■ 水の守護聖

 本当に優しい子だね、と小さい頃からよく言われていた。

 それは父だったり、兄だったり、その他の親戚だったり、友人だったりしたけれど。

 私はいつも、それらの言葉にただ微笑んでいるだけだった。

 温暖な気候と豊かな海洋だけしかない辺境の星とはいえ、一応は星間航行も可能な程度の文明を持つ主星文化圏の惑星だったから、聖地とそこに住まう女王陛下、守護聖方のことは知識として皆知っていて。

 いつかリュミエールは優しさを与える水の守護聖様として聖地に呼ばれるかもね、などと冗談に紛らせて、でもかなりの割合で本気の声音が混じった調子でよく言われていたのだ。

 それらの言葉も、私はただ微笑って聞いていた。

 誰よりも一番そんな風に思えなかったのは、私の事を一番良く知っている、私自身だった。

 だから聖地からの迎えがきたときは、本当に、心の底から驚いたものだ。

 おそらくは、私が最も。

 どうも家族などは、嵐と言うよりは竜巻のように、平和で平凡な日常生活の中心に唐突に沸き起こったその話に、驚きながらも納得している節があったようだ。

 聖地から迎えに来た使者方に至っては、私の容貌と物腰を見るなり「優しさを司る水の守護聖かくあるべし」といたく感激したようで、すでに私が水の守護聖になったかのように、恭しく、丁寧すぎるほどの礼節を取った。

 

 どうしてこうも、ひとは、先入観、というものに支配されてしまうのだろうか。

 私の顔立ちが穏やかだからといっても、物腰が静かだからといっても、私の中身が、真実の私が、優しいとは限らないのに。

 

 別に腹立たしいとは思わなかった。

 小さい頃に遭遇した出来事のせいで、あるがままの状況を受け入れる癖が長いこと私の身についていた。人から自分のことをどう思われても、あまり気にしたことはない。

 しかしそれにしても、日頃から、優しいね、と言われる事は多すぎて、現実の私とのあまりのギャップの大きさに、流石にそれは如何どうかとよく思ったりしたものだ。

 おまけに今、目の前で、よりにもよって全宇宙の至上の場所に、全宇宙の優しさを司る至上の存在として召還されると言われているのだ。

 世の中が、それほどまでに皮肉に出来ていることを改めて強く思い知ったのは、この時だった。

 病気の母のことが心配だから、と聖地行きを最初断った私の台詞も、使者方にとっては「優しさを司る水の守護聖に相応しいエピソード」と感激の種を与えることになったようだ。

 病に臥せっている母親を、おそらく聖地に一度向かえば永遠に会う事の出来なくなる母を心配することくらい、水の守護聖でなくても、優しさを司る存在でなくとも当然の事だと思うのだが、私以外の人々は誰も気がついていなかったのだろうか。

 いや、母は……母だけは、そのあたりを正確に、しかしあくまでも表には出さず、理解していたような気がする。

 それまで、私の事を一番真実に近い形で知っていたのはおそらく母で、そしてほぼ唯一の人であっただろう。

 

 もともと海の多い土地柄だったけれども、父は殊更に海に近い場所に家を建てた。私が小学校に上がって2年か3年か経った頃だった。

 それほど著名でもない画家の父の収入で、それほど豊かとは言えない生活の中、眺望のよい海を抱える白い家は、父が少しばかり奮発して建てたものらしかった。

 幹線沿いの、しかし近所の家々とは少し離れた、小高い丘に立てられたその家は、洋館風のちょっと洒落た白い家で、完成したそれを見上げる父の顔は子供のように無邪気に嬉しそうだった。

 海の潮にすぐ痛んでしまいそうだ、などと隣で考える私とは大違いで、父のそのあまりの純粋さに少し笑ってしまったものだった。

 どうしたのか、と父は聞いてきた。可愛いから、と、私はそう答えた。

 当然のように家に対する感想だと取ったらしい父は、そうだろうそうだろう、と本当に嬉しそうににこにこしていた。

 そんな父に、私は思わず更なる笑いが零れてきて、声を押さえるのにとても苦労したのだ。

 その頃にはもう私は、優しいね、というお決まりの例の台詞を、家族を含めたいろんな人から何度も掛けられていたけれど。

 父は口に出しては言わなかったけれど、おそらくは一家揃って海の好きな家族のために、殊更綺麗な海を抱くこの土地に家を建てた、その父のほうが、冷静に家の耐久度を計算する私より、よっぽど優しい。

 何故、人は私のことを優しいなどと言うのだろうか。

 その時、そう考えた事を、覚えている。

 

 綺麗な海を目の前にしたその土地に家を構えた父にはとても感謝した。

 私はとても海が好きだったから。

 海は私に、優しいね、などと言わない。

 優しくないね、とも言わない。

 ただその中に、あるがままの私を受け入れてくれる。

 その懐に抱かれるように、私は海へ抱かれる。人の背丈ほどの水深で、横たわるようにして上を見上げると、光は水面の複雑な傾きに揺らめかれて、さまざまな色合いのあおを重ね、私へと降ってくる。

 海の中は常に水音が聞こえているのに、不思議な静寂がある。それは人の鼓動にも似ていた。

 海が私に与えるその感触はとても心地よくて、長くその中に居たくて、自然、私の泳ぎは上達した。

 私の取る行動なんてそんなものだ。したい事をする、ただそれだけで、それは他の日常生活のあらゆる行動に関してもそうだった。

 けれど不思議と、何かにつけ、優しいね、そう言われることが多かった。

 海と違って、人は私を評する。いつも、誰しもが、判で押したように同じ台詞で。

 たとえ私がその時、心の中で何を思っていても。

 それは無邪気に喜ぶ父の横で冷静に潮風のことを考えた、あのときの奇妙な感触と一緒で、それは私にいつも違和感を与えた。

 

 母はその台詞を言わなかった唯一の人だった。たとえ心の中で思っていたにしても、口に出しては言わなかった。

 だから母の傍は、とても居心地が良かった。ありのままの私を受け入れてくれるという点で、母と海は良く似ていた。

 母の横では、私は私自身の知る私と人が語る私との違和感を感じずに済んだ。

 だから母の傍を離れるのは、もちろん病のことも心配だったけど、私自身のこととしても本当に辛かったのだ。おそらく聖地に行ってしまえば、名実共に優しさを司る水の守護聖になってしまう私の、本当の姿を認めてくれるものは誰も居まい。

 そんな私の様子が、病床の母を心配する姿、とだけ取られてしまうのは、やはり先入観というか、とにかくそういうものの所為なのだろうか。

 そういった私の受け取られ方も、私の聖地行きを拒否する要望も、どちらも結局は諦めてしまうしかない。

 どちらも、自分のままにならない、大きな目に見えない力のせいで。ひとはこういった力を、こんな時、運命、と呼ぶのだろうか。そう思った。

 

 だとしたら、運命と言うのはよほど気紛れで、面白い筋書きを用意しているものだ。

 聖地入りした後になって、私の抱いた感想はそれだった。

 

 聖地に到着した私の姿を見た人々は、私の星まで迎えに来て、そして私をこの常春の地へ、どこまでも花が咲き乱れる人工の楽園へ、私の意思とは関係のないこの地へ私を連れてきた使者たちと同じように、物腰の穏やかな私を見ていたく感激したらしい。

 安心。そう、安心とも言える。

 自分たちが水の守護聖と言う存在に対して抱く、理想像のようなもの、私がそれに相応しい姿を持つ存在であったこと。彼らは確かにそれに安堵していたようだ。

 彼らの期待を裏切るのは気の毒だ。

 そう思ったから、優しさを司る水の守護聖に相応しい、暖かく穏やかな万人向けの微笑を常に絶やさないようにした。

 微笑を向けられた彼らは、ひときわ感動してその身を打ち震えさせ、感激に目を潤ませる者すら居た、らしい。

 

 ひとというものは、なんと愛すべき存在であることか。

 万能ならざる人の、知らざる事の、幸いなる哉。

 

 彼らに知らざる事の責を問うのは、気の毒だし、お門違いだ。なにしろ私の本当の姿というのは、母を除く家族すら気がつかなかった事なのだから。

 ひとびとに安心してもらうために、これからずっと自分を作り続けなければならないかと思うと、少し気が滅入ったが、まあ仕方ないことだと本格的に諦めた。

 だからその直後は、本当に驚いたのだ。そう、聖地からの迎えが来た、あの時と同じくらいには。

 私の正体を見抜いた人間が、2人も居た、ということに。

 

 一人は、漆黒の衣装と紫水晶の装身具を身につけた人だった。

「無理をしても続かぬぞ」

 私の前任者に連れられて、宮殿の廊下で初めて顔を合わせた時、擦れ違いざまにかの人はそう、言ってのけたのだ。

 彼の行き過ぎた後の空間で、私は振り向くことなく、唇から、笑みを零した。

 彼と私は、似たもの同士だ。直感的にそう思った。

 彼の傍は、さぞかし楽で、さぞかし居心地がいいことだろう。これから先、彼のもとへ通う事が多くなるであろう私の日常生活を予想して、私は少しだけ心が軽くなった。

 

 そしてもう一人は。

 一度でも目にすれば、網膜にまで焼け付きそうなほどの緋色の髪と。

 そして彼に認められない生温い存在であれば、その存在を一瞬にして凍りつかせるであろうと思わせる、冷たい瞳を持った人だった。

 私のほんの少し前に就任したばかりという彼は、私を眼にすると、けして優しくはない笑いで、しかしこの上も無く楽しそうな笑いで私を強く見据えたものだった。

「嬉しいよ、お前のようなやつが俺の相棒で」

 私にしかその本当の意味を読み取る事が出来ない笑いと共に、彼はそう私に告げた。さきほどの漆黒の人の場合とは違って、私は自分の身がひどく快い緊張感に包まれて引き締まってゆくのを感じた。

 嬉しい。

 そう、私もとても嬉しかった。

 永い永い、気の滅入るような永い時を渡る魂の半身に相応しい相手だった。

 そうこなくては。

 私は、やはり彼にしか読み取れない笑いを、いつもの水の守護聖の至上の微笑みに含ませ、返してあげた。

 

 だから水と炎の私たちの仲が悪かったことなど、実のところ一度も無かったのだ。

 炎の彼は私を見た瞬間に私の本質を悟り、そしてどうやらその本質の部分をことさらいたく気に入ったらしく、それは私にしても同じ事で、彼のそんな鋭敏な、そして思ったよりも深い現実感覚をとても快く思った。

 どんなに会議で対立していたとしても、それはもともと私たちの司る力が正反対であるが故の当然の過程である。だいたい子供ではないのだから、本来活発な討論を交わすべき会議の場で仲良くしようとすることの方が可笑しいと思う。

 どんなに対立しても、彼と私とのそれは、少なくとも当事者達にとっては、適度な緊張感を持ったとても心地良いもの以外の何物でもないのに。

 それでも周りの人々が、私たちの仲を悪い方へ悪い方へと取ろうとするその思考形態は、やはりこれも、炎と水の対立、という、先入観、に寄るものが大きいのだろうか、そう思った。

 というか、そう思わざるを得ないほどに周りの人々からは不仲と取られた。

 まあ、私の事を強く知る人が2人も居る今となっては、私たちへの周りからの評価など、私にとって昔よりなおさら気にすることではなくなっていた。

 なってはいたが、やはりあまりの重々の言われように少し気になる時もあって、一度私は私の対の存在に、私たちがそう思われることについての是非を問うたものだ。

「俺たちはただの人間に過ぎないが、同時に信仰の対象でもあるからな」

 信仰の対象。

 要するに、水の優しさの印象も、炎との対立の構図も、私たち守護聖に対する人々の尊崇の顕れとして甘んじて受けろ、と言いたいらしい。

 私は思わず笑ってしまった。地上では気の遠くなるような時が過ぎてしまった今となっては、彼ともう一人しか知らない、私のあるがままの笑い方で。

 彼のそんな、ある意味冷めた、しかし非常に的確な現実感覚は、私にとって本当に快いものだった。

 

 炎の守護聖の彼は、そんなに頻繁と呼べるほどではないけれども、時々、日中の執務後、日が暮れてから私の私邸に訪れてくることがあった。

「お前の所ぐらいだぜ、こういう気分の時に気を許せる場所ってのは」

 ささやかな恒例となったその彼の訪問の、とある日、私の私室に入ってきた彼はソファに深く身を沈めながら、げんなりした表情でそんな台詞を言ったものだ。

「それは光栄ですが……何かあったのですか?」

 彼の表情はずいぶんと疲れているようだったが、何に疲れているのかまでは私にはわからなかった。そういえば彼は昨日の深夜、惑星の視察から帰ってきたばかりではなかったか、とふと思い出した。

「何処に行っても、俺が強さを司る守護聖だからといって、俺を強い人間だとはなから思い込んでる連中ばかりで嫌になる」

 ………、ああ。それは私もよく知っている現象。

「……わかる気がします」

 ここにも、周囲からの先入観と理想像に困惑している人がいる。

 彼は私の返事に氷青色の目を軽く見開き、それからいつもの唇の端を上げるだけのシニカルな笑いを私に寄越した。

「そういうお前だからいいんだよな」

 笑った彼は、とても、とても嬉しそうだった。

 彼は私の目から見ると、十分に強いと呼んでもいい人だと、そう私は思ったが、彼が彼自身をそうは思っていないのなら、彼の思いを尊重しようと―――――。

 ……ああ。

 そこまで考えたその時、私はようやく気づいたのだ。

 私の胸に、そして彼の胸にも同じように存在する違和感の正体を。そして私が他人の言うように本当に優しい存在であるかどうか、その問に対する答えを、私が今まであえて追求しなかった理由を。

 それは私が本当に優しい存在であるかという問、彼が本当に強い存在であるかという問、その問に対する事実あるいは答が欲しかったのではなく。

 私が私自身を優しい存在だとは感じていないこと、彼が彼自身を強い存在だとは感じていないこと、自分自身にそういう思いを抱いているという事実を、ただそのままに受け止めてくれる人がお互い以外に殆どいなかった、その所為なのだと、この瞬間、ようやく気がついたのだった。

 彼と私は、しばらく無言のまま、顔を見合わせた。

 たぶん彼も、私の気がついた事に気がついたに違いない。

 

 だって彼と私は、対の存在だから。

 

 どちらからともなく、小さな笑い声が起こった。

 とても、暖かい。なんとなくそう感じた。

 彼は笑いながら立ち上がって、ゆっくり私に近づいてきた。身長差があまり無いとはいえ、そうやって近づくと私はやはり彼を見上げる恰好になる。

「素晴らしく物分りのいい水の守護聖様に、物分りのいいついでで、もう一つ頼みがあるんだが」

 彼は端正な顔に浮かべたシニカルな笑いを崩さずに、私を見下ろしながらそう語りかけた。

「なんでしょうか?」

 私は彼を見上げた形のまま、小首を傾げて尋ねる。背中に流していた髪が流れる音がした。

「お前を抱きたい」

 笑ったままの変わらない表情で淡々と、彼は私にそれだけを告げた。

 私は二・三度目をしばたたかせると、傾げた小首を、今度は逆の方向に傾げた。

「どうしてですか?」

 意外といえば意外な彼の申し出に、私は単純に不思議ではあったが、嫌悪感も違和感もそれほど感じなかった。少なくとも例の、優しいね、というあの言葉よりはずっと自然だった。

 私の言葉に、に、と彼は片方の唇だけを楽しげに上げた。

「抱きたいと思ったからさ」

 その彼の言い方に、私は思わず弾かれたように笑い出してしまった。それはそうだ。

 私と彼の間に、難しいことなんて何もないのだ。

 思い切り笑ってしまっている私の反応に、彼は睨然として少し不安げに、口を尖らせた。

「嫌なのか?」

 その彼の様子は、今まで私が見たこともないくらいに子供っぽくて。

 その様子にも、私は更にどうにも笑いが止まらなくなって。

 辛うじて息をつきながら、構いませんよ、と私は笑いの合間に返事したのだった。

 

 夜を迎える準備が全て済んで、照明を落とした部屋、月影が照らす中、静かに横たわった私を囲うように彼がベッドに上がった時、その氷青色の瞳は何か大事なものでも見つめるようにわずかに細められていて、私の瞳を覗き込んでいた。

 そのあまりにも意外なほど露骨に暖かさと優しさを湛えた色合いに、私の鼓動が唐突にどくどくと波打ちだした。

 急に見えない何かに締め付けられるように、胸と息が苦しくなる。何かを言おうとして開いたままの唇がじんじん痺れた。

 視線で私の視線を絡め取ったまま、彼はゆっくりと唇を近づけてきた。触れた瞬間、私の唇から思わず吐息がこぼれた。

 

 こんな。こんなはずじゃなかった。

 彼の手荒い扱いを静かに遣り過ごすつもりだったのに。

 彼が嫌いではなかったから、彼の申し出を受けたのに。それなのに。

 

 嫌いではなかったのに、これでは。

 

 ……好きになってしまいそうだ。

 

 彼の躯が執着と愛情を露わにして私を優しく包み、彼の手が大切な壊れ物を愛おしむように私の躯の上を滑る。

 意外な、予想だにしてなかった唐突な悦びに、彼の全身全霊から与えられるその感覚に、私は静かにひどく狼狽した。

 彼の手に導かれて、私の躯が跳ね、夜の闇の深淵のままに乱れる。

 堪え切れずに時折零れる私の小さな高い艶声は、彼が私に与える愛撫を一層深いものにしていった。

 

「綺麗だ………」

 

 背と首筋を仰け反らせたまま、彼の上で揺れる私を見つめながら、熱に浮かされたような表情で彼が呟く。

 彼の紅い髪を掴み、彼よりももっと熱に浮かされた細い声で、何度も彼の名を呼んでいた私自身を、辛うじて覚えている。

 

 

 ベッドの上で申し訳程度にシーツを被り、うつ伏せになって、私は抱かれた余韻に全身をゆだねていた。

 目元の辺りがまだ熱を帯びて火照っているのが、自分でもよくわかる。

「……可愛いよ、お前」

 私の隣で横になって頬杖をつき、時々私の髪を梳く彼の仕草は、とても優しくてひどく心地よかった。

 私の髪の中を泳ぐ彼の手が、時々軽く爪を立ててかしかしと私の頭を甘掻きする。

 ああ、もう。どうしてこの人は……。

 どうしてこの人は、私の弱い所をこんなにも的確に探り当てるのだろうか。

 憎らしくて、憎らしくて、あまりに憎らしすぎて、……とても可愛い彼。

「お前、初めてじゃなかったんだな」

 彼のその言葉に、私の唇から笑みが零れた。そして少し驚いた。

 とても昔の事だったから。

「わかりましたか?」

「なんとなくな……誰が相手だったんだ?」

「誰、というわけでもないのですが」

 彼が不思議そうに、目だけで問うてくる。

「小学校に上がる少し前でしたか、上がった後でしたか……拉致、といいますか、誘拐された事があるんですよ」

 彼の表情は変わらない。

 私は彼と同じように体を起こし、頬杖をついた。

「その男性のそういう性癖のために私が攫われたのかどうかまではわかりませんでしたが……私は程無くして警察の方々に救出されましたし、まあ普通の身代金目当ての誘拐事件として処理されたようですが」

 彼は沈黙したままだ。私の話の続きを待つ表情。

「その時に思ったんですよ……これが人間の本能であるなら」

 その本能までが、人間という存在を形作る要素であるなら。

「人間のそういった闇の部分、そういうものが、人間の中に存在する、その事を認めよう、そう思ったんです」

 その闇は、私の中にも、誰の中にも、存在してしまっているかもしれない要素だから。

 だからだろうか。あるがままの状況を受け入れる癖が私の一部になってしまったのは。

 だからだろうか。私が例の、優しいね、という言葉をいつもかけられてしまうのは。

「死んだのか、そいつは?」

 静かな声で彼が聞く。

「さあ……その後の事は詳しく知りませんが、まあある程度の有罪刑は受けたでしょうね。どちらにしろ今は亡くなっていることは確実でしょうけど」

 そう、聖地とは違う下界の時間の中で、はるか昔に。

 同じように流れ去ってしまった時間の中で、過去の人になってしまったであろう私の両親や兄妹が、私の身に起きた事実を知っていたか知らなかったか、その答を私自身が知らずに終わってしまったのは、きっと私にとって幸せだったのだろう。

 話を聞き終えた彼は、ごろん、と仰向けになって、紅い頭の下で褐色の腕を組んだ。

「もっと早く聞けばよかったな」

 私は彼に聞かせるに値しない下らない話をしてしまったかな、と少し心配だったので、その意外な言葉に目を丸くした。

「どうしてですか?」

「そいつが生きてれば、生き長らえてきた事を後悔させてやるほど、なぶり殺してやれたのに」

 彼の言葉は相変わらずとても静かだったが、炎の激情を押し詰めたような熱を帯びていることに、そこでようやく気がついた。

 驚いて何も言えない私のほうへ急に彼の逞しい両手が伸びてきて、痛いほどに力を込めて抱き締められた。

 性急に、深く唇を塞がれる。何かに縋りつくように彼の舌が私の舌を求める。

 最初は驚いて息もつけなかったが、落ち着くと私は彼の激情を鎮めるように、腕を回し、彼の深い口付けに応えた。

 

 ああ、もう。どうしてこの人は……。

 どうしてこの人は、私の躯をこんなにも熱くさせてしまうのだろうか。

 

 長い時間の後でようやく唇が離れた時、だから私は、また思わず笑ってしまった。

 心が、とても温かい。

「笑うなよ」

 そう言って彼が拗ねる、その様子は、とても子供っぽかった。

 嬉しかった。

 たぶん彼のこんな表情を、私だけが知っている、そんな想いで。

「嫌か?」

 心配そうに彼が聞く。

「いいえ」

 私は微笑んで、そう答えた。

 私の言葉に彼は笑って、それはやはりとても子供っぽい嬉しそうな笑いで。

 彼は今度は、柔らかく私をその腕に抱きこんだ。

 愛しげに、私の髪を何度も撫でる。

「お前を抱きたいと思う理由、次から変えることにするよ」

 その答えは、聞かなくてもわかるような気がしたけれど。

「どういう理由にするんですか?」

 彼の言葉で聞きたくて、微笑いながら、ついつい尋ねてしまった。

 彼はちょっと目を見開いて私の体を少し離すと、やや皮肉っぽい、自信に溢れた笑いを見せた。

「そんな優しくない台詞を言う唇は、塞いでしまうに限る」

 彼はそう言うと、少し強く唇を重ねてきた。

 私はもう知ってしまった。そんな笑いを見せる彼が、実はそんな時いつも、微かな不安を抱いている事を。

 優しくない私。

 強くない彼。

 だから。

 

「好きだよ」

「好きですよ」

 

 長いキスの後、離れた唇の隙間を埋めるように、彼と私はそう囁きあった。