■ Tuning

「ゼフェル?」

 水の守護聖の執務室に飛び込んでくるなり、挨拶もせずに乱暴にカウチに横になってうつ伏せた同僚に、リュミエールはそう声をかけた。

 どうかしたのですか、とか、何かあったのですか、とかいう、次に続く言葉を予想して、ゼフェルはクッションに強く顔を押し付けて身を固くする。

 しかし予想した言葉は飛んでこず、先ほど視界を閉ざすまで水の守護聖が立っていたグランドハープのある辺りから、ふ、と風のような気配が流れてきただけだった。

 たぶん水の守護聖は、いつものあの優しい微笑を浮かべたのだろう。

 さらさらと衣擦れの音がして、カウチの横まで来たと思ったら、ふわり、と軽い感触がゼフェルの上に被さった。いつも水の守護聖が肩に掛けている水色のショールであることは見ないでもわかった。

 彼にショールを掛けた手は、そのまま自然な流れで、その部分だけクッションに覆われていなかった、ゼフェルの右の目尻の涙の筋を拭った。

 そしてそのまま、気配は先ほどの元いた位置に戻る。

 ひとのいる温かな気配。流れる動きとともにさらさらと鳴る衣擦れの音。

 ポーン……………

 普段水の守護聖が扱うものよりも大きいハープから流れる、単発の弦の響き。

 心地良いと思ったらもう一度涙が出て、顔を押し付けていたクッションに湿り気が広がった。

 

 ポーン…………………

 一本だけ鳴らされる弦の響きは、大型のハープの台座部分、空洞になっている共鳴腔で増幅されて部屋の中に響く。

 続けて、かちゃかちゃと何かの金属の触れる小さな音。

 ポーン………………

 再び同じ高さの弦が鳴らされる。それからもう一度、金属の触れ合う音。

 ゼフェルが顔を上げると、リュミエールはグランドハープの脇に立って、手の中のT字型をした取っ手のような物の、Tの縦棒にあたる部分を、ハープの金属の棒のひとつにはめ込んでいた。

 同じような棒が、ハープの上部、優雅なカーブを描くラインに沿っておびただしい数並んでいる。よく見るとその棒はカーブを形作る木製の支柱を貫通し、リュミエールが立っているのと逆の方向に突き出た棒にはすべて、ハープを縦断する細い弦の端が幾重にも巻きつけられていた。

「何してんだ?」

 不思議とさっきまでゼフェルの中にあった恥ずかしさなどの負の感情は消えていた。たぶん涙の後の残っているであろう顔を素直にリュミエールに向け、そう尋ねる。

「チューニング、ですよ」

 いつもと何ら変わらない微笑をゼフェルに向けて、水の守護聖はそう答えた。

「音の高さを合わせてるんだっけか?」

「ええ、そうです。弦楽器の時は、調弦、とも言いますね」

 そう言ってリュミエールは再びハープの方へ向き直ると、ポーン、ともう一度さっきと同じ高さの弦を鳴らした。くい、とごく僅かにT字のチューニングレンチを握った水の守護聖の白い手首が動く。

 ポーン、ポーン、ポーンと同じ弦を続けて3回鳴らした。音を聞いて、リュミエールは満足したようにハープの前に置かれた椅子に座った。

「音合わせっつったって、一本だけ鳴らして、何に合わせてるんだ?」

「基準の音だけは耳で覚えてるものですから」

「ふーん」

 それにしても、ゼフェルには聞き取れなかった微妙な音の高さのずれまで耳だけで聞き分けることが出来るのは大したものだ。

 感心しながらゼフェルが見ている前で、リュミエールは次に左手の人差し指をさっきの弦へ、それよりだいぶん離れた弦へ親指をかけて、右手のチューニングレンチを親指で触れている弦が巻きついている金属棒へ差し込んだ。

 長く細い指が、2本の弦を同時に弾く。

 1オクターブ離れた音を同時に鳴らしているのだ、ということはゼフェルにもわかった。

 チューニングレンチを持つリュミエールの右手が僅かに捻られ、弦がかすかに震える。2本の指をさっきと同じ所にかけて、再び2本の弦が鳴らされた。

 音の高さはほとんど変わっていないのに、先ほどとは比べ物にならないくらいに豊かな広がりを持つ音が部屋に響く。

「へぇ」

 思わず、ゼフェルが感嘆の声を上げる。これが共鳴というものなのか、と改めて思った。

「素敵でしょう?」

 いつもの端正な微笑に、少しだけ子供のような嬉しさを滲ませた表情でゼフェルの方へ笑いかける水の守護聖。

「どの弦も調和を持って響き合わなければ、美しい音楽は作れないのですよ」

 わかる気がする。今のリュミエールの調弦を見れば。

 無言で憮然とした表情のまま、しかし雰囲気だけで肯定の意を返すゼフェルに、リュミエールはもう一度微笑むと再び調弦を始めた。

 先ほど調節したばかりの弦と、さらに1オクターブ高い弦に指をかける。

 白い指が、跳ねる。高い2つの音の響きが聞こえた。

 先ほどと同じように調節していき、何度目かに調和の響きを持って2本の弦の音が広がる。

 さらに1オクターブ上の2本。糸のように細い弦がリュミエールの手によってソプラノの音を響かせる。それから共鳴。

 その次は、最初にリュミエールが耳だけで合わせた基準の弦と、その1オクターブ下の弦とを引く。チューニングされた音色は、今度は身体に響くような低音で豊かに広がった。

 その下の1オクターブ。更にその下。

 ゼフェルが見守る中、リュミエールがゆっくりとそこまで調弦を進め、再びハープの中央の弦に手を掛けようとした時、先ほどゼフェルが飛び込んできた時と同じような、ばたばたという派手な足音が遠くの方からこちらに向かって聞こえてきた。

 

 和らいでいた雰囲気を一瞬のうちに再び固め、再び身を強張らせたゼフェルを横目で見ながら、水の守護聖はグランドハープの傍らから離れ、複数の足音が近づいてくる廊下へ通じる扉へと歩いていった。リュミエールが扉に向かって手を伸ばした丁度その瞬間、バン!と割れるような音を立てて両開きの扉が開く。

 弾け飛ばんばかりの勢いで広く開きかけた扉を、リュミエールの白い手が押さえた。

「失…わっ!」

 騒音と狼藉の張本人であるランディは、扉の向こうの目の前にいきなり広がった柔らかい水色の布の重なりに突っ込みかけ、慌てて立ち止まってからおもむろに視線を上げた。

「あ、リュミエール様」

「どうかなさったのですか、ランディ?」

 軽く広げられたリュミエールの腕は、ちょうど顔を覗かせる幅で開いた扉を支えている。ランディの背後には緑の守護聖の姿もあった。

「あ、その……」

 ランディよりやや長身なその姿を見上げるほどすぐ目の前、いつもと変わらぬ美しさで穏やかに微笑む水の守護聖に、ランディの台詞が曖昧に濁る。

「えーと、その、ゼフェルがこっちに来たような……いえ、その」

「あの、リュミエール様はどこかに行かれるんですか?」

 緑の守護聖がランディの言葉を繕うように訊いてくる。

「いえ、私はハープを弾いていたのですけれど、貴方たちのいらっしゃる音が聞こえたものですから」

「あ、今度演奏会するんですよね! それの練習ですか?」

 ええ、とリュミエールは軽く答えてから言葉を続けた。

「これから外のテラスで、休憩を兼ねて少し弾いてみようかと思っていたのですが……よろしかったら、聴いていかれますか?」

 風の守護聖と緑の守護聖が、同時に顔を見合わせる。

「音楽を聞いて、時には心を静めて、ゆったりとした気持ちになってみるのもとても良いことですよ。……私の演奏で、それがお手伝いできると嬉しいのですが」

 もう一度少年2人は目を見合わせて、躊躇いがちにランディが答えた。

「……あの、でしたらお言葉に甘えて」

「そうですか」

 至上の美貌がにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「でしたら、先に外に回って準備をしていて下さいますか? 私はお茶と楽器の用意をしてから参りますので」

「あ、はい!」

 回れ右をしてパタパタと足音を立て、立ち去った2人の後姿を見送った後、リュミエールはドアを閉めて自らの身で覆い隠していた室内を振り返った。

 ゼフェルの顔は再びクッションの山に埋められ、窺い知ることはできない。

 何があったかは、あえて訊かないけれども。

 リュミエールはソファのほうへ歩み寄ると、少し硬めの、銀色の髪にそっと手を伸ばした。

「……落ち着いたら、貴方もいらっしゃい。ね?」

 優しい手つきの手は、数度ゼフェルの髪を撫ぜてから離れていった。

 それからハーブティーの用意をすると、1つはソファの横のサイドテーブルへ、そして3つはワゴンに乗せて、扉とは反対側の掃き出し窓からテラスへと運び出した。

 

「あ、リュミエール様!」

 外のテラスへと少年2人が回ってきた時にはもう用意されていた、ワゴンの上のハーブティーをテーブルの上へ移していると、カーテンを縫い分けるようにしてリュミエールと大きな楽器の姿が出てきた。

 抱え上げることのできないその大きな楽器には小さな一対の車輪がついていて、軽く傾けると1人でも移動できるようになっている。

 水の守護聖は、年少の同僚2人が茶の用意をしつらえたテーブルと窓との間あたりに楽器を据えると、手近な椅子を引いて演奏の用意を始めた。開け放されたままの窓には柔らかな風が当たり、その向こうのカーテンを揺らめかせている。

 貴方がたはお茶を先に召し上がっててくださいね、と言って、リュミエールはチューニングの続きを始めた。簡単な和音を弾いて、先ほどチューニングした弦とまだのそれとを音合わせしてゆく。

 

「……どんな時にも、チューニングは欠かすことが出来ないのですよ」

 何という風でもなくリュミエールが話す。