しきって、血の気を無くした白い顔の方が、もっと嫌いだと。

 今になって、初めて、気が付いた。

 

 カーテンの重く下ろされた部屋の中、冷たい身体でぐったりとベッドに沈む、水の守護聖を目の前にして。

 

 

「……リュミエール」

 意識の無いらしいリュミエールの、滑らかな頬に、掌で触れた。

 自分の内にわずかに残された、炎のサクリアをそこから送る。

 ほんの少しだけ、リュミエールの肌が赤みを帯びる。同時に、凍ったように閉じられたままだった瞼が、二・三度、揺れた。

 

 ゆっくりと開かれていく瞳は、深海で揺らめく、深い碧で。

 身じろぎもせず、オスカーにじっと注がれた。

 

「……とても、気持ちがいいと思ったら……」

 深く柔らかく、静かな声がゆっくりと部屋に満ちる。

「出来過ぎた、夢を、見ているようです………」

 そう言って、ひとつ息をつき、自分の頬に当てられたままのオスカーの手に、自分の手を添えた。

 開いた時と同じように、再びゆっくりと、目を閉じる。

「オスカー」

 リュミエールから手を外す事も、視線を反らす事も出来ず立ち尽くすオスカーに、水の守護聖が言葉を紡ぐ。

「貴方に、嘲笑ってほしいことがあるのです」

 オスカーの手に添えられていた、リュミエールの手がするりと、ベッドの上、散らばる青銀の髪の横に落ちた。

 ベッドに力なく沈む、しなやかな躯が―――綺麗だと、思う。

「…………何だ」

 どくどくと音を立てて早くなる鼓動と共に、胸の奥に燻り出した感覚を、無理矢理心の奥に押し込めて、尋ねた。

 リュミエールの唇が、笑みの形に動く。

 

 

「貴方を、愛しています」

 

 

 閉じられたままの目尻から、水滴が滑り落ちた。

 

 

「嘲笑ってください」

「…………………」

「貴方を、愛しているんです」

 

 

 

 涙に濡れた瞳を、開いて。

 水の守護聖は、オスカーへ、ふわりと、微笑った。

 

 

 オスカーの中の、何かが音を立てて砕けた。

 

 

 手首を掴んで思い切り力任せに引き寄せて、起こした躯を背が折れるほどに抱き締めて、乱暴に唇を塞いで深く口付けた。

 身体の奥から沸き起こる嵐のような衝動のままに。

 事態を理解できない腕の中の細い身体がもがく。

 暴れる体に回した両手に力を入れ、細い身体を強く抱き締めて縛めた。逃げられないように。

 重ねた唇を離して、白い首筋へ滑らせる。そのまま体重をかけて、抱き締めた体ごとベッドへ倒れ込んだ。

 時間がそこで硬直したように、全ての動きが止まる。

 

 驚きに目を見開いたままの水の守護聖が、震える手をゆっくり動かして、自分の上に圧し掛かる体に手を回すと。

 オスカーの背が、細かく震えていた。

 

「……俺は」

 リュミエールの首筋の辺りに顔を埋めたままのオスカーの声は、奇妙なほど低く平坦で、そして細かく震えていた。

「俺は、お前なんか、愛していない………」

 そう呟きながら、オスカーの唇が、言葉とは裏腹に甘い仕草でリュミエールの首筋を滑り、何度も何度も口付けを降らせる。時折強く吸われ、その度に水の守護聖の躯が揺れた。

 オスカーの手がリュミエールの手を探り当て、指を絡めて指先を指先でなぞる。それが不意に激情に駆られたように、強く握り締められた。

 力の込められたオスカーの手は、細かく震えていた。

「お前を愛していると認めてしまったら、お前を何処かに閉じ込めて、誰にも見せないで、誰にも逢わせないで、壊れるほどに滅茶苦茶に愛してしまうから………」

 リュミエールの耳元に寄せられたオスカーの唇が、柔らかな耳朶を舐めた。甘い戦慄がリュミエールの中を走る。

「だから、ずっと前から……」

 そこまで言って、再びオスカーはリュミエールの首筋へ顔を埋めた。

「ずっと前から、俺は、お前なんか、愛していない……!」

 

 

 強い衝撃とともに、初めて逢った時から。

 気づいていた、自分の感情。突き動かされる衝動。

 その場限りで、鍵を掛け、自分の中へ永遠に封じ込めたはずの禁忌。

 

 ――気がついていた。

 気がついていた。

 それらから目を背け続けてきた。今日という日まで。

 

 

 リュミエールはしばらく硬直していた。

 それから、見開いたままだった瞳を、ゆっくりと閉じた。溜まっていた雫が目尻から零れ落ちた。

「……はい」

 穏やかな声音が、そう応えた。

 

 

 

 ―――なんと私は愚かだった事か

 彼がその内に秘めたまま、下界まで持っていくはずだった尊い愛情に、欠片も気づかず。

 最後の最後になって、いちばん残酷な方法で暴き立てた。

 ―――いかに私は、無知な子供であったことか―――

 

 

 

「ごめんなさい」

 リュミエールが譫言のようにぽつりと呟く。

 オスカーはゆっくり上体を上げると、目を閉じたままの水の守護聖の顔を見やった。

「ごめんなさい」

 リュミエールの口から繰り返される言葉。オスカーは片手で、ゆっくりと水色の髪を撫でた。

「謝るな」

「……ごめんなさい」

 唇を重ねて、水の守護聖の言葉を遮った。初め優しかった口付けは、徐々に深くなる。

 何度も角度を変えて、長い間、唇を貪った。

 

 抱きたいと思った。自分の下で震える躯を。

 そしてリュミエールがそれを拒まないであろう事を知っていた。

 

 その衝動に、オスカーはシーツを強く掴んで耐えた。

 やがてオスカーの体から力が抜け、ゆっくりと、深い溜息が吐き出された。

 

 揺らめく深海色の目を開いてオスカーを見上げるリュミエールの目元に、そっと唇を寄せる。

 リュミエールの左耳に手を伸ばして、そこに付けられていた青い石のイヤリングを手に取った。

 それを握り締め、オスカーはベッドから立ち上がると、扉の方へ向かって歩き出した。

「……幸せに」

 最後に、その言葉だけを部屋の中に残して。

 

 

 

 薔薇の海を背にして、オスカーは芝生の上に腰を下ろしていた。

 暗闇の中に、星はひとつも見られない。厚い雲が重く垂れ込めているらしかった。

 手の中の青いイヤリングを見つめる。

 

 ――抱けたはずだった。

 抱いてもいいはずだった。

 

 けれども只人となり、聖地を去る自分が、水の守護聖たる身に何を残してやれる?

 遠くから幸せを祈っていれば、それでいい。

 

 風に揺られ、ざわざわと赤黒い薔薇の波が音を立てた。建前の陰で自分の心の中に押し込めた、黒い感情のように。

 

 ――何もかもを奪いたい

 誰の目にも晒したくない

 腕の中に囲って、思うままに抱いて、愛して愛して愛して、

 ――永遠に傍を離れる、その前に、壊してしまいたい――

 

 オスカーは大きく息をついた。

 

 何よりも大事な人だ。あの人を傷つけるであろう自分の感情を、永い永い間、縊り殺し続けてこれたほどに。

 それは嘘偽りではないはず。

 オスカーは目を瞑り、掌の中の青いイヤリングにそっと口付けた。

 

「……オスカー様」

 

 固い声が、頭上から降ってきた。

 遠くの自邸の明かりを背景にしたシルエットがオスカーの上に被さる。

 

 反射的に手の中のものを握り締めて覆い隠し、オスカーが見上げたそこには、黒髪の次代の守護聖が立っていた。

 夜目にもその拳が震えているのがわかる。

 

「……リュミエール様のお相手は、貴方ですか」

 

 

 

「…何の事だ」

 殊更に声を冷やして、オスカーはそう答えた。目の前の姿が大きく震えたのが見えた。

「……今日の夕方、リュミエール様の所へお見舞いに行きました。玄関先で、立ち去る貴方の後姿が見えました」

 その声は、傍から聞けば滑稽なほどに震えている。オスカーは無言でその言葉を受けた。

「リュミエール様は酷く顔色も悪くて、お疲れの様子で、目を合わせて下さらなかった。どうしてそこまで無理をしたのか、どうしても聞きたくて、無理矢理こちらを向かせたら……首筋の、痕が、」

 震えが大きくなりすぎて、言葉はそこで途切れた。何度も荒い呼吸を繰り返し、言葉を続けようとする。

 オスカーはただ、遠くを見たまま黙っていた。

 ようやく震えを収めた少年が、再び口を開く。嘲りの口調で。

 

「どうやって、あの躯を開かせたんですか?」

 

 暗い炎が、オスカーの中で火を灯した。

 

「……何だと?」

 様子の変わったオスカーに気づかず、黒髪の少年は自嘲気味に言葉を繋いだ。

「かっとなって無理矢理抱こうとしたら、泣き喚いて抵抗されましたよ。何も知りませんっていうような綺麗な顔をして、貴方にさんざん抱かれてきたんでしょうに」

 とうの昔に頭に血が上っているらしい少年は、オスカーから立ち昇る気配に気がつかない。

「聖地から出てお行きになる前に、どうやったらあの人が落ちたのか、是非教えていただきたいですね。あの躯を何度も楽しんだんでしょう?」

 

 

 風を切る音がしたあと、どさりと片腕が芝生の上へ落ちた。

 黒髪の守護聖は呆然と、何も無くなった自分の肩から先を見た。拍動に合わせて血が噴き出している。

「……ふざけるな」

 痛みを感じる暇もなく、黒髪の守護聖は目の前の先代から迸る殺気に恐怖を覚えた。目が驚愕に見開かれる。

「どうしてお前のような奴が、あいつの隣に立つ権利がある?……炎のサクリアを持つというだけで。」

 むしろ静かなほどに、そう言葉を紡ぐオスカーの左手には青いイヤリング、そして右手には長剣が握られていた。

「返せ」

 瞳の中には怒り。そして、狂気。

「返せ。……それは俺のものだ」

 立ち竦む黒髪の少年へ、オスカーは大きく剣を振りかぶった。

 

 

 

 オリヴィエが夜になって見舞いに来た時から、リュミエールは極度に疲労を滲ませていた。半日ベッドに横になっていたはずなのに、少しも休養になっていなかったかのようだ。

 心身ともに打ちのめされたようなそのあまりの痛々しさにオリヴィエのほうが狼狽えてしまい、なんか食べる?とサイドテーブルにあった林檎を手についつい聞いてしまった。

 ベッドにぐったりと体を沈ませたまま、リュミエールは緩く頭を振った。今のリュミエールが水すら飲めない状態であるということはオリヴィエも聞き知っている。

 溜息をついて、ベッドサイドの椅子に腰掛けたその時だった。

 ふ、とリュミエールが顔を上げた。

「リュミちゃん?」

「……オスカー?」

 オリヴィエから逸れた方向に向けられていた、何処となくぼんやりしたリュミエールの瞳が、急速に覚醒していく様子をオリヴィエは見た。

「オスカー!?」

 いきなりそう叫んで、リュミエールがベッドから飛び起きた。その目が大きく見開かれたと思うと、リュミエールは自分の体を抱え込むように床の上にくずおれた。

「リュミちゃん!?」

 あわててオリヴィエが傍に寄る。リュミエールは目をぎゅっと瞑り、強く頭を振った。

「駄目です、オスカー、駄目です……オスカー!」

 苦痛の表情で頭を抱え込んだリュミエールが、悲鳴を上げた。

「いやぁぁぁぁぁ!」

 次の瞬間、オリヴィエもリュミエールの感じた炎のサクリアの異常に気がついた。

 とてつもない力で無理矢理、炎のサクリアが捻じ曲げられるような衝撃。流れ落ちる水の流れを強引に引き戻すような、酷く不快な感覚の波がオリヴィエを襲う。オリヴィエにすらこれほど悪寒を抱かせる感触は、炎の対となるリュミエールであればいかほどかに感じさせられている事か。

 ひとしきりその波が収まり、自分の体を抱き締めるようにして床に座り込み、震えていたリュミエールが、急に立ち上がった。テラスに続く戸を開け放って外に駆け出してゆく。

「リュミちゃん!?」

 驚いたオリヴィエも慌てて後を追った。嫌な予感がした。今、引き止めなければ、取り返しのつかないことになると。

 しかし裸足で走るリュミエールは、その体の痛み具合からは考えられないほどに素早かった。

 オリヴィエは、ほどなくしてリュミエールの姿を見失った。

 

 

 

(オスカー、……オスカー)

 リュミエールはただひたすらに、炎のサクリアの気配へ……オスカーの気配へ向かって走る。

 場所はわかっていた。

 あの薔薇の庭園だ。

 

 茂みを抜け、視界が開けた瞬間。

 リュミエールはその場で立ち竦んだ。

 全身を血の色に染めたオスカー。その体から立ち昇るのは、紛れもない、全盛の力強い炎のサクリアだ。

 そして、その足元に積もる肉塊。

 

 夜闇の中に、雨が細く降り始めた。

 

「……許せなかった」

 頼りなげな細い言葉が、俯きがちに佇んだオスカーの声で聞こえてくる。

「炎のサクリアを持つというだけで、平然とお前の横に立つこいつが、…平然とお前を傷つけるこいつが、許せなかった……」

 

 リュミエールは、不思議と恐さを感じなかった。

 死者への畏敬もいだかなかった。

 ただ、剣を持ったまま立ち尽くすオスカーを痛ましいと思った。

 

「……リュミエール」

「はい」

 そこで初めて、オスカーが顔を上げ、リュミエールのほうを向いた。

 剣を持った掌が広げられた。炎の長剣は落ち、金属音を立てた。

 空になった手が、真っ直ぐにリュミエールのほうへ伸べられる。

 

「お前を、愛している」

 アイスブルーの瞳は、穏やかな色を湛えていた。

「……駄目なら、お前が、俺を裁いてくれ……」

 

 

 ――お前を何処かに閉じ込めて

 ――誰にも見せないで

 ――誰にも逢わせないで

 ――壊れるほどに、滅茶苦茶に愛して………

 

 

 リュミエールは、オスカーの言葉がその全てを指しているのだと判った。

 

 判っていて、躊躇いなくその手を取った。

 

 

 やがてオスカーの手はリュミエールを強く抱き締め、リュミエールの両手がオスカーの広い背中へ回された。

 

 

 雨足が強くなる。

 雨粒に当たった赤黒い薔薇が、一本ずつ、その色を白へと変えていく。

 降り続く雨は、抱き合ったままの2人の足元の赤い血を、ゆっくりと押し流していった。