■ FIREHEART WATERBEAT

 水はなぜ、青いのだろうか。

 空はなぜ青いのか、というのと同じように、時々湧き上がっては答えを明確に把握しないまま消えてしまう疑問だ。

 確か光の波長がどうだとか、太陽の白色光の中の青い波長だけがどうだとか昔聞いた気がするが、とうの昔に忘れてしまった。

 黄色く見えたり紫に見えたりするよりはましかな、と思う程度である。特にこの状況では。

 目の前には大きな水槽。部屋に漂う青い光は水面の向こうからの太陽光が水を通過した結果の産物だ。

 その仕組が何であれ、水が青色に光る所為で、この場所は常に青色の照明に照らされたような色合いが広がっている。

 とても綺麗だ。

 全身で浴びる青い光は、水色の恋人に包まれているひとときのように、心地良い。

 

 部屋の壁まるまる一面を占拠する、アクリル製の透明な壁の向こうでは、4・5匹のイルカ達と白い身体の水の守護聖が共に泳いでいる。

 普段は彼らのショー(リュミエールは除く)を水中の視点から眺めるためのこのレストランの席に、オスカーは一人で座っていた。

 とても利口な海の哺乳類たちと戯れる水の守護聖を眺めるほうが、自分で泳ぐよりも楽しい。

 今、その水の守護聖は、一匹のイルカに掴まって――というより捕まって――泳いでいた。水の中に入った瞬間から、リュミエールはイルカ達に大人気だ。

 一回り体の小さなそのイルカは、この水族館で一番ベテランな芸達者なのだとか。そしてまた、リュミエールを一番気に入っているのもこのイルカであるらしい。

 オスカーが眺める目の前で、ちょんちょん、と小柄なイルカが口先でリュミエールの身体を突付く。何か、と首を傾げた水の守護聖の、両手の間を潜るようにして、急にイルカがものすごいスピードで泳ぎ出した。びっくりしたリュミエールは、反射的にイルカの身体に手を回すようにしてしがみ付く。

 力強い流線型の身体は、リュミエールをくっつけたままスピードを上げ、プールの底をぐっと回ると、真っ直ぐ上へ向かって泳ぎ―――オスカーの視界から消えた。

 1、2、と頭の中で数える。

 次の瞬間、視覚的には大きな衝撃を立てて―――アクリルの厚い壁はその水の中の音を見た目ほどにはこちら側に伝えない―――しなやかな白い身体が水の中に落ちてきた。細かい泡と長い髪が身体の落ちた軌跡に沿って尾を引く。

 少し遅れて、頭から飛び込んできたイルカが、からかうようにその人の周りを泳いで回った。つんつん、と何度も突付かれるリュミエールの顔は微笑っている。

 そのリュミエールが、オスカーの視線に気が付いて、手を振った。まだリュミエールの周りを離れないイルカの頭を、水の守護聖は数回撫で、それから軽くその手を翻した。名残惜しげにイルカがリュミエールから離れ、仲間の一匹のほうへ帰る。

 リュミエールがオスカーに向けて手招きしながら、水面へと向かって上昇していく。水色の長い髪が幻惑的にゆらゆらと揺れた。

 笑いかけて返事をしたオスカーは、席を立つと、ウェイターに自分とリュミエールのための飲み物を頼み、プールサイドへ上がるためのレストラン脇の階段の方へ歩き出した。

 

 波の緩やかな海岸に面した水族館。少し歩いた近くにはホテルや公営プールもある。レジャー地として人気があるが、鬱陶しく思うほどには人の姿も多くなく、ゆったりとした雰囲気が楽しめる。

 守護聖に与えられた休日を、オスカーはリュミエールを連れて小さな星に下り、数日間、この水族館と併設したレストランとを借り切って過ごすことにした。

 海に縁の無かった生まれ故郷の星には無かった、水族館とそこで行われるイルカの見事な演技を、視察に降りた星で初めて目にした時から、リュミエールとイルカとが共に泳ぐ姿を見たかったのだ。

 水の中を自由自在に、滑らかな動きで、驚くほど力強く泳ぐイルカの姿は、生命力の美しさを凝縮したように美しい。

 そして彼らと共に戯れる水の守護聖は、それ以上に綺麗だ。

 常識では考えられないくらいに息が長い。しなやかな身体は、何時でも優雅さを失わないのに、信じられないほどの力強さとスピードを生み出す。

 彼と共に泳ぐイルカたちは、オスカーが妬けるほどに、リュミエールに擦り寄り、愛情を顕に何度も何度も戯れる。

 彼らの棲む水の一切を司る、彼らにとっては神にも等しい、至高の優しい存在。それが自分たちの手元で触れられるところに突然やってきて、優しく触れられて、これが喜ばないでいられようか。

 イルカになったつもりで考えてみると、なんとなく実感が沸く。

 自分も、心から欲するただひとつのものが絶対に手に入らないと考えた時の絶望感、それが手の内に収まったのだと知らされた時の気の遠くなるほどの幸福感は――よく覚えている。

 

 水から上がろうとしてからも、しばらくイルカ達に戯れられていたようで、オスカーが階段を上がってプールサイドに着いた時、リュミエールはようやくプールの縁に手を掛けたところだった。

 オスカーの姿を認めて微笑み、プールから勢いよく身体を躍らせて陸に上がる。

 オスカーに向かって歩いてくる白い身体は、オスカーが抱き寄せようとすると軽く身を翻した。

「貴方の服が濡れてしまいますよ」

「構わないさ」

 細い身体を性急に引き寄せて抱き締めると、薄めの唇を唇で塞ぐ。とたんに強い塩の味がして、驚いて顔を離してしまった。

「海水ですから。お忘れでしたか?」

 驚いた顔のオスカーが面白かったのか、リュミエールがくすくすと笑う。イルカの棲む水が淡水であるはずが無いのに、普通のプールでのように泳ぐリュミエールの姿に、すっかり失念していたのだ。

 少年のように照れ笑うオスカーの姿は、リュミエールしか知らない。暖かいものがリュミエールの胸にも広がる。

 もう一度、軽く唇を触れ合わせると、オスカーは先ほど上がってきた入り口の方へ、ウェイターが持ってきたドリンクを受け取りに行った。その間にリュミエールは、プールサイドに置いていた薄い上掛けを着ている。

 振り返ったオスカーの目に、陸の上でも優雅でしなやかな、光を受けて輝く身体が映った。

 

 ありがとうございます、と微笑んでグラスを受け取ったリュミエールと共に、プールサイドに座ってイルカたちの泳ぐ様子を眺めた。

 ショーもだが、こうやって彼らを自由に過ごさせている時間のほうが、彼らがどれだけ知能も身体能力も高く、遊び好きであるかということを証明しているような気がする。並んで泳いだり、ジャンプしてはわざと身体を横にしたまま着水し、派手に水飛沫を上げて楽しんでいる。先ほど下から見上げていて気が付いたことだが、イルカはよく腹を上に、背を下にして泳いでいることがある。重力をあまり感じない水の中では、上も下も彼らにとってはあまり関係ないのかもしれない。

「よく自然の海では、ジャンプを繰り返しながら船と並んで泳ぐイルカの姿を見かけますけれど、あれは何でも船の真似をしてるんだそうですよ。彼らにとっては水面の上に飛び出ている物体が不思議でたまらないらしいです」

 リュミエールの持つ、レモンスカッシュのグラスの縁に掛けられた、レモンスライスの黄色が涼しげだ。

「海でイルカに会ったことはあるのか?」

「ええ、ありますよ。故郷の海では時々一緒に泳いでました。」

「羨ましいな」

「目の前にいるじゃないですか。貴方も彼らと一緒に泳げば良いのに」

「お前がじゃなくて、昔からお前と一緒に泳いでたイルカ達が、だよ」

 とたんに言葉に詰まり、そのまま顔に薄く朱を散らす水の守護聖が可愛い。

 こんなときに見せる顔は、公に過ごす時のそれよりもずっと幼く、気品を保ちつつも、得も言われぬ艶がある。

(そんな顔を見ていると、直ぐにでもホテルに連れ帰りたくなるんだがな……まあ、いいか。)

 とりあえず今は、この穏やかな時間を楽しむことにしよう。

 そう思ってよく冷えたカルーアミルクに口を付けたら、リュミエールが顔を赤くして俯いたままの姿勢で小さく呟いた。

「昔を羨ましがらなくても……今の私は貴方だけのものですよ」

 日常と異なる時間を日常と異なる場所で過ごして、いつもより大胆になっているらしい。普段のリュミエールなら絶対にこんなことは言わない。

 思わずついさっきの決意を翻しそうになったオスカーだった。

 自分で自分の発言にどうしようもなく戸惑ったらしいリュミエールが、グラスを置いて慌しくプールの中に飛び込む。

 途端に泳ぎ寄り、キュウキュウ、と甘えた声を出すイルカたち。リュミエールは水面から顔を出すと、居た堪れないような顔をしながら、それでもオスカーに微笑いかけた。

 オスカーは上着を脱ぐと、リュミエールの待つプールサイドに近づく。

「一緒に泳ぎませんか?」

「水の守護聖様ならともかく、俺が入るとこいつたちに嫌われそうなんだがな」

 水の領域も、そこに棲む優雅な曲線の生き物も、この水色の守護聖のものだ、という気がする。自分の炎の性質は、とてもではないが水に棲むもの達に好かれそうにはない。

 水の守護聖は一瞬、何を耳にしたのかわからないというような顔をした後、くすくす笑った。

「そんな訳はありませんよ。手を」

 お貸しください、というように、リュミエールの白い手が伸べられる。何が何だか判らなかったが、とりあえず誘われるままにオスカーは片手を出した。

 その片手を握ったリュミエールの手が、オスカーの手を水の中へ導く。軽く波打つ水の感触が手に馴染んだ。

 リュミエールを取り囲んでいた流線型が、オスカーのその手のほうに寄って来る。先ほどリュミエールを投げ飛ばしたらしい小柄なイルカが率先して、2、3度、オスカーの手を口先で突付いた――かと思うと、キュルキュルと声を出しながら、オスカーの掌へ身体を摺り寄せた。

 明らかに甘えているその仕草は、オスカーにとって

「意外ですか?」

 炎の守護聖の考えを読んだように、リュミエールが言葉を継ぐ。

「まさか慣れられるとは思わなかった」

 オスカーはややぽかんとした顔つきでそう答えた。

「当然じゃないですか、」

 大事にしていた秘密を話す子供のように、酷く嬉しそうにリュミエールが言う。

「この子達の中にも、私の中にも流れている血潮の熱さは、間違いなく貴方のものですから」

 

 ……とても悔しい気がする。

 そんな言葉の一つ一つにさえ、どうしようもなく好きだと自分に思わせてしまう水の守護聖が。

 反撃してやらなければ、と思う。

 

「俺は、お前の心さえ手に入れていれば十分なんだがな」

 水の中のリュミエールは、深海色の目を真ん丸に見開いて、再び顔を赤くする。

 また照れて俯くだろうと予想していたリュミエールの反応は、意外な方向に出た。顔を染めたまま、上目遣いで軽くオスカーを睨みつけるような表情をとると、伸べられていたオスカーの手を思い切り、ぐい、と引っ張った。

 バランスを崩し、水の中に落ちる。塩辛い水の中で笑って縺れ合いながら、青い光の中でキスをした。

 お仕置きは今日の夜までお預けだな、と考えながら。