その光景が星の間中央の宙空へ大きく映し出された瞬間、居並ぶ守護聖達の全員、画像で見知っていたはずの者までもが思わずして一斉に感嘆、歓声、驚嘆の声を上げた。
多重奏は遥かに高い天蓋を巡り、余韻を響かせながら星々の深淵の暗闇へ消えていった。
漆黒の宇宙空間を背景に、赤、青、紫、様々に輝く色彩が水に流したように絡み合い、一層強く白く光る星の中心へと向かってゆっくりと渦を巻いている。その眩い光は銀河の姿のようでもあり、虹色に輝く鮮やかな光彩は寒夜の大気に無言で舞い降りる極光のようでもあった。
「すっげー、キレーだな……」
感傷的な台詞を滅多と口にしないゼフェルが、思わずといった風に呟いていた。大きな目をいっそう大きく開いたままのマルセルが、白い輝きを菫色の瞳に映しながら、そっと伸ばした手で七色の光を掬おうとし、ホログラムの幻影の中をその華奢な手がすり抜ける。
「これが本当に、ブラックホールなのかい?」
そのあまりの美麗さに、ランディが信じがたいという口振りで誰へともなしに問うた。風の守護聖の疑問に、感情を伺わせないごく冷静な口調で返答したのは、水龍族の男性に代わってつい最近その役職に就いた王立研究院の若き主任研究員だった。守護聖達にも既に馴染みの、研究院で長年地道に尽力を続けてきた学者肌の標本のような彼は、名をエルンストという。
「星の中心は確かにブラックホールですが、シュヴァルツシルト半径は450km程度ですので、この映像の距離からでは視認できません。――もっとも、ブラックホールは完全なる黒ですので、たとえ目の前まで接近しても見えないものではありますが。
我々が今、目の当たりにしている、ブラックホールの周囲を取り囲むこれらの光は、正確には降着円盤といい、ブラックホール周辺の豊富な星間物質がブラックホールの引力に引き寄せられる間に光を発するようになったものです。」
周囲から中心へ渦を描きながら段々と明るくなるグラデーションを描く光は、外界の流れの早い時間の経過に伴い、よく見るとゆっくりと中央へ向かって動いている。通常の恒星の内から外への光の流れとは逆に。
「連星系で、引き寄せる側の片っぽがブラックホール、引き寄せられる側のもう片っぽが普通の恒星、ってのが典型的だよね。恒星からの素粒子をもンのすごい勢いでブラックホールが吸い込むから、γ線とかX線とかの有害な電磁波がガンガン出ちゃって、とてもじゃないけど危なくって生命体は近付けないのが普通なんだけど。」
ごく幼い頃から王立研究院で天才の名を縦にし、同じく宇宙生成学の研究を続けてきた少女、レイチェルが嬉々とした様子で話を続ける。
「このブラックホール――ブラックホール・ウンジヒハイトって固有名称が付いてるけど――は、単独で星系中心を構成してて、引き寄せてるのは星間ガスだけっていう珍しいパターン。だからかな、反応がすごく穏やかなんだよね。それこそ星系内の惑星に生命が自然発生してもいいくらいに。でも見た目綺麗だけど、この光ってる部分だけでも半径が1天文単位もあるんだよ。」
「惑星である我々の主星と、太陽との距離が1天文単位ですからね。この降着円盤のサイズ自体がそれほどに大きいということですよ。」
聞き慣れない単位系に戸惑った緑の守護聖へ、ルヴァがこっそりと耳打ちで、珍しくも手短に説明している。
「惑星ヴェルナーの人々が、この星系への移住を希望しているという事で間違いないのだな?」
守護聖達の首座であるジュリアスの厳かな声が星の間に響いた。
「そうです。つい過日、前255代女王陛下と現256代女王陛下のお力により宇宙移動が行われましたが、それより先立ちまして惑星ヴェルナーの主恒星は既に星の終末段階である赤色巨星の状態に入っており、長年に亘って新たな恒星系への移住が検討されておりました。宇宙移動により豊富な星間物質が供給されたため、比較的近隣にあったブラックホール・ウンジヒハイトの活動が活発化し、当該星系への移住の実現性が検討されるようになったものです。既に彼らの自主的な活動により、ブラックホール・ウンジヒハイト星系の第18惑星を標的惑星と定めて、生命環境の試験的導入が進められております。」
「第18惑星」
ランディが呆気に取られて呟いた。普段から馴染みのある通常の恒星系と比較すると、気の遠くなるほど星系中心から離れている。
「それだけ降着円盤のエネルギーが強いって事なんだよね。光の強さを表す絶対等級が−13.2等級、ちょっとした小銀河並だよ。内側の惑星ではγ線とかが検出されちゃってるけど、長い距離を進む間に星間物質に吸収されてもっと安全な可視光線とかの形で再放出されてて、第18惑星の位置で測定されるスペクトル分布が、紫外線4%、可視光線45%、赤外線51%。生命体が棲むには相当に理想的!だよね〜。こんないい物件、なかなか無いよ!」
科学の力を信奉するレイチェルは話に夢中で、守護聖が相手であろうと一切気に掛けず、物怖じもせずに砕けた口調で語り続けている。もっとも守護聖全員が、ジュリアスでさえ、彼女の驚異的な実力を知っているが故に、そういった一時の細かい事を気に留める様子はない。
「一年が滅茶苦茶長そうなのが、考えただけでウンザリだけどな。」
ゼフェルの発言は、星系中心から第18惑星までの距離が大幅にあるために、その公転軌道周期が超長期になることを指している。
「フツーの暦で言うところの200年とか300年とか相当がこの惑星の一周期で、そのうちの四半期それぞれが四季になるわけだろ? ブラックホールの質量を考えて惑星の公転速度を10倍としても、夏だけで最低5年は続くんだぜ。大陸が焼けちまわないのかよ?」
「それがね、よく出来てて。第18惑星は地軸がこう、独楽みたいに摂動してて」
レイチェルが右手右腕を使って、くるくると傾きを変えながら自転する惑星の動きを表現する。
「降着円盤の光の方向に向いてる惑星面が一定周期で変動するから、いいタイミングで暑い寒いの四季が訪れるんだよ。通常の一年の意味とは違うけど充分だよね、なにしろもう色んな花やら果実やらが咲いて実ってさえいるっていうんだから!」
「ええェ? 生命環境の構築ってもうそこまで進んでたの?」
「わたくしも、初めて聞きました」
今まで黙って議事の進行を聞いていたオリヴィエとリュミエールが、驚いたように立て続けに言葉を重ねた。
「左様です。先程も少し触れました、惑星ヴェルナーの人々による第18惑星への生命環境の試験的導入が、ここ数年で――失礼しました、外界時間でですが――急速に成果を上げるようになり、大気の有酸素化も進みまして、現在のところ植物界と原始的な古細菌、原核生物のみではありますが、既に充分な生態系が構築されております。」
「その惑星の様子って、見れる?」
「静止画ではいくつかありますが、より詳細な惑星地表面上のライブ映像は只今手配中です。現地に遠隔投入した撮像機器が原因不明のデータ送信不良とのことで。来週のこの定例会議までにはご覧に入れられるよう引き続き尽力いたします。」
「一点よろしいでしょうか、エルンスト、レイチェル」
「どうぞ。リュミエール様」
「この天才少女へ、なんなりと☆」
沈着振りを微動だにしない青年と、おどけてウインクを飛ばす少女に向け、水の守護聖の凛と響く言葉が続く。常に絶やさない微笑は、こういう状況では影へ顰み、深海色の瞳の真摯さに取って代わっている。
「降着円盤のスペクトル型と波長、光子圧の分布を示すグラフの添付資料がありますが、そこから求められる計算上の絶対等級と、結果としての現状の絶対等級とが合っていないと思うのです。グラフの通りであれば、現在の降着円盤の絶対等級はもう少し暗く、少なくとも5等級ほどは落ちるかと。つまり、スペクトル分布に比較して現状の降着円盤のエネルギーが大き過ぎる、ということですが。」
「仰る通りです、リュミエール様。計算結果の不一致については王立研究院の内部でも指摘がありまして」
「ワタシだよー」
「理由を解明すべくブラックホール・ウンジヒハイト及び降着円盤のコンピュータシミュレーションモデルの構築も行なったのですが、まだ星系の構造や輝度を再現できておりません。パラメーターが充分でないようで、こちらも引き続き調整を行う予定です。」
「ねえ…僕、なんだかちょっと恐いよ。」
恐いよ、と言いながら、マルセルのその発言が恐怖ではなく大いなる畏怖によるものであることは、他の守護聖達にも読み取れた。着任後、間を置かずに女王試験、それから前代未聞の宇宙大移動の力の一端となったことは、彼を充分に成長させている。
「ブラックホールって、なんでも吸い込んじゃうんでしょう? 今の説明を聞いて、確かに人々が住むにはいい所なのかも、って思ったけれど、でも今までブラックホールの周辺に住んだ話なんて聞いたことないし、やっぱり恐いよ。どこか別の、普通の星じゃ駄目なの?」
「ブラックホールの莫大なエネルギーを活用するというのは、ある意味、宇宙に関わる者の夢みたいなところがあってな。マルセル」
出た出た、カッコつけのオッサン、と内心思ったのはゼフェル。オスカーのその、余裕を持つ者が宥めるように話す様子から、奥まった位置で悠然と立つジュリアスとこのオスカーとだけは先程の新惑星の生命系構築の話も事前に知っていた、と悟り、気分を害して顔を顰める。いけすかねー。そういうとこあるよな、こいつら。
同じく知らずにいたためにやはり面白くない心持ちであろうオリヴィエとリュミエールは、だかしかし黙ってオスカーの言葉の続きを聞き、少なくとも外面にはそれを顕さない。
「理論的には、昔から言われていたことでな。星の終末の形態であるブラックホールが、かつて恒星として明るく燃えて輝いていた頃よりも多くのエネルギーを創造する、と。恒星の内部で起こっている核融合反応では質量の2%程度しかエネルギーに変換されないが、ブラックホールでは融合した物質の質量の50%以上もがエネルギーとして放出される。これを宇宙の発展のために使わない手はないだろう?」
「前女王陛下、現女王陛下のお力で、新宇宙に無事、大移動が達成されたとはいえ、個々の星々が白色矮星やブラックホールへと最終的な命運を辿る事は今後とも避けられ得ない。であれば、共生や活用の道を探るより他にない。これら大質量星は、宇宙そのものの運命の一端を握っているのだ。今回のブラックホール・ウンジヒハイトの条件はかつて無く最良であり、申し分ない機会だと私は見ている。」
既定路線ってワケね、と、オスカーに続いたジュリアスの言葉にオリヴィエが感想を抱く。
「我々の夢であった未来がついに実現する可能性がもたらされ、大変結構なことかと思います。ですがそれとは別に、実際の移住には充分に慎重を期す必要があると思うのです。」
ある意味、その場にいた者たちの予想の範囲内ではあったが、水の守護聖がやや前に歩を進めてそう発言した。本人の純粋な意見としてもそうなのであろうが、先ほどのマルセルのように躊躇いを残す者たちの意見を代弁する意図も多分に含まれている。
「ブラックホール星系への移住は聖地の歴史上でも初めての試みですし、現地の様子が原因不明の送信障害で確認できないことや、先ほど指摘させていただいたようなスペクトル型の件など、現在のウンジヒハイト星系には説明の付かない現象も残っております。今少し時間を割き、充分な調査を進めてからでも、移住の検討は遅くはないのではないでしょうか?」
「だがいつまでも時間を掛け続ける訳にはいかない。そうだろう? お優しい水の守護聖殿。」
始まった、と、室内の数か所で目線が交わされた。
「聖地と外界との時間差に加え、現在の主恒星が既に赤色巨星期に入り、惑星ヴェルナーはあらゆるテクノロジーを尽くしている現在でも温暖化の悪影響が著しいと聞く。太陽コロナとの距離も近く、想定外のフレア現象が起これば急激な熱波による数多の影響が避けられ得ない。それに比べれば、ウンジヒハイト星系第18惑星は温暖な気候で安定し、大気の酸素化も完了して、既に移住可能な条件が整っている。些細な計算違いで慎重慎重では、順調に進むものも進まないんじゃないのか?」
「あの、俺もそう思います。わからないことがあっても、勇気を持って一歩を踏み出すことが大事だし、なにより惑星ヴェルナーの人々のためだと思うんです。」
炎の守護聖と水の守護聖の恒例の論争にやや怯みながらも、彼らしい思い切りでそう発言したのはランディだ。この件に関してはそちら側に立つことに決めたらしい。
「不明な事項が未だ残っているという点では、たとえ移住が行われたとしても、同様に人々を危険に晒す可能性があるという意味において同じ事であるとは思いませんか。」
水の守護聖も、やすやすと引き下がる様子はない。
「移住に反対しているのではありません、未だ解明されない事々を解消してからにしたいのです。現地映像の入手もままならない現状では」
「判った判った、では陛下にお願いして俺が現地へ直接視察へ行くとしよう」
「それはなおさら反対です。どんな危険があるか」
「それほど危険がお好きか。杞憂が過ぎるな」
「判りました。どうしてもと言うのであれば、わたくしが視察へ参ります。」
「それこそ俺は反対だな。まあ、危険はないだろうが。」
「…わたくしでは頼りないとでも、仰るつもりですか」
「そういうことにしておいても、俺は構わないぜ」
炎の守護聖の冷笑を混じえた言葉に、水の守護聖が背筋を伸ばしたまま、目を閉じて静かに溜息を吐いた。いつもの流れとはいえ張り詰めた空気に変わりはなく、若年の者たちにとってはそろそろ気が気でない。
論争が途切れたのを期に、首座のジュリアスが話を継いだ。
「…他の者たちの意見も聞こう。皆、それぞれの見解を述べるように。」
今回、これまでの発言で、ジュリアスとオスカー、それにランディの立場は明確に推進派である。リュミエールと、マルセルにはまだ経験が浅く判断に戸惑いが残るものの、どちらかと言えば慎重派の立場といえる。
「理論上は上手くいくし、実際にこれまで上手くいってる、ってのが、逆に気に入らねぇんだよな。」
むしろ普段は実践を重視する傾向にあるゼフェルとしては、珍しいとも思える発言をした。
「私は、留保ということで。もう少し、文献を調べます。」
「私は特に反対はしないねェ。」
ルヴァは中立、そしておそらくジュリアスとオスカーの事の進め方に不満は残しているものの、オリヴィエは最終的に容認する立場を取った。普段からバランサーとして立ち回るオリヴィエがそちら側に付いたことは大きな意味を持つ。
しばらくの間、静寂が場を占めた。
「…クラヴィス」
「……何だ。」
会議の当初からこれまで微動だにしなかった壁際の闇の長身の姿が、豪奢な金髪の光の守護聖に問い掛けられて初めて口を開いた。
「意見を述べよと言ったはずだ」
「…私の意見など聞いても、如何仕様もなかろう。」
「まだそのようなことを言うか」
先日の女王試験で少しはましになったかと考えていたのに、と、ジュリアスは溜息を吐いた。
「何でも良い、何か言え。水晶球は何も語らなかったのか。」
「…カードの繰り言であれば、ある。」
「それでよい。何だ。」
「『未だ知らず』、『定まらぬ運命』。」
「…どういう意味だ」
「私に聞いても、仕方あるまい。だから繰り言だと言ったのだ。」
再びの静寂が落ちる。
「…王立研究院では引き続き調査を進めたく存じます。宜しいでしょうか、ジュリアス様」
「そうしてくれ。それと、陛下のご意向次第だが、現地視察の準備を」
「かしこまりました」
「ジュリアス様、俺が行きます」
「わたくしに行かせて下さい」
左右方向からほぼ同時に首座に呼び掛けた、その炎と水の守護聖の当人同士は目も合わせようとしない。
光の守護聖は再度の溜息を吐いた後、言った。
「リュミエール、この度の現地視察はそなたに任せる。」
「ジュリアス様!」
抗議の声を上げるオスカーを措き、ジュリアスは水の守護聖の方を向いて言葉を続けた。
「オスカーはどうであるか知らぬが、私はそなたの実務能力を評価している。そなた自身が確認して問題が無ければ、ウンジヒハイト星系への移住に納得するということだな、リュミエール?」
「ご賢察の通りです。ありがとうございます、ジュリアス様。」
水の守護聖は目礼し、ここに至ってようやく淡い微笑を浮かべた。
「オスカー様、だいじょーぶ! 視察なんて要らない要らない、その前にこの天才少女のワタシが辣腕を揮って、すぐ全部解明してみせるからねッ!」
憤然とするオスカーに突撃して勢い良く腕を絡め、レイチェルが仔猫のようにくるくると纏わり付いた。オスカーは一瞬呆気に取られ、それから例の甘い顔で応じた。
「…では、俺はお嬢ちゃんの解析に期待するとしよう。よろしく頼むぜ、お嬢ちゃん。」
「もおーッ、お嬢ちゃんはやめて下さいって何度言ったらわかるんですかッ!」
いかに早熟でもこういう時は年齢相応の少女らしく、レイチェルは赤い顔をして炎の守護聖に抗議の声を上げる。
オスカーの呼び掛ける、お嬢ちゃん、の言葉に、ジュリアスはほんの少しだけ過去となった先日の女王試験を思い出すと共に、無邪気でこの上なく偉大な、この場にいないかの人のことを思った。
「…女王陛下が予定通りご臨席であれば、外界との時間を調整していただき、今少しの時間的猶予を設けるのだが。お体の調子が悪いとあれば、ご無理は申し上げられぬ。大事無ければよいが。」
「女王陛下!? どうしてまた寝ていらっしゃるの、朝のお支度お手伝い申し上げたでしょう!? 定例会議はどうなさったの!?」
「ん〜う、ロザリア、大丈夫よぅ…ちゃんと連絡しといたから……うにゃ」
「それは大丈夫とは言いません! ちょっ…アンジェ、正装で寝るのは止めて下さる!? 皺が…アンジェったら!」
聖地の夜が眠りに入る前のひと時だった。愛馬に跨って見上げる星空は漆黒の背景に白銀の河を描き、いつものように美しく瞬いて輝いていた。
この上なく貴重で永遠に護りたいと思うその美しさも、愛する人の微笑の前ではあっという間に霞むのだが。
馬を降りる途中で、目指す部屋の明かりの中では、早速こちらの様子を認めてテラスへの窓を開け放つ姿がある。数多の星々をも意識の外に追いやるその存在に、視界と心の全てを奪われる。
「オスカー」
少し首を傾げて長い青銀髪を靡かせ、目元を淡く染めてオスカーを見上げる微笑が湛える歓びは、紛れも無い本物だ。
「リュミエール」
抱き締めてその人の暖かさを、息遣いを、輝く髪の艶やかな手触りを確かめる。オスカーの腕の中で目を閉じて感に入ったように吐息を細く長く漏らしたリュミエールが、躊躇いがちに両手をオスカーの背へ回した。オスカーが教えた通りに。ぞくりと刺激が走った。
少し身体を離して形の良い顎から頬へ片手を添えたら、その頬を鮮やかになお一層染めたリュミエールは、それでもゆっくり目を閉じた。許されて、重ねるだけの口付けの、その柔らかな感触に少年のごとく高鳴る鼓動が今にも身体から飛び出そうだ。同じように想ってくれているらしいリュミエールの僅かな身じろぎを感じながら、少しだけ長く、そのまま。
逢って直ぐの抱擁と軽いキス、ようやくここまで慣れてもらった。
身を離して視線を合わせたまま手を繋ぐ。リュミエールが仄かに物問いたげに、僅かに唇を開いた。
「心配するな、顔が見たかっただけだ。今夜のうちに帰る。」
再度その頬に手を添えて笑ってそう告げれば、途端に耳から首筋まで朱らめて俯く姿に、思わず決心が揺らぎそうになる。甘い顔は作るものでなく溢れるものだというのは、この綺麗な人と想いを通じてから初めて知った事だった。
室内に入って窓を閉じ、手を引いて共にソファに座って、その身体を軽く抱き締める。未だ残るぎこちなさと素直に従おうとする従順さとの綯い混じりが、この上なく愛おしい。
今夜の残り短い時間を、身体中で、精一杯、心ゆくまで。
オスカーが想いを告げてから互いの心が通じ合うまで、随分と時間を掛けた。
男同士だからといって一顧だにもせず無思慮に断るような人ではなかったが、守護聖同士という立場、互いの立ち位置、気質。ただでさえ難しい事が多過ぎた。オスカーも充分承知していながら、それでもその人を諦めることはどうしても出来なかったから。
オスカーの想いも。リュミエール自身の心の揺れも、想い定めてゆく様も。ひとつひとつ、水の守護聖が受け入れていくのをその都度、辛抱強く待った。即断即決の人である炎の守護聖が。
何よりもその過程にこそ誠意をみた、と、そういう趣旨のことを最終的にリュミエールが告白したのは、時間を掛け続けてようやく、初めて共にした夜の後、素肌のままで触れ合うひと時の、オスカーの腕の中でであった。
「…よく、待っていて下さいました」
「俺もよく待ったと思う。が、こうやってお前が手に入ったのだから、苦労でも何でもない。」
笑ってそう言えば、白い肌からようやく引いていた火照りがあっという間に再現される。
「…ようこそ、リュミエール。愛しているよ。これからは、共に生きよう。」
そう言って顔に手を添えて瞳を覗き込んだら、盛大に恥ずかしがるかと思っていたその人は、少しだけ目を見開き、それからその目を細め、
「…愛しています。オスカー。心から。
……いつまでも、貴方と共に。」
歓びの微笑とともに、あろうことか――涙を一粒零した。
掛けた時間の末に与えられたのは、それを補って余りある、溢れるほどの真摯な想いと心からの愛情。
万感の想いを込めて、優しく唇を重ねた。
本当に、これまでの事など、苦労でも何でもなかった。
比較的最近の話で、それ以来共にした夜の数もまだ片手に足りていない。
想いが通じてもリュミエールの驚くほど並外れた純真さに変わりはなく、オスカーは未だこうやって恋人同士として逢う度に、壊れ物を扱うように毎回優しく触れ、性急な行動は控えて、そして恋人の情愛の交わし方を少しずつ、少しずつ教えている。その現時点の成果が、逢う度毎の抱擁と触れるだけのキスで、今のところは深いキスすら滅多にしない。ましてや肌を重ねるのはなおさらで、執務も比較的落ち着いている時期、急な呼び出しなどを気にせずにゆっくり数日が確保できると判っている時だけだった。数日といっても、未だ公ではない間柄でもあり、その間ずっと一緒にいる訳でもなく。
「その…思い出してしまって、翌日に…響いてしまうので……」
真っ赤になりながら、それでも誠心として律儀に理由をそう述べた時のリュミエールの様子を、繰り返し脳裡に思い浮かべては愛おしい気持ちを噛み締める。
時間はこの先いくらでもある、いずれ慣れてもらうとして、今は新鮮この上ないその初々しさを、その様々な朱い表情とともに、オスカーは存分に満喫していた。
そんな訳であるから、日中の執務の際はこれまでの恒例通り、侃々諤々の討論を交わす方が自然といえば相当に自然であった。互いの気質上、どうしても論戦を張る立場は逆の位置になりがちである。
「でもまた、年少の子たちを怯えさせてしまいました。可哀想なことをしました。」
ソファに座り、緊張を少し解いて、オスカーの腕の中で安らぐリュミエールが呟いた。
「なに、いつもの事だ。奴らも慣れてるさ。
…それとも、次は会議でもこうやって抱き寄せて話し合おうか?」
深海色の瞳を覗き込み、身体に回した腕に少しだけ力を込めて、暖かいその身を僅かに引き寄せる。案の定リュミエールは目元を染め、それから目を伏せて
「……それはそれで、相当に驚かせると思うので、当分先でいいのではないでしょうか…」
と答えた。嫌だ、とか駄目だ、とか言わない辺りが、可愛いと思う。
「なあ、本当に第18惑星の視察に行くのか?」
哀れっぽく声を出してみるが、こと執務の話となれば、水色の凛とした人は折れる様子もない。
「行きますよ。お譲り出来ませんからね。」
「頼りないだなんてこれっぽっちも思ってない、大した危険があるとも思っていない。ただお前の身を、髪一筋でもそういう可能性に晒したくないだけなんだ」
「判っております、ありがとうございます。今日の言葉はわたくしが意地悪でした。ごめんなさい。」
オスカーが堪りかねてその青銀色の髪を撫でると、リュミエールは嬉しそうに、心地良さそうに目を閉じた。
「…わたくしは、貴方のように考えることが出来ない。一歩を踏み出すべきと判っていても、不安を感じるもう一方のわたくしを無視することが出来ない。いつも揺れて。ましてやその場に、貴方が向かうことなど……」
「判っている。だから愛した。お前は俺に、ならなくていい。」
気の合わない人間はこれまでもさっさと視界から外してきたのに、どうしてリュミエールだけは反発しつつもこれほど意識に囚われるのかがずっと不思議で仕方がなかった。
己にどうしようもなく欠けているものを全て満たしてくれる相手なのだと判ってからは、納得して、そうしてその存在の全てを求めた。そうしてから初めて、その人が外行の多い自分を暗に陽に補佐し続けてくれていたのだと知った。対の力を持つ者として。
それ自体は嬉しいことこの上ないが、リュミエール本人が外界に行くとなると、その聡明さ怜悧さをいくら知っていても、自分で自分が情けなくなるほどに心配で仕方がない。愛する者を得た人間の弱さだった。
「大丈夫ですよ。わたくしの中には、貴方から頂いた強さがあります。」
「…そうか。嬉しいな。」
視線を合わせ、掌を重ねて指を絡める。こうしていると本当に、そこから互いの存在が互いに染み渡るようだ。
守護聖のサクリア? いや、それとも異なる…
(いつも揺れて)
……ふと思い至った。そうか。
「…不確定性原理か?」
「?」
「全ての素粒子はその位置、エネルギー、運動量、あらゆるパラメーターについて僅かな不安定性を有し、突如としてその位置を変えることがある。不確定性原理に従えば、俺を構成する素粒子とお前を構成する素粒子とが入れ替わっていてもおかしくない。
……ましてや俺達は、誰よりも近い距離で愛し合ったことがあるしな?」
リュミエールの顔中どころか、ほんのり垣間見える胸元までが朱に染まる。体温すら何度か上がっていそうだった。
「戯れ言だ、悪い。」
居た堪れなくなる様子のリュミエールが気の毒で可愛くて愛しくて、その顔を覆ってやるように柔らかく抱き締め直した。
「オスカー……」
溜息のように囁いたリュミエールが、オスカーの腕の中でふるりと身体を震わせた。夜も随分更けて、これ以上長引くといろいろと危なそうだった。
「今日はこれで帰る。また明日な。」
身体を離してそう告げれば、無言で見上げるリュミエールは、幾許かの安堵感と遥かに勝る物寂しさとをその表情に浮かべていた。いつもの事で判ってはいても、心がこの上なく揺れる。
一度離した身を再び寄せようとしたら、リュミエールは不思議そうな顔を見せた。
「……キスだけ…。」
オスカーが間近でそう囁いて、リュミエールの狼狽を感じつつも、そこに拒否の意が無いのを悟ると、互いの同じ想いを確かめるようにゆっくりと唇を重ねた。一度待って、それから角度を変えて深いキスへと誘う。腕を回して、柔らかくリュミエールの頭を抱え込んだ。
侵入してくるオスカーの舌に、リュミエールは相当に躊躇ってから、それでも恐る恐る、ゆるゆると反応を返し始めて要求に応える。オスカーが唇を動かすと、その度毎にリュミエールの身体が揺れた。
少しだけ深く、は、時間の経つ毎に、もっと深く、へ。躰の芯が疼く。可哀想だとは判っていても、身体を支える手が熱を煽るように無意識にその曲線を辿るのを止められない。
かなり強引に自分の欲望を打ち切って、オスカーは名残惜しく唇を離した。リュミエールの紅潮した頬、潤んだ目元、濡れた唇から震えて漏れる吐息、くったりと力を失い、オスカーの動きにだけ敏感に反応する躰。
オスカーが必死の気力だけで誘惑を振り切ると、ソファから立ち上がり軽く手を引いてリュミエールも立たせ、その額に口付けた。
「…愛してる。また、今度。」
心だけは盛大に後ろ髪を引かれながら、オスカーは何度か振り返りつつ、彼の愛馬とともに去ってゆく。
窓際に佇むリュミエールは、視界から互いの姿が消えるまで、ずっとその場からオスカーを見送っていた。
(不確定性原理)
オスカーが昨晩口にしたそれが、ずっとリュミエールの頭から離れないまま繰り返し浮かんでは消えていた。ウンジヒハイト星系第18惑星の資料を抱え、宮殿の廊下を歩きながら、立ち止まって明るく眩しい青空を見上げ、考える。
物珍しい話でもなく、むしろある意味この聖地の中心を成す原理とも言えた。
不確定性。つまり、素粒子、時間、空間、あらゆるものが極微小範囲ではその存在を確定できないこと。位置や質量や運動量を極限まで見極めようとすればするほど、その曖昧さが増すこと。エネルギー保存則を破り、突如消え、突如現れ。
女王のサクリアがもたらす様々な力――時間の操作、空間同士を繋ぐ次元回廊、守護聖達のサクリアを引き出す力――その全てが、本来確率のみに支配され覆すことも変えることも出来ない不確定性原理を、彼女らの望みのままに操ることで成されるのだと推測されている。彼女ら自身にも、上手く説明できないようなのだが。
「ただ、願うの。心から。それだけで叶うの。」
何でもないことのように無邪気にそう語る彼女らの、その宇宙規模のとてつもない偉大さに苦笑する。
だがなぜ、その不確定性原理がこれほど気になるのか? 昨晩の発言はオスカーの戯れでは?
『…誰よりも近い距離で、愛し合って……』
とたんに低い低い声で囁かれたその言葉を思い出し、身体中が一気に火照った。深くて熱いキス、躰の芯の疼き。共にした夜の、心に、躰に残された記憶。
その場で頽れかねないほどの羞恥心に囚われ、目元の熱さを自分で感じながら、俯いて立ち竦んだまましばらく動けなくなった。
視察前の忙しい時期で、一刻も無駄にする訳にはいかないというのに。
自分が初心過ぎるということは重々承知していて、恋人同士の間では恥じ入らなくてもよい類の話だとは理解しているし、早く慣れないといけないとも判っていて、オスカーにも申し訳ないことこの上ない。あの情熱的な人が常日頃からどれだけ自分への配慮で我慢してくれているかは、おそらく自分の想像の範囲を遥かに超えている。それが不安でもある。自分の割り切らない曖昧さを、いつまで彼が許してくれるのか。
(……曖昧。)
第18惑星の不可解な現象。
先程、現地映像の送受信状況が回復したと王立研究院から各守護聖の執務室へ連絡が入り、三々五々に守護聖達が研究院へ集った。オスカーの姿が見えなかった。
「王立派遣軍の報告を受けていらっしゃるそうで、こちらにはお出でになれないかと」
炎の守護聖の執務室へ報告に向かった者の言葉がそれであった。姿を見せなかった守護聖はジュリアス、クラヴィス、オスカー。
「映像の送信機器はどうやって回復しましたか?」
「送信側が回復したというよりは、聖地での受信側機器を全周波数帯で試してみまして、受像状況が良好な周波数に合わせました。周波数の計算上としては合わないのですが」
(計算が合わない)
研究室の奥の方ではガラス戸に仕切られて聞こえはしないものの、レイチェルが大きな声を出して頭を掻き毟り、鉄面皮のエルンストに当たり散らしている様が見て取れた。未だ解釈不能な事象が山積していることに対して相当に癇癪を起こしているものと見える。一頻り暴れるとレイチェルは再び机のコンピュータと出力紙の山に齧り付き、エルンストは守護聖への説明のために部屋から出て来た。
映し出されたウンジヒハイト星系第18惑星の姿は、確かに豊かな緑の楽園であった。多種多様に葉が生い茂り、花が咲き乱れ、果実が実る。草木を食用とする高等生物がまだ導入されていないために、その豊かさ密集ぶりはなお圧巻であった。多様な樹木が生い茂っていたが、緑の多さに比べて木の高さは10m未満程度の低層のものが多いのが他星系に比べて特徴的で、その幹は多くが丸みを帯びたフォルムをしていた。
「わぁー、可愛いねぇ!」
とはマルセルの感想である。幹には枝葉が密集して茂り、全体としても丸い形に整っていた。自然に剪定されているようにも見える。草花も多くが丸くこんもりと密に生えていた。
これなら本当に直ぐにでも移住が可能であるのかも、とリュミエールが考えた時だった。
「おい、ちょっと待て! そこ、何だ?」
ゼフェルが声を上げた。
「違う違う、もうちょっと右奥の…ちょい奥、これ!」
その場の守護聖達がモニターに顔を寄せた。
丸い形ばかりの一面の草木の中、いびつな形をした灌木がある。周囲と同じような丸い外観の、一部が大きく抉られたように欠けていて、何らかの外的影響が起こったのは明らかであった。
「動物が食べちゃった?」
「いえ、動物界の生物はまだ一切導入されておりません。あるとすれば気候等の影響に依るものですが、周囲に比べてこの木だけというのも不自然ですね…」
その場にいた全員が薄ら寒いものを感じた。他の映像も一通り確認してみたものの、それ以上の異変は見出だせない。
…やはり、直接視察に出向く必要があるようだった。
リュミエールは引き続き視察準備を進めることと、何種類かの追加資料の作成とを依頼すると、王立研究院を後にし、闇の守護聖の執務室へ向かった。
光を避けた執務室の薄明りの中、クラヴィスに再度カードを繰ってもらう。やはり繰り返し出て来るのは、無知や愚者の意。あとはもう占う度、リュミエールにも明らかに見て取れる程の、ただ乱雑に一切定まろうとしない無秩序なカードの並びが溢れているだけだった。
(定まらぬ運命)
何かが掴めそうで、掴めない。ずっとそんな感覚だ。
考え込みながら自室への帰路を辿っていた途中、廊下の向こうからオスカーの姿が見えた。制服に徽章を身に着けた、派遣軍の軍人らしい随行員を5人ほど引き連れている。報告とやらがようやく終わり、王立研究院へ向かっているようだった。
「ごきげんよう、オスカー。」
以前からの習慣通り、ごく澄ましてそう挨拶する。もっとも澄ましているというのはオスカーからの評で、リュミエール自身にはそんなつもりはないのだが。
「……ああ。」
対するオスカーの返事は、随分といつもの彼らしくなかった。一瞬合った視線をすぐ外されてさっさと擦れ違う。立ち止まって、少しの間だけその背中を見送った。
お約束の皮肉な笑みと『水の守護聖殿』の台詞は、恋仲になる前からでもなってからでも、見聞きしたところで大してどうとも思わなかったものだが、全く無いとなると逆に、引っ掛かる。…何が?
執務室に戻ってからも度々脳裡に湧き上がる雑多な意識を、切り替えて脳内から追い払い、第18惑星の解析と視察準備に集中した。
「失礼してよろしいかしら、リュミエール」
女王補佐官ロザリアの流麗な声音とともにドアがノックされたのは、それから小一時間ほど経ってからだった。
「どうぞ、お入り下さい、ロザリア。」
ドアが開かれてロザリアが室内に入る。美しい青髪青瞳、溢れんばかりの気品は相変わらずだ。書類の束と補佐官の杖とを両手で抱えており、リュミエールは急いで歩み寄ってその紙束の方を受け取った。
「ありがとう、リュミエール」
「どういたしまして。ごきげんよう、いかがなさいましたか?」
「リュミエール、私、貴方に謝らなくてはならないことがありますの」
訝しんで眉を顰めた。
ロザリアの話はこうだ。惑星ヴェルナーの研究者グループが、独自に調査隊を組織してウンジヒハイト星系第18惑星へ宇宙船で向かったという。
「女王府での調査が一定の結論を見るまでは、第18惑星への上陸は自粛するよう要請していたのですが…。惑星行政の運営に関して、女王府では協力および勧告は出来ますが、原則は各惑星系の自律自助ですから、強制は如何なる類のものであれ、出来ませんし……」
現地の王立派遣軍の駐在部隊が、調査隊の出航後にその情報を入手し、報告は上へ上へと伝わって最終的に聖地のオスカーの元へ届いた。オスカーは派遣軍の数人とともに王立研究院へ向かい、ちょうど研究院へ姿を見せていたアンジェリーク・リモージュ女王と顔を合わせ、女王に依頼して、現地で調査隊と合流すべく、女王の開いた次元回廊を通って先刻、第18惑星へ向かった。そういう事だった。
すぐ側にロザリアがいるのも忘れ、リュミエールは思わず溜息を吐いていた。
やられた……。
廊下で擦れ違った際の、彼らしくなく素っ気ないオスカーの態度を思い出す。彼はあの時点から、既にそのつもりだったのだ。
「貴方が視察に向かわれる予定になったということは、昨日の時点でジュリアスから私が報告を受けておりましたが、陛下にご報告しようとすると常にあれこれ…、…あれこれありまして……。私から陛下へ、まだご報告できてなかったのです。」
ロザリアはロザリアで、その多大なる苦労の程が伺われる。
「そこへオスカーから、至急という名目で陛下に直接依頼があったものですから。私がその場に居合わせなかったばかりに……。貴方を軽んじたつもりはないのです、大変申し訳ありません」
「どうかお気に病まず、ロザリア。貴女の所為ではありませんから。お知らせ下さってありがとうございます。」
恐縮頻りの美しい補佐官をそう言って宥める。
オスカーは間違いなく確信犯だ。後日改めてきちんと説明を求めることとして、心配でもあるし、何はともあれ今は王立研究院へ向かうべきだった。
そこで手元の資料の束を見直す。リュミエールが王立研究院に要請して出力してもらった追加資料だった。
「オスカーがこれを見ていったかどうか、ご存じですか?」
「一通り目を通してから第18惑星に向かったと聞いています。内容については何とも仰らなかったそうですが」
何かあれば研究院に伝言を残してゆくはずの人だから、何かが判ると考えた自分の推量は外れていたのだろうか。
改めて資料の内容を見直す。行列形式で並べられた数字の羅列をざっと見て、予想通りの違和感に眉根を寄せた。本来なら整然と、秩序に従った値を示すはずのそれが、なんて曖昧で、あやふやな……
(曖昧で)
(計算が合わない)
(定まらぬ運命)
何かが頭の中を掠めた。
「とりあえず、私は王立研究院へ戻ります。リュミエ……」
ロザリアが様子の変わったリュミエールに気付き、続けようとした言葉を閉ざす。
(いつも揺れて)
宇宙を支配する公式が、リュミエールの目前の資料の数字の上を流れてゆく。
……まさか。そんな。
『不確定性原理』
オスカーの口から出た、その言葉。
もしそうならば。
仮定し、脳裡で計算する。計算。計算。
確かに、合っていた。
第18惑星の光景を思い出す。抉られた灌木。
(……オスカー!)
「ロザリア様! リュミエール様!」
性急に水の執務室の扉が繰り返し叩かれ、返事も待たずに開かれた。
「ウンジヒハイト星系第18惑星との間で確立されていた通信系統が途絶えたと…! オスカー様と王立派遣軍の随行員、惑星ヴェルナーの調査隊の消息が不明となり…!」
「すぐに参ります!」
考えうる限りで最悪の事態を想定しなければならなかった。だが理由が判れば、至極当然の想定内の事とも言えた。
書類を机の上に放り出し、ショール、装身具、全ての装飾を剥ぐようにしてその場に捨ててゆく。余計な物は一切無い方がいい。シャツ1枚に、それから裾広がりのガウチョパンツは何とかしたかったが、着替える時間的余裕など一切無かった。
長い髪も適当な紐で手早く一つの束に結い上げる。
「リュミエール、どういうことですの?」
「ロザリア、ようやく分かりました。あの星系は他の宇宙と法則が異なるのです。プランク定数の値が違います。少なく見積もっても1012倍ほどは。結果、巨視レベルで不確定性原理の影響が出てしまうのです。」
幼い頃から女王候補となるべく宇宙生成学をも学んできた賢女は、すぐに事態を悟って息を呑んだ。
「先に参ります。貴女は後から。どうぞ女王陛下をお助け下さい!」
言い置くとリュミエールは駆け出した。
「リュミエール!」
王立研究院に飛び込むと、動揺を抑え切れないリモージュ女王がエルンストと共にいる。傍らの次元回廊の門の先は暗闇に閉ざされたままだ。部屋の奥で通信機器と格闘しているレイチェルは、リュミエールの姿を認めてこちらへと向かってきた。
「リュミエール、次元回廊が閉じてしまって、開こうとしてもうまく力が働かないの。こんなの初めてで。オスカーが向こうに」
「陛下、貴女の力が必要なのです。どうか落ち着いて、よく聞いて下さい。あの星では我々のこの宇宙と、プランク定数が異なっています。貴女の力の源である不確定性原理の、その根本の値が異なるのです。」
常に冷静無比であるはずのエルンストが絶句する様子が見て取れた。が、すぐに我に返り、コンピュータに向かって試算を始める。
ほんの少し前までごく普通の少女だった、今は陛下と呼ばれる金の髪の彼女は、思い掛けず女王候補として立った時から、無邪気と天真爛漫の陰で着実に努力を重ねてきた。狼狽しながらもこの状況を把握し、リュミエールに頷いた程度には。
「エルンスト、第18惑星上のプランク定数の値は出ましたか」
「…概算ですが、5×10−16ほど。通常のプランク定数の1018倍程度です」
思わず目を閉じる。リュミエールがざっと見積もったより6桁も大きい。事態は悪い方向に傾いていた。
目を開き、瞳に強い意志を込めて告げる。
「わたくしが参ります。不確定性がこれだけ大きいと全てが撹乱要因になる。どこにどう被害が出るかわかりません。わたくしだけで」
「そういえば、そのお姿は」
「余計なものは一切不要です。頸周りは特に空けておきませんと、前触れもなしに首を落とされるのは御免蒙りますから。出来ればこの長い髪も今すぐに束ごと切ってしまいたいところですが」
「失神者続出で医療班がパンクするのでお止め下さい。…と、冗談の続きは無事のご帰還の後に。研究院側はパラメーターを調整して通信機器と次元回廊のバックアップを再開します。女王陛下」
「リュミエール」
「陛下、状況はお分かりになりましたね。どうか貴女のお力で、もう一度第18惑星に次元回廊を開いて下さい。出来得れば、向こうの人々の現在地の近くに。オスカーの炎のサクリアを手掛りにして。
お心を落ち着けて、法則の異なるかの宇宙を思い浮かべて。
あの降着円盤の、光の渦を。そしてオスカーの、あの姿を。」
オスカーの、あの姿を。その言葉は図らずも、リュミエールにその緋い姿を思い起こさせた。
金の髪の女王はしっかりと頷き、目を閉じて深呼吸を繰り返しながら、ゆっくり門に歩み寄って手を添えた。暗い淵だった門の中に、遥か遠方からの光が蘇る。
「…みんなをお願い、リュミエール!」
その言葉とともに、門に駆け込んだ。最たる深淵の別次元を通る回廊の足元の光の道は、これまでになく弱く不安定だ。目指す方向の差し込む光だけを目指して走り、道を出た。
…ところは、眼下に豊かな緑の広がる…空中だった。
「…アンジェリーク!」
宙空に投げ出されたリュミエールへ、リュミエール様ごめんなさーい!!と、時空を超えた彼方から声が聴こえた気がした。不測の事態に際して、自分も彼女も無意識に女王試験時代の昔馴染みの呼び方に戻ってしまっている。
ついその名を口にしてしまったが、彼女が悪いわけではない、この恐ろしく異なる世界へ応じた力を使うのに、彼女も精一杯なのだ。それほど高くはない、すぐに眼前に迫った樹勢に咄嗟に受け身の体勢を取る。
一枚、ふと飛んできた葉が、するり、とリュミエールの身体の中を通り抜けた。初めて体験するその異次元の感触にぞっとした。トンネル効果が巨視レベルで――日常生活のレベルで現れてしまっている。
幸いなことに、密に茂った枝葉が功を奏した。盛大に枝を折りながら落ち、身体をひねって草葉の生い茂る大地になんとか足から着地すると、すぐに身を精一杯伸ばして――慎重に動かねばならないとは判っているのだが――オスカーのサクリアの名残を探す。
ふう、と、暗澹たる気配が身に迫った。飛び退いて、一瞬後にはその場の枝葉が抉られ、跡形もなく消滅した。根本を失った末梢の枝葉の欠片が地に落ちる。背筋が凍った。
「オスカー!」
危険と判っていても、細心の注意を払いながら水のサクリアを天高く放出してオスカーに呼び掛ける。応えはすぐにあり、炎のサクリアの気配が少し離れた場所から湧き立った。駆けて4分というところか。そのサクリアの奔流から見るに、やはり彼はまだ、知らない。
己の身の危険は顧みず、全力で走り出した。
(オスカー!)
自分が着くまで、ただただ無事でいて欲しかった。
走り続けて息が切れる寸前、幾人かの見知った顔、見知らぬ人々とともに、ようやくその姿を目にした。氷青色の瞳、緋く燃え立つ髪。厳しく寄った眉。
「リュミエール!」
その、深く力強い声。確かに彼だった。無事で。
安堵する暇もない。こういう事態であれば、さすがに彼も、どうして来た、などとは言わない。
「皆、大丈夫ですか」
「2人が軽症だ。どういうことだ、何処かからか攻撃を受けている。が、姿も形も全く見えない。聖地との通信はたった今回復した。」
「攻撃ではありません、オスカー。不確定性原理です。プランク定数の値が大幅に異なるのです。概算で10−16オーダー、通常の宇宙の1018倍です。油断したら片手片足くらい簡単に持っていかれますよ」
一気に言い募ると、炎の守護聖はそれだけで状況を把握し、一度だけ音高く舌打ちをした。
「聖地へ引き上げましょう、アンジェリークが次元回廊を開いてくれます」
…今度はちゃんと、地上に開いてくれるといいのだが。
「オスカー、貴方が先に。殿はわたくしが。サクリアが多少の護りになるはずです。不確定性原理はサクリアに反応しますか」
「明らかに『奪われる』感があるが、放出量が増えると過剰反応される。俺に合わせろ」
「了解しました」
「アンジェリークの方は」
オスカーが聖地との通信を担当する王立派遣軍の随行員に尋ねる。
「女王陛下は次元回廊を開くご準備中だそうです」
目を閉じ、両の指を組んで、聖なる祈りを捧げるその姿。
「えーっと、こっちかな、あっちかな、どっちかな、どーちーらーにーしーよーうーかーなーー! えええーん!!」
「…アンジェ、今すぐ落ち着きなさい。でないと殴るわよ」
ひゅう、と馴染みの気配が吹き抜けた。少し離れてはいるが、視認できる位置に(ちゃんと地上に)星を抱く次元回廊の入口が見えた。上出来だった。
オスカーが一瞬、細めた目でリュミエールを振り返り、それから人々を率いて次元回廊へと向かう。水のサクリアを調整し、最後尾から後を追った。入口まで着いた人から順に、オスカーが次元回廊の中へ招き入れている。
調査隊、随行員。全員が回廊の中へ消えた。それを確認すると、オスカーは一度息を吐き、最後に駆けて来るリュミエールへ、一歩二歩、歩み寄った。
…瞬間、リュミエールは眼前の暗黒感に襲われた。虚無の気配。
リュミエールは最後の数歩を思い切り跳び、オスカーに体当りして次元回廊へ飛び込んだ。二人が居た場所をリュミエールの束ねた髪が裾を広げて舞い、次の瞬間、ざり、と音がして、その青銀髪の流れが半円形に抉り取られた。
もつれ合いながら、次元回廊の虚空の中を、
(……落ちる!)
女王のサクリアが力尽きたように途絶え、次元回廊が途切れて消滅するのが見えた。
次の瞬間に襲われた、天も地もない激しい衝撃。ただ判るのは、あの人の熱い炎の気配。
…気付けば、次元回廊の門の外、王立研究院の床の上で。オスカーの膝上に倒れこんでいる自分。そして、
「オスカー様! …リュミエール様!!」
胸の中に飛び込んできた、金の髪の少女の愛らしい重み。
「…アンジェリーク、よく頑張ってくれましたね。ありがとうございました。」
オスカーの膝上で寝転んだままの自分の上で泣き笑いするその姿を、軽く撫でて抱き留めた。
「ええ、つまりですね、ウンジヒハイト星系ではプランク定数、一般にhの記号で表わされますが、その値が通常の宇宙と異なる、具体的には通常の宇宙と比べて1018倍、つまり1,000,000,000,000,000,000倍ほども大きいと。
普段、我々の生活はほんの少しの不確定性、例えば原子1個2個程度が唐突にその位置を変え、我々の身体から喪われていくというようなことが起こっています。この不確定性はプランク定数に比例しますから、プランク定数が遥かに大きいかの星系域では不確定性が遥かに大きくて、ええ、それこそ体の一部が…唐突に消えてもおかしくないと。あの惑星上の映像に見られた、大きく抉られた枝葉のことも、つまりそういうことなんです。植物がみな、丸い形をしていたのは、適応したんでしょうねぇ。そういう世界では、無闇矢鱈と枝を伸ばすより、小さめに密に枝葉を伸ばした方が草木にとっては安全ですから。
それから電磁波のエネルギーも、プランク定数に依存しますから、電磁波を介する機器が通信不良になるのも、スペクトル型、つまり電磁波の一種である光の波長とその絶対等級が計算上合わなかったのも、全てプランク定数が他の宇宙と異なるから、ということになりますねぇ。」
「……ちょっと難しいけど、なんだかすごいことに聞こえるんだけど、そんなことって、あるの?」
「ありません。無い筈でした。少なくとも、これまでは。でなければ、プランク『定数』と呼ぶ意味がありませんから。プランク定数は、6.62607015×10−34。ずっと正確無比に、その値でした。宇宙のあらゆる場所で、過去から今日までは。」
「プランク定数が他の場所と比べて恐ろしくでけぇ、ってのは、ブラックホール・ウンジヒハイトの影響か?」
「それはおそらく、間違いないと思いますよ。ブラックホールの近傍では時間や空間が歪むということがよく知られていますが、その際にも様々な定数…つまり、重力定数G、光の速さc、それから、プランク定数h。それらの値は変わらないと、そう考えられていました。今回の件で、必然的にその考えを改める必要が出てきた訳ですが。
ブラックホールの近傍というのは、その大半で降着円盤からの電磁波が生体には危険であるということもあり、これまで人が立ち入るということが実質無かったに等しいのです。ましてや、宇宙の法則の根幹を成す定数が変わるなどとは」
「あの、ルヴァ様。そもそもプランク定数って何なんですか?」
「おい、こら、馬鹿ランディ、」
「ああー、ランディ、あなたはいいところに気が付きましたねぇ。そうですね、光の速さや重力定数といった他の定数と比べて、プランク定数というのは直感で理解しづらいですよね。ですがこれでも宇宙論の中ではそれらと同じくらい重要な値でして、そもそも古典力学に対比しまして量子力学というのがありましてですね。量子というのはつまり世界が滑らかに続いているのではなく、全てがとびとびの要素で構成されているという考えなんですけれども、………」
「……なんて馬鹿げた話だ。プランク定数が異なる、だなど」
「ですが、それが事実です。であれば、それを受け入れるしか、……」
先を歩くリュミエールの言葉が途切れる。その無言のまま、歩みだけは留まらずに続いて。
陽は傾き、聖地の草原の景色は一面の朱色に被われていた。オスカーは歩き続けるリュミエールの後を、やや距離を置いて付いていっていた。
髪を結い上げたリュミエールの後姿の、ゆらゆらと広がる青銀の豊かな髪の上に朱い光が落ち、髪の1本1本がきらきらと虹色に輝いているが、その髪房の右から中央にかけての一部がざっくりと短く断たれている。身体でなくてよかった、と思いながらも、オスカーは忸怩たる思いでその光景を眺めた。
時間帯もであるし、何より疲弊したオスカーとリュミエール、アンジェリーク女王への配慮もあり、今日のところは簡単に状況を確認して纏めてしまうと、王立研究院に当面の追加調査を任せ、残りは後日ということで解散になった。
陽は地平へと傾いて、草原に落ちるその色の深さを一刻ごとに増している。
「あんな星はさっさと捨ててしまうに限る」
「……そう、悪いことでもありませんよ。原因さえ判れば、安全性の担保は星へ送るサクリアの調整等で幾らでも何とでもなる話です。
それよりも、これまで不変と思われていたプランク定数の値が異なるというのは大変に興味深いことです。宇宙中の研究機関の垂涎の的で、あの美しい降着円盤の姿とも相俟って、一大観光資源になるのは間違いありません。繁栄が約束されたも同然な訳です。」
実際、エルンストやレイチェルを始めとした王立研究院の一同は、かの星系域でプランク定数が馬鹿げたほど巨大であるという事実に、揃って唖然とし、青褪め、それからふと気付くと狂喜乱舞した。これまで不可能と思われていた実験の数々を実現できる環境が突如として降って湧いたのだ。研究者達はたちまちのうちに活気付き、王立研究院は当分の間不夜城状態が続きそうだった。
「研究者連中にはそうかもな。俺にはただ薄気味が悪いだけだ。」
「……そうですか。」
リュミエールはその時、ようやく立ち止まってオスカーの方を振り向いた。その顔からは、どんな感情も伺えない。
そこはもう、炎の守護聖の私邸のすぐ近くだった。オスカーはそれまでどこへ向かって歩いているか気が付いていなかった。何にとも解らない怒りに感情を任せたまま、ただリュミエールの歩みに付いて来ていたのだった。
「…それでは、ごきげんよう。どうぞ本日は、くれぐれもごゆっくりとお休み下さい。」
その言葉にオスカーは気付いた。リュミエールは自分を自邸へ誘導しただけなのだと。それだけを言い残して再び背中を見せ、歩み去ろうとする水の守護聖を、オスカーはその手首を掴んで引き留めた。
リュミエールがゆっくりと振り返る。その端麗な顔に固定したままの無表情で。
「待てよ。話があるだろう」
「…何の話ですか。」
「……」
自分がリュミエールを騙し打ちにしたも同然の形で第18惑星に向かったことを、オスカーは重々承知していた。
「……貴方がわたくしを認めないのに、話す事などあるのですか。」
「悪かった。お前の事が心配だったんだ。」
「そういうことを、言っているのではありません」
静かなその言葉に、オスカーは眉を顰めた。
では、何故怒っているというのか。いや、その無表情からは怒っているのかどうかすらも判らない。怒りに囚われているのはむしろ自分の方で。……何に対して?
「お気付きですか。教えて差し上げましょうか。」
「………」
「貴方は、曖昧なものが許せないのです。あの星系の恐ろしく巨大な、その不確定性が許せないのです。」
「……そんな事は、」
「あの資料を見た時、貴方がそのつもりで見たならば、プランク定数の巨大な異常値に気が付いたはずです。貴方は敢えて、見ようとしなかった。あの曖昧で茫洋とした数字の羅列の、そんな世界が存在するという事実が許せなかった。だから敢えて無視したのです。」
「リュミエール」
「貴方はいつも、常に確固たる決意の中にいて。わたくしのように、曖昧なものを是とする者の存在を、それ自体が曖昧であるものの存在を、許そうとはしない。貴方の視界の中に、わたくしは存在していないのです」
「それは違う」
「何が違うというのですか…!」
顔を歪めて、リュミエールが叫んだ。
「ただ一言、ただ一言わたくしに声を掛けて下されば、貴方の身をあんな危険に晒さずに済んだというのに…! わたくしがどんな思いで、わたくしの所為で、貴方を失うかもしれなかったというのに…!!」
「違う!」
手を振り払って逃れようとするリュミエールをオスカーが力の限り抱き締めた。しばらく悶え暴れていた身体は、やがて荒い息を吐きながら鳴りを潜め、止まらない震えだけが残った。
「……すみません。貴方を…貴方の所為では、貴方を煩わせるつもりは無かったのです。わたくしの事などで…貴方さえ無事なら、」
「そんな事を言うな。悪かった。済まなかった。お前の存在を軽んじたつもりはなかった。
…ただ、まだ、お前と共に生きる事に慣れていない。独りで…ずっと独りで、生きていくと、ずっと思っていたから。ずっと。」
名門の継嗣に生まれついて、炎の守護聖として聖地に招聘されて。誰にも頼らず、ずっと独りだけで己を支えて生きていくのだと思っていた。誰かと共に在る生き方を、考えてこなかった。ずっと。
「………」
リュミエールが黙って首を振って、オスカーの背に暖かく優しく手を添え、それからオスカーの服を、心の赴くまま千切れんばかりに握り締めた。
オスカーはその夜、リュミエールのその静かな水の中に潜む想いの深さと激しさを初めて知った。
熱い躰を、仰け反る首筋を、高い声を、緋い髪を掴む指を、その存在の全てをひとつ残らず自分のものにしたかった。そしてリュミエールが全く同じように望み、オスカーをその心の奥底から求めて止まないのが何より嬉しかった。
「貴方のものに、して下さい。もう忘れられなくていいように。
そして貴方を、わたくしに下さい。どこまでも。」
短くなってしまった青銀の髪に口付けて、結い上げた髪を解いて。
その優しい腕の中に抱き締められて、強く強く抱き締めて、泣かせて、赦されて、どこまでも深くへ侵食して、オスカーの名を繰り返し呼ぶ切ない声を何度も与えられて。
もう二度と、独りではなかった。
「落ち着いたら、いつかあの星に行って二人で過ごそうか」
「……どうして?」
「不確定性のとてつもなく大きなあの場所なら、俺の存在がお前へ、お前の存在が俺へ。もっと混じり合うだろうから。」
「………」
涙の残る柔らかな微笑とともに、リュミエールはオスカーに寄り添い、その身体に届く限り手を伸ばした。
共に迎える薄明の朝はこれが初めてで、リュミエールは差し込み始めた光の中で嬉しそうにオスカーに笑うものの、ふと我に返ると昨晩のことを思い出すのか、居た堪れない様子でオスカーから離れようとし、顔を伏せて、代わりに朱い耳と首筋とを晒して。
その躰を引き寄せて、オスカーは初めて多少強引な仕草で、もう一度求めて、そして存分に堪能させてもらった。
「……髪型、変えたのか?」
「…あ、オスカー。ええ。」
ノックして返事を聴いてから入ったものの、執務室の主の水の守護聖は書類を覗き込み、心ここに在らずといった様子で、声を掛けられて初めてその人がオスカーであると認識したようだった。その青銀色の髪は右肩の前辺りで緩く纏められている。
「不要に長いところは切りましたが、まだ短い部分が残っていて不揃いですから、下ろしているのは見苦しくて。肩下辺りかそれより上で切り揃えていいのなら、そうしますが」
「嫌だ」
「判りました。では、このままで。」
オスカーの物言いに、くすくすとリュミエールが笑う。
「どうした?」
熱心に眺めていたその書類を、オスカーも覗き込んで尋ねた。数字の羅列。値の雰囲気からして、ウンジヒハイト星系のものだとはぼんやりと見て取れる。近頃は、様々な存在を許容するその曖昧さも嫌いではなくなった。愛しい人のおかげで。
「どうぞ、ご覧になって下さい。……判りますか?」
手渡された書類を改めて見直す。ブラックホール・ウンジヒハイトの測定値だった。1枚、2枚、3枚。読み進めるうちに、時空の終焉であるはずのブラックホールの中央から沸き起こる、それ。
「……まさか。『宇宙の卵』?」
「その通りです。クラヴィス様からご示唆があり、王立研究院に依頼して調査したのですが、ブラックホール・ウンジヒハイトの中心に、ベイビーユニバースとインフレーションの徴候があります。」
「参ったな」
ソファに掛けながら、思わず笑いが出る。こうも立て続けとは。
ブラックホール星系の活用と並んで、宇宙に関わる者の夢の一つが、新宇宙の創生、だった。ブラックホールの無限の歪みの中、理論的には現れうると考えられていた、母宇宙から分離する赤子の宇宙。その別宇宙の爆発的な拡大を、人が自らの手で起こすこと。
「近々、また女王試験が行われる事になりそうです」
「新宇宙の、だな」
「ええ。女王候補のうちの一人は、レイチェルになるかと。彼女曰く、『宇宙の意志』が見て取れるそうです。」
「惑星ヴェルナーの第18惑星への移住は」
「予定通り、滞りなく進められると思いますよ。宇宙の卵、女王試験と言っても、ブラックホールの隔たれた次元の向こう側での話ですから」
「だろうな」
また、あの賑やかな日々が始まる。新たな出会いと共に。
滅びつつあった宇宙を救い、その宇宙を愛で満たし、それでも留まることなく新たな宇宙が生成され、驚きの連続に満ちた日々をもたらすのは、女王と女王候補たちの力。何が起こるかわからない未来をいつでも創造する、彼女らこそが不確定性原理そのものであるのかもしれない。
「……ジュリアス様には黙っておくか。」
ふと、そういう気になって呟いた。
リュミエールは軽く目を見開くと、そのまま微笑の形にその目を細めた。
「そうですか。それは良かった。
……アンジェリークとロザリアは、この件を当面の間、秘密にしたいようでしたから。」
オスカーはリュミエールのその柔らかな表情を見返し、確認してみる。
「…クラヴィス様には報告したのか?」
「いいえ。」
オスカーに向けられる、ほんのりと悪戯じみたその微笑。
何故俺には、という馬鹿げた台詞はもう口にする必要がなかった。いついかなる時でも、何であろうとも、全てを共有できるただ一人の相手。
オスカーは軽やかに二・三度笑うと、手にしていた紙束を投げ出し、愛しくて堪らないその水色の姿を囲い込んで性急に唇を重ねた。