■ La Vie en Rose

 いつもの彼の端正な表情が僅かに甘く崩れて、女王候補の手作りのその黒いケーキを嬉しそうに口に運ぶ。白いクリームと、ほろほろとしたチョコレートの薄切が細かく掛かっているから、綺麗に食べるには少しばかりの器用さが必要だ。

 平常の彼なら恐らく無難にこなしただろうに、オスカー様、チョコレート付いてる、と女王候補の彼女に笑いながら指摘されているところを見ると、手元が狂うほどに実は余程の好物であったらしい。顔をほの赤くすらしながらナプキンで口元を拭う。

 女王試験も終盤の、心地よい昼の茶会の離れた席から、相当に意外な心持ちでその光景を眺めた。それから、ふ、と彼がこちらを向く、そのひとかけらの気配が湧き掠めたところで視線を逸らす。

 彼と私との間には、重なる時間も場所も存在しない。よもやそれらを同じくしたところで、私を見ればその氷青色の瞳は一瞬で冷たい色を帯びるのだろうから。

 こちら側に座る女王候補と歓談を続けながら、私も彼女らの作ってくれた菓子を頂きつつ、それでも彼の珍しいその時の表情はいつまでも脳裏に残り続けた。

 

 キルシュトルテ。

 女王候補、つまりは程なくして女王となった彼女が、育成大陸からレシピとして持ち帰ってくれたそのケーキの事を、私はこの茶会の件まで知らなかった。ましてやそれが彼の好物であるなど、尚更のこと。

 彼は何処で知ったのだろう、と思うけれど、私などより余程聖地から外界へ出る機会の――公的にであれ、私的にであれ――多い人であるから、問うても詮無いことではある。

 長い名で言うと、シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。黒い森シュヴァルツヴァルト桜桃キルシュケーキトルテ、というほどの意味だ。別の言語ではガトー・ド・フォレ・ノワールといい、こちらも黒い森のケーキという意味になる。

 ココア生地のスポンジケーキが黒い森。そこに雪に見立てた生クリーム、更にその上の中央に落ち葉としてチョコレートコボー切片を散らし、周囲には絞り出しクリームと、黒い森の特産品のキルシュ、すなわち桜桃さくらんぼをあしらう。スポンジの間には生クリームとキルシュのコンポートを一緒に挟む。

 生クリームにもココアスポンジにも、ふんだんに度数の高いキルシュヴァッサー桜桃蒸留酒を含ませるから、風味としてはアルコールの強い、ケーキと言っても比較的大人向けのものとなる。その辺りが彼の気に入ったのかもしれない、とも思ったが、それにしても根本的にはケーキなので甘く、そういうものを彼が自ら進んで食べるどころか、好物ですらあったというのが今でもかなり意外だ。辛口ドライのものばかり好むと思っていたから。

 桜桃はサワーチェリー、ブラックチェリー、生のさくらんぼ、と、複数のレシピを見比べると使っているものが違ったりして幅がある。スポンジの間に挟むクリームはチョコレートクリームを使っているものもあるが、生地がココア入りなのでこれはやはり生クリームがいいだろうな、と思う。それもゼラチンの入った、弾力のあるザーネクレームで。というのも、キルシュヴァッサーを多めに混ぜても形が崩れないし、一緒に挟むチェリーに高さがあるので、普通の生クリームだとフォークを入れた時に崩れやすくなるだろうと思うから。

 ケーキの足元にもチョコレートコボーを飾ったものは、白と黒のモノトーンの色合いの対比が可愛らしい。

 

 いろいろと眺めているとだんだんと、実際に作ってみようかと思うようになった。そう考えると、楽しみでふわふわと心が浮き立つ。

 菓子作りはもともと好きな方なのだろうと思う。聖地ではとりわけ茶会が多くて、しばしば手作りの菓子を用意する機会があった、という後追いの要因もあるだろうけれど。

 聖地に居ても、小麦粉など一般的な菓子の材料、生クリーム、ココアなどは、良い品質のものでも簡単に手に入る。難しいのはやはりキルシュヴァッサーと、生にせよ加工品にせよ、なにがしかの桜桃の実だ。

 どちらも様々な種類があるし、そうであればどれがいいかは自分の舌で確認したくなる。基本的には地の物、特産品という扱いだから、一般に広く出廻るようなものでもない。となると外界に自分で赴く必要があるし、長期戦になるかな、とも思った。

 それを密かな楽しみとして、心躍らせる私がいる。

 

 私たち守護聖にとって、外界へ出る機会は目に見えないチケットのようなものだ。時折ふと、ひらりと手に入り、それを消費して、外出先での執務の間の僅かな自由時間、私的な望みをひとつふたつささやかに叶える。

 彼については話から除かざるを得ない。王立派遣軍を率い、あるいは視察で、炎の守護聖として外界へ赴くことも比較的多くあるなら、平時の抜け道だっていくらでも知っている人だ。

 そうではない私は、この子供じみた楽しみに数少ない手持ちのチケットをだいぶん消費した。機会を縫っては目を付けていた産地に訪れ、桜桃キルシュ桜桃の蒸留酒キルシュヴァッサーとをいくらか試し、手に入れる。持ち帰るにしてもそう目立つ訳にはいかないから、荷物が少なくなるよう、僅かな時間で可能な限り厳選した。

 オリヴィエの外界へ出る用件の際に、しれっとひっそり便乗したことすらあった。私らしくない行動に当のオリヴィエは随分驚いていたようだけれど、極めて大人な精神の持ち主だから深くは追求されなかった。丁重に礼と謝辞とを述べてから、早々に彼と別れていつもの収集の続きに嬉々と向かった。

 

 水の守護聖だということは当然秘匿していたが、ゆく先々で随分と歓待された。キルシュトルテに使いたいと告げると、キルシュヴァッサーもキルシュも、おすすめの既製品はもちろんの事、秘蔵の品や僅かしか作れない自家製の品すら出して勧めてくれた。レシピに対する助言、ちょっとしたこつ、キルシュトルテに纏わる数々の思い出話。

「きっと上手くいくわ。笑顔と真心は何よりもお菓子を美味しくするのよ」

 そう言われて、自分がずっと微笑んで子供のように心躍らせ続けている事に気付く。

 

 ひとしきり集めたところで種類も味もだいぶん把握し、これは、と思うものも絞られた。

 キルシュヴァッサーは蒸留酒なので、味というよりは風味の方に大きな差が出る。さくらんぼの薫りが存分に堪能でき、かと言ってケーキの甘やかな楽しさの邪魔にならないものを。スポンジの間と飾りに使う桜桃は、酸味が強く料理などにも用いられるサワーチェリーではなく、それ自体が甘いダークチェリーのシロップ漬けにしたが、漬液が砂糖を控えてキルシュヴァッサーの割合を相当に多くしたものを選び、桜桃だけで食べるとアルコールの辛さと桜桃本来の甘酸っぱさが引き立つ。優しい甘さの生クリームと一緒に食べると良いアクセントになるはずだ。

 

 選びに選んだそれらと、他にも厳選して入手した材料とを携えて、新しい宇宙の中のこれまで通りの聖地の森の片隅、水の守護聖が代々引き継ぐ小屋へと、晴天のある日に満を持してようやく足を向けた。

 

 

 取り立てて贅を尽くしたというわけでもない、むしろ質素とも言える、数部屋しかないその小屋としか言いようのない平屋だが、使うのはほぼ私だけに限られるのだから、新しく建てると言われれば断っただろう。

 ただここに関しては前代の水の守護聖から引き継いだもので、ことさら取り壊す理由もなかったからそのまま使っている。こういう機会の際には確かに便利ではあるな、と珍しくそう考えた。

 そのほうが却って維持管理に手間を要さずに済み、結局はコストも環境負荷も低くなるから、という理由で、水・電力などの最低限のインフラは整っている。久し振りに鍵を開けてドアを開け放つと、通気性を優先して設計された室内は黴臭さもなく、窓越しの柔らかい光と、ささやかな秘密をいつでも同じように受け入れてくれる懐かしい空気とが出迎えてくれた。

 庭に出れば、バジル、ローズマリー、カモミール、エシャロット、アップルミント、マートル、他何種類かのハーブが、お互いと雑草とで陣地争いの様相を呈している。クレソンは最初からこの辺りに自生していたものだ。

 すっかり収穫を終えたかと思っていたミニトマトの苗が、聖地の常春の空気に幾許かの遅れた実を付け、真っ赤な食べ頃に熟れてぶら下がっていた。

 

 腕捲りをし、髪を纏め、手指と手首を丁寧に洗ってから、いよいよ取り掛かる。

 まずは真っ先にココアのスポンジ生地だ。粗熱を取る時間が必要だし、ゼラチンを混ぜたザーネクレームが固まるまでの時間を考慮すれば尚の事である。

 粉を丁寧に篩う、卵をしっかり泡立てる、けれど泡立て過ぎず、肌理きめを整える。粉もバターも、適度に分けて手早く混ぜる、混ぜ過ぎない。オーブンに入れる時は開け過ぎない。焼き上がりには高いところから落として空気を入れ替え、萎み過ぎないようにする。

 丁寧に基本を押さえてさえいれば、スポンジケーキはそう失敗しない。聖地は気候が安定しているから楽だという面もある。海洋惑星の雨の多さに、手作り菓子の仕上がりが安定せずしょっちゅう泣かされていた故郷の妹の事を、ふと思い出した。

 ココアスポンジの粗熱が取れるまでの間、キルシュシロップをたっぷりと用意する。サヴァランほどまで浸しはしないけれど、それでも充分に染み込ませたほうがこのケーキの良さが生きる、という気がする。一般的なレシピにあるシロップよりもキルシュヴァッサーの比率を多くし、味見をして、脳裡でココアスポンジとザーネクレーム、ダークチェリーの味とを合わせてみる。あまり味見を重ねると、わざと効かせる事を狙ったキルシュヴァッサーのアルコール度数で早々に酔いそうだ。

 ココア生地を焼いた幸せな香ばしさに加え、辺りの空気には既に、結構な酒精の蒸気とキルシュの薫りとが漂っている。

 存分にキルシュシロップを染み込ませることを考え、スポンジは2枚でなく3枚に、カットガイドを使って均一に切り分けた。あまり高さがあると食べにくくなるから、桜桃は下段の間のみに入れることにし、上段は薄くザーネクレームを挟むだけにしよう。

 冷ましたココア生地の3枚それぞれに十分なキルシュシロップを刷毛で染み込ませ、1段目の上に瓶詰めから取り出したダークチェリーの水気をよく切って並べる。切り分けやすく食べやすいように、最外縁と中央は桜桃を置かずに開けておいてザーネクレームで埋めるそうだ。なるほど、と思い、その通りに桜桃を配置する。

 キルシュヴァッサーを多めに入れたザーネクレームを作って、ゼラチンが固まらないうちに手早く、桜桃の間に隙間を作らないよう平らに伸ばし、2段目のココア生地を載せて更に薄くザーネクレームを敷く。その上に最上段のココアスポンジ。

 

 少し時間を置いて生地を落ち着かせ、ココア生地の間で固まったザーネクレームのムースのような弾力を確認する。しっかりと纏まっている。これならフォークを入れても崩れることはなさそうだ。

 一安心してから、デコレーションに移る。

 トルテの周りに塗る、雪を模した白いクリームはザーネクレームでない普通の生クリームだけれど、形が崩れない程度に少しだけこれにもキルシュヴァッサーを混ぜる。口当たりが滑らかになるよう、肌理が荒くならないように注意しながら生クリームを泡立て、黒いトルテを綺麗に白く覆った。ココアスポンジの地肌が見えないように注意する。

 それから落ち葉に見立てたチョコレートコボー、つまりチョコの薄切は、あまり細かく粉々に削れるとそれこそ食べづらくなるので、少しだけ温めてから比較的大きな切片となるよう気を付けつつスライサーで削る。味を楽しみたくて、ビターとミルクの両方を使った。ビターのうち上手くくるくると長く綺麗に巻いたものは、周縁に沿って丸く絞り出した生クリームの上、ダークチェリーの飾り付けに添えて黒い森の枝のように挿していく。

 絞り出しのクリームより内側、デコレーションの中央に、チョコレートコボーをたっぷりと散らした。トルテの側面、下縁に沿ってもチョコレートを軽く押し付けて飾ってゆく。これでほぼ出来上がりだ。

 少し考えてから、もう1種類の白いチョコレートを手持ちの材料から取り出し、同じように少し温めてから削って、デコレーションを続けた。

 ここに来て調理を初めてから随分と時間が過ぎたけれど、ずっと、物凄く楽しくて、幸せだった。

 

 

 昼下がりには仕上がった、綺麗な、キルシュトルテのホールケーキ。自分でも良く出来たと思う。

 白い生クリームと、黒いチョコレートコボーと、丸みを強調した白い飾り絞りの上の濃紅色の桜桃との対比が綺麗だけれど、黒のチョコレートコボーの中に更にホワイトチョコのコボーを散らしてみた。キルシュトルテとしては邪道かもしれないが、コントラストが一層鮮やかになって自分としては気に入っている。

 飾りのダークチェリーは落ち着いたマットな色調で柔らかく光を映している。艶出しのナパージュを乗せてみても照りが出て綺麗でよかったかもしれない。今からだと近くのチョコレートを巻き込みそうだから今回はしない事にするけれど、次はそうしようか。

 

 白い大皿を目線の高さまで持ち上げ、いろんな方向から観察してみる。

 暫くそうやって、時には小さく笑いながら矯めつ眇めつ眺め、

 

 ……そうしてようやく、数か月振りに、ようやく我に返り。

 

 震えそうになる手に言い聞かせながら、ゆっくりとテーブルの上へキルシュトルテの皿を下ろした。

 手を離し、目の前のそれを、眩暈のするような永遠に隔絶された距離から改めて見遣る。そこにあるのは先程までと全く同じトルテなのに、もはや私にとっては、ほんの以前の瞬間までの幸福の象徴には、二度と戻り得なかった。

 

 

 これを。これを私は、どうするというのだろう。

 

 

 自分が食べるために作ったわけではない事は、自分自身がよく知っていた。自分以外の不特定の誰かのためでもない、聖地の人々の顔を思い浮かべるけれど、何故りにってこれを作ったのかを問われて答えようのあるわけもない。

 何よりも、よく判っている。痛いほどに知っている。

 だって作っている間じゅう、それどころかレシピを見始めてからずっとというもの、思い浮かべていたのは彼のあの笑顔だ。

 落ち着き払った端正な顔に、ふと甘さが混ざる瞬間。幸福が彼の心に入り込む時。

 あれほど時間をかけた食材選びだって、それがどれだけ無意識にせよ、彼の口に合うものを、というのが絶対的な基準だった。

 そうしてこの期間中ずっと、折に触れては、彼の幻の言葉を脳裏で聴き続けていたことを思い返す。やあ、これは美味いな。俺の好きな味だ。俺のためにか? 嬉しいな。

 今となってはその一音素すらもが、消え入りたいほどに身の置き所なく、どうしようもなく居た堪れない。

 

 こんなことになるこの時まで、迂闊に過ぎた。知らなかったし、気付かなかった。

 オスカー。…オスカー。

 私はこんなにも、貴方のことが好きだった。オスカー。

 誰よりも近いところで、貴方のその強さに触れたかった。貴方の事を想って、貴方のために何かをしたかった。

 その微笑みを、私に向けて欲しかった。冷たい瞳ではなく。

 

 傲慢な己の望みは、その罪の重さに相応しい容赦の無さで、私自身の心を切り刻んだ。

 

 私の罪の象徴とも言うべきは、この目の前の、控えめに言っても良い出来栄えと言えるキルシュトルテだった。

 自分で口を付ける気には到底ならない、彼に食べてもらえる当てもない、だからといって誰かに披露するにはあからさま過ぎるこれを、一体どうすればいいというのか。

 最適の材料を探して訪ね歩いていた間、各地で会った人たち。心からの歓待、共に悩み、あれこれとした心遣い、想いの篭もった食材、そして優しい励まし。その結実とも言うべきこの一皿のキルシュトルテが、全て私のこの上ない無思慮の所為で、あろうことか何処へも行き場がない。あまりの申し訳無さに涙が出そうだった。

 せめて一口二口でも礼儀として自分で味わうべきだったのだろうが、食欲などとっくの昔に失せているどころか、下手すると吐き気すらしそうだった。彼の事を想いながら作ったケーキに手を付ける気にもそもそも到底なれない。

 嫌というほど自分の罪深さを思い知らされた挙句、重い足を引き摺って、少し離れた湖のほとりの木陰に皿ごと置き去りにしてきた。森の動物達に食い荒らしてもらえばまだしも救われるが、アルコールを相当に効かせてあることもあるし、根本的に野性の生物が好むようなものでもない。

 まだ焼き菓子の良い薫りの残る小屋の室内に戻り、テーブルの脇の椅子へ落ちるように座り込むと、それからはもう二度と立ち上がれなかった。膝を抱えてうずくまる、その間にも次から次へと彼の笑顔が溢れては、私を責めて消えていく。

 全ては、こんなにも愚かな私が引き起こしたことだった。もう二度と、こんな事は永遠に終わりにするべきだった。もっと、もっと早くに。

 貴方の笑顔。貴方の強さ。そして私のものではないその優しさ。貴方の存在。同じ時空ときに、こうして共に在ること。

 全てを無かった事にするべきだった。こんな馬鹿げた間違いを二度としなくてよいように。金輪際、二度と。

「オスカー…」

 口に出して、終わりにする。大事に、大事に想いを押し抱いていとしんで、心の中の彼と決別する。

「オスカー……」

 

 

 2回のノックの後にドアが開き、心臓が止まるかと思うほど驚いた。弾かれたように立ち上がってそちらを振り返る。

 ありえない、彼の姿がそこにあった。見紛う事なき、燃え立つような緋色の髪。

 整った顔立ちに張り付いた無表情と、右手に持ったその皿とに、私の血が絶対零度まで凍った。

 

 開いた唇が固まる。何かを言わなければ、けれど何が言えるというのか。この状況で。

 地の底へ血液が吸い込まれるような感覚があり、視界が暗転しそうになる。反応性の明らかな虚血症状の中、辛うじて思ったのは、何故それが見付かったのか、そして何故彼がここへ来ているのか、だった。よく開けた森とはいえ道らしい道もなく、聖地の警備上で彼もここの事は知っていたにせよ、置いてきた湖からはそれなりの距離がある。

 私の疑問を敏感に嗅ぎ取ったのか、彼は何事かを言おうとし、しかし結局は何も言わないまま、無言でドアの外に私の注意を促した。

 震えそうになる足をなんとか動かし、ドアの内側から薄く外を伺って、その光景に絶句した。

 

 森の中の小動物、鳥たち、どこからこれほど集まったのかと思うほどの数が小屋を取り巻き、しかし幾許かの距離を置いて口々にさざめいている。よく見ればあの湖のほとりの方から、点々とここまで連なって。

 木漏れ日が上空から柔らかい下生えの地面に落ち、天使の梯子の光の筋が見える。

 痛切な後悔とともに思わず目を閉じ、嫌でも悟らざるを得なかった。自分が只人ただびとではないと、こんなささやかなお遊びの際にはつい忘れているそれが、激しい悔恨を伴って思い知らされるのはこんな時だった。

 サクリアなのか何なのかは知らないけれども、要するに今、彼の手に収まっているこのひとつの作品とも言えるそれに、念を込め過ぎたのだ。動物達が引き寄せられてしまうほど。他でもない私が。

 

「…もういい。皆、帰れ。」

 目を閉じたまま動けない私の耳に、彼の静かな低い声が染み入る。瞼を開けてそっと見遣ると、炎の守護聖から声を掛けられた動物達は、三々五々にゆっくりと散っていくところだった。

 ドアが彼の手で閉じられて、外の明るい光景が途切れ、私は彼の横で扉と向き合う形になり、再び背筋が凍った。

 その手の中のものを置いて出ていってくれるのでもいい、逆に外へ投げ捨てて私を責め立ててくれるのでもいい。何でもいいからとにかく、彼と、私と、それとが共にある状態だけは一刻も早く止めて欲しかった。

 俯いて顔を上げられないまま、横から彼の視線を感じる。何度か彼が物言いたげにする気配があって、その度に動揺を隠し切れない私の身体が震えた。

 

「…美味そうだな」

 彼の声音が聞こえて思わず耳を押さえたくなって、やがて思考に届いた言葉はそんな文章を綴っていた。

「…え?」

 緊張の解けぬまま、それでも幾分か拍子抜けし、顔を上げて思わず訊き返す。

「食べてもいいか」

 ずっと避けていた視線が合うけれど、そこに気まずさはなく、

「…はい。どうぞ。」

 すんなりとそう答えることができた。

 彼がキルシュトルテの皿をテーブルに置き、広くもない室内を見渡してケーキナイフを見つけた頃に我に返り、慌てて自分で切ろうと手を伸ばしたけれどやんわりと押し留められた。少しの間だけ手首を戒められ、まだ震えている私の手を私自身に確認させるように。

 無言のままにそれとない微かな誘導だけで、私を椅子に座らせる。大人しく従いながら、彼の動きを目で追った。

 コンロの火を付け、薄刃の長いケーキナイフを軽く炙り、手をかざして温度を確認した後、おもむろにキルシュトルテの中央へ刃を入れた。彼の手の動きに合わせて、うっすら溶けたチョコレートコボーと生クリームが綺麗な断面を見せる。二等分に切り分けてから、一度綺麗にケーキナイフの表面を拭き取り、もう一度温め直してから、今度は1カット分に刃を入れた。丁寧だけれど思い切りの良い手付き。

 私が差し出した皿の上へ、流れるように小扇型となった白黒のケーキが載せられた。切り口には濃紅色のダークチェリーが覗く。

 彼は皿を受け取るとさっさとフォークを自分で用意し、私の斜め先に椅子を寄せて着席し、三角形の先端にフォークを入れた。

 彼の口の中へケーキが収まってゆく、目も離せずにその光景を見続けた。

「…美味い」

 ふ、と軽く微笑って、彼がそう小さく呟く。トルテを見詰めていた顔を上げ、私を見遣って、そのままの同じ微笑みを私にくれた。

 ぎこちなかったけれど、私も少しだけ微笑い返すことが出来たと思う。

 涙が出そうだった。

 この私の馬鹿げた行為を、その微笑みと共にただ不問に付してくれるなら、これほど有り難いことはなかった。耐え切れなくて目を閉じた。

「ほら」

 そう声を掛けられて、閉じたばかりの目を再度開く。口元近くに、ココアスポンジと生クリームと桜桃の大きめの一片が載ったフォークがあった。え、と、声に出ないまま彼の方を見る。

 有無を言わさずやや強引にフォークが近づいて、まだ何かを食べられる気分では到底なかったけれど、少し大きすぎるそれを勧められるままに口へ入れた。ほろ苦いココア生地、キルシュ酒の風味、クリームと桜桃の甘さと仄かな酸味。ゆっくり味わって、それでも、ほっとした。

「…美味しい」

 思わずそう呟いて、自分の作ったものをそう評していいのか少し戸惑い、そしてふと、気付いた。

 今、彼は、その一片の一番美味しい所を私に勧めた。クリームも桜桃もチョコレートも、だから少しばかり山盛りで。

 視線を彼に戻したら、ごく真面目な表情で、

「…チョコレート。付いてる。」

 そう言われたから、口元を手で確認した。何処?

「そこじゃなくて、」

 言葉が続いたのはそこまでで、次の瞬間大きな吐息とも溜息とも付かぬものが唇を掠め、その次にはもう感に耐えかねたような彼の腕の中にいた。大きな掌が一時も間を置かずに私の体中を辿り、唇は唇に塞がれて、彼の味わった甘さと私のそれとが混じり合う。彼の膝の上で痛いほど抱き締められ、続けてまた一頻り唇が重ねられた。

 翻弄されながらただ受け入れ、そしてその無言の激しい仕草の告白に必死で応えた。

「俺もお前も馬鹿だ。こんな判りやすい物を目の前に出されるまで気付かなかった。」

 到底彼のものとは思えない、切羽詰まって押し殺した声を聴いて呆然とした。

「愛してる。愛している、リュミエール。お前の全ては俺のものだ」

 私も、愛しています、と答えたかったけれど、もう胸が一杯で声が出なくて、ただ何度も頷いて、彼の背に廻した手で彼の服を力の限り握り締めた。

 オスカー。

 ……オスカー。

 

 そこから先、いつの間にどうやって狭い寝室のベッドの上で意識が途切れるまで追い落とされたのか、はっきりとは記憶にない。

 ただ何度か交わった後、泣きじゃくりながら交わした会話を幾つか覚えている。

 

 …どうしていつも、あんなに冷たい瞳をしていたの。

「仕方ないだろう。そうでもしなければ、後はもう愛してるって言うしかなかった。悪かった。」

 …ああ、そういえば、私もそうだったんだな、と思い至った。

 目を合わせて、冷たい壁を取り払ってしまえば、貴方への想いしか残ってなかった。

 だから私も、謝った。

 

 …どうしてここへ。

「オリヴィエに言われた。アンタらがどういう結論を出そうが知らないけど、これだけは言っとかないとアタシが絶対後悔するからって。とにかく行けって。」

 そうだった。彼はとても大人な人だけれど、それ以上に人の心に聡い人だった。

 黙っててごめんなさい、オリヴィエ。

「判ってくれるさ。今度二人で謝ろう。…今はそれより、俺のことだけを考えろ。」

 熱い身体にまた抱き込まれながらそう言われたから、素直に従った。

 

「今度、残ったキルシュヴァッサーでカクテルを作ってやるよ。『薔薇色の人生ラ・ヴィ・アン・ローズ』。」

 …カクテルだったら是非こちらで、と、あと何本もあるキルシュヴァッサーを差し出せば、苦笑でもされるだろうか。

 

 

 目が覚めると、もう辺りは真っ暗だった。とはいえ感覚が間違ってなければ、夜に入って直ぐぐらいの時間帯だ。

 いい匂いがする。アクアパッツァのような。魚なんて置いてなかったから湖で釣ってきたのだろうけれど、釣り道具なんてあっただろうか、と思う。なんて器用な人。

 寝室の扉は薄く開いたままで、キッチンの明るい光の中に彼の姿が見える。ストローを半分に切り、何をしているのかと思えば、即席の霧吹きを作ってコップの中に入れたキルシュヴァッサーを、ずっと放置していて少し乾いてしまったらしいキルシュトルテに吹き掛けている。本当に器用な人だ。

 大きなトルテと小さな食べ掛けだったトルテ、両方にキルシュヴァッサーを掛けると、大きな方には覆いを掛け、小さな方のケーキ皿を手に取る。

 フォークで大きく掬うと、子供のようにかぶりつき、しばし味わった後、相好を思い切り崩して微笑った。

 その笑顔が、今は陛下となった彼女のあの時のそれよりも格段に幸せそうだと思うのは、自惚れが過ぎるだろうか。もっとよく見て確認したいけれど、視界はあっという間に涙で歪んでそれ以上は無理だった。

 ただこちらを見て気付いた彼の照れ笑いは瞬間よく見えて、私も微笑い返しながら、再び視界は一面の涙に覆われた。