■ 手記

 医者から告知されたその病名は、オスカーにとってずいぶんと聞き慣れないものであった。

「最近、名称が変更されましたからね………」

 小さな声で医師が言葉を繋いだ。

 ベッドの上は無人だった。この部屋にいるのは医師とオスカーの2人だけで、患者であるあの人は―――また、あの丘にいるのだろう。

「症状などについては以前にお話した通りで……脳内の物質的、生理学的な変化がこの疾患に関連している事は、薬剤中の化学物質により症状が軽減される事から、ほぼ間違いないと考えられています――――ですが何故、どのような機序でこの疾患に罹患するかは未だに不明な点が多いのです」

 オスカーは椅子に座ったまま、やや俯きがちのその視線の先になにか、とても大事なものがあるかのように、硬直したまま動かない。

 しばらく間を置いて、医師は言葉を続けた。

「これといった原因が特定できない事が殆どですが、脳内の物理的な変化が心理学的、精神学的な変化を及ぼして発症する事もありますし、逆に精神的なダメージが脳内の細胞にダメージを及ぼして発症する事もあるようです」

 医療部内のこの部屋は白い色彩が一面に広がっている。白いベッドに白いシーツ、棚を覆う白い布。

 この時期、この聖地の日差しは夏のそれであるはずがないのに、窓から差し込む光は目の痛くなるほどの白い色彩にくっきりと闇の部分を作り出している。

「以前――――まだ私がこの分野の勉強を始めた当時、先輩の医師の方から聞いた話が印象に残っているのですが――――」

 独り言のように医師が話す。

「この病気にかかる人は、とても――――とても優しい人が多いのだそうです」

 その言葉に誘われるように、オスカーは目を閉じた。

 白い光景から遮断された瞼の裏には、淡い青の色彩が静かに浮かぶ。

「症状が強い時には非常に激しい反応を示す事もあるのですが―――薬剤などを使用して症状が治まると、とても人に気を配って、周りの人たちの体調を心から心配したりするのだそうです」

 オスカーが目を開くと、そこは先ほどと変わらない、不自然な白さに覆われた部屋だった。

 白と翳のコントラストは、暖かみのある他のわずかな色彩を知覚から排除するほど、滑らかに金属的で。

「彼が言うには―――『神に選ばれた人だけが罹る、とても尊い病』なのだ、と――――」

 オスカーは、自分の真紅の髪すらもが痛いほどの白い光景に溶けてゆくような錯覚を覚えた。

 

 

 ある日突然に、私の世界は現実から切り離されてしまいました。

 目の前の光景に映る草木も花も、懐かしく愛おしかった筈の人々も、まるでそこから生命感だけが奪われてしまったかのように機械的で不自然で、その意味を欠落したただの器になってしまったのです。花が風に揺れるのは目に見えない存在である誰かが振り子のように永遠に続く運動をそれに対して強いているかのようであり、親しかったはずの人々の手の動き、足の動き、その関節の動きや角度といったもの、それらは全て機械仕掛けの人形のようにぎこちなく他意的な生命感に欠けたものとして映るのです。

 慣れ親しんだはずの宮殿や私の館は山のように膨れ上がり、もはやそれをそれとして認める事ができなくなってしまいました。そしてその背後に広がる森や草原は何処までも果てしなく続くようであり、無数の、しかしどれひとつとして他のものと同じではない様々な色彩や大きさの緑色が斑点のように宮殿や館の壁に映し出され、それはまるで金属の上に滑らかな塗料で描かれたようなぎらぎらとした印象を与えるのです。

 私はこの、ありとあらゆるものが生命感を欠失してしまった世界に、たった一人で取り残されてしまった事を自覚せざるを得ませんでした。そしてそれはなんとも言い様のない漠然とした不安を私に感じさせたのです。

 私は私の現実を取り戻すため、私に残された現実をあちらこちらと探し回りました。宮殿の廊下の柱の角、執務室の机の引出しの中身、庭園の噴水の水底に沈む敷石。それらをそれらとして取り戻すため、私は何度もそれらを手でなぞり、何度も触れました。しかしそれらのどれひとつとして、生命感を帯びて私に働きかけてくれるものは見当たらなかったのです。全てが、不自然なほどに滑らかで、金属のようにつるりとしており、針のように細く長く紙のようにぺらぺらで、そして現実味から切り離されていました。

「それがお前の罪なのだ」唐突にそのような声が聞こえました。「この世界にただ一人だけで永遠に存在し続ける事がお前の罪に対して与えられた罰なのだ」その言葉は激しい緊張感を伴って何度もぐるぐると私の中で巡りつづけました。

 私はその時に思い出したのです。私が罪を犯した事を。そしてその罪に対してこのような罰が与えられた事を。

 私は私の犯した罪が何なのかを理解していましたが、それはその意味を欠落し現実を抜け落とし、空っぽのまま私の中に存在していました。空虚な器を抱え込んだ私も同時に空虚なただの器でした。私は非常に泣きたくなりましたが、空虚の私の体の中に存在するのは空気ばかりで、涙を流そうとしても流すべき涙は私の中に一滴も満たされていませんでした。また涙を流すというその行為は私を罰した存在によって禁止された行為でもありました。

「これが私の罪なのです」私はそう口に出して言いました。そう言うよう、私を罰した存在に命令されたからです。

「これが私の罪なのです」と何度も繰り返し言いました。そしてその事によって、私の罪が許され、再び私の現実を取り戻す事ができると思いました。

 しかし何度繰り返しても、私の罪は許されることがなく、現実は私と私の周りから切り離されたままでした。相変わらず目に映る光景はぎらぎらしており、ぺらぺらと薄く生命感を欠いていて、何処までも果てしなく無限に続いていました。私はその無限の大地に私の発した言葉が一列に並んで何処までも伸びていくのを目にしました。

 私は先ほどよりも強く、とても激しく泣きたいと思いましたが、やはり私の中身は紙風船のように空虚なままで、流すべき涙は一滴も用意されておらず、また依然として泣く事は私に禁じられた行為でした。

 

「そりゃね……びっくりしたわよ」

 自分の爪の先を弄びながら話すオリヴィエの表情は、俯き加減に伏せられた顔と日差しの角度の割合で見えなかった。

「リュミちゃん、廊下に立ち尽くして一生懸命白い柱、何度も撫でてんだもん。かと思ったら急に庭園の噴水の方に走り出して……袖口が濡れるのも構わずに水の中に手突っ込んで、水底の敷石触って……うん、そう、子供みたいな感じで。」

 オスカーはテラスの椅子に座ったまま、何も知らなげな顔で無邪気にさざめく草木をじっと見ていた。

 テーブルの上の手付かずのカプチーノからは湯気が消え、とっくの昔に冷めきっている。

 ひとしきり、強い風が吹いた。

「なんかね、その様子が泣きそうになるんじゃないかってくらい必死で……堪らずに声かけたわよ。リュミちゃんどーしたの、って。そん時の見上げてきたあの子の目、……」

 そこで一旦、オリヴィエの言葉が詰まる。言葉を捜しているのか、逡巡しているのか。

「アタシにね、ちゃんと視線は向けられてるのにね。……絶対、この世でないものを見てるんだって思った。」

 大きく、ひとつ息をついた。

「焦点が合ってるのに合ってないっていうか……すごくびっくりしてそのままアタシ止まってたのよ。そしたら、『これが私の罪なのです』……って。リュミちゃん。何回も繰り返して……」

 その状態で少し言葉を収めると、オリヴィエはもう一度、今度は小さく溜息をついた。爪の長く伸びた指が、やるせないように俯き加減で落ちてくる前髪を掻き揚げた。

「正直言って、恐かったけど……それ以上にこう、なんていうか……」

 

 

 その時に呼ばれた単語が、自分の名であると理解するまでにしばしの時間を要しました。なぜならその声は、回転数を変えたレコードのように、生身の体では発し得ないような、奇妙な、機械的な響きを伴っていたからです。それは甲高いようにも聞こえ、また地を這うように低くあるようにも思いました。きしきしと何かをこすり合わせるように軋み、歪んで、私をあざ笑うかのように聴覚に進入してきました。

 見上げた時に目に入った姿は、確かによく知っていたはずの人でした。いつもと変わりない姿であるはずのその人は、私の理性で(理性などというものが私に残されていれば、の話ですが、)よく知った、懐かしい人であると理解できるのですが、その事実は丁度その時に吹いてきた突風の中へ塵芥のように消散してしまい、後には不自然な、生気に欠けた、紙の上に描かれた落書きのような表情が私を覗き込むばかりでした。

 私はとても哀しくなりました。親しかったはずの人の心、想い、そういった暖かみや厚み、重みある大切な感情を、自分で受け取る術を全て奪われた事に気がついたからです。ただ私に残されたものは、空っぽの器の表面に張り付いたような笑み、きしきしと不自然に軋む声の響き、無目的にプログラムされた機械を思わせるような体の動き、そういうものだけであることを、最も親しかったはずの人々から示され、思い知らされたからです。

「それがお前の罪なのだ」先程と同じような私を裁く声が、再び私の頭の中で響きました。その声は止むところを知らず、激しい緊張を持って私に襲い掛かりました。私は身を竦ませて何度も繰り返されるその声をただじっと受け止め、耐えていました。

「これが私の罪なのです」私はその緊張感に耐えられず、私を罰するその存在に許しを求めようと思い、小さな声でそう言いました。しかし同時に、私の罪が贖われることは永久にありえないということも私は知っていたのです。私はその矛盾した2つの考えを同時に抱きながら、しかしその矛盾を解消する術を知らず、ただ何度も贖罪の言葉を繰り返さなければならないという至上の命令に従うばかりでした。

 とても大切だったはずの人、私の目の前にいる、昨日までとても近しかったはずのその人が、心配そうな表情で私の顔を覗き込むのが見えました。しかしその、大切なはずの人の、心配げなはずの表情は、目で見て理解できるのに、それは奇妙に変容し、現実味を欠落し、山のように膨れ上がって、ぎらぎらとした金属のようになって私に襲いかかるのです。私は恐怖とパニックに襲われ、二言三言、何かを叫んだように思います。私を心配して伸びてきたその人の手も、やはりロボットのように不自然な、機械的な動きに見え、その手の先の指が、とても太い金属の針となって私の心臓に突き刺さるかのように思われました。私は無我夢中でその手から逃れました。

 そのまま―――

 

 

「なんていうか、すごく―――哀しかった。」

 

 

 そのまま、私は走り出しました。

 

 

 間違っている。この世界は間違っている。ただそれだけは知っていたのです。

 この非現実的な、薄っぺらい、機械的な、無意味な世界は、あるべき世界ではないと――私はただ、それだけを知っていたのです。

 しかしこの強力な枷から、私の犯した罪に対して与えられた罰から、どうやって逃れられるというのでしょうか? それは到底不可能な事のように思われました。私が走っている間も、私を罰する声は引切り無しに続き、私の辿る道のその両脇で、緑の梢は段ボール紙で作られた舞台装置のように生気を欠き、廊下の柱は一回りも二回りもその容積を増して私を押し潰そうとしていました。私が地を蹴る時に発生した音は、とても硬い、長い針となって私の脳の中へ直接突き刺さるかのように聞こえてきました。

 私が何かを、何であるかわからない何かを、私をこの非現実から救ってくれる何かを探して走っている間、何人もの人に逢いました。その人たちはかつて、ほんの昨日まではとても親しくしていたはずの人々だと理解できるのですが、私がその人たちの中に、あの懐かしい、暖かみのある、豊かな、感動的な、人間的な触れ合いを求めて近づこうとすると、やはり彼らはきしきしと不自然に動き、滑らかに金属的な機械のように、無意味に、そして恐ろしく膨れ上がって見えるのです。彼らが私を心配して掛けてくる声は、あたかもそれらからすべての意味が抜け落ちてしまったかのように虚ろで、温かさも陰影も感じられず、時折、1つの言葉だけが他の言葉から、まるでナイフで切断されたかのように切り離され、頭の中をぐるぐると不条理に駆け巡りました。彼らが私の様子を不審に思い、近づこうとすると、彼らの目、彼らの鼻、彼らの唇、彼らの声、そういうものははっきりとわかるのに、それは統合されることなく、個々に私の上に圧し掛かり、彼らの不自然さ、人工的で空虚で緊張したその感覚が一層その度合を増し、私はとてつもない恐怖に駆られて悲鳴をあげてしまうのです。聖地を暖かく照らしていた太陽は、いまや強力な電光のようにぎらぎらと彼らを、全てのものを痛いほどのその白色光の下に晒し出し、それらが作り出す陰を虚ろな偽りの物へと仕立て上げ、どこへも逃げ出す術が無いということを私に知らしめているようでした。

 私は再び走り出しました。

「逃げられる訳が無い」私を罰する言葉はますますその声を強めていきました。「それがおまえの罪なのだから」それは私を罰する声でしたが、同時に私自身がその言葉を口にしていることにも気がついていました。というのも、私には既に、言葉というものが、私自身の言葉なのか、私以外の誰かの言葉なのか、それとも私を罰する存在である者の言葉なのか、判断する能力を奪われていたからです。

 人々のいない方向へ、私を恐怖に陥れる非現実感を見せしめる人々のいない方向へと、私は走っていきました。森の中へ出ると、木々の間を抜ける風が私の体をなぶりました。木々はやはり、模型のように薄っぺらに、虚ろに見え、人工的な緑の間を抜ける風はひゅうひゅうと悲鳴や唸り声のようになって私へと襲い掛かってきました。風はとても冷たかったので、私はその風が氷河の上から生まれ、吹いてくる風、その通り道にあるあらゆるものを薙ぎ倒そうとする恐ろしい生き物であるかのように感じました。

 次々と私へ襲い掛かる、有形無形のそれらの手から逃れようと、私は足を絡ませながら走り続けました。

 

 絶望。

 

 もはや私にはただ、それだけしか残されていませんでした。

 およそ女王陛下の統べる宇宙全てのものが住まうことを許された、暖かな、色彩に満ちた世界は、私からことごとく奪い尽くされ、代わりに私に永久的に強制されたものは、恐ろしく非人間的な、機械のように空虚で人工的な、荒廃した、身の毛のよだつような恐ろしい空間の中で生き続けることでした。

 そんなことが可能であるとは到底思えませんでした。ぎしぎしと軋むこの世界の空気では、息をすることすらもままならないことであるように思われたからです。

 ですがそれかといって、私はこの世界から抜け出せる方法を、ひとつたりとて見出すことはできませんでした。

 その事実に、恐ろしい事実に慄く自分がいながら、また頭の隅のもう一人の自分はそれを当然だと思っていました。この世界は、私の罪に対して与えられた罰なのですから。そしてそれに対して、長年自分が慣れ親しんだ物も土地も、かつて心を交し合った親しい人々も、何もかもが今となっては無力であったのです。

 涙すらも絶え果てるような絶望の中で、それでも何とも理解らない何かに向かって走り続けていた私は、足元の何かに躓き、蹌踉めきました。足を縺れさせながら、かろうじて転ぶことを免れた私が、目を上げると、

 

 目の前は、何時の間にか、草原になっていました。

 少し離れた小高い丘の上に、人影が見えました。

 こちらに背を向けた姿の、長い青いマントが、強い風に大きくはためいていました。

 

 そのひとの、あの――あのひとの、紛うことのない紅い髪を目にした瞬間、

 

 弾けるような、眩いまでの光のような、心が締め付けられるように掛け替えのない暖かさに満ちた波動が、あのひとから一瞬にして広がって、

 その光に包まれた全てのものは、その美しい色を取り戻して、

 

 私は駆け出しました。

 あのひとに向かって。

 

 私の全てを救ってくれる、あのひとに向かって。

 

 私の足音に振り返ったあのひとは、あの凍るような瞳を大きく開いて、私にはその表情は酷く驚愕しているように見えました。

 ですが私は、その表情の意味を考えることもなく、ただただそのひとに向かって、走って走って走って、そして――全身でぶつかるようにしてその懐に飛び込みました。

 あのひとの体はとても暖かく、その心は紛れもなく鼓動を打って、なんと生命力に満ちていたことか。

 私を取り巻く景色は、そのひとを目にした一瞬のうちにその色を取り戻し、あの懐かしい、優しい、暖かな気配をもって私をその中に抱擁していて。

 そのひとが言葉も無くして、驚きのあまりに動けず、かすかに身じろぎする、その気配さえ、なんと愛おしく、涙の出るほどに暖かに豊かな人間味に彩られていることか。

 

 私は生き返らせてもらえるのだと。

 ただこのひとだけに、生き返らせてもらえるのだと。

 

 その後の私はもう、狼狽している様子のあのひとにしがみついたまま、ただただ泣きじゃくるばかりでした。

 

 

 程なくして、私は気がつきました。

 世界が色を取り戻し、暖かい気配を持って私を迎え入れてくれるのは、ただあのひとが傍にいてくれるときだけなのだと。

 医師団によって診察を受け、診断が下された私を、その綺麗な氷青色の瞳で痛ましく見詰めながら、彼もまた(それが何故なのだかは判らないのですが)手放し難いような様子で私の傍に長時間居てくれるのですが、世界が彼を必要としない訳はなく、また――彼と共に有った後にはいささかの人間味を取り戻したように感じる私自身も、彼が私以外の彼の世界へ戻る事を、彼が自由に彼らしく有る事を自ら望むものですから、なお後ろ髪を引かれるような表情を残しながら、彼は私の傍から離れ、彼自身の仕事へと立ち戻るのですが。

 彼が視界から消えたその瞬間から、世界は再びじわじわと私を苛み始めるのです。

 有機物はその生命感を欠失し無機物へと成り果て、無機物は有機物のように圧倒的な存在感を持って私に襲い掛かり、再び恐慌に襲われる私は、たったさっき固く心に誓ったはずの決意も雲散霧消してしまい、私を生かしてくれるただ一人の存在を捜し求めて駆け回るのです。

 何度かの、結局無為に終わった試行の後、彼も私も、否が応でも思い知らされざるを得ませんでした。

 

 私が生きるためには、彼が絶対に必要だったのです。

 

 

 

 

 私が生きるためには、――

 

 

 

 

 

 

 

 私が生きるためには、彼が絶対に必要だった。

 それは確かに最初は、純粋に愛情の対象としてであったと思う。

 彼と出会ったその瞬間から――私は確かに彼を愛していた。ずっと。ずっと永い間。

 一度知ってしまったそれは、奪われてしまえばすなわち私にとって死と同じ意味を示すほどに。

 だがその感情が生まれたその当初から、摂理に反するものとしての翳い背徳と退廃と罪業の性質を帯びていたそれは、永い永い年月の間に、行き場のない駄物としての閉塞感と、彼が常に私に向ける敵意と冷たい視線とに揉み歪められ、その原形を留めぬほどに大きく変容してしまった。

 彼と口を利くたびに掻き乱されるその感情は、もはや愛であるか憎であるかの区別がつかない。

 ただ彼に、彼だけに、厳密な単一方向性を持って激しく向けられるその感情。

 そのように生まれ育ってしまった感情を、奇形児を慈しむように、私は仄かな哀しみと共に胸に抱いている。

 両手で掻き抱くように、後生大事に、この胸に抱えている。

 たとえそれが、許されざる罪であっても、この感情こそが、私に生きる意味を与えてくれる――私が生きるために絶対必要なものであったから。

 この感情があるからこそ、私は私以外の何者でもなく、この世界に在れるのだから。

 愛と憎は、常に背中合わせで、紙一重だ。

 私を生かしてくれるそれが、愛情であっても憎悪であっても、どちらでも良かったのだ。

 

 どちらでも良かったのだ。

 

 

 彼の濁った瞳の奥に、どちらでも良いそれを探り当てようと、必死になって足掻いたのだ。

 突然の暴力の恐怖に晒されながら。

 

 

 

 激した呼吸で、大きく溜息を吐いたのはどちらであったのか。

 荒い声音での論争――怒鳴り合いと呼んでも一向に差し支えないほどのそれは、声帯が痛みを訴えるほどに長時間に渡って続き、もはや理性は怒りに、怒りは倦み疲れた倦怠に取って代わられていた。

 この水の守護聖の執務室の中に二人以外の姿はなく、しかし壁を隔てた向こうでは、息を潜めるようにしてこちらの成り行きを伺う複数の気配がひしひしと感じられる。

 同じ色の、しかし微妙に異なる色合いの、きつい眼差しを正面から見据え合ったままだった、それを先に逸らしたのは炎の守護聖のほうだった。

「……もういい。おまえの考えることは全然判らないという事だけは良く判った。」

 その言葉に、水の守護聖が唇を噛む。

 何度理解しようと努力をしても、結果として生み出されるものは不毛と空虚ばかりだ。

 そのままオスカーは背を向け、扉のほうへ歩き出す。

 その背から立ち上る、強く激しい気配を、水の守護聖は哀しみの混じる感情で、愛しいと思った。

 

 炎の守護聖が扉に手を伸ばし、開けようとした、その直前。

 

 リュミエールは、自分の執務机の上に、忘れられた書類を見つけた。

 

 炎の守護聖が持参した、先ほどまでの二人の論争の対象になっていた惑星に関する、それを。

 だから呼び止めたのだ。何の他意もなく。

 

「オスカー」

 

 炎の守護聖の肩が、大きく揺れたような気がした。

 

 緩慢な動作で振り返った、その薄い氷色の瞳は、翳い淵を覗き込んだように、澱み、濁んでいて――。

 

 急にかつかつと軍靴の硬い音を響かせて近づいてくる。

 大きな手の、強い力で上腕を掴まれた。

 

 何が何だか判らぬままに、気がついた時には、隣続きの私室の床の上に引き倒されていた。

 

 背に硬い床の衝撃が当たり、一瞬息が詰まる。

 何かを言おうとした水の守護聖の口は大きな広い掌で塞がれ、上げようとした声は遮られた。唇に強く押し当てられる熱い掌の感触を感じた。

 両手は上げられ、掴まれ、肘で押さえられ、足は足で動きを封じられる。あっさりと床の上に、強固に縫い留められていた。

 軍人の手馴れた拘束。

 

 ただひとつ自由になる目を動かして、必死に炎の守護聖の表情を追った。

 

 これほど翳い眼をしている彼を見たのは、未だかつて、一度も無い。

 どんよりと深く濁った瞳。

 

「……お前の罪だ」

 

 びくりと震えた。

 自分の内に秘めていた感情を、暴き晒されたように感じて。

 

 オスカーは手加減無しに細い手首を握り締め上げる。

 爪が食い込んで、リュミエールの腕に鋭い痛みが響いた。

 

「……いつもそうだ。お前だけが俺を掻き乱す。この業火を消し鎮めることもままならない程に」

 

 首筋に噛み付かれた。

 愛撫とは程遠い、暴力以外の何物でもない行為。

 上がった苦痛の声は、オスカーの掌の中でくぐもった不鮮明な音に変わった。

 頭は真っ白で何も考えられず、ただ本能的にこの拘束から逃れようとして身体を捩らせた瞬間。

 

「だってそうだろう? 俺が何か悪い事をしたか?」

 

 何を言われたのか判らなかった。

 大きく目を見開いて、一度は離した視線を再び炎の守護聖に向ける。

 オスカーは、濁った瞳を水の守護聖の顔の上に固定したまま、言葉を継いだ。

 

「……なあ、俺は何か悪い事をしたのか?」

 

 水の守護聖は、押さえつけられて動かない顔を、必死になって左右に振ろうとした。

 

 いいえ。いいえ。

 私は罪を犯して、貴方を愛したけれど。

 貴方は何も悪くない。

 いつだって鮮烈に、真っ直ぐに、前だけを見据えて強く輝かしく生きている。

 

「だったら、何故これほどまでに俺が苦しまなければならない?」

 

 答えるべき言葉が見つからなかった。

 

「……だから、これはお前の罪だ。」

 

 ――私の罪。

 

 口を塞いでいた掌を離されても、上肢を戒めていた手を放されても。

 それが無造作にローブを手繰り上げて、素肌の上を滑っても。

 身体の震えは大きくなりながらも、突きつけられた事実のあまりの衝撃の大きさに、声一つ上げられず、指一本動かすことが出来なかった。

 

「俺をこれほどまでに苦しめ苛む、お前の――お前の罪だ。……そうだろう?」

 

 ――私の罪。

 

 ……そうだ。私は咎人とがびとなのだ。

 抱いてはならぬ感情を想ってはならぬ相手に抱いた罪を背負った咎人なのだ、と。

 

 そう考える思考とは別の所で、躯の上を這い回る指に得体の知れない恐怖を覚える。歯の根が合わなくなる。

 

 ……ああ。目の前に暗く澱んだ冷たい蒼い冬の海が広がる。

 波はその高さを増して、大きく、大きく膨れあがって、私の上に落ちかかろうとして――

 

 躯を開かされ、足を折りたたまれて。

 

 私は罪を犯したのだから。

 

 

 ……それでも。それでも。

 こんな風に抱かれたいわけではなかった。

 

 

 嫌、と叫んだ悲鳴は、再びリュミエールの口を塞いだオスカーの掌に吸い込まれた。

 

 

 次の瞬間、全身を激痛が走った。

 

 

 

 

 ……それが愛であっても憎であっても、どちらでも良かったのだ。

 

 

 

 

 

 

 痛みに動かない躯に鞭打って、緩慢に身を起こし、のろのろとした動作で乱れた服を整えた。

 ボタン。椅子。テーブル。ソファ。天井。窓。

 目に映るもの全てがまるきりばらばらの奇妙なサイズに見え、まるで自分に襲い掛かろうとして――。

 

 手を付きながら立ち上がり、引き攣れた足をがくがく震わせて、壁に縋って、執務室の方へと出て行った人の後を追う。

 

 緋色の髪の人は、執務机の上の書類を覚めた目で眺めていた。

 炎の守護聖らしく端正に整えられた、まるで普段と変わらない日常の、何事も無かったかのような、姿。

 書類を手に取って、背を向けた。

 

「……オスカー」

 

 去り行こうとするその背中を、弱く擦れた震える声で、再び引き留めた。

 炎の守護聖の歩みは止まらない。

 

 どうしても訊いておかなければならない事があった。

 

「……どうして、……私を抱いたのですか」

 

 扉に手をかけたところで、炎の守護聖の動きが止まった。

 

 壁に縋ったまま、震える身体の、胸元に白い手を置いて、強く強く握り締めた。

「それは、憎悪なのですか、それとも、……愛情なのですか」

 

 

 

 

 どうしても訊いておかなければならないと思った。

 

 ……でも。でも。

 それが愛であっても、憎であっても。

 どちらでも良かったのだ。

 

 そのどちらであっても、私はあの人から与えられたそれを大事に大事に抱いて、生きていけたのだ。

 

 

 

 

 扉を薄く開いてから、炎の守護聖は振り返った。

 何の感情をも伺わせない目で。

 

 

「……何の事だ?」

 

 

 水の守護聖の目が、大きく見開かれた。

 

 

 

 

 ……私が生きるためには、絶対に彼が必要だった。

 

 

 

 

 扉の閉まる音と同時に。

 リュミエールは、世界の弾ける音を聞いた。

 

 

 

 

 目の前に映る草木も花も、そこから全ての生命感が抜け出でて、

 慣れ親しんだはずの宮殿は山のように膨れ上がり、私を押し潰そうとして、

 背後に広がる大地は何処までも果てしなく続き、その上には、見渡す限りまで、

 

 ……嗚呼、累々と私の罪が横たわる。

 

 

 

 ……私が生きるためには、絶対に彼が必要だった。

 それが正の方向であれ、負の方向であれ。

 

 けれども、そのどちらの意味に於いても。

 けれども彼には、私は必要でないのだと。

 

 

 

 

 けれども彼には、――

 

 

 

 

 けれども彼には、私は必要でないのだと、私は充分すぎるほどその事を知っていました。

 なぜかその事に関してだけは、私がこうなる前から、ずっとずっと前から知っていた事のような気がします。

 私が生きるためには、彼が絶対に必要であり、そして彼には、私が必要でないのなら。

 何を迷うことがあるでしょう?

 私は彼を、罪を犯した私をこれほどまでにも暖かく生かしてくれるただひとりのひとである彼を、縛りつけるくびきに成る事など望んでいなかったのですから。

 少しも恐くはありませんでした。

 丁度その頃、彼が炎の守護聖として惑星の視察を命じられることがあり、噂に聞き知ったところによると、彼自身は私の身を案じてか、酷くその計画に反対し、またそういう状況の彼に視察を申し付けた事を、彼自身が敬愛して止まぬ光の守護聖に何度も抗議したそうですが、しかし流動を続ける宇宙の情勢が、守護聖であるとはいえ唯一個人の状況を鑑みてくれる筈も無く、他ならぬ炎の守護聖の助力を求める幾百幾万もの尊い命を見捨てることが彼に出来る訳も無く、私に何度も何度も謝罪の言葉を重ねて(彼に感謝こそすれ、彼の謝罪を受けるようなことなど、本当は何もなかったのですが)、彼は視察に出る事になったのです。

 私はその、彼が視察に出る数日前から出立ぎりぎりの時間まで、何時もよりも長く傍に居てくれるようにと彼に甘え、彼と共に在ってこれまでに無く落ち着きを見せる私に、彼はいくらか安堵したようで、また私はというと、彼からそうやって何時もより長く多く与えられた暖かい生命感が、私の計画を成し遂げるだけの時間の間持続する分だけ有ればそれでよかったのです。

 彼が聖地を立ち去り、完全にその気配が消えてから、私は昔から私だけが密かに馴染み知っていた、森の奥の小さな泉へ向かいました。

 森の梢は鳥や虫や、種々の生命を育み、木漏れ日は暖かく大地に降り注ぎ、泉は清浄な光を湛えて私を迎え入れてくれました。

 

 なんと世界は、涙の出るほどに美しいのでしょう。

 

 何時もはただ見過ごしていた日常の、細やかなそれらが、どれほどに暖かく、優しく、美しく、宝石よりも貴重な存在たちであったか、それは私がこの病を得て、生命感の欠失した翳い空虚な世界を体験してから初めて理解しえたことであるという事実を考えると、私はこれほどまでに世界の暖かさを教えてくれたこの病に感謝さえしたい気持ちになりました。

 そして彼の事を想いました。ただひとり、私を暖かい世界へと導き、生かしてくれた彼を。

 何を恐れることがあるでしょう?

 私の身には、つい先ほどまで触れ合えるほどに傍近くにいた彼の、暖かい気配が満ち満ちているのですから。

 その気配は、私の罪をもさえ、果てしないほど人間的で愛おしい物に変えてくれたのですから。

 そしてこの気配を抱いたまま、暖かい気持ちで世界を去る事が出来るのならば、これほどの喜びは有るでしょうか?

 泉の冷たい水の中へ、私は足を踏み入れました。幾つもの生命を育む、清く澄むこの泉を今から汚すのかと思うと、少し良心が痛みましたが、しかしまたそれほどまでに何処までも生命を受け入れる泉に、私も溶けてけゆけるのだと考え、暖かい喜びを感じたのもまた事実でした。

 確実に計画が遂行されるよう、深く刃を立てた手首の傷口は酷く痛みましたが、その痛みさえ、私が生命感に満ちたこの暖かい世界に生きているということの紛れもない証であり、どうしようもなく暖かく愛しく思える痛みでした。

 赤い血がぽたぽたと水の中へ落ちると、それは斑点のように透明な水の中へ滲み広がり、幾つもの模様を形成するに到って、ああ彼の気配が私の傍から失われつつあるために私の内で再びあの病が力を得ているのだと気がつきましたが、しかしもう、充分すぎるほどに時は過ぎ去り、かつまた近づいていました。

 そのまま私は水の中へ身を躍らせ、

 水の中へ、暖かく私を迎えてくれる世界の中へ溶けて、―――

 

 

 だからどうやって私が助かったのか、私自身は全く覚えていないのです。

 

 

 後から知ったことですが、彼は聖地を去って程なく、嫌な予感がするからと予定を全て切り上げて帰還し、私が外出したという話を聞くと、真っ直ぐに私の溶け込んだ泉へと来たそうです。

 私以外、だれ一人として知る事の無い筈の泉を、どうして彼は知っていたのでしょうか?

 

 とにかく気がついた時には、医療部のベッドに横たわる私を、酷く憔悴した様子の彼が、あの綺麗な氷青色の瞳で覗き込んでいました。

 

 彼が傍に在ることで、私の病は再びその身を潜め、暖かい気配が私の中へ流れ込むのを感じました。生命力を得て起き上がった私に、彼は一瞬強い瞳を向けると、私の頬をその大きな平手でしたたかに打ちました。目の前に閃光が弾け飛ぶほど強い痛みを感じましたが、その痛みこそが、何よりも私が人間味に溢れた暖かい世界に生きていることの証拠でしたので、私はとても嬉しくなって微笑みました。

 何かをかみ締めるような表情の彼の、強くシーツを掴んでいた手が急に私のほうへ伸ばされ、身体が折れるかと思うほどに抱き竦められました。先ほどの殴打と同じくらいにとても痛かったのですが、やはりそれも私がこの暖かい世界に包まれていることの何よりの証でしたので、私はまた微笑みが湧き上がってくるのを抑えることが出来ませんでした。

 

 

 

 

 ……強さを司る自分が、自分自身の弱さに引き摺られた時、どんな破滅を引き起こすか。

 何故、それを背負うのが、他ならぬこの水の守護聖でなければならなかった?

 

 ずっと見ていた。

 気が遠くなるかと思うほどに、優しく、暖かく、綺麗な笑顔を。心を。

 だから何でも知っていた。

 どんな風に笑うか。どんなものが好きか。どんな風に執務をこなし、どんな風に発言し、どう考えて、どのようにサクリアを送るか。

 休日にどんなところへ行き、何をしているか――何でも知っていた。

 俺だけに向けられる、強さを伴った深い瞳も、知っていた。

 

 心が締め付けられるほど、

 誰よりも優しくて、

 誰よりも暖かくて、

 誰よりも綺麗なひとが、

 手を伸ばせば、すぐ届くところに居るのに、

 どうして正気でいられるだろうか?

 

 ……そのときに生まれるのは、愛情か、憎悪か。

 

 それすら、どちらでも良かったのだ。

 

 

 俺は、何もかも知っていたのだ。

 

 

 ただ、それを認める強さを、持てなかった。

 

 

 それが俺の罪。

 

 

 

 

 屈んだ姿勢で強く強く私の身体を抱き締めていた彼の身体が、膝から力が萎えたようにずるずるとベッドの脇に沈みました。緋色の髪はベッドの縁に伏せられ、力強い手は何かに縋るようにシーツを掴み、広く逞しい身体は寒さに襲われたかのように酷く震えていました。

 何かに酷く打ちひしがれたような、その彼の様子があまりに痛々しく、しかし私にはその理由が一向にわからず、ただ彼を慰めようと伸ばした私の手を彼の手が掴み、その綺麗な蒼い視線はじっと包帯の巻かれた私の手首に注がれました。

 こんなものは何でもないのだと。

 これこそが、貴方のくれた溢れるほどの生命感の証なのだと。

 私の犯した罪を贖ってくれる赦しなのだと。

 そういう想いを込めて、私は彼に向けて微笑み、そっと彼の緋色の髪を両手で包みました。

 うずくまったまま、私の背に回された彼の手は小刻みに揺れ、彼の身体ごと音を立てそうなほどに大きく震えだし、私の身体を強く強く抱き締めて、そのまま――

 

 

 ……俺の犯した罪を、

 

 俺の罪を、

 

 

 お前が、全て背負った―――!!

 

 

 

 

 ……そのまま、私の身体に縋るようにして、火の付いたように泣き出した彼を、それほどまでに苛んだ原因が何なのか――私には一向に判りませんでした。

 どちらの答でもお前はきっと俺を許したのだろう

 お前は俺を許さなくても良かったのだ

 お前を傷つけた俺を許さずに生きてくれればそれで良かったのだ

 だからどちらも選べなかった

 しゃくりあげながら涙混じりの激しい声で彼から告げられる、懺悔の告白のようなそれらの言葉も、そして何度も何度も繰り返される許してくれという言葉も、私にはどれ一つとしてその意味を正しく捉えることが出来ませんでした。 

 ただ彼を、私にとっての大事な大事な彼を慰めたいと思いましたので、

 泣かなくていいのだと、

 貴方が泣かなければならないような事など、何も無いのだと、

 貴方を哀しませるような事など、何一つ無いのだと、

 貴方が微笑って、明るく強く生きてくれることこそが、何よりも強く私の望むものなのだから、だから泣かないでと、

 そう告げる私の言葉がなおいっそう彼の涙を煽っているようで、彼の涙は止む所を知らないかのように激しく続きました。

 これほどまでに彼を泣き咽びさせ、何よりも大事な彼を哀しませてしまうのは、きっと私が犯した罪に対する罰なのだろうと、私は哀しみと共にそう感じました。

 それから彼は何か、激しい感情のこもった、何かとても大事な言葉であるような言葉を私に告げてくれましたが、私にはその、とても貴重そうなその言葉の意味を理解することが出来ませんでした。

 それもきっと、私の罪の所為。

 それは彼にも伝わったようで、彼は再びその表情を強く歪め、力の限り私を抱き竦めると、綺麗な氷青色の瞳から新たに生まれた同じ色の涙と共に、繰り返し繰り返し、私の中に刻み込むように何度もその言葉を口にしました。

 ……ている、

 ……ている、

 お前を……ている、

 ……ている、

 ……ている、

 と。

 何度も、いつまでも。

 永遠に続くかのように。

 

 

 

 

 医師との面会を終えたオスカーは、宮殿を背にして歩き出した。

 森の中の落ち葉を踏み、草原の青草を踏み、歩いた先には――。

 

 少し離れた、小高い丘の上の人影。

 こちらに背を向けて。

 強い風にはためく、白いショール。

 

 自分の紅い髪の、見たはずの無い既視感をその人の後姿に重ねた。

 

「……リュミエール」

 ゆっくり近づいて、自分の肩から外したマントを掛けた。

「何度も言っているだろう、こんなところにずっと立っていたら風邪を引くと」

 その言葉に、ゆっくりと淡い水色の姿が振り返る。

 それから、そのおもてに、静かな微笑を浮かべた。

「……ここに来たら、必ず、――貴方に逢えるような気がして……」

 しばらく、そのままお互いに見つめあった。

 それからオスカーは、ゆっくりとリュミエールの身体に手を回した。リュミエールは背中をオスカーの胸に当てるように凭れ、再び地平線の方へと目を向けた。

 聖地の日は傾き、風景が徐々に黄昏の色に染まっていく。

「……何を見ている」

 オスカーが訊いた。

 リュミエールは数瞬の無言を重ねた後、穏やかに口を開いた。

「…何処までも果てしなく続く大地と、その上に、累々と――横たわる……」

「横たわる?」

「…………」

 リュミエールは両手を広げながら、前へと差し出した。その姿は何かを悼んで花を捧げる仕草に似ている。

 強い風が吹いて、見えない花弁が朱い空へ舞い散った。

 

 

 

 投薬を中心とした治療によって、リュミエールの病はある程度改善された。

 しかしいまだにリュミエールの大部分は、自分の手の届かない世界の中にある。

 

 オスカーは、先ほどの医師との会話を思い出した。

 

 

(急性に発症した場合のこの疾患の経過は2通りで、まず1つは発症時と同様にその治癒も急速になされるもの。この場合、ほとんど後遺症を残さずに完全寛解となります。それからもう1つは、経過が長引くもので――この場合、疾患は慢性化することが多いです)

(薬物療法、作業療法などによって症状は改善されますが、この疾患の予後は、必ずしも良いものだとは――限りません。……ただ)

(ただ、まだ薬物療法も何も無かった、いわばこの疾患の暗黒の時代の、ある症例の報告として、患者と心理的にとても近しい関係にある人物の継続的な精神的サポートが、この疾患を完全寛解に導いたという報告があります)

(この症例報告に対して、疑問を投げかける専門家も多いですが、私は――信じたいと、そう思っています)

 

 

「……そろそろ帰ろう、リュミエール」

 オスカーはリュミエールの身体に回したままの手に、少しだけ力を入れた。リュミエールは逆らわずに身体の向きを変える。

 朱い夕日に照らされながら、共に歩みだして数歩歩いたところで、オスカーの足が止まった。

「リュミエール」

 無言のままに、リュミエールが深海色の瞳を向けてくる。

「俺が生きるためには、お前が絶対に必要なんだ。……今まで一度も、言ったことは無かったけれど。」

 リュミエールの目が、驚きの表情に見開かれた。

「だから生きていてくれ。俺のために。」

 

 

 ……そう。

 生きてさえいれば、きっとこの想いが届く日が来る。

 こうして二人、共に在れるのだから。

 

 

「リュミエール」

 

 

 ……ている、と。

 こうやって、名を呼ばれた後に続くその言葉を、私はもう何度も彼から告げてもらいました。

 未だにその意味は判りません。

 けれどもその言葉に込められた、とても激しく、同時に優しく、暖かい感情は、日を追うごとに私の身へと近づき、染み渡ってきているような気がします。

 だからそういう時、私の顔からは、抑えようとしても抑えきれないほどの微笑が零れるのです。

 彼もまた、嬉しそうに微笑み、私の肩を暖かく抱いてくれます。

 私たちは、共に歩みながら、朱く朱く照らされた、その場を後にしました。

 

 彼がこうやって、私の傍に居てくれる、それが少しずつ、私の罪を浄化してゆきます。

 そしていつの日か、私の罪が許される時が来たならば。

 

 この暖かい言葉の意味も、きっとその時に判るような気がするのです。