■ Melancolia

 冷たい月光が一面を青く照らす部屋の中へ一歩踏み込んだところで、オスカーは立ち竦んだ。

 白い身体に目一杯の四肢で絡む、毒蛇を想像させる薄黒い姿は、この星の歴史上最悪と称される独裁者の顔を脱ぎ捨て、白磁のような胸の上で号泣していた。

 水の守護聖が、未だ挿入されたままの態勢で、月光に淡く光るすらりとした片足が、天高く掲げられてさえおり。

 薄く汗を佩いた顔をゆるりと傾けてオスカーに向けられた、限りない聖性を伴ったその視線と、目の前で行われているその光景のグロテスクさとの齟齬に激しく混乱して、2つの物体をまとめて両断したくなる衝動を辛うじて抑えるのが精一杯だった。

 

 その透き通った視線に、清廉な微笑に、何故か覚えた既視感の元を、どうしても想い出せないままだった。

 

「オスカー様。ジュリアス様が執務室の方へお呼びでございます」

 星から次元回廊を通って王立研究院に戻り着いて早々、炎の守護聖の顔色を窺って怯えた表情の研究員からそう言伝ことづてられた。

「……後にしていただけないか。」

 業火のような氷青色の瞳でめ付ける。

 今すぐにでも、この水の守護聖の所業について問い詰めなければならなかった。今すぐ。

「帰還次第、必ずすぐに来参せよ、とのお達しでございます」

 泣きそうな声で研究員が応じる。

「オスカー」

 腕の中の水の守護聖の声音で促されて、その身体を下ろした。どこをどうして痛めたのか考えたくもなかったが、帰り道、片足を軽く引き摺っていたので、ここまで抱え上げて運んだのだった。

 視線を合わせて淡い笑顔を向けられる。

「…どうぞ、ジュリアス様のご招請をお先に。私は私邸へ戻っております。本日の件について検討が必要であれば、いつでもお出で下さい。」

 清らかで完璧な水の守護聖の微笑に、熱くなった血がなお沸騰して全身から吹き出すかと思った。

「判った。首を洗って待っていろ。」

 穏やかならぬ、凄まじいまでの怒気を孕んだ発言に、その場の僅かな数の研究員たちが一斉に怯える。

「…首のみと言わず、全身綺麗に清めてお待ちしておりますよ。」

 これ以上はない、自分に対する痛烈な皮肉だと、そうオスカーは受け取った。

 

 

 初めてのあの出会い方が、良かったのか悪かったのか判らない。目覚めるまで穴が空くほど見詰め続けていたのに、先入観で女性だと思ったのは、その姿に一瞬で心奪われていたから、だった。

 恋愛対象ではなく同僚だと知らされて、否応なく見方を切り替えた。歓迎されないことを知りつつ、言いたいことを言った。曰く、お前は大事なことから逃げてきた。俺はしたいからする、言いたいから言う。自分が傷つくことを恐がっている。自分が一番大事か。自分を認めろ。

 俺はお前にはなれない。

 本来そうであろうと思われた落ち着きを目に見えて取り戻した彼を見、自分の言動に改めて自信を得た。

 少年期の終わりから青年期へ脱する過程を間近で見ていた。年月の積み重ねはその人を綺麗にし続けるばかりで、聖性はよりいっそう研ぎ澄まされ、立て直したはずのオスカーの心は否応もなく傾き続けるだけだった。

 自分を認めろ、そう言ったのは自分だと気付き、ごく最近になってからある種の諦めと開き直りを得て、思いの丈を打ち明けた。自然なことだった。

 その時の自分の愛の告白が、リュミエールの心を揺らした手応えを確かに感じたのだが。

「…私には、そんな資格はありませんから」

 目を伏せられて返ってきたのは、そんな台詞だった。哀しむ風でもなく、事実を淡々と述べるようなその態度に、度が過ぎる謙遜か、と思ったが、これからいくらでも説得に時間を掛ける心構えは十分にあった。

 折々の、心を尽くした言葉の数々。首を横に振られ続けるばかりだったが。

 一度などは相当に強引に抱き締めて、半ば無理矢理に唇を重ねた。すぐに力尽くと言ってもいいほどの強さで引き剥がされたが、恋の手管に関しても百戦錬磨のオスカーの勘は、リュミエールのうちに秘められた確かな想いを感知していた。

 ただその時に向けられた、深海色の瞳に籠められた激しい敵意だけは紛れもない本物で、そのアンバランスさを訝しく思ったことを覚えている。

 これまでは気付いていても看過してきた、水の守護聖の密かなる外行を、追い始めたのはそれからだった。

 過去にもあったことだった。内憂なり外患なりでざわつき、守護聖たちがどう力を尽くそうともサクリアの動向が安定しなかった星が、大海に丸ごと落ちたように一瞬で静けさを取り戻したことが、一度や二度ではなく。その前後に水の守護聖がどうやらその星へ密かに訪れているようだと、気付いたのは着任してからのかなり初めの頃からだった。

 以前は気付いていても気にも留めず、ましてや追うことなど考えもしなかったが、自覚した恋心がそれを素直な心配に変えた。概ねの場合、既に聖地の王立研究院へ戻ったところで出会ったが、一度は次元回廊が水の守護聖の戻りを待つ形で開かれていて、途中まで出迎えに向かった。だがそれを知った光の首座から、何故か「今後は厳に慎め」と言われた。

「何故ですか」

「…リュミエールの行動が星の安定を得るためであると、そなたも理解しているであろう。一触即発の情勢の真っ只中へ、そなたの炎を持ち込んでどうするのだ」

 水の守護聖が向かった、そこで何が行われていたのか、今まで考えもしなかった自分の迂闊さを、オスカーは今や呪うばかりだった。

 

 

 光の守護聖の執務室には、力強い眼光を宿した光の守護聖と共に、陰鬱な闇の守護聖の姿があった。それでオスカーは確信し、かつ愕然とした。ここに至っても信じたくなどなかったが。

 リュミエールの行動の、その内情のすべてを、この二人は知っていた。

「…ジュリアスに言われたであろうに。愚者は自ら愚を弄す。無闇に動かずば、知らずに済んだものを」

「クラヴィス」

 闇の守護聖を鋭く窘め、光の首座は凛とした眼差しを緩めずにオスカーを見遣った。

「こうなった今、ひとつだけそなたに言うべきことがある。

 …あれを責めるな。あれのした事を罪と言うのなら、我々二人も承知していたことで等しく罪を背負っているのだ。」

「罪、と言うのであれば、水の守護聖という座の存在そのものが罪となりうるのであろうな」

 その闇の守護聖の口振りに、薄く知覚した。代々の水の守護聖の、これが初めての事例ではないのだと。

「……女王陛下は。…ご存じないのでしょうか」

「愚かな事を申すな。どなたが星への次元回廊を開いていると思っている。」

「……」

 無意識のうちに歯軋りが鳴る。知らぬは自分ばかりなり、という訳か。

 今まで、対の存在だと思ってきた。炎の守護聖と水の守護聖というものは。どれだけ対立していても、全てが互いに、どこまでもあきらかであると思っていた。

「そなたの口惜しさは計り知れぬであろう、それは理解できる。だが炎の守護聖には、いかにして知ろうとも、この事実を絶対に相互後代へ伝えてはならぬことになっているのだ」

「何故!!」

「この定めが成立するよりも以前、就任直後・・・・の水の守護聖が、炎の守護聖に斬殺されたことがある」

「………」

 激しい眩暈に視界が歪み、代わりにあの日の光景が嫌というほど鮮烈に脳裏へ浮かんだ。

 紗のような噴水の流れよりも清らかに、眠るその姿。息をするのも忘れ、手を触れることも出来ずに、ただ見守ることしか出来なかった。

 あの限りない聖性が、汚される日が必ず来ると、そう知らされていたなら、俺は――俺はこの手で、あいつを――

 体の芯が砕け、昏い中空を仰いだ。

「…分かるであろう。

 我々だとて、こうなることを望んでいた訳ではないのだ。出来得れば起こらぬままであってほしいと。事実、最後まで縁のない話で終わった水の守護聖の代もある。だが――」

「それより先は、あれの話を直接聞くが良い」

 気怠げに闇の守護聖が立ち上がりながら、憐れみを含んだ目でオスカーを見遣った。その視線に、リュミエールに対する自分の想いをこの闇の守護聖は知っている、のだとオスカーは気付かされた。

「…さて、罪人となるのは、果たして誰であろうな。」

 

 

 最後に投げ掛けられた闇の守護聖の言葉の意味を理解できないまま、重い足を引いて水の館へ向かった。

 

 

 恋情を語るために何度か訪れた水の館の居室は、以前よりも薄暗く、そしてどれだけ招かれざる用件であったとしても、必ず扉まで出迎えに出ていたその姿は、今晩に限って仄暗い部屋の奥で佇んだままだった。

 辛うじて表情を見分けることができる程度のその昏さが、今のオスカーには幸いだった。全てが明るい光のもとに晒されていたならば、即座にその姿を斬り捨てかねない衝動がある。

「…ですから、申し上げたのです。諦めていただきたいと。忘れて欲しいと。」

 距離を縮めないまま、遠くから緩く微笑んでリュミエールがそう語る。

 敵意を纏う必要はもうない。そんなことをせずとも、炎の守護聖がもはやその身体に近づかず、触れようとしないことは明らかであった。その生命を手に掛ける場合を除いては。

「……最初から、正直に言えば良かったんだ。何故、そうしなかった」

「言えば貴方は、私を殺したでしょう?」

「そうかもな。死ぬのが恐かったのか?」

「いいえ」

 場に似つかわしくない語気の強さで断言されて、オスカーは訝しく眉根を寄せた。

 

 先刻までの緩やかな微笑は消え失せ、時折ふと垣間見ていた、その芯の強さを思わせる強い瞳の色で見据えられた。

 水の守護聖が、ゆっくりと両手を広げた。世界の全てを受け容れるが如くに。

 

「この生命は女王陛下に捧げた物。宇宙の安寧を守るために、全てを尽くすべき身。貴方ごときに殺されるいわれはありません」

 

 このような場で女王の名を持ち出す不敬と、その底の知れない透徹な意志とに、オスカーの意識が混濁する。

 

 ふと気配が緩められて、水の守護聖は困ったように僅かに首を傾げた。よく見慣れた、憂いを帯びたあの表情。

「…貴方も、ですか。」

「…何がだ」

「私が三文芝居のような安っぽい同情で、誰にでも見境いなくやすやすと足を開いていると、貴方もそうお思いなのですか」

 その清らかな姿からは似つかわしくない、下卑た文章が紡がれる。だがオスカーは、その言葉を否定できる己の言葉を持っていなかった。

 静かに溜息をかれる。これもまた、明るい陽の下でよく見た光景。

「…だとしたら、私もずいぶん侮られたものですね。惚れただの何だのと仰っていただいても、その程度ですか。」

「……」

「皆様方は、私をどれだけ不具扱いにすれば気が済むのでしょうね」

 真っ直ぐに向けられる仄青い視線と、どこまでも深い水底から響き渡るようなその声音に、身震いがした。

 

「守護聖のサクリアが集団心理学的にしか作用し得ないということは、貴方もご存知でしょう。如何に宇宙を司る存在とはいえ、サクリアのみを用いての介入には自ずから限界があります」

 平穏の乱れた地。炎のサクリアを送れば逆上し、引き上げれば恐慌に陥る。水のサクリアを送れば倦怠に泥濘ぬかるみ、引き上げれば乾き切る。

 だからこそ炎の守護聖は、必要とあらば王立派遣軍を率いて現地へ向かう。

「私は、貴方に諭されたあの日から、考えました。どこまでも考えました。私にしか出来ないことを。貴方が戦神として、貴方にしか出来ないことをしているように。」

「…それが、これか」

「見極めはしているつもりでおりますよ。それこそ、見境なく、ではなくて、ですね。」

 軽く微笑われた。

 

「問題はキーパーソンです。集団心理学的に作用し得ず、かつ情勢が治まらない、ということであれば、ごく少数、大抵はたった独りの者が強大な権力を有していることが多い。

 その暴走が精神病質者サイコパス気質障害者パーソナリティディスオーダー、もしくは各種の薬物等の中毒などによるものであれば、これもまた私の出る幕ではありません。しかるべき医療に照らすべきものですから、王立研究院へ対応を依頼します。

 ですが大体において、独裁者というものはそのような特殊な人間ではなく、孤独と裏切りに怯えるただの哀れな一人の人間なのですよ。両手を押し包んだだけで、泣いて改心してくださる方もいらっしゃるほどです。

 しかしながら、この身を用いることがどうしても必要とあらば、それを躊躇うつもりはありません」

 

 リュミエールのその言葉の、どこまでも貫かれた芯は疑いようもなく、言葉もなくオスカーは俯き、歯軋りを鳴らした。

「…オスカー、私は貴方に感謝しているのです。私にしか出来ないことがあると、そう仰ってくれた貴方に。」

(…感謝しますよ、オスカー。)

 思い出した。既視感を覚えた、あの視線。あの日、あの湖で告げられた、あの言葉。

 激しい嘔気を覚えた。

「…先程、王立研究院より連絡が来ました。かの星で、第三国への核配備のために進軍中であった艦隊へ、撤退命令が出たと。」

 項垂うなだれたままの緋色の髪の上から、穏やかな水の守護聖の言葉が降ってくる。

「必発であった核による世界大戦が回避され、何十億の生命が損なわれずに済んだことを、私は女王陛下の名誉に懸けて、誇りに思います」

 

 顔を上げられないまま、光の首座の言葉を思い出す。

(最後まで縁のない話で終わった水の守護聖の代もある。だが――)

 だがその平穏な任期の陰で、現任の水の守護聖ならば救えたはずの生命が無数に喪われた可能性を、オスカーは否定することができなかった。

 

 

 判った。もういい、と思った。

 だが。だが、それでも。

 胸が痛かった。苦しかった。

 

 この砂を噛むような感情を、何とかして欲しい、と思った。

 

 それは炎の守護聖ではない、宇宙の平穏を無視した、ただの一人の男としての弱さだった。

 

 

「ひとつだけ、答えろ」

「…何でしょうか」

「俺のことを、愛していたか」

「……何を今更。愚かな事を」

「最初で最後だ。金輪際、二度と問わない。答えろ。」

「……」

 

 長い沈黙が流れた。

 やがて細い溜息が零れた。微かな震えを帯びて。

 

「……貴方に愛されたかったと。その願いを想い留めることも、それを貴方に偽ることも、私には出来ません」

 視線を上げて、その人を見た。穏やかな、少し困ったような、あのいつもの微笑。

「それを私の弱さだと、そう批判する方がいらっしゃるのなら、それだけは甘んじて受けましょう」

 

 

 ベルトを外して大剣を投げ捨てた。けたたましい金属音が室内に響く。

 性急に距離を詰め、後退あとじさる身体に追い付いて、力の限りに抱き締めた。

 息をも吐けない気配がして、腕の中でその身体が身悶えた。

「何を……」

 この細い身体ひとつで、何もかもを最後まで背負い続けるつもりだったのだ。この人は。

 息もできないほど狂おしく、愛おしかった。

 嘘を吐かれなくて良かったと、何よりも生涯最大の僥倖としてオスカーはそれを受け止めた。

「愛している。離すつもりはない、諦めろ。お前も俺を愛せ。」

「血迷い事を…」

「正気だ。どこまでも。」

「ありえません。貴方をどれだけ苦しめるか、そのことに私がどれだけ苦しむか。地獄を見ろと?」

「その通りだ。俺と共に地獄を見ろ。」

「…なんて残酷な事を、貴方は……」

「お前が誰よりもよく知っているだろう。俺は俺のやりたいようにやる。お前をどれだけ苦しめることになっても、宇宙の誰より多くの愛をお前に注ぎ続ける」

「………」

 腕の中の身体は震え続けている。この先の長い任期中、オスカーもリュミエールも、どれだけの苦悩を背負うのか、その果てしなさを一つ一つ確かめているように。

 やがてリュミエールの震える吐息が、長く尾を引いて零れた。賭けに負けた、その事を哀しみと共に悟った、長く細い吐息だった。

 水色の睫毛に伏せられていた視線が上がり、オスカーの氷青色の瞳と絡んで、抱擁は初めての深い深い口付けに続いた。

「…ひとつだけ、約束を下さい」

 唇が離れ、首筋を覆っていた衣服を露わにし、白い肌に残された跡をオスカーがひとつひとつ丹念に上書いていた途中、リュミエールが囁いた。

「…何だ」

 細い指が、オスカーの緋色の頭を緩やかに包んだ。

「もしも私が壊れて、任を果たせなくなる時が来たら。その時は、貴方が私を殺して下さい。必ず。」

 動きを止め、永遠かとも思われるその至福の瞬間を、心ゆくまで味わった。

「女王の御名と、炎の守護聖の剣に懸けて、必ず。」